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カテゴリ:黒田三郎( 1 )

6.黒田三郎詩集

6.黒田三郎詩集


小さなあまりにも小さな


小さなあまりにも小さな
ことにかまけて
昆虫針でとめられた一羽の蝶のように
僕は身動きひとつできない
僕のまわりを
すべては無声映画のように流れてゆく

両国の川開き
徳球北京に死す
砂川の強制測量開始
台風二二号北進
すべては
無言で流れ去るばかりだ

自己嫌悪と無力感を
さりげなく微笑でつつみ
けさも小さなユリの手を引いて
僕は家を出る
冬も真近い木もれ日の道
その道のうえを

初夏には紋白蝶がとんでいたっけ
「オトーチャマ イヌヨ」
「あの犬可愛いね」
歩いているうちに
歩いていることだけが僕のすべてになる
小さなユリと手をつないで


 家族や親しい友人との関係のように、他者が直接的な欲求の対象となる関係をゲマインシャフト関係と呼びます。一方、仕事での協力関係や市場での交換のように、他者が手段として利用される場合の関係をゲゼルシャフト関係と呼びます。これは社会学者である富永健一の例によります(もともとはテンニースに由来します)。黒田三郎は、もっぱらゲマインシャフト関係を描いた詩人であるといえましょう。
 ユリとは黒田の娘であり、母親が入院したことから、父子二人の生活が始まります。この詩は、そのような生活の一断面を描いたものです。黒田にとって、ユリは交換のきかないものです。ユリは目的となることがあっても、決して手段にはなりません。黒田はユリに無償の愛情と無償の保護を与えます。ユリに関することは、「小さなあまりにも小さな」ことですが、黒田はそのことにとらわれて「身動きひとつできない」。「両国の川開き/徳球北京に死す/砂川の強制測量開始/台風二二号北進」このような交換可能な社会的出来事は、「無声映画のように流れてゆく」。「歩いていることだけが僕のすべてになる/小さなユリと手をつないで」このように、父子二人だけの閉ざされた空間は、あまりにも小さいにもかかわらず、黒田の心身を全面的に支配しています。
 このように、ゲマインシャフト関係とは、全体社会から見たらあまりにも小さな局所にすぎませんが、その内部には無限の価値があり、父は娘に対し、無償で最大限の力を注ぎます。ところで、全体から見たらあまりにも小さいところに無償のエネルギーを注ぐ、というのは、まさにこの詩が行っていることではないでしょうか。自分と娘の関係、という、社会全体から見たらあまりにも小さい事象に沈潜し、立ち止まり、そこに無限の価値を見出し、それを見返りを求めずに言葉にしたためる。黒田にとって、詩というものは、そのように、交換可能なゲゼルシャフト的なものではなく、それ自体が目的で、交換不可能な、かけがえのないゲマインシャフト的なものだったのです。

 しかし、だからと言って、真に詩人の名に値いする詩人が、僅かばかりの詩を書き、僅かばかりの部数の詩集を出しているかもしれないのだ。それが、無意味だと考えるわけにはゆかない。マス・コミュニケイションの絶大な力が云々される。だが、一方では、そうであればあるほど、一方的な他人の言葉をきくだけでなく、自分のことばをもちたいという素朴な願いがひとびとの胸に芽生えつつあるのではないか。数多くのサークル、お母さん達や農村青年や女工さん達や……そして多くの詩や綴方の雑誌はそのことを語っているように思われる。(「詩人とことば」より)

 黒田は、詩が、マスコミでの伝達によって社会に広く拡散されていくことよりも、「自分のことば」として社会の局部においてかけがえのない意味を担うことの方に価値を見出しています。マスコミに載る言葉は、基本的に、普遍性を志向しています。誰にでもわかる言葉、誰をも傷つけない言葉、情報を過不足なく伝える言葉、そのようにして、マスコミは言葉をシェイプアップします。それは、言葉を広く流通するものとして、情報の伝達の手段として、人々の間で交換されるものとして扱うということです。そうではなく、黒田は、言葉をもっと、自分に即した形で、流通のためにシェイプアップされることなく素朴な在り方で、小さな共同体で、安売りされないように、それでも無償に発されるものとして扱いたいのです。
 だから、黒田の詩は自由です。マスコミでの流通、売文、そのようなものを意図しないので、普遍性を志向する必要がない。無償で詩を書き見返りを求めない代わりに、彼には表現の無限の自由さが与えられるのです。その自由な表現によって、かけがえのない娘との関係を、そのかけがえのなさと釣り合うように最大限自由に描いていく。
 だから、彼の詩には表情がよく見えます。作られた表情ではなく、まさに、内面と外面とが直接交差する現場としての表情です。例えばテレビアナウンサーの言葉に表情はあるでしょうか。言葉を発することを職業として、それによって報酬を得る人の言葉には驚くほど表情がありません。交換可能で流布可能にするためには、言葉は表情を消さなければなりません。それに対して、黒田の詩からは彼の身体の動きがそのまま伝わってくるかのようです。「小さなあまりにも小さな」というところからは、小ささを彼独特のリズムで強調している口吻がうかがわれますし、「昆虫針でとめられた一羽の蝶のように」という比喩からは、彼の諦めた顔と、それでも自らが蝶のような美しさは保っているのだという美意識を湛えた顔の様子が伝わってきます。詩の言葉には、このように、規格化された言葉にはない誇張や比喩がありますが、それは何よりも詩を書く人間の表情を伝えるものではないでしょうか。言語情報だけでは掬い取れない、微妙なニュアンスや感情の機微、そういうものを「表情」と呼んでいるわけですが、黒田の詩からは、単なる情報には盛り込めない様々な表情を読者に伝えようとする技術が見て取れます。



