現代詩文庫を読む

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石田瑞穂『耳の笹舟』(思潮社)

石田瑞穂詩集『耳の笹舟』について

 私たちにとって目や耳は透明である。視覚情報や聴覚情報は記号作用によりすみやかに意味に変換されるし、そこに世界は現前していても、その世界を映し出している目や耳自体は無視されてしまう。私たちはあたかも目や耳が存在しないかのように、当たり前に世界の現前を受容している。だが、そこで省略されているもの、括弧に入れられているものにこそ詩の源泉はあるのかもしれない。

注射をうった日は、とりわけ誰かが廊下にじっとひそんでいるような、音ともつかない音が耳の奥底を谺しながら流れている。耳鳴りとまではいえないものの、奇妙な気配が頭の芯からはなれていかないのです。
       (「星をさがして」)

 石田瑞穂の詩集『耳の笹舟』(思潮社)は、難聴に罹った詩人が、否応なく突き付けられる聴覚の問題と静かに闘った詩集である。詩人はあくまで言葉を用いて耳について語る。だが、そこにはその言葉の根拠となったもの、言葉を駆動するものが前提とされていて、詩人はその根源的なものへと最大限接近したうえで言葉を発しているのである。
 私―世界という対立図式が成立する以前に、私と世界が不可分で一体となっている状態が存在する。そこではいまだ認識すら生じていず、私の身体と世界とが感覚の相で合一している「感覚的なもの」のみが根源的に現前する。この感覚的なものにおいては主体と客体が分化しておらず、感覚がそのものとして現前するのである。ここにおいて身体と世界とは接触を通り越して直接性のもとに融合し、いかなる媒介も差異も含んでいない。感覚的なものにおいて根源的なものが現前するのである。
 引用部を見てみよう。ここでは、「耳の奥底を谺しながら流れている」とあるように、音があたかも物質であるかのように扱われているのが分かるだろう。そして、音を受容する器官としての耳が明確に可視化されている。ここで詩人は、物質とも感覚ともつかない感覚的なものに根源的に遡及している。もちろん、言語化されてしまった詩句と感覚的なものの間には隔たりがある。だがその言語の態勢として感覚的なものへと遡行しているのが分かるだろう。

弦のないヴァイオリンの響き
落葉 秘境の滝壺
遺失されたトライアングル
古い磁気テープに録音された
蝶の羽ばたき
世界にふたつとない音
ゆえに
世界そのものである音
       (「耳鳴り」)

 石田の作品には、例えば視覚的イメージなどに詩行が拡散していく運動も見られる。それこそ、あたかもノイズのように、石田の思念は遠くへと飛び散っていったりもする。だが、彼の詩的意識は常に聴覚の核心を巡って言葉を紡いでいるように思われる。
 引用部では、そこに挙げられた音が「世界にふたつとない音」とされている。ここに働いている意識もまた、感覚的なものの根源性に向かっているはずである。言葉で列挙された音たちは複数存在することが可能であるのが原則である。それがたった一つしか存在しないと言われるとき、そこで念頭に挙げられているのは根源的な感覚的なものそのものなのである。身体と世界とが融合している次元において、すべての感覚は歴史的であり、一回限りのものであるからだ。
 そしてさらに引用部では、その唯一の音が「世界そのもの」であると綴っている。ここでは、唯一のものに世界の唯一性が宿るといった数的な発想もあるのかもしれない。だが、ここで働いている意識はむしろ、その唯一の感覚的なものが、世界の根源として世界自体を基礎づける根拠になっているという意識ではないだろうか。

三日は剃っていない
銀色のまじる無精髭
防音ガラスの窓の外を
くるくる舞う枯葉
秋のセントラルパークの宝石
ルリビタキの羽音の泡
倒木のくず木にまぎれて
ひげをゆらすカミキリムシ
       (「本の音」)

 視覚や聴覚を触覚の延長として捉えることは可能であり、実際視覚は光に触れており、聴覚は音に触れている。感覚的なものとはそもそも身体と世界との無媒介な融合であり、そこでは基本的に触覚が感覚の基本的なものとしてとらえられている。聴覚はその不透明さからより触覚に近いものであり、視覚はその透明さからより触覚から遠いものである。
 石田の詩に見られた感覚的なものへの遡及は、私たちの自明な意識からは省略されてしまう身体と世界との根源的な融合への遡及であり、詩の成立する源泉にある不透明な根拠に立ち返るということである。感覚的なものの相においては、視覚も聴覚もその原初的な触覚的様相を明らかにし、それゆえ、石田が視覚的イメージを列挙してもそこには触覚的な手触りが感じられるのである。
 引用部を見ると、「無精髭」「枯葉」「宝石」「カミキリムシ」など主に視覚によってとらえられるものたちが列挙されているが、この詩集の文脈で読んでいると、あたかもそれらのものたちから音が聞こえて来たり、それらのものたちの手触りが伝わってくるかのようである。

twitterは からきしだめ
e-mailも よくさぼるので
手仕事の呼吸がうれしい
       (「Rose」)

