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インターネットに詩作品を発表することについて



pdf詩誌としての「骨おりダンスっ」






0.はじめに




 大岩オスカールという美術家がいる。建築を学んだだけあって、都市の構築性を的確に描くと同時に、そこに自然や環境を被せていく、独特の作風を持った美術家だ。ところで、彼の作品の多くは、彼のホームページ(
http://www.oscaroiwastudio.com/)で観ることができてしまうのだ。彼のホームページで彼の作品を見た時に私が感じたのは、(1)うれしいなあ(2)もったいないなあ(3)癒されるなあ(4)物足りないなあ(5)危ういなあ、大体そんな感慨である。つまり、(1)これだけ優れた作家の作品をタダで観れてうれしいなあ、(2)でもウェブで公開することによって作品の何か大切なものが失われるようでもったいないなあ、(3)ウェブというリラックス空間で、しかもすぐれた作品に触れられて癒されるなあ、(4)でも実物に比べてやはり物足りないなあ、(5)それにこれだけ広大なネット空間にうずもれたりサービスの終了で観れなくなったりという可能性があり危ういなあ、という感慨である。これらの感慨について、もっと詳しく述べていこうと思う。




1.無償性




 作品というものを観賞するためには、たいていお金が必要である。作品は作家の労働の産物であり、作家の個性や創造性が発揮されたものである。それに釣り合っただけの代価を観賞者は支払わなければならない。これは、ウェブ時代が到来するまで長く人の心を支配していた通念だった。



 だが、作家は本当に代価を求めているのだろうか。自分の作品に高値がつくことは、作家の自尊心を満足させると同時に、作家の生活を保証するという意味も持つだろう。だが、それよりも、作家は、より多くの人に、単純に自分の作品を鑑賞してもらいたいのではないだろうか。それは、承認欲求と言えば承認欲求であるが、社会的な高い名声とか高い値段といった意味での強度の承認欲求ではなく、もっと平たく言えば、誰かに見てもらいたい、誰かの反応が聞きたい、というところに尽きるのではないだろうか。例えば、何か労働したとする。そして、労働の結果が出たとする。そのとき、労働者が得てうれしいものは、もちろん賃金もうれしいだろうが、それよりもより心を温めてくれるのが、他者の反応ではないだろうか。「今回はよくできたね」「ここはもっと改善できるんじゃないかな」。そういった、生きた他者に自分の労働の成果を見てもらって何か言ってもらえること、そこに、労働者の、賃金とは違った次元での人間的な満足があるのではないだろうか。



 ウェブは、作家の、この「見てもらいたい」欲求の充足に寄与している。もちろん、見てくれている人のうち、実際に声を上げて反応してくれる人はごく少数だろう。だが、中には、作品に感動して作家にメールを送る人もいることだろう。そうすると、作家の「反応を聞きたい」という欲求も満たされるのだ。ウェブに作品を発表しても、その見返りとして社会的権威が来るわけでもお金が来るわけでもない。ウェブに作品を発表する人は、そのような社会経済的な見返りを求めているのではない。それよりも、自分の作品を見てもらうということ。それに対して何か反応してもらうということ。そちらの、お金にはならない見返りを求めている。



 ところで、ウェブという場所は、インターネットに接続する料金さえ払っていれば、いつでもだれでも見れる場所である。見る側にとっても、ウェブ空間は無償の空間である。ウェブに作品が発表されていれば、見る方としてもタダで見れる。だから、ウェブは、作家の側の「見てほしい」「反応してほしい」欲求と、読者側の「見たい」欲求が、スムーズに結合して、互いの欲求充足が起きやすい場所なのである。



 では、「骨おりダンスっ」はどうだろうか。詩の世界では、「詩は食えない」ことは常識となっており、詩を書くことで社会的名声やお金を得ることを目指す人は一握りに過ぎない。大多数の人間は、お金や権威がほしいわけではなく、ただ読んでもらいたい、何か言ってもらいたい、という気持ちで詩を書いているのである。もちろん、詩の世界には詩の世界の内輪の権威はあるだろう。だが、詩の世界の住人は、その狭い世界の中での権威がいかに無力なものであるかを知っている。詩は、主に、同人誌という形で流通してきたが、同人誌は、一応価格を設定されはするものの、それよりも親しい人へとタダで送ることの方が多いし、そういう親しい人はきちんと反応してくれたりするものである。詩集にしても、献本の多さを考えれば、詩を書く人の大多数はずっとお金や権威を求めずに詩を書いてきたということがよく分かる。



 「骨おりダンスっ」は無償で公開されている。それはツイッター上でリツイートされることで、詩に関心のある人にアクセスが開かれる。「骨おりダンスっ」で作品を発表する人は、単純に読んでもらいたい、反応が聞きたい、そういう気持ちで詩を発表しているのである。詩に関心のある人は、それに対してツイッター上でリアルタイムに反応していく。「骨おりダンスっ」は数多くの人にその存在が開かれていくと同時に、数多くの人の反応を得ることができ、そこでは、作家の「見てほしい」「反応してほしい」という欲求と、読者の「読みたい」欲求がうまく結合しているのである。