僕はまるでちがって


僕はまるでちがってしまったのだ
なるほど僕は昨日と同じネクタイをして
昨日と同じように貧乏で
昨日と同じように何にも取柄がない
それでも僕はまるでちがってしまったのだ
なるほど僕は昨日と同じ服を着て
昨日と同じように飲んだくれで
昨日と同じように不器用にこの世に生きている
それでも僕はまるでちがってしまったのだ
ああ
薄笑いやニヤニヤ笑い
口をゆがめた笑いや馬鹿笑いのなかで
僕はじっと眼をつぶる
すると
僕のなかを明日の方へとぶ
白い美しい蝶がいるのだ

 この詩には、外部の視点と内部の視点が併存しています。外から見たら自分は「昨日と同じ」。それでも、内側から見ると、自分は「まるでちがってしまったのだ」。このように、外から見たら、客観的に見たら、なんてこともない大したことのないことであっても、それが内なる視点から見られると、途端に意味が激変するということはよくあります。もっとも典型的な例としては、人生の無意味さです。外から見れば人生など無意味です。それでも、内側から、まさに生きてるその人からすると、その人の人生はその人の目的そのものであり、多様で複雑な意味に満ちているのです。このように、視点を外に置くか内に置くかによって物事の価値が激変するということ。ここに、この詩の投げかける大きな問題があるのではないでしょうか。
 詩というものは多くの場合、内なる視点から書かれるものです。詩人の内側から見て、自分がどうであるか、ということを詩人は詩にするのです。詩人の内側から見ると、詩人の体験や思想はさも重大であるでしょう。内なる視点しか持たない詩人は、そこで終わります。内なる視点からから見ると、他人のことはよく分からない。内なる視点に視座を固定していると、他人の内部は常に外部として現れます。だから、他人がその他人にとっていかに意義深い生を営んでいても、内なる視点しか持たない人にとって、その他人の生の意義はほとんど理解できない。他人の内部を外側からしか見れないからです。
 ですが、黒田はこの詩において、内側の視点と併存するものとして外側の視点を明確にとっている。外側の視点とは、懐疑の視点です。自分は変わったと思っているけれど、本当は自分は全く同じじゃないか。そういう懐疑の目です。それに対して、黒田は自ら自らを基礎づけます。執拗な懐疑に打ち勝つためには、最終的には、自分で自分を正当化しなければなりません。いくら外から見ると変わっていなくても、私は私自身の実感を信じる。私の実感に照らし合わせて私が変わったのなら、私は本当に変わったのだ。
 さて、このように、外側の懐疑の視点と内側の正当化の営みの切り合いを自覚した人間にとっては、他人の内側もある程度理解できるようになってきます。自分から見たら他人の実感なんて疑わしいけれど、私自身もその疑わしさをはねのけるだけの実感を持っている。ということは、他人もまた他人の内側から見たら正しい実感を持っているのではないか。誰もが、外側からの懐疑に打ち勝つ内側を持っているのではないか。そのように態度が変わっていかないでしょうか。
 外側からの冷淡な懐疑の視線に対して、自らの内側の正当性を主張していく、そのことによって、他者の内側の正当性についても理解が及んでいく。さて、そこにこそ、黒田の本領があるのではないでしょうか。黒田は、自然よりも人間に関心を持ち、特に自己と他者との関係性に関心を持った詩人であります。ですが、他者と関係するにあたって、黒田は他者の内側の正当性をきちんと認めていたのではないでしょうか。あるいは、他者の内側の正当性を理解していたからこそ、それほど人間に関心が持てたのではないでしょうか。そして、自分が他者へ注ぐ視線が、外側からの懐疑の視線にとどまることを避け、他者の内側からの視線と切り合うものになっていることの自覚があったのではないでしょうか。黒田における人間への関心とは、それぞれの他者の内側からの声にやさしく耳を傾けることであったのではないでしょうか。
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by sibunko | 2012-11-13 12:40 | 黒田三郎