 石田の詩集は、引用部にあるように、twitterやe-mailという視覚的なものよりも「手仕事の呼吸」という身体的で触覚的なものに立ち返る身振りに満ちている。今多くの詩人はワープロソフトで詩を書いていると思うが、そこには「タイプする」という手仕事が必ず含まれている。普段我々はその「タイプする」という手仕事を透明化してしまい、あたかも存在しないかのように無視しているが、実はその「タイプする」行為がなければ作品を書くことはできない。
 同じように、普段我々は、何事かを思いつき、それを言葉にして詩を書いているように思っているが、その間には何らかの感覚的なものが介在しているのである。例えば木について詩を書くのであれば、木の視覚的なイメージはもちろん介在するだろうし、木にまつわるかすかな感情も伴うだろう。詩を書く場合、言葉に先立って生起する感覚的なものはいつだって根源に現前しているのである。そして、その感覚的なものの介在がなければ私たちは詩を書くことができない。この、あまりにも自明であるがため透明化されながらも根源的に必要である感覚的なものを非透明化して改めてそこに遡及するということ。そこで開かれてくる肉感的な詩世界。石田の詩集はそのような「肉」の世界を構築しているように思われる。
 視覚も聴覚も透明ではない。それらが世界として現前する場合、必ず感覚的なものが介在するのであり、感覚的なものの根源的な現前がなければ世界は構成されない。その不透明な感覚的なものが、世界の根源にあり、詩作の根源にある。石田の詩集は聴覚を探求することにより、その根源的な感覚的なものに肉薄しようとしている。


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# by sibunko | 2016-11-09 12:07 | 現在の詩人たち

金井雄二『朝起きてぼくは』(思潮社)

金井雄二詩集『朝起きてぼくは』について

 金井雄二の詩集『朝起きてぼくは』を読むととても安心する。なぜならそこには見慣れた「生活」の光景があるからだ。金井は特に気張って「詩」を書こうとしない。「詩」よりも「生活」を重んじるのが彼の立場だ。だが、この安心は曲者である。この安心には深い裏切りが隠されているように思える。金井は生活を描くことで逆説的に読者を裏切っている。その構造について少し語ろう。
 現代詩を読むとき、私たちはいくつもの判断停止をしなければいけない。詩人はそれぞれに固有の世界を持ち、詩人たちそれぞれの世界はそれぞれに相容れないものであり、詩の中で使われている言葉の意味や言葉のなす行為について私たちは共通了解を持たない。私たちは詩を読むとき、言葉の意味や言葉のなす行為などについて一度判断停止をしなければならない。その判断停止の中で私のものとも詩人のものとも違うような言葉の意味や行為が見いだされていく、あるいは判断停止の中で揺らめく心象風景を楽しむ、それが現代詩の読解の一つのモデルである。

こうして階段に足をかけたとき
むかしならば
二段ずつ昇れたなあ、と思っている

次の電車は
何分の発車だろうか
その電車に間に合うだろうか
腕時計ばかり見ている
席はあいているだろうか
座れるだろうか
立っていくのは
少々つらいなあ、と考えている
       (「雑踏の中に」より)

 ところが金井の詩を読むと、そのような世界の共有不可能性など存在しないかのようである。金井の詩は、私たちが現に生き、意思疎通をし、感情を交わし合い、意味を共有し合っている「生活」と同じ構造をしているように思われるのである。金井の詩の世界は「生活」の世界そのものであるから、私たちは金井と同様に物事を感じ、解釈し、言葉を発しているように思ってしまう。
 つまり、金井の詩は「詩」の特権的な空間を作り上げない。金井固有の言葉の意味や言葉の行為などを、現実の多様性としてことさら提示しようとしないのである。金井の詩は「生活」の世界と同じく、誰もが共有可能で誰もが共感できる大きな公の広場なのである。私たちはそこで判断を停止しない。そのかわり疑念を停止する。この言葉は言葉通りの意味を持つ。この世界に謎など存在しない。私たちは、通常「詩」を読むときに抱く様々な疑念を抱かなくて済むので、疑うことを停止してしまう。つまり、私たちは金井の詩を「信頼」するのである。
 だが、実は「生活」の世界ほど豊饒で奥深く謎めいている世界もまた存在しないのである。なるほど、私たちは「生活」の世界の中で様々なツールを共有することができるかもしれない。それでも、言葉などのツールを用いて拾い上げていく内容は実に幅が広いし、その解釈も一様には定まらない。私たちは同じ「生活」の世界に居ながらも、実に異なった体験をするし、実に違ったものの見方をする。