2.アウラ




 ウェブで作品を発表するなんてけしからん、という声をしばしば聞く。しかも割と感情的なトーンでそんなことが言われたりする。そういう人たちの言い分はそれぞれにあるかもしれない。だがここで、芸術作品が複製されることで大事なものが失われた、ということを明確に論じた思想家を紹介しよう。それはベンヤミンである。彼は、「複製技術時代の芸術作品」で次のようなことを書いている。




芸術作品は、それが存在する場所に、一回限り存在するものなのだけれども、この特性、いま、ここに在るという特性が、複製には欠けているのだ。しかも芸術作品は、この一回限りの存在によってこそその歴史性をもつのであって、そしてそれが存続するあいだ、歴史の支配を受けつづける。




ある事物の真正性は、その事物において根源から伝えられうるものの総体であって、それが物質的に存続していること、それが歴史の証人となっていることなどを含む。歴史の証人となっていることは、物質的に存続していることに依拠しているから、この存続という根拠が奪われている複製にあっては、歴史の証人となる能力もあやふやになる。




 いったいアウラとは何か? 時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。ある夏の午後、ゆったりと憩いながら、地平に横たわる山脈なり、憩う者に影を投げかけてくる木の枝なり、を目で追うこと――これが、その山脈なり枝なりのアウラを、呼吸することにほかならない。




 つまり、アウラとは、(1)芸術作品が一回的に存在する歴史性であり、(2)かつて芸術作品を見た無数の視線の集積として伝統を引き継いでいること、そして(3)近くにありながら遠いものとのまなざしのやり取りであり、(4)消滅していくものの瞬間的な経験である。そして、複製技術によって、芸術作品からこの大事なアウラが失われていくとするのである。



 ところで、このアウラ概念は、客観的な歴史の契機と、主観的な経験の契機を両方含むことに注意しよう。作品の成立と存続の客観的な歴史性と、受容者が作品と交感し瞬間的に作品を体験する主観性。



 だが、歴史とはそもそもそれほど客観的なものなのだろうか。ベンヤミンは、どうも、作品が客観的な歴史に属するものであるかのように考えている節がある。それは、歴史を物語る人間の存在以前に存在し、絶対的に厳密であり、細大漏らさず世界の出来事を網羅している、神の視点からの歴史に近い。ところが、歴史とは、物語る人間が存在して、さらにその人間が物語ることによって初めて存在するのではないだろうか。歴史を俯瞰的に眺めることはできない。それは常に、それぞれの人間の視点において積み重ねられていく出来事の総体ではないだろうか。歴史を一度主観性の中に取り戻すこと。そして、人々が出来事を物語ることによって、歴史を間主観性の中に解き放つこと。それが、歴史を物語としてとらえる人々の立場である。



 そういった立場からすれば、作品の客観的な存立や存続はそれほど重要ではない。重要なのは、作品が受容者によっていかに物語られるかである。受容者たちが作品の経験を物語ることによって、社会の中で相互触発しあい、作品像を作り上げていくこと、そこにこそ、作品の歴史性は宿る。作家が作品を作った客観的な事実、その作品を多数の人が見たという客観的な事実に歴史の一回性を求めるのではなく、受容者の物語行為に歴史の一回性を求めるということ。その観点からすれば、重要なのはアウラの主観的な契機の方であり、複製技術によってアウラが端的に消滅したとは言えない。



 つまり、アウラ概念は以下のように再構成できる。(1)芸術作品が一回的に物語られる歴史性、(2)まなざしのやりとり、(3)瞬間的経験。さて、このように再構成されたアウラは、複製技術時代にもなお残っているといわねばならない。確かに、ウェブで読まれる作品は、作者の肉筆によって書かれた原稿用紙そのものではないし、作者のパソコンに保存された大元のファイルでもない。その意味で、作者の側から発される唯一性は消滅してしまっている。だが、唯一性を作者の側に求めるのではなく、読者の側に求めるのである。読者がウェブで作品を読んで感動する、作品と交感し戦慄する、まさにその消えゆく瞬間に歴史の一回性を求め、そこに作品の唯一性を求めるのだ。作品とは常に、「誰かにとって」の作品である。さらに、読者が作品を物語ることで歴史が生成されていく。アウラをそのようにとらえれば、ウェブ上で容易に複製可能な作品についても、読者の受容の一回性に、再構成されたアウラの存在を認めることができる。




