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佐峰存『対岸へと』(思潮社)

佐峰存詩集『対岸へと』について


 詩は「読む」ものというよりは「触れる」「聴く」ものである。文の論理構造に従って明確な意味を読み取るものというよりは、そこに立ち上る言葉の響きや質感を聴いたり、意味の多義性や構文の揺らぎに触れるものである。詩は視覚によって一定の距離のもと整然と分析されるものではない。それよりも、詩は距離を無化してその肌触りを感じたり、そこから発される声の揺らぎやテクスチュアを、行きつ戻りつしながら繰り返し聴くものである。
 読者が詩に対峙するとき、このような臨床的な空間が立ち上がる。読者は詩人の語る言葉を全面的かつ肯定的に受け入れる。読者は何も口出しをせず、詩人の告白を遮ることなく、くつろいだ空間を作り出して言葉を受け入れるのだ。歓待――ホスピタリティの空間が詩の受容においては成立する。

私とあなたの影は忙しなく
気配に割られた道路をわたり
坂を上がる 彼方で曲がり
行方が分からなくなる
屋根の一帯からは
見慣れない白いアパートが
産声を上げている
      (「影のすむ街」)

 ここで佐峰存の詩集『対岸へと』(思潮社)を読んでみよう。佐峰は一見風景を淡々と描写しているように見える。そして、読者はそこに描かれた風景をただ視覚的に見ればいいかのように思われる。佐峰の詩は一見視覚だけで処理すればいいかのように思われるのだ。
 だが、実は佐峰の視覚的な詩群もまた、視覚モデルだけで処理できるものではないことを示そうと思う。むしろ、佐峰は風景の描写に、敢えて視覚をかく乱する要素を取り入れているように思われる。そして、佐峰の詩の魅力もまた、単純に視覚モデルで処理できない臨床的な空間を広げることに由来すると思うのである。詩の受容における臨床的な空間は豊饒な空間であるが、それを作り上げるためには読者の態度のみならず詩人の態度も必要なのである。
 引用部では、「私とあなたの影」が動き出し行方不明になる。これを文字通り視覚的な映像でとらえると、ただ人間から影が分離されて動くという珍妙な映像が出来上がるだけである。そうではなく、この引用部は、「影」の忙しない雰囲気を肌で感じ取り、「影」の気配が道路の空間を割っていく様を味わい、影が人から離れて動き出し行方不明になる不穏さなどを感覚するためにあるのだ。この不穏な記述が惹起する空気に触れ、この不穏な記述の声のテクスチュアをよく聴く。単に風景を目で見るだけではなく、風景に触れたり風景を聴いたりする臨床的な空間が作り上げられているのである。
 ところで、詩における臨床性は、詩が読まれる現場のみで成立するのではない。それ以前に、詩を書くという行為は、詩人が自己の詩想に対して臨床的にふるまうということである。詩人はまるで自分が自分のカウンセラーになったかの如く、自分の内側に渦巻いている声をありのままに受け入れ、その声を聴きその手触りを感じつくすのである。
 詩はそのような臨床的な空間から生まれるので、必ずしも分かりやすい表現にはならないし、過不足なく情報を伝える紋切り型の表現にもならない。様々な余剰や揺らぎや矛盾を反映したものとして詩は表現されるのである。詩がしばしば難解になるのは、詩が作られる空間の臨床性によるといってよい。

木々の皺に 傾いた石の反射に
空気の発酵に 生物の断絶を宿らせて
あなたも
雨の匂いを吸っているのだ
      (「雨の匂い」)

 例えば「空気の発酵」を単純に見ることはできるだろうか。そうではなく、詩人が自己の中に渦巻いている空気の一つの態様をいちばんありのままに表現する言葉が「発酵」だったのである。「空気の発酵」は一見視覚的なようでありながら、それよりももっと深い空気の独特の態様に触れることにより生み出される表現であろう。
 さて、詩人が自己に対して臨床的にふるまうことにより詩が生まれ、読者はその詩を臨床的に読む。この二重の臨床性の現場ではいったい何が起こっているのか。

呼吸に茂らせた 葉の裏側に
指が産みつけた 小さな卵
胸から唇へと繋ぐ回廊を
飾られた食卓も 足を覆う革靴も
鏡の中で剃り上げた脈も
振り切って思念は走る
一枚の告解を こわさないように
      (「指に念じる」)

 詩人が自己に対し臨床的にふるまうということは、己の実存を引き受けるということである。すべての属性を引きはがしてもなお残る人間存在そのもの――これを「実存」と呼んでおこうと思うのだが、臨床の現場では、何よりもまず実存が肯定され承認される。詩人は詩を書くとき、自らの本源的な存在を引き受け、その存在から湧き出る無数の詩想を次々と言語化していくのである。嬉しいとか悲しいとかの感情よりももっと根源的で、孤独や連帯の基体となるものが実存であって、この実存は存在の雰囲気だけまとっている。この存在の雰囲気は漠然と快だったり苦だったりするが、この己の実存をまず引き受けること。それが詩を書くということである。
 引用部では様々な身体の部位が登場し、また「告解」という言葉も登場する。このような身体性や告解は実存に近いものであり、それをありのまま引き受けるところから詩は出発するのだ。
 さらに、読者は詩を読むとき、詩に託された詩人の実存をさらに引き受けることになる。詩人は詩を書くことによって、自らの実存を引き受けるとともに自らの実存を他者に対して開く。そして、読者は詩人が開いた詩人の実存を、その苦しみと快さを引き受けるのである。このようにして、詩が書かれ、詩が読まれるということは、詩人が己の実存をその深淵からつかみ取ってきて他者に対して開くと同時に、読者がその実存を引き受けるという「実存の受け渡し」に他ならないのである。
 ここに、詩の生み出すコミュニケーションの特異性が生まれる。通常のコミュニケーションは言葉同士のやり取りであって、言葉でもって何となく合意が得られればいい。言語行為のやり取りで互いに行為し合い、適当な落としどころを見つければいい。
 だが詩のコミュニケーションは、言葉よりも根源的な実存のやり取りである。ひとまず詩人の実存が、詩人自信を経て読者へと引き渡される。読者もまた臨床的な空間で、己の実存に立ち返って詩人の実存に応答しなければならない。これは論理でつじつまを合わせれば済むという問題ではなく、互いの気配やしぐさを感じ取ったり、互いの声の肌理を繊細に受容したり、そういう存在の全てを賭けたコミュニケーションであり、だから詩を読むのは楽しいと同時に深い疲労を伴うのだ。
 佐峰存の詩群は、一見視覚的で、論理的に把握すればそれでおしまいであるかのように見せながらも、実は視覚に回収されない実存の細かな振る舞いが息づいていて、聴覚や触覚も動員しなければ鑑賞できないものである。そして、そのような鑑賞の空間を成立させているのは二重の臨床性の空間であって、それは詩人と読者の間の実存的なコミュニケーションを要求するものである。
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by sibunko | 2016-01-03 07:12 | 現在の詩人たち