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カテゴリ:現代詩人論( 3 )

谷川雁論

谷川雁論――自己愛と自由
                   

0.はじめに

 詩人が、詩を知らない友人に詩を紹介する。さて、よくありそうなこの風景の中では、いったい何が行われているのだろうか?
 まず、詩人は詩には価値があると考えているだろう。ではなぜ、詩には価値があるのだろうか? それにはさまざまな理由があるかもしれない。詩は人を感動させる、詩は人を共感させる、詩は物事の本質を見事にとらえてくる、などなど。だが、そういう詩の長所・美点というものは、誰にとっての長所・美点だろうか? 詩人は即座に、「あなたにとっての」と答えるかもしれない。だがそれは本当だろうか。それはまず、詩人自身にとっての長所であり美点であるのではないだろうか。つまりここにあるのは、友人と詩との間に、詩人と詩との間にあるような幸福な関係を作り出そうとする詩人の意図である。詩人はそのことによって、友人を「詩の長所が分かる人間」「詩を愛する人間」と規定しようとしている。ここにあるのは、詩人が友人を一方的に規定しようとする意図であり、詩人が友人を自己のまなざしのもとに支配しようとする意図である。
 さて、もう一度問うてみよう。なぜ、詩には価値があるのだろうか? この問いには、上述したような詩の長所によって答えられるかもしれない。だが、詩の価値は、詩の備えている水平的な諸属性にのみ由来するのではない。端的に、詩の価値は、詩と詩人の垂直的な関係に由来しないだろうか。それは、詩人の「価値ある自己」という自己規定に由来しないだろうか。価値ある自己の携わっていることなのだから、詩には当然に価値がある。
 つまり、詩人が、詩を知らない友人に詩を紹介するというありふれた風景の中には、(1)詩人が自己を価値あるものとして規定すること、(2)詩人が友人を詩を愛する者として規定しようとすること、この二つの規定の働きが含まれていないだろうか。
 さて、ここで当然ながら反論がなされるだろう。いやいや、私は自分をそんなに価値のある人間だなんて思っていない。私の価値なんてそもそも私の行為や他者の価値づけによって決定されるのであって、私自身が私を自己愛や神秘化によって価値づけているのではない。私の価値など絶えざる変転の相にあるわけであって、私が自己を祭壇の上に神秘化しその位置に安住しているわけではない。それに、私は一方的に友人のことを規定しようとしているのではない。私と友人はお互いに規定し合っている関係にあるわけで、互いの自由を承認し、もし相手が詩が気に入らなかったらそれも容認する、そういう気分で詩を勧めているのだ。そんな反論。これも正しいだろう。
 結局詩人というものは、自己や他者を規定し、自己や他者の自由を制限する姿勢で詩に臨むこともできるし、自己や他者を無規定にしたまま、自己や他者の自由を承認する姿勢で詩に臨むこともできる。本稿では、詩人の自己愛や自己神秘化というものがどれだけ行われ、あるいは行われていないか、について、谷川雁を例にとることによって論じようと思う。谷川雁は、自己愛や自己神秘化の傾向が強かったように見える一方で、自由や主体性を重んじたようにも見える詩人であるからだ。

1.谷川雁の自己規定・他者規定

1.1.「原点」

「段々降りてゆく」よりほかないのだ。飛躍は主観的には生れない。下部へ、下部へ、根へ、根へ、花咲かぬ処へ、暗黒の満ちる所へ、そこに万有の母がある。存在の原点がある。初発のエネルギイがある。
      (「原点が存在する」)

 ここで言われている「原点」とは、社会的な運動へと人を突き動かすもろもろのものだ。それは、個人的な次元では、情念や衝動、それらを組織する理性やイデオロギーや意志、それらがいまだ明確な形を取らないまま互いに浸透し合っている、その混沌を指すだろう。物理的な次元では、それは、何よりも民衆が生まれ育った土地、つまり、民衆がその起源の記憶から自己形成の記憶、社会化の記憶などを沈殿させ有機的に融合しているところのふるさとのことを指すだろう。社会的な次元では、それは、農村共同体、つまり、家族がいて愛しあう娘がいて、それらによって人を慰め安らがせる、そういう共同体のことを指すだろう。そして、「原点」とは「母」なのである。母とは人を産む人のことだ。人は母の胎内で母と一体となり、そこから「身分け」を行って母から生まれるが、常に母へのノスタルジー、つまり母と再び合一したいという欲求を維持し続ける。このように、「原点」とは、意識や身体や場所や他者が非主題的に、相互に浸透して混沌と合一化している位相のことを指している。
 一方で、ここで谷川は、その「母」というものを神秘化しようとしていないか。「神秘化」と一言で言ってもいくつかの意味があるだろう。最も厳密な意味では、「神秘化」とは、「母」を絶対化することである。そして、その母と自己の精神の内奥で合一することである。緩やかな意味では、「母」というものを、隠れたもの、深い探索でしか発見できないもの、共有の難しいもの、それでありながら万物を規定しているもの、そういうものとしてとらえることである。いずれにせよ、「母」を神秘化し、「母」をあらゆる行動の原点と据えることは、同時に「母」と合一化している自己の価値をも高めることを意味する。谷川は「原点」を称揚することで、同時にその原点に根ざしている自己の価値をも高めた、そう解することも可能だ。それは、谷川が自己を安定した高みに置きそれを維持することであった、そう解することも可能だ。

1.2.煽動

あさはこわれやすいがらすだから
東京へゆくな ふるさとを創れ
      (「東京へゆくな」)

 さて、この詩行を読んでみよう。ここには谷川の詩業が凝縮されているかのようだ。「あさ」や「がらす」などといった抒情的なイメージとともに、「東京」という社会的なイメージ、「ふるさと」という土俗的なイメージが使われている。これは谷川の詩の世界の振幅の大きさを示すと同時に、谷川の精神が大きな軌道を描いて様々な領域を遍歴していたことをも示している。