怖い夢をみたという
どんな夢だったのとたずねると
お父さんが口をあけて寝ている夢だという
そんな夢
何も怖くはないと思うのだが
心の奥底にある
見たくないものを
不意に見てしまうと
どんなものでもすべて怖いかもしれない
       (「子供が見た怖い夢」より)

 金井の詩は確かに「生活」の世界を描いており、異なった固有の世界間での共有不可能性の問題は生じない。だが、同じ「生活」の世界の中での微妙な裏切りを描いていないだろうか。それは世界を構成する原理が異なるという次元での裏切りではなく、まさに世界を構成する原理が同じだということに基づく信頼があるがゆえの裏切りなのだ。
 引用部では、「生活」の世界で起こった何気ない出来事が描かれている。「お父さんが口をあけて寝ている」ことが怖い、という子供の発言が描かれている。このような詩行に直面したとき、私たちは生活の奥深さ、また、生活が日々新しく更新されていくこと、そんなことに思いを馳せるのではないだろうか。
 誰かが口をあけて寝ることを見て怖いと感じる人は普通はいない。だがそこに恐怖を感じ取ってしまうことは「生活」の世界ではむしろ頻繁に起こりうるのだ。考えてみれば、私たちの生活というのは日々新しい物事との直面であり、新しい領域の開拓であり、決して定常状態にはないものである。
 金井は私たちと同じ「生活」を描きながらも、「生活」の中での私たちの知らない領域をあらわにしていく。同じ「生活」という世界の構造を共有しながらも、金井は金井自身の生活の領域を開拓していく。それは私たちにとっては新しいものであり、見慣れないものである。

現実とはこんなものだ
石は石でしかなく
私は私でしかない
小学生の頃
何が楽しかったのか
こうやって
何度も石を蹴り続け
自分の家まで帰ったっけ
石を
見つめる
今度は
ぼくがころびたい
      (「石でもあれば」より)

 引用部では突如「今度は/ぼくがころびたい」という詩行が現れる。このような詩行を前にしたとき、私たちは金井に裏切られたように感じるのではないだろうか。金井は私たちと同じ構造の「生活」という世界を描いているのだから、私たちは共感することはあっても驚くことはないのではないか。金井は詩人固有の共有不可能な異次元の虚構を書いたりはしないが、現実的な「生活」の世界のただ中で微妙に新しい領域を開いていく。私たちは金井を信頼するが、金井の詩集を読み進めるにつれて少しずつ裏切られていくのを感じる。
 だがどうだろう、この裏切りはむしろ快いものではないだろうか。それは悪意や不誠実さから生じるものではなく、単純に金井が日々を生きているというその事実から生じるものだからだ。金井は私たちとは異なる人生を生きているし、金井の人生は日々新しく更新されていく。金井の「生活」は日々新しく領域を更新しているわけであり、そこに裏切りが生じるのは自然なことなのである。金井は「生活」を極めて誠実に生きている。彼の裏切りはその誠実さから必然的に生まれるものであって、そこに快さはあっても不快感はない。
 私たちもまた金井と同様、日々新しく更新されていく「生活」を生き、日々新しい「生活」の領域と直面していく。金井の足取りは私たちの足取りと何ら変わらない。私たちは金井の詩を読むことで、「生活」の豊かさ、「生活」が日々更新されていくということ、そういったことを再確認するのではないだろうか。
 詩は決して詩人固有の共有不可能な虚構だけではない。金井の詩のように共有可能な世界の構造を持つものも多数あるし、そういう詩であっても十分驚きに満ちている。それがある意味裏切りであるとしても、それは詩人が日々歩みを新たに生きていることの証左に他ならない。

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# by sibunko | 2016-07-31 15:12 | 現在の詩人たち

佐峰存『対岸へと』(思潮社)