3.リラックス




 インターネットはリラクゼーション空間である。人は、誰にも強制されることなく、自分のペースで、自分の好きな情報にだけアクセスし、その情報の量も自分の負担にならない程度に制限できる。ウェブ空間にはリンクという無数の窓があり、そこを通じて人々は次々と自分の好きな風景を選んでいくのである。



 さて、そのように自分の好きな情報にアクセスする際、便利なのは検索ツールである。もしくはツイッターでの情報である。ウェブにおける情報の蓄積により、人々は、以前だったら容易にアクセスできないような情報にも容易にアクセスできるようになった。



 ここで、ロングテール論という考え方を紹介しよう。例えば、本を、その売上げ順に横にどんどん並べていくとする。そして、並べた場所には、その本が売れた冊数分本を積み上げるのである。すると、初めの方にはベストセラーが山のように高くそそり立ち、遠くに行くにしたがって本の積まれる高さは低くなっていく。初めの方の山を恐竜の頭と見立てて、遠くの方へとすそ野を広げるマイナーな本たちの並びを恐竜の長いしっぽ(ロングテール)と見立てる。インターネットは、このロングテールの部分を活性化した、というのである。例えば、地元の書店には、よく売れる恐竜の頭の方の本しか置いていないかもしれない。だが、アマゾンその他ネット書店には、あまり売れないようなロングテールの部分の本もちゃんと置いてあるのである。しかも、そのようなマイナーな多数派であるロングテールにも実は需要がたくさんあり、そこへのアクセスが開かれることにより、ロングテールの部分の本も多く売れるようになり、ロングテールが活性化する。



 これは、本に限らず、情報一般にもいえる。ウェブがなかった時代は、国会図書館にでも行かなければ手に入らなかった情報でも、少し検索することによりアクセスできたりする。マイナーな大多数を活気づけること。これがインターネットがなし得たことである。



 ところで、詩というものはもともとマイナーなジャンルだったし、今もそうである。だが、詩について関心のある人は、意外と多い。近所の本屋には詩集は有名どころしか置いていないけど、本当は現代詩文庫や今の詩集も読みたい。そんな人が、ネット書店を通じて多様な詩集を手に入れることが可能になったのである。詩集に限らずとも良い。何か良質な詩についての情報を得たいときに、ウェブはとても役に立つ。



 かつて、詩について情報を得ることは困難だった。せいぜい現代詩手帖が大きめの本屋においてあるくらいで、人々はそもそも詩についてアクセスすること自体困難だった。それが、ウェブ社会の到来によって、詩についてアクセスすることが非常に容易になったのである。



 さて、そもそもウェブ空間はリラクゼーション空間だった。そのリラックス効果を増すためには、好きな情報に適度にアクセスするのが適切である。詩が好きな人は、詩についての情報に適度にアクセスできればくつろげる。さて、そこでpdf詩誌の登場である。詩に興味がある人は、何人かの詩人をフォローしておけばよい。それらの詩人は、詩についての情報をツイートの形で発信してくれるだろう。その情報の中に、良質な詩誌が、全部読めるものとして登場したら! 詩が好きな人は、ウェブでのリラックスをより良いものとすることができるだろう。「骨おりダンスっ」はそのようなものとしてある。




4.非拘束性




 ウェブで作品を見ても物足りない。やっぱり実物が見たい。詩だったら、やっぱり詩集が欲しい。そういう人は多いだろう。ウェブにある作品を所有することはできない。だが詩集なら所有できる。作品とじっくり取り組むためにも、ウェブでは気が散りすぎてうまく取り組めない。手元において、本として、自ら対価を払ったものとして、作品と取り組みたい、という人は多いだろう。確かに、無償で提供されるものにはどこか執着できないところがある。お金を払って買ったものだからこそ、身銭を削ったものだからこそ、真摯に向き合える。



 だが、逆に言えば、無償で提供されるものであるからこそ、執着しなくてもよい、そもそも読まなくてもよい、という発想が生まれる。無償で提供されるものを観賞する際には、それを買ったであろう時には生じたであろう、「きちんと読まなきゃ」という自己拘束が生じないのである。無償で提供される作品は、好きなものを好きなだけ読めばいい。先に言ったリラクゼーション効果ともつながるが、無償であることによって鑑賞者を拘束しない、そういう作品の在り方もあるのである。




5.本質化




 ウェブ空間は、リアルな空間と対比すると、非本質的であるとみなされることが多い。ウェブの発達とともに、それと比例するかのように「リア充」という言葉がはやった。これは、リアルな人間関係やリアルな体験の方が本質的で価値があり、ウェブ空間は非本質的でそれほど価値がない、というイデオロギーの投影であろう。確かに、ウェブ上の情報は玉石混交である。たとえ検索エンジンが発達して良いものへのアクセスが容易になろうと、依然リアル世界の体験と情報にはかなわない、というのが多くの人の抱いている考えであろう。