 私の夢想は平凡きわまるものだ。前衛と原点――このような対置が一度決まれば、論理と感性、意識と下意識、機械と大地、首都と故郷などの相互に対立する範疇の群は、ほぼ同じ比例関係のなかに生きているのだから、民衆の革命に対する不満をそのまま一つの部隊に編成しうるのではないかということだ。
      (「幻影の革命政府について」)

 「前衛と原点」というものはいくつもの対立項に変奏されながら、しかもそれらの対立項は、互いに触発し合い、別の次元へと発展したり、位置をひっくり返されたりする。谷川の詩の振幅は、彼のこのような強固な思想に基づいていた。対立項とそれをめぐるダイナミズムを、人的な次元、物理的な次元、文化的な次元、社会的な次元へと適用していくことで、詩の世界を拡張していく。谷川の詩の完成度の高さには、彼の思想の強固さが強く貢献している。引用部については、まずは「東京」と「ふるさと」の対立、次に「こわれやすいがらす」という抒情と「ゆくな」「創れ」という意志の対立、さらに「あさ」に対する感受能力と「東京へゆくな」という思想の対立、などがダイナミックに展開されている。
 そして、谷川は詩を書くときにはあくまで「詩」を書こうとしていたと思われる。つまり、政治的なアジテーションを前面に出すというよりは、詩としての、文学としての芸術的完成度を高めて、その芸術性に触れて高揚した人間の精神を巧妙に煽動する、という手法を取った。だから、「東京へゆくな」とだけ言うのではなく、「あさはこわれやすいがらすだから」という抒情的な表現が必要だったのだ。ところで、「あさ」が「がらす」であるとはメタファーであり、「あさ」が「がらす」だから「ゆくな」「創れ」というのは正常な論理ではない。谷川は、このような修辞で美しい謎を作り出し、それによって生み出される芸術的感興を読み手と共有することで、読み手を自分の意図したとおりに動かそうとするのだ。
 谷川にとって戦争とは死に赴くことであった。だから彼はせめて「自分の死を自家製の言葉で飾りたい」と思った。このように、詩を書く動機の点においても、彼の自己愛は見てとれる。また、彼は散文において自らを「自我狂」と称している。だから、彼が自分の作品の完成度を高めたかったのは、まずは自らを美しく飾ろうとする自己愛に由来するのである。「美学に貫かれた谷川雁」という自己規定が彼には必要だった。そして、彼が詩において単に作品的完成度を高めることだけを目指したのではなく、その詩作の陶酔のなかに他人をまで巻き込んで他人を煽動したのは、彼の「他者を規定したい」という欲望に由来するのではないだろうか。「私はふるさとを創りたい」という欲望から「お前もふるさとを創れ」という命令へと飛躍する、その飛躍の媒介となったのが、彼の自己拡張欲ではないだろうか。谷川は自己の思想を自分ただ一人だけがもっていることには飽き足らなかった。その思想でもって他人をも規定すること、他人にもその思想を抱かせること、さらには他人をもその思想に基づいて行動させること、そこまで谷川は望んだのではないだろうか。

2.サルトルの実存主義

 ところで、自己規定や他者規定を許さなかった思想家がいる。サルトルである。彼は、存在者を人間とその他の存在に分ける。人間は実存であり対自であり、その他のものは存在であり即自である。
 即自(en-soi)とは、無規定的にそれ自体であり、創造もされず、存在理由もなく、ただ余計にあるものだ。即自は神的なものではないし完全なものでもないし真理を体現しているわけでもない。
 対自(pour-soi)とは、存在について意識するものであり、意識と存在の間に裂け目(無)を介在させるものである。そして、対自(人間)は自己をも意識する。自己との間にも無を介入させるのだ。このようにすることで、対自は自己を超越し、自己をいまだあらぬところのものであるように変化させていく。だから、対自は、死ぬまで決してあるところのものであるような存在にはなれない。それゆえ、対自は無(néant)であり、世界内存在として、身体や状況によって支えられているにすぎない。ところで、対自が存在になれず実存するということは、自由であるということである。対自は自由でないことができない。対自は自らの行動を選択する。この際、対自は常に自由であり、存在理由などの確固とした拠り所を持たない。
 それゆえ対自は常に不安である。そこで対自は即自へなろうとする。「なるようにしかならない」と自己を決定論的に根拠づけたり、ボードレールのように自己を「呪われた人間」と規定したり。自己の不安を消して何者かになろうとするこの傾向は自己欺瞞である。自分が自由で不安な存在と分かっていながらそれを自ら隠そう・騙そうとするからである。
 対自は何らかの状況に直面している。この状況は誰も代わりに引き受けてくれはしない。だから、対自は、現にある状況から自己を解放し、目的に向かって新たな状況に自己を拘束する。この自己拘束(engagement)とは、自己をつくることで状況をつくり、状況をつくることで自己をつくることである。
 対自は状況において他者に出会うが、他者もまた自由な存在である。対自は、他者によって、何者であるか認められることによって、初めて何者かになるのである。自由な主体は無限に多数であり、他者はその無数のまなざしによって対自を主体性の無い即自存在にしてしまおうとする。他者に向き合うときの対自のことを対他というが、対他は、まなざしを向けるものになるか、まなざしを注がれるものになるか、その相克(conflit)という存在構造をなしている。この相克は、二つの態様をとる。まず、他者の自由の前に自らを差し出し、自らを対象たらしめながら、その他者の自由を自らのうちに吸収してしまう、という態度。典型的には愛である。もう一つは、対他がみずから他者にまなざしを向け、他者を所有するという態度である。この二つの態度を行ったり来たりしながら、対他は他者と絶えざる相克の相にある。
 この立場からすると、谷川が「原点」と合一し自らを神秘化したと解するなら、そのような態度は、自らを即物化し、自らを完全な存在と化すことであり、それは、自由を失い自由を隠蔽する自己欺瞞である、と批判できる。谷川が美しい詩を書いてそれによって自らを飾ろうとすることも、自らを高い存在として即物化する自己欺瞞ということになる。また、谷川が自らの思想に他人を巻き込んでいったのは、他者を自らのまなざしのもとに所有することであるが、それは他者のまなざしの逆襲によっていつでも覆されるし、その他者の逆襲を十分内面化せず自らを支配者として規定していた谷川には落ち度がある、という批判が可能であろう。つまり、谷川は自由でなかったし、他者の自由も承認しなかったのではないか、そういう批判が可能である。なぜなら、サルトルは、人間が自らを自由に決定していくことにヒューマニズムを見出したのであり、サルトルの立場からすると、自己の自由をも他者の自由をも閉塞させるような谷川のやり口はアンチ・ヒューマニズムということになるからである。