佐峰存詩集『対岸へと』について


 詩は「読む」ものというよりは「触れる」「聴く」ものである。文の論理構造に従って明確な意味を読み取るものというよりは、そこに立ち上る言葉の響きや質感を聴いたり、意味の多義性や構文の揺らぎに触れるものである。詩は視覚によって一定の距離のもと整然と分析されるものではない。それよりも、詩は距離を無化してその肌触りを感じたり、そこから発される声の揺らぎやテクスチュアを、行きつ戻りつしながら繰り返し聴くものである。
 読者が詩に対峙するとき、このような臨床的な空間が立ち上がる。読者は詩人の語る言葉を全面的かつ肯定的に受け入れる。読者は何も口出しをせず、詩人の告白を遮ることなく、くつろいだ空間を作り出して言葉を受け入れるのだ。歓待――ホスピタリティの空間が詩の受容においては成立する。

私とあなたの影は忙しなく
気配に割られた道路をわたり
坂を上がる 彼方で曲がり
行方が分からなくなる
屋根の一帯からは
見慣れない白いアパートが
産声を上げている
      (「影のすむ街」)

 ここで佐峰存の詩集『対岸へと』(思潮社)を読んでみよう。佐峰は一見風景を淡々と描写しているように見える。そして、読者はそこに描かれた風景をただ視覚的に見ればいいかのように思われる。佐峰の詩は一見視覚だけで処理すればいいかのように思われるのだ。
 だが、実は佐峰の視覚的な詩群もまた、視覚モデルだけで処理できるものではないことを示そうと思う。むしろ、佐峰は風景の描写に、敢えて視覚をかく乱する要素を取り入れているように思われる。そして、佐峰の詩の魅力もまた、単純に視覚モデルで処理できない臨床的な空間を広げることに由来すると思うのである。詩の受容における臨床的な空間は豊饒な空間であるが、それを作り上げるためには読者の態度のみならず詩人の態度も必要なのである。
 引用部では、「私とあなたの影」が動き出し行方不明になる。これを文字通り視覚的な映像でとらえると、ただ人間から影が分離されて動くという珍妙な映像が出来上がるだけである。そうではなく、この引用部は、「影」の忙しない雰囲気を肌で感じ取り、「影」の気配が道路の空間を割っていく様を味わい、影が人から離れて動き出し行方不明になる不穏さなどを感覚するためにあるのだ。この不穏な記述が惹起する空気に触れ、この不穏な記述の声のテクスチュアをよく聴く。単に風景を目で見るだけではなく、風景に触れたり風景を聴いたりする臨床的な空間が作り上げられているのである。
 ところで、詩における臨床性は、詩が読まれる現場のみで成立するのではない。それ以前に、詩を書くという行為は、詩人が自己の詩想に対して臨床的にふるまうということである。詩人はまるで自分が自分のカウンセラーになったかの如く、自分の内側に渦巻いている声をありのままに受け入れ、その声を聴きその手触りを感じつくすのである。
 詩はそのような臨床的な空間から生まれるので、必ずしも分かりやすい表現にはならないし、過不足なく情報を伝える紋切り型の表現にもならない。様々な余剰や揺らぎや矛盾を反映したものとして詩は表現されるのである。詩がしばしば難解になるのは、詩が作られる空間の臨床性によるといってよい。

木々の皺に 傾いた石の反射に
空気の発酵に 生物の断絶を宿らせて
あなたも
雨の匂いを吸っているのだ
      (「雨の匂い」)

 例えば「空気の発酵」を単純に見ることはできるだろうか。そうではなく、詩人が自己の中に渦巻いている空気の一つの態様をいちばんありのままに表現する言葉が「発酵」だったのである。「空気の発酵」は一見視覚的なようでありながら、それよりももっと深い空気の独特の態様に触れることにより生み出される表現であろう。
 さて、詩人が自己に対して臨床的にふるまうことにより詩が生まれ、読者はその詩を臨床的に読む。この二重の臨床性の現場ではいったい何が起こっているのか。

呼吸に茂らせた 葉の裏側に
指が産みつけた 小さな卵
胸から唇へと繋ぐ回廊を
飾られた食卓も 足を覆う革靴も
鏡の中で剃り上げた脈も
振り切って思念は走る
一枚の告解を こわさないように
      (「指に念じる」)