 だが、従来非本質的だと考えられていた領域に、本質的なものの登場する可能性を見出すこと。それこそが創造的な人間の一つの使命ではないか。実際、梅田望夫の言を借りれば、ウェブ空間には、「もう一つの地球」が生成する可能性が十分にある。実際、グーグルのストリートビューや、ウィキペディアなどの達成を見ると、ウェブにも質が高く人々の需要に応えるものが出現してきていることが実感されるだろう。その文脈において、pdf詩誌というものを考えてみよう。玉石混交で、大して役にも立たない、ろくな作品がない、いい作品を探すのが面倒だ、そんなウェブ空間に、アクセスが容易で質の高い詩誌が登場したのである。これはまさに、非本質的であるとみなされていた領域の本質化であり、いまや「骨おりダンスっ」は、その幅広さや実験性、質の高さで、一つの権威にすらなりつつある。




6.最後に




 結びとして、既存のウェブにおける詩のコミュニティと「骨おりダンスっ」を比較しておく。ウェブ空間には、詩のコミュニティや詩を書く人のホームページ・ブログが多数ある。その中で、特に目立っていた存在として、「現代詩フォーラム」(
http://po-m.com/forum/)と「文学極道」(http://bungoku.jp/)を採り上げる。



 現代詩フォーラムは、誰でも参加可能で、参加者は好きな作品にポイントを入れる。とにかく敷居が低く、それゆえ玉石混交問題が如実に起きている場所である。確かに、作品の得たポイント数である程度良いものと悪いものを識別できるわけだが、このポイントというものも、場で馴れ合うために互いに与え合うものであったり、素人受けがする作品に集中したりする。だから、現代詩フォーラムは、良いものを識別する機能を十分に果たしているとは言い難い。



 現代詩フォーラムの玉石混交ぶりとなれ合いが気に入らず、ダーザイン氏が立ち上げたのが文学極道である。トップページには、「芸術としての詩を発表する場、文学極道です。/糞みたいなポエムを貼りつけて馴れ合うための場ではありません。/あまりにも低レベルな作品や荒しまがいの書き込みは問答無用で削除されたり、「月間最低劣ポエム」
として晒し上げられたりする可能性があります。」と掲げられていて、明らかに敷居を高くしようとする姿勢が見受けられる。また、投稿作の中からは、毎月、「月間優良作品」が「発起人」たちにより選別され、顕彰される。掲示板では忌憚のない合評がなされ、しばしば感情的な争いにもなる。その中で頭角を現した人たちは、若いネットユーザーにとってはカリスマ的存在であり、例えば現在代表であるケムリ氏や、長く投稿し技術の向上を目指しているいかいか氏などは、同じく文学極道を閲覧したりそこに投稿している若い世代から尊敬されている。文学極道は、ウェブ上にもう一つの詩壇を作り上げたかのように見える。それは、完全に実力主義で、既成のものには媚びない、彼ら独自の民主主義の産物である。だがそれゆえの閉鎖性は否めない。文学極道には固有のカラーがあり、それに沿わない作品は評価されない。詩誌の投稿欄と似たようなものである。



 この二つのサイトと比較したとき、「骨おりダンスっ」にはどのような新しさがあるだろうか。まず、掲載する作品は編集の方で選ぶ。しかも、編集は紙媒体で活躍している実力派詩人と多数接点を持っていて、そのような実力派詩人の作品を掲載することができる。これがまず一番の強みである。ウェブにはなかなか作品を発表したがらないレベルの高い詩人の作品を掲載できる。それと同時に、編集は若手の詩人であり、若くてそれほど認知されてはいないけれど実力のある人間を積極的に起用することができる。詩集を出しているか、投稿欄で活躍しているか、そんなことはお構いなしである。とにかく面白い奴の作品を載せる。もちろん、コミュニティではなく飽くまで詩誌である以上、コミュニケーションは図れない。だが、小田原のどか氏の「むりえわ」のような、pdfという媒体を最大限活用したような作品をも積極的に掲載し、また山田亮太氏の実験的な作品も掲載している。



 確かに、今まで私が述べてきた、「ウェブに作品を載せることのメリット」は、現代詩フォーラムや文学極道についても言えることである。それらのサイトにおいても、作品は無償で提供され、アウラを保ち、見るものをリラックスさせ、見るものを拘束せず、非本質的だった空間を積極的に利用している。だが、「骨おりダンスっ」の強みは、その幅の広さと無党派性にあるだろう。詩集を何冊も出していたり詩の賞をとっていたりする詩人の作品から、若い実力者の作品や現代アートの作品まで、良いものなら大抵のものは載せる。ウェブ空間に質の高い詩誌が誕生したわけだが、その詩誌「骨おりダンスっ」は、何よりも詩の新しい可能性を最大限に見据えている点においてすぐれているのである。



 




by sibunko | 2013-11-10 10:27 | 詩の理論