3.谷川雁のヒューマニズム

おれは大地の商人になろう
きのこを売ろう あくまでにがい茶を
色のひとつ足らぬ虹を

夕暮にむずがゆくなる草を
わびしいたてがみを ひずめの青を
蜘蛛の巣を そいつらみんなで

狂った麦を買おう
古びておおきな共和国をひとつ
それがおれの不幸の全部なら
      (「商人」)

 さて、では谷川は本当にサルトルの立場から批判されるような態度を持っていたのだろうか。ここで「大地」とは「原点」に通じるものであり、「きのこ」「茶」「虹」は大地すなわち原点から生じる様々な思想・煽動ということになりそうだ。だが、谷川はここであくまで「売る」という立場をとっている。つまり、相手と対等の立場に立ち、自らも何かを犠牲にしながら、つまり相手から「麦」「共和国」を買い取りながら、自らの思想を相手に買わせているのである。ここでは、谷川が他者を一方的に支配し規定するという関係は成立していない。むしろここにあるのはサルトルの言う相克であろう。お互いに無差別で対等に取引しながら互いに規定し合って、つまり「売買」をして、互いの利益を目指していこうという立場が見て取れる。谷川は「原点」をある程度神秘化したが、それは必ず共有されなければならなかった。その共有の仕方が、売買という相克、つまり平等な取引を介してなされるのだ。そう考えると、谷川がアンチ・ヒューマニストだったとは一概に言えない。

 多数決の原理を煮詰めていくと、民主集中性の原則にたどりつく。個人は組織に、少数は多数に、下級は上級に従うというあれはしかし、闘争の論理の客体化ではありえても、その主体化ではない。だから民主集中制が主体抜きに制度化されるとき、今日のごとき思想状況が必然にあらわれてこないわけにはいかない。
      (「民主集中制の対局を」)

 こうして谷川は多数決を否定する。やりたくない奴はやらないことが義務である。多数決とは、多数派が少数派を少数派の意に反して規定するということである。つまり、そこには多数派と少数派の相克がなく、少数派の自由や主体性は圧殺される。谷川は、あくまで個人の主体性・自由を尊重し、それを組織原理とした。そしてこれは「深い根源」からの組織原理であった。この点を見てみても、谷川が自己を神秘化しそれに他者を従わせるという安易な図式は成立していなかったことが分かる。個人の自由は「原点」に由来するような根源的なものであった。谷川はそれを最大限尊重した上で労働運動を展開していったのだ。

 私のなかにあった「瞬間の王」は死んだ。ある機能がそれだけで人間の最高の位であるという思想とたたかうことは、私の知ったはじめての階級闘争であった。(中略)自己の内なる敵としての詩を殺そうとする努力が、人々のいわゆる「詩」の形をとらざるをえないのは、苦がい当然であるとはいえ、私はそれを選んだのでもなければ望んだのでもなかった。眼のまえの蜘蛛の巣のように、それは単純な強制であった。
     (「国文社版『谷川雁詩集』あとがき」)

しかし、それはついに詩ではない。詩それ自身ではない。そこには一つの態度の放棄がある。つまり、この世界と数行のことばとが天秤にかけられてゆらゆらする可能性を前提にするわけにはいかなくなっているのである。
      (『鮎川信夫全詩集』への書評)

 谷川にとって詩とは世界とその重みを等しくするだけの「瞬間の王」であった。それは谷川にとっては所与であり強制であった。つまり、谷川は生まれながらにして「瞬間の王」に支配されると同時に、「瞬間の王」として世界を支配しようとする、そういう気質にあった。これは「原点」の思想とも似ていて、何らかの絶対者を措定し、というか、何らかの絶対者があらかじめあり、それに谷川が支配されると同時に、谷川はそれを他者と共有しようとする、そういう図式がある。だが、谷川は、そのような絶対者による支配という神秘的な態度に安住していたのではない。そのような神秘的な位相は「ゆらゆら」していたのだ。つまり、谷川自身、その神秘主義がいつ崩れるかわからない危ういものとして認識していた。それは谷川が無意識に他者のまなざしを感じていたからではないか。「世界」の側の、無数の他者が存在する側の、谷川を規定しようとする、その重みと、かろうじて釣り合っていたのが彼の詩作ではないのか。そして、谷川はついに世界の側に屈するのである。つまり、詩と世界を天秤にかけたとき、世界の方が重くなってしまった。そこで、詩=「瞬間の王」は死んだと宣言したのである。
 ところで、谷川においては、詩を殺したのはまさに詩そのものだった。彼の詩作の過程は、それゆえ、自らの身体を世界に投げ出すことによって、逆にその身体に他者のまなざしを無数に感じた、つまり、他者の視線を内在化していった、そういう過程ではなかったか。谷川は詩を伝達の手段として用いていたから、必ず受け手の存在というものが詩作の前提にあり、受け手の視線を自ら内在化することなしには詩を書くことができなかったのである。彼は詩を書くことで詩を殺し、王を殺し、自らを規定し即物化していた「詩人」というアイデンティティを殺した。彼はまさしく、詩人であるという彼のみに与えられていた状況と取り組み、それを超出し、新しい状況をつくったのではないか。つまり、彼は詩を殺すことで真の自由を手に入れた。それまで自己に詩作を強制していた王を殺し、未来へと自分を投げ出した。
 だから、谷川にとって詩というものは、自らを美化し自らを高い地点に安住させるものというよりはむしろ、その中に他者というものをどんどん含みこんでいき、他者のまなざし・自由を承認し、自らを規定していた「瞬間の王」を殺し自らを自由にする、そういうものであったと思われる。