 詩人が自己に対し臨床的にふるまうということは、己の実存を引き受けるということである。すべての属性を引きはがしてもなお残る人間存在そのもの――これを「実存」と呼んでおこうと思うのだが、臨床の現場では、何よりもまず実存が肯定され承認される。詩人は詩を書くとき、自らの本源的な存在を引き受け、その存在から湧き出る無数の詩想を次々と言語化していくのである。嬉しいとか悲しいとかの感情よりももっと根源的で、孤独や連帯の基体となるものが実存であって、この実存は存在の雰囲気だけまとっている。この存在の雰囲気は漠然と快だったり苦だったりするが、この己の実存をまず引き受けること。それが詩を書くということである。
 引用部では様々な身体の部位が登場し、また「告解」という言葉も登場する。このような身体性や告解は実存に近いものであり、それをありのまま引き受けるところから詩は出発するのだ。
 さらに、読者は詩を読むとき、詩に託された詩人の実存をさらに引き受けることになる。詩人は詩を書くことによって、自らの実存を引き受けるとともに自らの実存を他者に対して開く。そして、読者は詩人が開いた詩人の実存を、その苦しみと快さを引き受けるのである。このようにして、詩が書かれ、詩が読まれるということは、詩人が己の実存をその深淵からつかみ取ってきて他者に対して開くと同時に、読者がその実存を引き受けるという「実存の受け渡し」に他ならないのである。
 ここに、詩の生み出すコミュニケーションの特異性が生まれる。通常のコミュニケーションは言葉同士のやり取りであって、言葉でもって何となく合意が得られればいい。言語行為のやり取りで互いに行為し合い、適当な落としどころを見つければいい。
 だが詩のコミュニケーションは、言葉よりも根源的な実存のやり取りである。ひとまず詩人の実存が、詩人自信を経て読者へと引き渡される。読者もまた臨床的な空間で、己の実存に立ち返って詩人の実存に応答しなければならない。これは論理でつじつまを合わせれば済むという問題ではなく、互いの気配やしぐさを感じ取ったり、互いの声の肌理を繊細に受容したり、そういう存在の全てを賭けたコミュニケーションであり、だから詩を読むのは楽しいと同時に深い疲労を伴うのだ。
 佐峰存の詩群は、一見視覚的で、論理的に把握すればそれでおしまいであるかのように見せながらも、実は視覚に回収されない実存の細かな振る舞いが息づいていて、聴覚や触覚も動員しなければ鑑賞できないものである。そして、そのような鑑賞の空間を成立させているのは二重の臨床性の空間であって、それは詩人と読者の間の実存的なコミュニケーションを要求するものである。
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# by sibunko | 2016-01-03 07:12 | 現在の詩人たち

白鳥央堂『晴れる空よりもうつくしいもの』(思潮社)

白鳥央堂詩集『晴れる空よりもうつくしいもの』について


 詩もまたコミュニケーションの一種である。確かに作者の意図が読者に正確に伝わらないこともあるだろうし、そもそも作者は伝達を意図していないかもしれない。だが、詩を書く者がいて、読む者がいる。そこでは広い意味でのコミュニケーションが必ず成立するのである。
 コミュニケーションとは、複数の者が話し合いをし、合意を得ることである。この際、コミュニケーションの当事者はわかりあう必要はない。その場合は「わかりあえない」という合意がコミュニケーションの結果となる。当事者は様々に話し合い、了解の内容を調整する。
 そして、この社会におけるコミュニケーションによって、初めて言葉の意味や物事の価値は生成されるのである。言葉の意味が、社会における人々の使い方によって常に揺らいでいることは周知の事実であろう。そして、言葉の意味は、共同体における緩やかな合意により調整される。例えば過去において、ある人が「前衛」という言葉を軍事用語ではなく芸術用語として使ったとしよう。すると、社会における力関係により、それに合意した様々な人が「前衛」という言葉を芸術に関する意味で用いるようになり、今における「前衛」の意味が形成されたわけである。
 同じように、真理や正義や美といった価値もまた社会でのコミュニケーションを通じた合意によって生成される。真理や正義や美は、あたかもアプリオリで普遍的であるかのように思われがちだが、歴史における真理が勝者により簡単に調整されてしまうこと、実践における正義が臨機応変な議論により調整されること、美のとらえ方が各個人様々であり共同体での調整なくしては権威づけが難しいこと、などを考えると、これらの価値もまた社会におけるコミュニケーションを通じた合意があって初めて生成されることが分かるだろう。
 さて、では詩はどのようなコミュニケーションを行っているのか。白鳥央堂の『晴れる空よりうつくしいもの』(思潮社)を俎上に上げることで検討したいと思う。

破氷の陸を 形成する
一面の吐瀉 まっとうな
妹の うつくしき遅延
大河が押し寄せるなら
真っ先に逃げ出すだろう
両眼が 一面を踏んでも
私はここに 残る
だろう うつくしき
妹の、
漂着を 待って
       (「破氷の陸」)

