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2.繊細微妙であること

繊細微妙であること

 「作品」へのかかわり方を素朴に分類すると、「創作」と「鑑賞」の二つになると思います。
 「創作」と言っても様々なタイプのものがあります。日常感じたことをそのまま書く創作もあれば、プロットを綿密に構成し文飾を凝らす創作もあります。一気呵成に書き上げる創作もあれば、何年もかけて推敲を繰り返して完成へと向かう創作もあります。そのような様々な創作の態様にしたがって、生み出される作品は影響を受け、一方で、生み出される作品によって、創作の態様は影響を受けます。
 また、「鑑賞」と言っても様々なタイプのものがあります。斜め読みをして表面的な印象を得るだけの鑑賞もあれば、深く読み込んで様々に解釈・批評する鑑賞もあります。鑑賞者が作品から特に何も得ない鑑賞もあれば、鑑賞者が作品に影響を受け技法を学んだり認識の仕方を学んだりする鑑賞もあります。
 単純化すると、作品はいわば創作と鑑賞の間に位置します。では、文学はいったい(創作―作品―鑑賞)のどこに宿るのでしょうか。私は、文学は、(創作―作品―鑑賞)のすべての部分に宿る、と思っています。つまり、創作に際して次はどんな言葉を使おうかなどと迷うことも文学的であり、できあがった作品も文学的であり、作品から印象を受け意味を読み取ろうとすることも文学的であると思います。
 さて、(創作―作品―鑑賞)のすべての部分に文学が宿ると書きましたが、では「文学」とは何なのでしょう。様々な要因が「文学性」を形成していると思いますが、その中の一つの要因として、「繊細微妙であること」があると思います。もちろん、繊細微妙でなくとも文学にはなりえますし、繊細微妙であっても文学にならないこともあります。しかし、多くの場合、「繊細微妙であること」は文学であることにつながると思います。では、「繊細微妙であること」とはどういうことなのか、少し敷衍していきたいと思います。

 風がそこいらを往ったり来たりする。
 すると古い、褐色の、ささくれた孟宗の葉は、
 一頻り騒めこうと気負うてみるが、
 ひっそり後はつづかない。

 犬は毛並みに光沢があり、何も求めていない癖に、
 草の根かたなど必ず鼻先をもってゆく。
 が忽ちその気紛れが、馬鹿らしく、
 あちらの方へ行って仕舞う。

 伊東静雄の「早春」から引用しました(旧仮名遣い・旧字体を改めました)。まず一連目。通常だったら「風が吹く」で済まされそうなところですが、伊東はもっと長い時間のスパンで風をとらえていて、また風の吹く方向をしっかりと認識しています。そのような、比較的長い時間の注意深い観察によって、「そこいらを往ったり来たり」という、より繊細微妙な認識が生まれます。「孟宗の葉」についても同じことが言えます。「孟宗の葉がざわめく」で済まされそうなところを、比較的長い時間の注意深い観察によって、「一頻り騒めこうと気負うてみるが、/ひっそり後はつづかない。」という繊細微妙な認識が生み出されています。二連目では、自然の事物ではなく、動物の行動が繊細に描かれています。
 現実の世界はとても繊細にできています。ですが、人間はそれを単純化して認識します(「風が吹く」のように)。人間の日常的な世界認識はだいぶ単純なものですが、実は、人間はもっと複雑微妙に世界を認識することも可能なのです(「そこいらを往ったり来たり」のように)。日常的な単純な認識を超え、日常ではあまり注意されない事象を記述すること。そのような記述は読者を「発見」に導き、この発見に際して読者は文学を感じます。繊細微妙な記述をすることは、日常を超えた事象を記述するひとつの方法であると考えられます。
 創作行為は、それがどのような作品を生み出すものであれ、たいがい文学的です。ですが、繊細微妙な作品を生み出すとき、その文学性は複雑に発展し、ある次元において強まります。作品もまた、繊細微妙であることにより、文学性が強まります。鑑賞もまた、作品が繊細微妙であれば、文学性が強まると思います。
 (創作―作品―鑑賞)のすべての段階に文学が宿ります。そして、繊細微妙な作品をめぐる創作・鑑賞はより文学的です。というのも、繊細微妙な作品は、人間の日常的な世界認識を超出し、読者を発見に導くからです。作品の文学性が増すことにより、作品と密接に関連する創作・鑑賞の文学性も増すように思われます。
by sibunko | 2012-10-25 02:21 | 初心者への詩論(詩と向き合う)