4.おわりに

 サルトルの思想が絶対的に正しいとは思わない。彼の思想はむしろ理想的であり、現実には人間の即物化などいくらでも起こっている。人間は過去のしがらみからそう簡単に逃れることはできないし、完全に主体的になることも難しいし、未来を作り出すのも大変だ。だが、人間を、既成の価値や捏造された価値によって称揚するのではなく、人間が無意味で不当で不条理で偶然的である、まさにその点に自由を見出し、何らの超越的・神秘的な価値に依拠することなく、あるいは依拠しないがゆえに、人間に価値を見出すという態度は一つの説得力を持つし、何もないところから何かが作れるという思想は希望に満ちている。その思想と対置してみたとき、谷川は決して簡単に批判・非難されるような詩人であったのではなく、むしろサルトルの思想とも親和するような側面を多々持っていた。詩人というものはどうしても自己愛や自己神秘化に傾きがちであるが、谷川はそのような規定性によって安易にとらえられるほど安直な詩人ではなかった。谷川は自己の自由を獲得し、他者の自由も承認した。彼のカリスマ性は、彼が単純な自己愛者ではなく、他者のまなざしとも常に対決していたことにも由来するだろう。
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by sibunko | 2012-12-04 01:55 | 現代詩人論

田村隆一論(下)

2.詩の信用性

 さて、意味論的フィクション、語用論的フィクション(言語行為論的、ごっこ遊び理論的)を検討すると見えてくるのは、ある語りがフィクションであるかどうかは、(1)語られた内容の真偽性、(2)語り方が真偽を問題とするか、(3)受け手が語りを二重化するか、という三つの要素を考慮しないと分からないということである。そして、語られた内容、語り方、受け止められ方、がそれぞれ異なることで、詩が信用できるかどうかも変わってくる。

2.1.フィクション/ノンフィクション

 (1)語られた内容が現実と対応しない、すなわち偽であるとき、それを意味論的フィクションと呼ぼう。逆に、語られた内容が現実に対応するとき、それを意味論的ノンフィクションと呼ぼう。(2)語り手の語り方が、語りの真偽を問題としない場合、それを言語行為的フィクションと呼ぼう。逆に、語り手の語りが、語りを真だと主張するとき、それを言語行為的ノンフィクションと呼ぼう。(3)語りの受け手が虚構的な語りを想像するとき、それをごっこ遊び的フィクションと呼ぼう。逆に、語りの受け手が語りをありのままに受け入れるとき、それをごっこ遊び的ノンフィクションと呼ぼう。そうすると、詩の語りにおいて、以下の八つのケースが想定される。

(1)意味論的ノンフィクション―言語行為的ノンフィクション―ごっこ遊び的ノンフィクション
 この場合、詩人は実感を実感として語り、それが実感として受け取られる。そこに何らフィクション的要素はなく、詩人が実感を率直に伝えたいという欲求は満たされ、読者も詩人を信用して騙されることがない。
(2)意味論的ノンフィクション―言語行為的ノンフィクション―ごっこ遊び的フィクション
 この場合、詩人は実感を実感として語るが、読者はそれを虚構として受け取る。いくら詩人が真実を率直に語ろうとしても、読者はもはや詩人を信用していない。詩において、詩人と虚構の語り手との分離が起きていないにもかかわらず、読者は分離していると信じているから、詩人は自分の実感が読者に届かないもどかしさを感じ、読者はせっかくの詩人の真実を読み取れない。
(3)意味論的ノンフィクション―言語行為的フィクション―ごっこ遊び的ノンフィクション
 この場合、詩人は実感を基にして語るが、その詩が真実を語っていることは別に信じられなくてもいいと諦めている。だが、読者はそれを真実として読むので、結局、詩人は自分の実感が実感として受け止められ、読者も詩人の真実を知ることができる。
(4)意味論的ノンフィクション―言語行為的フィクション―ごっこ遊び的フィクション
 この場合、詩人は実感を基にして語るが、その詩が真実を語っていることは別に信じられなくてもいいとあきらめていて、実際に読者は詩人の言葉を信用しない。詩人は自分の言葉が信じられなくてもいいと思っているから実際に信じられなくてもかまわないだろうが、読者はせっかくの真実を見逃すことになる。しかも、読者が語りをフィクションだとみなすきっかけとして詩人の語り方というのも重要なファクターだから、詩人はフィクション的な語り方をすることで読者にその語りをフィクションだと思わせ、結局せっかくの実感を伝えられないことになる。
(5)意味論的フィクション―言語行為的ノンフィクション―ごっこ遊び的ノンフィクション
 この場合、詩人は特に真実でもないことをあたかも真実であるかのように語り、それを読者も真実だと信じてしまう。この場合、まさに詩人は読者を騙そうとして騙しおおせているのである。読者は、自分が騙されたと気づいたとき、詩人を信用しなくなってしまうだろう。このケースが一番危険なのである。
(6)意味論的フィクション―言語行為的ノンフィクション―ごっこ遊び的フィクション
 この場合、詩人は虚偽を真実らしく語るが、読者はそれをあくまで虚構として受け止めている。読者はいくら語りが真実を偽装していようと虚偽を虚構として受け止めているので、読者の態度に間違いはない。
(7)意味論的フィクション―言語行為的フィクション―ごっこ遊び的ノンフィクション
 この場合、詩人は虚偽を特に真実でもないように語るが、読者は不注意にもそれを真実だと信じてしまう。この場合、虚構に気付かなかった読者に非があるわけで、特に詩人が読者を騙しているわけではない。
(8)意味論的フィクション―言語行為的フィクション―ごっこ遊び的フィクション
 この場合、詩人は虚偽を特に真実でもないように語り、読者もそれを虚構として受け止める。これが最も典型的で純粋なフィクションであろう。詩人と読者に詩がフィクションであるという共通了解が生じていて、それを前提に読者は詩を鑑賞していく。

