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中村梨々『青の底』(狼編集室)

てびき


 詩は難しい、わからない、という声をよく聞きます。ところが、詩というものはそもそもわかる必要がないものです。わかることよりも感じることの方が大事です。ことばというものは意味を伝えるだけのものではなく、もっとさまざまな印象を伝えるものです。詩においては、意味だけでなくさまざまな印象もまた大事です。ことばの持つ質感やことばのうごめき、ひらめきのようなもの。思考や感情で理解するというよりもむしろ感覚によって感じるイメージのようなもの。詩はもちろん意味も持ちますが、意味以外の豊かなものをも詩は伝えようとしているのです。


誰も帰ってこないので

昼の隙間から外を見た

ひどく雨が降っていた

どうしても、戻らなければならなかったんだろう

冷蔵庫の牛乳がなかった

グレープフルーツジュースも

       (「二十三夜」)


 例えばこの部分を読んでみてください。「昼の隙間」ってなんだろう? 唐突に出てくる「戻らなければならなかった」という義務はなんだろう? 詩にはこのように意味を考え出すと途端にわからなくなることがたくさんあります。

 ですが、それよりも大事なのは、「誰も帰ってこない」孤独な感じであったり、「昼の隙間」から外をのぞくときの視線の動きであったり、「戻らなければならなかった」という義務感の持つ引き締まる感じであったり、牛乳やグレープフルーツといったモチーフの持つ柔らかい生活感であったりします。そういった、言葉の生み出すさまざまな「感じ」を豊かに感じることが詩を読むということです。

 詩はそのように、何か特定の現実に起こった出来事をそのまま描く歴史や伝記とは基本的に異なっています。歴史や伝記は必ず指し示す対象があります。現実に起こった出来事を指し示すことによって歴史や伝記は成立しているのです。ところが詩は特に現実に起こった出来事を指し示そうとしません。むしろ詩は、指し示す対象など存在しないフィクションであることが多いです。詩は現実からは離れた独立した空間を作り上げ、そこで様々な印象を作り出すのです。

 だから、詩の解釈に正解はありません。歴史や伝記だったら「事実」に合っているものが「正解」とされるかもしれませんが、詩はそもそも事実を指し示さないので、事実と対応させる必要がないのです。だから、詩の解釈は自由にやってよいのです。

 この詩集『青の底』についても、読者は自由に解釈してかまいません。ですが、そのような自由な解釈の一例として、私自身の解釈を簡単に書いておきたいと思います。読者の方々のてびきになれば幸いです。

 この詩集では季節の移ろいが大きなテーマになっています。「春」「夏」「二月」などのことばが詩のタイトルにもなっています。一方で、空や海、そしてその両方を包み込むような「青」も登場してきます。そういった主要なモチーフとともに、作者の心象が鮮やかにつづられていきます。

 私はここに、作者の世界観のようなものが見えるように思います。作者は階層的に秩序だった世界観を持っているのではないか、そしてその階層の秩序がある種の音楽を作り出しているのではないか。

 いちばん中央にあって不動なモチーフが「青」です。これは世界の原理のようなものであり、空や海の根底にあるものです。その次の階層にあるのが空や海です。これらは季節の移ろいとともに変化していきますが、その大きさによって詩の世界を支えています。その次の階層にあるのが、季節の移ろいとそれとともに移ろう作者の心象です。このように、この詩集には不動なものから移ろいゆくものまでの階層構造が反映していて、その秩序が音楽の秩序のように響いているのではないかと思います。というのも、音楽もまた楽章からモチーフ、細部の動きという階層構造で秩序を生み出しているからです。

 読者のみなさんにおかれましては、ぜひともこの詩集からいろんなことを感じとって、自由気ままに解釈していただければ幸いです。


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by sibunko | 2017-08-20 17:59 | 現在の詩人たち