 多くの詩は、作者によって、孤独に、いまだ意味も価値もほとんど確定していない言葉によって書かれる。作者は多くの読者に対してコミュニケーションを投げかける。自分としてはこの言葉にこのような意味を持たせたいんだ、このような価値を持たせたいんだ、そういう主張を、議論の現場に投げかけるのである。
 引用部において、「破氷の陸を形成する」「妹の遅延」などがあるが、こういった新規性の強い言葉に関して、社会における意味や価値の合意は予めなされていない。だから、作者も読者も社会における予めの合意というものを手掛かりに意味や価値を確定することはできない。あくまでも、作者の孤独な提案に対して、読者もまた孤独に、どのように意味づけ・価値づけしていくか、という実験が詩におけるコミュニケーションの内実なのである。
 詩におけるコミュニケーションでは、それゆえ読者の方が優位に立ちやすい。そもそも作者は、意味や価値が不確定なものを、意味や価値に満ちたものとして提案してくるわけであるが、それが本当に意味や価値に満ちたものであるかどうかを決定するのは基本的に読者である。詩集というコミュニケーションの場において作者に釈明の余地はない。あるのは詩集の、意味や価値が未確定な言葉だけだ。それに対して読者はあらゆる解釈体系を動員して、自由な解釈を行うことができる。詩におけるコミュニケーションにおいて、基本的には読者が優位に立つのである。

春走るバスは
天国を抜けて
フィンランド語教室へ
夜走るバスは
暗い雨雲の天井して
フィンランドの言葉の教室へ
急襲するか
そうしよう
「こちら未来から過去、応答願いますどうぞ」
答え方はどうせわからない
急襲しよう
そうしよう
       (「春はふたりぼろバスの最前に飛び乗って盛大に燃やすゴミの詩」)

 ところで、白鳥は上のような詩行も書いている。非常に意味が通りやすいため、一読して、「これは詩というよりは歌詞ではないか」と思った人は多いのではないだろうか。ここで、歌詞についてはどのようなコミュニケーションがなされるのか考えてみよう。
 歌詞に使われる言葉というものは、あらかじめ意味や価値が定まっているものが多い。だから、作者が歌詞を読者に投げかけるとき、作者の言葉の意味や価値には社会の合意があらかじめ付与されてしまっているのだ。だから、読者の解釈も当然社会の合意に大きく束縛されることになる。歌詞のコミュニケーションにおいては、作者も読者も孤独ではない。作者は社会的合意を背景に言葉を繰り出してくるし、読者も社会的合意を参照したうえで解釈する。それゆえ、歌詞のコミュニケーションにおいて、作者は読者の読みをかなり思い通りに誘導することができる。
 詩のコミュニケーションにおいては、孤独な作者が孤独な読者に、意味や価値が未確定な言葉を投げかけ、そこでは、新たな言葉の意味や価値が生じることを期する実験が行われていた。だから、そこでは読者の自由な解釈が重要性を持つのだった。それに対して歌詞のコミュニケーションにおいては、作者は読者に、意味や価値についての社会的合意を取り付けた言葉を投げかけ、読者もまたその解釈において社会的合意に束縛されるのである。だから、そこでは作者の伝えたいことが伝えたいままに読者に伝わり、そこに新たな意味や価値が生まれることは少ない。

「あがる幕
ありがとう
記憶しようと想う
忘れてもいいんだから」
そういう歌がありさえすれば
あなたもすぐに歌い終えるさ

そして
幼い
美学者たちの街を
当夜 出ていく

無限の打ち水を追う 唇をぬぐう手の果てに
当夜出ていく
       (「つぐみに訊いた、いくつかの讃歌」)

 さて、白鳥の詩に興味深いのは、詩的な部分と歌詞的な部分、さらには詩的とも歌詞的とも言えない中間的な部分を織り交ぜてくる点だ。引用部の初めの連は歌詞的であるが、第二連は詩と歌詞の中間であり、第三連になると詩的になっている。ところで、詩のコミュニケーション構造と歌詞のコミュニケーション構造はだいぶ違っていた。詩は新たな言葉を生み出す実験であるのに対し、歌詞は伝達による分かり易い感動を重視している。そのような異なるコミュニケーション構造をダイナミックかつ自由奔放に切り替えていくということ。そこに、私は詩作者が再び力を取り戻す契機を見出さずにはいられない。
 つまり、私は白鳥の作者としての地位に、詩のコミュニケーションにおける主導権を感じるのである。それは、詩と歌詞を自由に織り交ぜることにより、コミュニケーションの構造を詩作者の側でコントロールし、読者をそのダイナミズムに巻き込むことによって可能になっている。もちろん、白鳥が権力志向であるとか、支配欲に満ちているとか、そういうことを言いたいわけではない。だが、白鳥の詩の書き方は、詩のコミュニケーションにおいていつも劣位に立たされていた作者というものの主導権を期せずして回復し、異種のコミュニケーションによる異種の感銘を与えるという美的効果を持つものである。
 歌詞は現代詩から排斥され続けてきた。だが、歌詞は現代詩とは違ったコミュニケーション構造を持ち、現代詩とは違った読者への働きかけを行うものであり、それを現代詩へとうまく導入することで、今まで劣位に立たされていた現代詩の作者というものの地位を回復する可能性を持つものである。繰り返すが、白鳥がそのような戦略家だと言いたいわけではない。だが、白鳥の詩集にはそのような戦略性が期せずして宿っていると私は考える。