2.2.田村の詩のフィクション性

 さて、では田村の詩はフィクションであるのかノンフィクションであるのか。両者の中間だとしたらそれはどのようなフィクション構造・ノンフィクション構造を備えているのか。
 まず、一つの詩を全体としてフィクション/ノンフィクションと決定することはできないということに注意しなければならない。一つの詩は部分的にフィクションでありえたり部分的にノンフィクションでありえたりする。

「怪物の言ふこと」は
ナチス・ドイツの総統ヒットラーでもいいし
(中略)
ところで作者の中桐さんはその頃同人誌に
「Fへの手紙」というエッセイも書いている。
いま ぼくの手許にないのでそれを引用できないのがとても残念だが
美しいエッセイ、というよりもラブレターだったことを憶えている。
       (「Fへの手紙」)

この引用部の前半は、田村独特の軽快な語りで、真偽などどうでもいいといった思想なのである。つまり語用論的にはフィクションとノンフィクションの中間のようなものだ。一方で、後半はこれまた田村独特の思い出語りであり、この思い出語りは「俺は垂直的人間」と豪語した田村が実は水平的だったことを実証しているようなものである。その論点には深入りしないが、結局この部分は年寄りが自分の惰性に従って気楽にありのままを語っている、そういう語りであり、ことさら気張って想像力たくましく思い出を偽装しようとする語りではない。つまり後半は全くのノンフィクションなのである。つまり、一篇の詩の中でもフィクションとノンフィクションが混合していて、その詩全体についてフィクション/ノンフィクションを単純に決定することはできない。
 さらに、2.1.で見たとおり、フィクションの構造というものは三層構造をなしており、ある一つの詩行についても、それを単純にフィクション/ノンフィクションという一次元の二項対立では語れない。ある一つの詩行について語れるのは、それが、意味論的にはフィクションであり、語用論的にはノンフィクションであり、ごっこ遊び的にはフィクションである、などという三次元的なフィクション認識であり、一次元の二項対立で把握することはできない。

詩を書く人は
いつも宙に浮いている
どこにいったいそんな浮力があるのか
だれにも分らない
       (「詩を書く人は」)

フィクション性は部分においてしかはかれないので、田村の詩の中で特徴的であり、かつもっともフィクションとノンフィクションのせめぎ合いが激しいであろう、彼が詩人についての思想を語っている詩行を採り上げる。
 詩人が詩人について語るのだから、それは内容的に正しく、かつ正しいものとして語られ、受け手も正しいものとして受け取らなければならないようにも思える。詩人は詩人のことを最も良く知る者であるから。そして、詩人は詩人についてその真実を最も語りたがる者であるから。
 さて、詩を書く人が宙に浮いているというのは隠喩であるが、ここで隠喩をめぐる議論には深入りしない。本稿では、隠喩というものは、類似性を介して、真偽を持つ通常の文に書き換えることが可能であるが、その書き換えの可能性は複数ある、という立場をとることにする。どれが正しい書き換えであるか、日常的な隠喩の場合は決定されることがあるが、詩における隠喩ではむしろ正しい書き換えなど存在せず、複数の書き変え方がそれぞれに可能なものとしての地位を付与されると解する。「宙に浮いている」という詩行は、「現実から遊離している」「軽快さを保っている」「通常人には達せない境地にいる」など複数の詩行に書き換え可能であるが、どれが正しい書き換え方であるかは決定されない。
 とすると、引用部は意味論的にはどのようなフィクション性を備えるだろうか。まず、「宙に浮いている」ことが真か偽かを考えたとき、それの書き換えの真偽を考えなければならない。ところで、書き換え方は多数あるのだから、そのすべての書き換えにおいてその書き換えが真であるとは考えられない。詩人が現実から遊離しているのは真かもしれないが、詩人が軽快さを保っているというのは偽かもしれない。とすると、引用部の真偽は決定不能ということになる。つまり、引用部の真偽は意味論的にフィクションでもノンフィクションでもない。
 次に、引用部は言語行為的にはどのようなフィクション性を備えるか。1.2.で見たとおり、田村は飄々と無責任に断定を繰り返す男だから、田村の発語内行為は、真実を主張する意図を中途半端に持ちつつも、修辞や自分の無責任さのためには多少虚構が混じってもかまわないという態度を併せ持ちながらなされる言語行為だと見るのが正しいであろう。特に、引用部は隠喩で意味が不明確にされている。詩人が詩人について語るのだから、あくまで正しいものとして語りそうだが、そこに修辞が入り込むことによって、田村自身もそれが相手に正確に伝わることをあきらめているのだと思える。田村はおそらくここで、序論に述べたような葛藤をしている。自分の実感をありのまま伝えたいという気持ちがある一方で、ありのままに伝えるためには逆に修辞が必要になり、そういう理由で修辞を使ってしまったら意味の不明確な詩行になってしまった、だが意味が不明確でも詩としてかっこ良ければそれでいいだろう、そういう葛藤である。つまり、引用部は言語行為的にもフィクションでもノンフィクションでもないのである。
 最後に、引用部はごっこ遊び的にはどのようなフィクション性を備えるか。1.3.で見たのと同様、引用部は修辞によって意味が不明確にされており、現実には誰によっても語りえない語りがなされているように思える。だが、適切に書き換える、つまり適切に解釈することにより、再び田村自身の言葉としてのノンフィクション性を備えることも可能だ。読者は、一方で、引用部は意味が不明確だからそれは非現実的な語り手による虚構の語りに過ぎないと思わされるが、他方でそれを自分なりに解釈して、例えば田村はここで詩人は現実から遊離しているとノンフィクション的に主張しているのだ、と落ち着くことも可能である。つまり、引用部はごっこ遊び的にもフィクションでもノンフィクションでもないのである。
 以上から言えることは、田村の詩は、2.1.で挙げた八つの類型のうち、どの類型にも典型的には該当しないということだ。田村の詩は、意味論的次元でも、言語行為的次元でも、ごっこ遊び的次元でも、フィクション性とノンフィクション性を併せ持ち、むしろフィクションともノンフィクションとも決定されないところにその特色がある。

