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疋田龍乃介詩集『歯車VS丙午』(思潮社)

疋田龍乃介詩集『歯車VS丙午』について


 疋田龍乃介の作品を読んでいると、使われている単語の意味が攻撃的だったり、構文が逸脱的だったりして、漠然と「暴力的である」と感じる。ところで、疋田の詩の暴力性とは実際どのようなものだろうか。それは意味や構文の侵犯性で説明できる程度の表層的なものに過ぎないのだろうか。疋田の詩集『歯車VS丙午』は、詩の暴力性について考えるには格好の素材である。
 暴力はそれ単独で存在するというよりは、社会の中で、相互の関係の中で、互いに対抗するように相克している。もちろん始原的な暴力というものもあるだろう。単純に区別する、線を引く、そのような認識作用だって立派な暴力だ。だが、そのようにしてなされた暴力に対しては次から次へと対抗する暴力が定立されていき、社会の網の目は相互に対立し牽制し合う暴力で満ち溢れている。
 だとしたら、詩の暴力もまた社会のネットワークの中で、何らかの暴力と対抗する形で成立し、一方で詩にはまた別の暴力が反措定されていくはずである。私の見立てでは、まず世の中の支配的言説というものがある。それは社会の多くの成員の同意や共感を得たもので、多くの成員を支配し、定常的で固定的である。世の中の支配的言説は、権力を持ち、多くの人間を支配すると同時に、そこからの逸脱を許さない。そして、詩は、この支配的言説の暴力的支配に対抗する暴力だと私は考える。
 詩は、勝者の語る言説に対抗する敗者の言説であり、いまだ十分正当化されず、様々な廃残物の寄せ集め、主流の歴史から取り残されたものの寄せ集めでできている。そして、それでありながら、詩は、激しい生命力、激しく充実して生きようとする意志として暴力的なのである。そして、詩はその強靭な意志の力によって、自由な人間を創造しようとする。社会においてヘゲモニーを持つことに失敗した弱者が、それでもヘゲモニーに異を唱え、支配的言説による抑圧から自らを解放し自らを表現していく創造力、それこそが詩の暴力なのである。

 あら、不可思議な摩訶ざわざら
 義母にゆっくり、ざらら
 ざわざらざっわーん
  絶ちますよ、
 枝垂れた触角、
 ねっとりまわすよ、
 湿った櫛の隙間を嗅がされても!
 今なおこぼれる露も!
 むせぶ嗚咽も!
       (「剥がし剥がされ燈るのさ」)

 さて、この引用部を見てみよう。「摩訶ざわざら」という造語の作り方と響きの暴力性、「ざわざらざっわーん」という意味不明な擬態語の暴力性、「絶つ」という言葉の暴力性、「むせぶ嗚咽も!」における単語と感嘆符による暴力性、更には全体の構文の混沌的な暴力性、など、表面的には見て取ることができる。だが、それはせいぜい言葉の意味が暴力的だったり、言葉のつくりが暴力的だったり、構文が規範侵犯的だったり、それだけのことであって、上述したような意志や創造力のレベルでの暴力性とは次元を異にする。だが、詩の暴力とは意志や創造力で人間を解放する力であり、ただ言葉の表面的な次元での暴力とは異なるのだ。
 私は疋田の詩からより根源的な暴力を読み取ることができると考える。そのために取るべき手順としては、疋田の詩の際限のない細部をモナド論的に分解し、くまなく経廻り、遡及的に根源を仮定し、その根源の表現を細部に見出すという解釈手段が考えられる。根源は実在しないが、細部において表現される。その表現から根源へと遡及するのである。

生まれるまえ(鼻や耳のぶつ切りに混じって斬首台の隙間を覗いて(その半分くらいの小さな歯車のまわる(首の切れ間は暖簾の狭間(覗かば揺れ続ける店の軒先で十二支の終わりげな鼻先だ(欲深い獣が嫌いだった、鼠や羊の指が怖い(水無月の節季は四つ足どもの酣だ(中払いに暖簾くぐれば、
       (歯車VS丙午)