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# by sibunko | 2015-07-19 09:59 | 現在の詩人たち

疋田龍乃介詩集『歯車VS丙午』(思潮社)

疋田龍乃介詩集『歯車VS丙午』について


 疋田龍乃介の作品を読んでいると、使われている単語の意味が攻撃的だったり、構文が逸脱的だったりして、漠然と「暴力的である」と感じる。ところで、疋田の詩の暴力性とは実際どのようなものだろうか。それは意味や構文の侵犯性で説明できる程度の表層的なものに過ぎないのだろうか。疋田の詩集『歯車VS丙午』は、詩の暴力性について考えるには格好の素材である。
 暴力はそれ単独で存在するというよりは、社会の中で、相互の関係の中で、互いに対抗するように相克している。もちろん始原的な暴力というものもあるだろう。単純に区別する、線を引く、そのような認識作用だって立派な暴力だ。だが、そのようにしてなされた暴力に対しては次から次へと対抗する暴力が定立されていき、社会の網の目は相互に対立し牽制し合う暴力で満ち溢れている。
 だとしたら、詩の暴力もまた社会のネットワークの中で、何らかの暴力と対抗する形で成立し、一方で詩にはまた別の暴力が反措定されていくはずである。私の見立てでは、まず世の中の支配的言説というものがある。それは社会の多くの成員の同意や共感を得たもので、多くの成員を支配し、定常的で固定的である。世の中の支配的言説は、権力を持ち、多くの人間を支配すると同時に、そこからの逸脱を許さない。そして、詩は、この支配的言説の暴力的支配に対抗する暴力だと私は考える。
 詩は、勝者の語る言説に対抗する敗者の言説であり、いまだ十分正当化されず、様々な廃残物の寄せ集め、主流の歴史から取り残されたものの寄せ集めでできている。そして、それでありながら、詩は、激しい生命力、激しく充実して生きようとする意志として暴力的なのである。そして、詩はその強靭な意志の力によって、自由な人間を創造しようとする。社会においてヘゲモニーを持つことに失敗した弱者が、それでもヘゲモニーに異を唱え、支配的言説による抑圧から自らを解放し自らを表現していく創造力、それこそが詩の暴力なのである。

 あら、不可思議な摩訶ざわざら
 義母にゆっくり、ざらら
 ざわざらざっわーん
  絶ちますよ、
 枝垂れた触角、
 ねっとりまわすよ、
 湿った櫛の隙間を嗅がされても!
 今なおこぼれる露も!
 むせぶ嗚咽も!
       (「剥がし剥がされ燈るのさ」)

 さて、この引用部を見てみよう。「摩訶ざわざら」という造語の作り方と響きの暴力性、「ざわざらざっわーん」という意味不明な擬態語の暴力性、「絶つ」という言葉の暴力性、「むせぶ嗚咽も!」における単語と感嘆符による暴力性、更には全体の構文の混沌的な暴力性、など、表面的には見て取ることができる。だが、それはせいぜい言葉の意味が暴力的だったり、言葉のつくりが暴力的だったり、構文が規範侵犯的だったり、それだけのことであって、上述したような意志や創造力のレベルでの暴力性とは次元を異にする。だが、詩の暴力とは意志や創造力で人間を解放する力であり、ただ言葉の表面的な次元での暴力とは異なるのだ。
 私は疋田の詩からより根源的な暴力を読み取ることができると考える。そのために取るべき手順としては、疋田の詩の際限のない細部をモナド論的に分解し、くまなく経廻り、遡及的に根源を仮定し、その根源の表現を細部に見出すという解釈手段が考えられる。根源は実在しないが、細部において表現される。その表現から根源へと遡及するのである。

生まれるまえ(鼻や耳のぶつ切りに混じって斬首台の隙間を覗いて(その半分くらいの小さな歯車のまわる(首の切れ間は暖簾の狭間(覗かば揺れ続ける店の軒先で十二支の終わりげな鼻先だ(欲深い獣が嫌いだった、鼠や羊の指が怖い(水無月の節季は四つ足どもの酣だ(中払いに暖簾くぐれば、
       (歯車VS丙午)