3.結論

 さて、では、田村の詩は、詩の信用性を失墜させているだろうか。答えはイエスでもノーでもない。田村の詩は2.1.で挙げたどの類型にも典型的に属さないが、逆に言えば、どの類型にでもなりうるのである。だから、真実でもないことを真実であるかのように語りそれを読者が真実だと信じてしまう、という詩の信用性を失墜させるような事態も生じうるし、真実であることを真実であるかのように語りそれを読者も真実だと信じるという、まさに語りたいことが読者にそのまま伝わるという理想的なコミュニケーションも生じうる。だから、田村の詩は詩の信用性を失墜させているとも失墜させていないとも言えない。
 そもそも、詩の信用性を重視する態度に問題はなかったか。つまり、その態度というものは、ノンフィクション/フィクションという二項対立を設定し、ノンフィクションがフィクションに優先するという階層を導入した、階層的二項対立の現れであるが、そもそもそんな階層的二項対立は維持不可能なのではないか。この階層的二項対立は、詩というものを、詩人の真実の表白と見て、それこそに価値があるという価値観に基づくものだ。だが、詩にはもう一つの側面がある。それは、語り手がフィクションをフィクションとして語り、それを受け手もフィクションとして受け止めることにより、語り手と受け手の間で詩がフィクションであることの了解が成立したことを前提にする。そして、そのフィクションを、想像の産物、修辞の産物として、虚構的だが豊かで価値のある作品として創造し享受する、という側面である。こちらの立場からすれば、むしろフィクションの方がノンフィクションよりも優先する。
 詩の信用性は失墜したとも失墜していないとも言えない。そして、そもそも詩の信用性を盲信することには問題がある。詩にはノンフィクションとしての価値もある一方でフィクションとしての価値もあり、フィクション/ノンフィクションという二項対立が決定不可能であるところにその本質がある。田村の詩は、まさにそのことを例証してくれた。
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by sibunko | 2012-12-04 01:53 | 現代詩人論

田村隆一論(上)

田村隆一論――フィクションの危険
                  

0.序論

 詩は言葉の信用性を失墜させていないだろうか。詩は、一方で、表現主体の内面を最も率直に表現する媒体として使用され、もう一方で、読者にとって美しくなければならないという要求のために真実を歪曲することが往々にしてある。つまり、(1)思想や感情をありのまま表現するという動因と、(2)思想や感情をありのままではなく装飾をくわえて表現するという動因、この二つの動因が詩を書く者の表現現場では葛藤している。例えば、

春が転落する

このような詩行を考えてみよう。ある詩人Aは、春に急激な憂鬱に襲われ、まさに春そのものが転落するような実感を得てこの詩行を書いたとしよう。別の詩人Bは、とにかく修辞的に面白い詩行を書こうとして、特に実感もないのに言葉遊びとしてこの詩行を書いたとしよう。ところが読者としてはこの詩行の背後に実感があるのか、それともこの詩行が単なるレトリックであるのか、判断するのは難しい。当然文脈によってある程度は判断できるが、それも決定的ではない。読者Cは、詩行の背後の実感を信じる読者だとする。一方で読者Dは、詩など所詮すべてレトリックに過ぎないと信じている読者だとする。読者Cが単にレトリックで書かれた詩を実感に基づく詩だと読むとき、そこには誤読がある。また、読者Cもいつか気付くであろう。すべての詩が実感に基づいているのではないということに。すると読者Cもいずれ読者Dに変わっていくのである。ところで、読者Dにとってみれば、いかに詩人が実感に基づく言葉を発しようと、それは単なるレトリックに過ぎない。詩人の実感など信用されないのである。とすると、先にあげた詩を書く二つの動因のうち先の方、つまり、思想や感情をありのまま表現するという動因、これが正しく理解されないことになる。詩人がいくら率直に真実を述べたとしても、読者はそれを真実ではなく実感も伴っていないレトリックとして読む。こうなると詩の言葉はもはや信用性を失ってしまうし、詩人の方でも自分が正しく理解されないという欲求不満を抱くであろう。
 本稿では、詩の言葉が修辞的になることによって詩の言葉の信用性が失墜してしまったなどという問題は本当に生じているのかについて、詩が修辞的に思想を語り出した時代の代表的詩人である田村隆一を取り上げることで論じようと思う。田村はまさに、実感を語ろうとする動因と修辞的に語ろうとする動因との葛藤で揺れ動いた詩人だからである。なお、本稿を書くにあたって、フィクション論については清塚邦彦『フィクションの哲学』(勁草書房、2009年)を参考にした。

1.フィクションとは何か

一篇の詩が生れるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを、射殺し、暗殺し、毒殺するのだ
      (「四千の日と夜」)

この詩行に対する鮎川信夫の反応を見てみよう。

 この言葉の理解は非常に困難であり、かつ私自身の独断的推定を多分に加えての説明なので、あまり自信がないのですが、強いて言えば、これはもっとも破壊的、否定的な行為を通じてしか、個人にとっていとしいものを救う道はないということだろうと思うのです。
      (「恐怖への旅」)

