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海埜今日子『セボネキコウ』(砂子屋書房)

海埜今日子詩集『セボネキコウ』について


 詩を読むときの読者と作品の関係は、典型的には「所有」である。詩行が読者においてよどみなく流れ、詩行の喚起するイメージや音楽が読者において滑らかに受容されるとき、その詩行が「難解」であろうが「平易」であろうが、読者はその詩行を所有する。詩のリズムや美感が読者においてスムーズに共有されるとき、作品と読者は適度な距離を持ち、その適度な距離において成立する関係が所有なのである。近すぎるものは所有できない。例えば自己は自己を所有できない。自己は自己「である」ほど自己に近い存在であり、そのような自己は自己を所有しているわけではない。反対に、遠すぎるものは所有できない。所有とは支配や処分可能性であって、そのような力の及ばないものを所有することもできないのである。作品は言語というコードを媒介にして、そのリズムやイメージを読者に対して近すぎも遠すぎもしないところでシンクロさせ、読者がその作品を所有するという関係を築いているのが通常である。そのような所有の関係において、詩行は平坦なフィールドで滑らかに流れていき、読者は作品をスムーズに鑑賞する。

くうふくをおさえて、ぎょうかんをでかけた。おとこにかかげず、そしゃくのすすんだかんたいをみつけようとしたのだろう、しょもつたち。きっかけがこきょうをとおざけることもあるのです。でんぶんはそらからふって、つもって、ひっぱりますか、ろうとのようにくちをあけ、あたしはとてもとりをまっていた、
       (「雁信」)

 だが、そのような「読者が作品を所有する」という安定した距離感が成立していない作品群として、海埜今日子『セボネキコウ』(砂子屋書房)を採り上げることにする。海埜の作品に特徴的なのは、まず本来なら漢字で表されるべきところをひらがなを用いて表している点である。読者はここでつまずきを感じるだろう。「そしゃくのすすんだかんたい」とあるが、「そしゃく」はたぶん「咀嚼」だろうな、「かんたい」は「艦隊」なのか「歓待」なのか、いずれかなのだろう、などと、ひらがなを音から意味へと変換する必要性が出てくるのである。言葉はそれ自身として、そもそも意味と不可分なものである。言葉が記号であるとして、記号と意味内容を分離するのは、言葉の素の受容の仕方ではない。言葉は響きと意味と「共に」、響きと意味「それ自体として」与えられるわけであり、そのように受容されるのである。
 ところが、海埜は、そのような言葉の滑らかな受容を妨げようとする。通常漢字表記されるような部分について、読者は当然漢字表記を予想するわけであり、その漢字表記において、その言葉の響きと意味は平坦なフィールドで滑らかに受容されるのである。そのとき、読者は詩行を所有しているといえるだろう。ところが、海埜は、ひらがな表記によって響きをより一層独立させ、意味に対して距離を作り、そこでは読者は詩行に対して「隔たり」を感じるのである。「でんぶんはそらからふって」と書かれてあるとき、「でんぶん」はその響きだけが妙に拡大され物質化されて、意味伝達の媒体となることを拒否しているかのようである。「伝聞」と書かれたときに比べて、その響きもどこかすぐにもぐりこんでこないものとして遠いものと感じられるし、その意味も漢字への変換を介しなければならないほど遠いものである。読者は海埜の詩行を所有することができない。所有するだけの扱いやすさがないし、所有するだけの近さがないからである。

祭りのきれたあきないだった
ひよこたちのほうりなげ
がらすのはこにしまおうか
まだみぬおんなにうめようか
       (「卵売りの恋」)