 私が疋田の詩に感じるのは、他者に対する責任への応答が、自己に対する責任への応答でもって代替されている点である。疋田はストレートに他者に応答しようとはしない。かといって独善に陥っているわけでもない。まずは自己に対して誠実に応答するということ、それが他者に対して誠実に応答することの前提となっていることを自覚しているのではないだろうか。
 例えばお笑いがそうである。お笑い芸人は一見意味不明で奇天烈で独善的なことを観客の前で話すが、それは観客にウケるために、観客に対する責任に応答するために、いったんまずは自己に対する責任に応答しているのである。
 引用部にあるように、「(」に「(」が続くような文章は意味がとりづらく独善的であるように思える。だが、これは括弧を閉じないことにより、読者に詩行がどんどん展開し完結しない面白さを感じさせることを期しているのである。また、引用部は文の意味がうまく接続せず、まったく文脈を形成していない。これは他者に対する伝達を拒絶しているようにも思える。だが、伝達は必ずしも文脈の形成による分かり易いものである必要はない。読者はここでイメージの高速の変転による美を感じ取るわけであり、直接読者への責任に応答せずとも、まずは自己への責任へと応答することが、間接的に読者への責任に対する応答となっているのである。
 言葉というものは厄介なものである。社会関係において人間は責任を果たすために他者に対して言葉を発しなければならない。そしてその言葉はコミュニケーションに成功しなければならない。分かり易く、無駄がなく、相手の要望に応えるものでなければならない。そしてもちろん、内容において不適切なものであってはならない。支配的言説はその内容だけでなく伝達の仕方も規定するのである。
 疋田の詩の暴力は、単に支配的言説に異を唱えるという直接的なものではない。そのような直接的な暴力に対して支配的言説は敏感であり、支配的言説はそのような暴力を即座に圧殺するだろう。だが、疋田の詩はちゃんとウケを狙っているのである。つまり、支配的言説による圧殺を回避するために読者に対する責任に応えつつ、同時に自己の自由な言語空間を展開していく。支配的言説に受容される道を開きつつ、同時に自己の自由な創造力を発揮させる。そのことにより、支配的言説を内部から侵食していく。

いぬがひ、げのがん、
そうやって剃ったばかりの無精ひげを
すべり台の上から流しながら
一緒にサイコロを転がしている
出目が5なら
僕の犬がひげの癌にかかり
そのとき育てた大根は温かく
貪っていた犬が
ほくほくしていたから
       (「犬がひげのがん」)

 詩というものは敗者の言説であった。廃墟のがれきの寄せ集めであった。詩人が詩行を思いつくとき、そこには世間に流布した勝者の歴史は余り混ざり込まない。むしろ、詩人は自らの些細な知識や感覚や体験という忘却されかけているものを掘り起こして詩行を紡ぎ出しているのである。だから、詩人の言葉は全く無力であり、いかに自らを解放させるために意志的に創造力を働かせると言っても、社会の中で何ら力を発揮することができない。それは詩人が支配的言説と直接衝突しようとして、あっけなく圧殺されてしまうことからよく分かる。
 詩人が真に自らの暴力を発揮させるためには、まず支配的言説に自らの言葉を受容させなければならない。そのためには、詩人はお笑い芸人のようにいったんウケを狙わなくてはならない。つまり、支配的言説が課してくる責任に対して一定の応答をしなければならない。そうしていったん権力の側に受容されたうえで、権力の側が言葉の新しい形態に気付くのを待つ、そして権力の側が自発的に詩人の言葉に耳を傾け、その可能性を認識するのを待つのである。
 疋田の詩は暴力的である。それは社会の支配的言説に異を唱え、自由な言語空間を開発するものである。だが、だからといって支配的言説と直接衝突して敢え無く撃沈するものではなく、むしろ支配的言説からの受容をもとりつけながら、その受容の先で支配的言説の側の自発的な気付きを促すものである。引用部にあるような「犬がひげの癌」などのユーモアに疋田のそういった姿勢が端的に表れている。疋田はユーモアによる詩の受容を期しているのである。詩が暴力を有効に発揮するためには、直接的で単純な革命を目指してはいけない。詩が暴力を発揮するためには一度その暴力を隠ぺいしたうえで、社会からの受容を促し、社会に浸透していく必要がある。そこにおいて初めて詩は社会を漸進的に変革する暴力になれるのである。
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# by sibunko | 2015-06-07 20:08 | 現在の詩人たち