田村の詩はほとんどが基本はノンフィクションだったと思われる。つまり、田村は詩を書くときに、虚構的な主体に虚構的真実を語らせるというよりは、まさに田村自身が田村自身の思考や感情や認識を語っていたのだと思われる。これは田村に限らず、ほかの多くの詩人にも共通することである。
 ところが、鮎川の言葉にもあるように、それにしても引用部は難解である。果たして田村が本当に実感だけでこの部分を書いたのか、それが怪しいのである。一篇の詩を書くために詩人が何かを殺すということは滅多にないのではないか。いとしいものなど殺さなくても多くの詩人は詩を書いているではないか。だから、引用部は端的に偽である、つまり、現実と対応していないことを語っているように思える。あるいは、田村は、詩をかっこよく書くために、図らずも田村自身とは別の「詩を書く主体」を作り上げてしまっていて、その詩を書く主体が書いた詩行だから実感とは離れた虚構的な詩行が生れているのではないか。修辞的に、誇大にものごとを歪曲して虚構的に思想を語っているのではないか。また、田村はどこかで自分の詩が真実として受け入れられることをあきらめていないか。つまり、語る行為がそもそも実感を語ることをあきらめていないか。そして、鮎川が引用部をことさらに解釈しなければならなかったように、引用部は、受け手によってその内容が真であるように想像されなければその語りが完結しないような虚構的な語りなのではないか。
 つまり、田村の語りの態度は、一方でノンフィクションであり、他方でフィクションであるような二層構造をなしていて、しかもそれが田村の中で矛盾していない。詩の語りの危険性は、まさにこのフィクションでありノンフィクションであるという二重性から生じている。一方で、読者は詩人の直接的な声を聞いているようにも感じるが、他方でそれが修辞によって歪曲されているようにも感じる。だから、読者は、一方で詩人の言葉をそのまま信じるように促されているかのように感じながら、他方で無批判に詩人の言葉を信じては騙されるように感じる。この点について、もう少し理論的に見ていこう。

1.1 意味論的フィクション

 意味とは、言語と現実の対象との間の関係において成立するものである。言語と対象の関係という観点からフィクションの問題をとらえようとする立場がある。つまり、フィクションはどんな対象を指示しているのか。またフィクションの語る事実は現実と一致していて真なのか、現実と反していて偽なのか。
 これについて、まず、(1)フィクションにおいて用いられている名前や記述は何も指示していない、とする説がある。次に、(2)作品中の文が偽であることがフィクションの特徴である、とする説がある。ここでは、(1)も(2)もフィクションの必要十分条件を主張している、ととらえるのではなく、何も指示しない名前や記述が多いほど、あるいは作品中の文が偽であることが多いほど、よりフィクション的である、ととらえておこう。というのも、通常我々がフィクションだと考える作品の中にも、実在する対象についての真なる記述が含まれていることは多くあるからだ。

針一本
床に落ちてもひびくような
夕暮がある
卓上のウィスキーグラスが割れ
おびただしい過去の
引出しから
見知らぬカード
不可解な記号
行方不明になってしまった心の
ノートがあらわれてくる
       (「恐怖の研究」)

確かに「針一本床に落ちても響くような夕暮」はあるかもしれない。これは全くのノンフィクションかもしれない。だが、「過去の引出し」とは、「心のノート」とは、いったい実在のどんな対象を指示しているのだろうか。そもそも実在の何も指示していないのではないだろうか。また、何の原因もなく卓上のウィスキーグラスが割れるなんてことは考えられず、その記述は現実と対応しない偽の記述なのではないか。そのようなイメージや記述が存在する以上、この詩はフィクションなのである、と。そもそもこの詩行全体が田村の想像にすぎず、現実に何らの対応物をもたない偽の詩行なのではないかとすら思える。
 だが、意味論的フィクションは、それ自体では読者の詩への不信を駆り立てるには不十分である。なぜなら、読者の方でも、詩に意味論的フィクションがあることを承知しているからである。実在しないこと、嘘のことでも、それがはじめから、実在しないものとして、嘘のものとして提示されていれば、読者はむしろ詩人の想像力を称賛するであろう。問題は、意味論的フィクションと、次に述べる語用論的フィクションが一致しないときに起きる。

1.2.語用論的フィクション(1)――言語行為論

 意味論とは言葉の内容についての議論である。それに対して語用論とは言葉の用いられ方についての議論である。例えば、「そこをどけろ」という命令文は、意味論的には「相手がそこをどける」という内容しかもっていないかもしれない。だが、「そこをどけろ」には、その内容に、相手に対する命令という話者の態度が付与され、かつ相手がそれに対して反応する、というコミュニケーションの次元での動き方があり、その動き方を解明するのが語用論である。
 まず、ジョン・サールの見解を挙げよう。サールは、言葉を発する行為を、発話行為(utterance acts)、発語内行為(illocutionary acts)、発語媒介行為(perlocutionary acts)に分ける。発話行為とは、単に言葉を発することである。発語内行為とは、何かを指示しかつ社会的慣習やその場のコンテクストに応じて命令や約束などを遂行することである。発語媒介行為とは、発語内行為を行うことで相手を喜ばせたりなどの副次的な効果を発生させることである。サールの見解によれば、フィクションは発語内行為のレベルの問題である。
 サールによると、虚構的な発言を行う人は、表現された命題が真だという立場に加担していないし、その命題を真だとみなすべき証拠を持っていないし、その命題を信じていない。だから虚構的な発言は「主張」ではなく、主張の変異体である。虚構的な発言は、その発言の内容が真か偽かを問題としないような慣習に従ってなされる言語行為である。つまり、発語内行為は、命令や約束や主張というそれぞれの慣習的属性を帯びているが、主張行為の変異体として、フィクションは、発言内容の真偽を問題にしないという属性を帯びた種類の言語行為なのである。
 一方、マーシャ・イートンは、虚構的な発言を、通常の言語行為を架空の語り手へと転嫁する行為ととらえている。発語行為・発語内行為・発語媒介行為をそれぞれ転嫁する行為としてとらえるのである。
 また、マーガレット・マクドナルドは、フィクションを「フィクションを語る」という独立した発語内行為だと考える。虚構的な発言は創造のために用いられるという点で事実的な言明から区別される、その意味で独立した発語内行為なのである。

眼に見えないものは
存在しないのだ
       (「ある種類の瞳孔」)

ぼくらは眼を閉じて見なければならぬ
       (「虹色の渚から」)