 私が疋田の詩に感じるのは、他者に対する責任への応答が、自己に対する責任への応答でもって代替されている点である。疋田はストレートに他者に応答しようとはしない。かといって独善に陥っているわけでもない。まずは自己に対して誠実に応答するということ、それが他者に対して誠実に応答することの前提となっていることを自覚しているのではないだろうか。
 例えばお笑いがそうである。お笑い芸人は一見意味不明で奇天烈で独善的なことを観客の前で話すが、それは観客にウケるために、観客に対する責任に応答するために、いったんまずは自己に対する責任に応答しているのである。
 引用部にあるように、「(」に「(」が続くような文章は意味がとりづらく独善的であるように思える。だが、これは括弧を閉じないことにより、読者に詩行がどんどん展開し完結しない面白さを感じさせることを期しているのである。また、引用部は文の意味がうまく接続せず、まったく文脈を形成していない。これは他者に対する伝達を拒絶しているようにも思える。だが、伝達は必ずしも文脈の形成による分かり易いものである必要はない。読者はここでイメージの高速の変転による美を感じ取るわけであり、直接読者への責任に応答せずとも、まずは自己への責任へと応答することが、間接的に読者への責任に対する応答となっているのである。
 言葉というものは厄介なものである。社会関係において人間は責任を果たすために他者に対して言葉を発しなければならない。そしてその言葉はコミュニケーションに成功しなければならない。分かり易く、無駄がなく、相手の要望に応えるものでなければならない。そしてもちろん、内容において不適切なものであってはならない。支配的言説はその内容だけでなく伝達の仕方も規定するのである。
 疋田の詩の暴力は、単に支配的言説に異を唱えるという直接的なものではない。そのような直接的な暴力に対して支配的言説は敏感であり、支配的言説はそのような暴力を即座に圧殺するだろう。だが、疋田の詩はちゃんとウケを狙っているのである。つまり、支配的言説による圧殺を回避するために読者に対する責任に応えつつ、同時に自己の自由な言語空間を展開していく。支配的言説に受容される道を開きつつ、同時に自己の自由な創造力を発揮させる。そのことにより、支配的言説を内部から侵食していく。

いぬがひ、げのがん、
そうやって剃ったばかりの無精ひげを
すべり台の上から流しながら
一緒にサイコロを転がしている
出目が5なら
僕の犬がひげの癌にかかり
そのとき育てた大根は温かく
貪っていた犬が
ほくほくしていたから
       (「犬がひげのがん」)

 詩というものは敗者の言説であった。廃墟のがれきの寄せ集めであった。詩人が詩行を思いつくとき、そこには世間に流布した勝者の歴史は余り混ざり込まない。むしろ、詩人は自らの些細な知識や感覚や体験という忘却されかけているものを掘り起こして詩行を紡ぎ出しているのである。だから、詩人の言葉は全く無力であり、いかに自らを解放させるために意志的に創造力を働かせると言っても、社会の中で何ら力を発揮することができない。それは詩人が支配的言説と直接衝突しようとして、あっけなく圧殺されてしまうことからよく分かる。
 詩人が真に自らの暴力を発揮させるためには、まず支配的言説に自らの言葉を受容させなければならない。そのためには、詩人はお笑い芸人のようにいったんウケを狙わなくてはならない。つまり、支配的言説が課してくる責任に対して一定の応答をしなければならない。そうしていったん権力の側に受容されたうえで、権力の側が言葉の新しい形態に気付くのを待つ、そして権力の側が自発的に詩人の言葉に耳を傾け、その可能性を認識するのを待つのである。
 疋田の詩は暴力的である。それは社会の支配的言説に異を唱え、自由な言語空間を開発するものである。だが、だからといって支配的言説と直接衝突して敢え無く撃沈するものではなく、むしろ支配的言説からの受容をもとりつけながら、その受容の先で支配的言説の側の自発的な気付きを促すものである。引用部にあるような「犬がひげの癌」などのユーモアに疋田のそういった姿勢が端的に表れている。疋田はユーモアによる詩の受容を期しているのである。詩が暴力を有効に発揮するためには、直接的で単純な革命を目指してはいけない。詩が暴力を発揮するためには一度その暴力を隠ぺいしたうえで、社会からの受容を促し、社会に浸透していく必要がある。そこにおいて初めて詩は社会を漸進的に変革する暴力になれるのである。
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by sibunko | 2015-06-07 20:08 | 現在の詩人たち