 海埜の詩の所有のむずかしさ、その隔たりについては、文法の次元でも同様のことが言える。「祭りのきれた」と書かれる場合、「きれた」が「切断」を表すとするならば、本来なら「祭りがきれた」と書かれるべきである。「きれた」が「不充足」を表すとしても、「あきない」において「祭り」が不充足であるというのは意味が通りづらい。ここでは、言葉の流れやリズムがスムーズに読者に渡されないし、意味もまたスムーズに渡されていない。読者は詩行を所有することができず、やはり隔たりを感じるだろう。
 だが、海埜の詩はそのように単純に隔たりを作り出すだけなのだろうか。逆に、読者に対して近すぎる接近も行ってはいないだろうか。例えば先に挙げた「そしゃくのすすんだかんたい」は、読者による適度な距離化をすりぬけることで、読者にそのありのままの姿で襲ってこないだろうか。読者はそのようなコードを外れた言葉に対して無防備である。適切な所有のすべを知らないのである。海埜の言葉はそのような無防備さを突いてきて、所有するよりももっと近いところへと読者に迫ってこないだろうか。それは、読者による言葉の所有に先立って、読者の内部へと、その同一性の中へとも突き刺さる「他なるもの」であり、読者はそれが自己の内側へと不意に襲ってくるのを感じるだろうし、その他なるものとの近距離での交響を強く感じるのではないだろうか。
 言葉は、響きと意味と流れとリズムがそれぞれ分離されずに融合してあるものであり、そのような融合のままに相手に手渡されるとき、そこでは相手が言葉を所有し、相手と言葉の間の平坦な対話が生じるのである。だが、海埜は、そのように本来なら融合してあるであろうところの響きや意味や流れやリズムを初めから分離して相手に手渡す。響きは響きとして際立ち、意味もその不明性により異物と化し、流れもまた順当にはいかず、リズムも不規則なものとなる。そのようにして海埜の作品と読者の間には滑らかな対話が生じず、一方で言葉は読者から遠く隔たり、他方で言葉はそれそのものとして読者の懐に突き刺さる。
 さて、ここでは何が起こっているのだろうか。ここではまず、作品と読者との関係性が膨らみを持ってくる。作品は読者の所有による平坦なフィールドの中でのみ展開するのではない。作品は読者の所有という距離感を外れて、限りなく遠く、同時に限りなく近いものとして、読者との間に大きな空間を作り出す。海埜の詩の生み出す響きや意味や流れやリズムは、そのような大きな空間の中で無限にこだまを繰り返していくのである。
 それと同時に、ここには詩を観賞すること自体への問題提起も含まれていないだろうか。詩とはそもそもよく分からないものであったはずだ。読者は初め詩に対して隔たりを感じながら接していたはずである。だが、詩を読むことになれるにつれ、読者はよく分からない詩であっても、そのリズムやイメージや流れをスムーズに楽しむことができるようになってくる。読者は詩の観賞になれてしまうのである。だが、海埜の作品は、そのように詩の観賞になれた、詩を所有するすべに長けた読者を再び、詩を読み始めたころの原点に回帰させるのである。そこでは詩は限りなく隔たっており、また不意に読者の内奥にまで迫ってくるものであったはずだ。海埜の詩は、それが安易に所有され、安易に鑑賞されることに対してささやかな抗いをすることにより、読者に詩を読むことのより初源的な興奮を味わわせることができる。
 そしてなにより、海埜の詩においては言葉が逆説的に生命を回復しているように思われる。言葉が生きている、といったとき、それは言葉が平坦なフィールドでスムーズに流れていることを意味することが多いかもしれない。確かに生命の通常な働きにおいて、生命は自動化しているのであり、何も違和がない状態において生命は通常の生を生きている。だが、海埜の詩においては、言葉が、その響きにおいても意味においても流れにおいてもリズムにおいても、それぞれが独立に目立ち始め、言葉がその自動的な流れをやめて、そのそれぞれのパーツのありのままの姿を再認識させようとして迫ってくる。言葉が自動化をやめる、つまり正常な働きを幾分停止することによって、その言葉のありようを可視化してくる。人間が日々の生活の合間、不意にその自動的な生を停止して「自分は生きている」と実感するときのように、言葉もまた、その自動的な流れをわずかに停止させるとき、逆にその生命を再確認するのではないだろうか。
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by sibunko | 2013-09-01 14:45 | 現在の詩人たち