この二つの詩行は、同じ『新年の手紙』という詩集に所収されている。ところがこの二つの思想は矛盾しないだろうか。眼に見えないものが存在しないならば、眼を閉じて見ても何も見えないではないか。それを見ろというのはおかしくないか。確かに、眼を閉じたときにも何かが見え、それは眼に見えないものではないのだから存在する、そういう解釈も可能だが、どうも田村は、矛盾した思想を持ちつつ、その矛盾を自覚していないという節がある。そして、思想が矛盾していても詩なら許されるのではないか、そういう甘えがあったように思われる。田村はその詩において、軽々しく断定し、否定し、命令するが、その軽薄さは結局詩の言葉に責任を持っていなかったことに由来するのではないか。詩が絶対的な真実を語らなければならないと田村が信じていたとするならば、修辞によって思想をゆがめることもしなかっただろうし、思いつきで軽々しく思想を語ることもしなかったであろう。田村は詩に対して一種の甘えがあったと思われる。詩においては自分の無責任さがある程度(完全にではないが)許される、といったような甘えである。
 そうだとすると、田村の詩に矛盾があっても何ら不思議ではない。サール流に言えば、田村は詩行において主張行為をしているのではなく、真偽があいまいになってもかまわない、そういう語りをしているのである。イートン流に言えば、田村は詩を書くときに、自らその真実性についての責任を負わずに、ある程度架空の語り手に責任を転嫁しているのである。マクドナルド流に言えば、田村は詩を語る際に、事実を語るということよりもむしろ思想を創造することを重視し、その創造の結果が多少非現実になってもかまわないと思っているのだ。
 ここで注意しなければならないのは、田村が完全に虚構的な発言をしているわけではないということである。田村の詩の行っている発語内行為は、命令や約束といったように、社会的慣習によって相手に求められる反応が決定されている、そういう行為ではない。つまり、強圧的に命じた行為を行わせる(命令)、信頼関係に基づいて誓った行為を行わせる(約束)、そのように相手の反応を固定的に要求していないのだ。田村の詩の行っている発語内行為は、いわば過失的に虚構になってしまった語りである。あるいは、虚構になってしまってもかまわないという態度でなされる語りである。真実を主張する行為と虚構を語る行為との中間で揺れ動く言語行為、あるいは真実を主張する意図を中途半端に持ちつつも、修辞や自分の無責任さのためには多少虚構が混じってもかまわないという態度を併せ持ちながらなされる言語行為だというのが正しい。だから、読者はどう反応してよいのか分からない。読者の反応の仕方は慣習によって指定されていないし、田村によっても明確に指定されていない。

1.3.語用論的フィクション(2)――ごっこ遊び理論

 ケンダル・L・ウォルトンは、フィクションを受け手の側からとらえた。彼によれば、フィクションとは、その受け手に、作者が記した言葉を読むという現実の経験と、ある非現実の語りを読むという経験を、想像の中で重ね合わせることを要求するものである。田村の詩を、田村の書いた言葉として経験すると同時に、非現実の語り手による語りだとして経験する、これが田村の詩のフィクション的な読み方である。
 ところでウォルトンの言う想像とは、以下のようなものである。第一に、想像とは、何かの像を思い描くということではなく、一定の命題的な内容が真であると考える、ということを意味する。第二に、想像は、作品によって促された非現実なものだけではなく、当の作品に関する想像でもある。田村の詩に鳥のモチーフがあって、そこから鳥をめぐる様々な想像をめぐらしたからと言って、それが直ちにフィクション的な想像であるわけではない。その想像は、同時に田村の詩に関して、田村の詩がそういうものであるとして、なされなければならない。第三に、想像とは勝手気ままな想像ではなく、作品やそのコンテクストによって方向性を指定されたものである。
 子供が積み木を車だと見立ててごっこ遊びをする、そのとき、子供は、現実の積み木をそのものとして経験すると同時に、それを非現実の車だと信じて、しかも自らそれを車だと指定して、積み木について非現実の経験をし、その二つの経験を想像の中で重ね合わせる。そのごっこ遊びと同じことを、フィクションの受け手は行っているのである。

性器と
乳房を
つなぐものが
脚だとしたら
その脚によって
はじめて
彼女の顔は
創造されるのだ
       (「女性に顔があるとは……」)

性器と乳房をつないでいるのは腹であり脚ではない。物理的に脚は両者をつないでいない。ここでは田村は、脚の何らかの観念的な媒介作用を思いつき、それによって読者にとって意外な思想を提示しているのだ。さらに、脚によって顔が創造されるとはまた奇怪な思想である。田村はここで読者に対して意外な思想を提示することで、女性に対する新奇な認識を提案しようとしている。おそらく、田村は、女性においては乳房も脚も顔もすべて性器であるという思想を土台にして、同じ性器である以上自在に結び付けていいのだ、と考えているのだろう。
 このようにして、読者は、田村の書いた現実の言葉を、まずは誰によっても語りえないような奇妙な女性認識としてとらえる。現実の言葉を、非現実の語りとしてとらえ、その両者を想像の中で重ね合わせるのである。そして、そこで行われる非現実の語りは、解釈の余地を多分に残しており、読み方が田村によって十分指定されていない。私の提示した読みは、同じ詩の中の「顔は女性の性器そのものだから」という詩行に触発され、だったら顔以外の魅力的な部分も女性の性器として田村はとらえているのだろう、との推測に基づく。だが、これはあくまで推測で、引用部の解釈の余地の広さは否定できない。
 このように、解釈の余地を広く残すような修辞的な思想を田村は好むが、そのような語りを前にして、読者はごっこ遊びを厳密に行うことができない。だが、ごっこ遊びが厳密にできないような不明確な思想だからこそ、作者と非現実の語り手が分離し、そもそもごっこ遊びが成立していたのだ。だから、上述したような解釈によって、田村の思想の意味が明確に定まれば、田村の詩はまさに田村の言葉でしかないと考えることも可能であり、そこに非現実の語り手など生じず、ごっこ遊び的なフィクションは成立しない余地がある。つまり、田村の詩はまず田村自身の言葉であるが、その思想が修辞的であるがゆえに意味が不明確となり、田村から遊離するが、適切な解釈でその意味を決定することで再び田村自身の言葉となりうる。
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by sibunko | 2012-12-04 01:53 | 現代詩人論