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カテゴリ:現在の詩人たち( 25 )

石田瑞穂『耳の笹舟』(思潮社)

石田瑞穂詩集『耳の笹舟』について

 私たちにとって目や耳は透明である。視覚情報や聴覚情報は記号作用によりすみやかに意味に変換されるし、そこに世界は現前していても、その世界を映し出している目や耳自体は無視されてしまう。私たちはあたかも目や耳が存在しないかのように、当たり前に世界の現前を受容している。だが、そこで省略されているもの、括弧に入れられているものにこそ詩の源泉はあるのかもしれない。

注射をうった日は、とりわけ誰かが廊下にじっとひそんでいるような、音ともつかない音が耳の奥底を谺しながら流れている。耳鳴りとまではいえないものの、奇妙な気配が頭の芯からはなれていかないのです。
       (「星をさがして」)

 石田瑞穂の詩集『耳の笹舟』(思潮社)は、難聴に罹った詩人が、否応なく突き付けられる聴覚の問題と静かに闘った詩集である。詩人はあくまで言葉を用いて耳について語る。だが、そこにはその言葉の根拠となったもの、言葉を駆動するものが前提とされていて、詩人はその根源的なものへと最大限接近したうえで言葉を発しているのである。
 私―世界という対立図式が成立する以前に、私と世界が不可分で一体となっている状態が存在する。そこではいまだ認識すら生じていず、私の身体と世界とが感覚の相で合一している「感覚的なもの」のみが根源的に現前する。この感覚的なものにおいては主体と客体が分化しておらず、感覚がそのものとして現前するのである。ここにおいて身体と世界とは接触を通り越して直接性のもとに融合し、いかなる媒介も差異も含んでいない。感覚的なものにおいて根源的なものが現前するのである。
 引用部を見てみよう。ここでは、「耳の奥底を谺しながら流れている」とあるように、音があたかも物質であるかのように扱われているのが分かるだろう。そして、音を受容する器官としての耳が明確に可視化されている。ここで詩人は、物質とも感覚ともつかない感覚的なものに根源的に遡及している。もちろん、言語化されてしまった詩句と感覚的なものの間には隔たりがある。だがその言語の態勢として感覚的なものへと遡行しているのが分かるだろう。

弦のないヴァイオリンの響き
落葉 秘境の滝壺
遺失されたトライアングル
古い磁気テープに録音された
蝶の羽ばたき
世界にふたつとない音
ゆえに
世界そのものである音
       (「耳鳴り」)

 石田の作品には、例えば視覚的イメージなどに詩行が拡散していく運動も見られる。それこそ、あたかもノイズのように、石田の思念は遠くへと飛び散っていったりもする。だが、彼の詩的意識は常に聴覚の核心を巡って言葉を紡いでいるように思われる。
 引用部では、そこに挙げられた音が「世界にふたつとない音」とされている。ここに働いている意識もまた、感覚的なものの根源性に向かっているはずである。言葉で列挙された音たちは複数存在することが可能であるのが原則である。それがたった一つしか存在しないと言われるとき、そこで念頭に挙げられているのは根源的な感覚的なものそのものなのである。身体と世界とが融合している次元において、すべての感覚は歴史的であり、一回限りのものであるからだ。
 そしてさらに引用部では、その唯一の音が「世界そのもの」であると綴っている。ここでは、唯一のものに世界の唯一性が宿るといった数的な発想もあるのかもしれない。だが、ここで働いている意識はむしろ、その唯一の感覚的なものが、世界の根源として世界自体を基礎づける根拠になっているという意識ではないだろうか。

三日は剃っていない
銀色のまじる無精髭
防音ガラスの窓の外を
くるくる舞う枯葉
秋のセントラルパークの宝石
ルリビタキの羽音の泡
倒木のくず木にまぎれて
ひげをゆらすカミキリムシ
       (「本の音」)

 視覚や聴覚を触覚の延長として捉えることは可能であり、実際視覚は光に触れており、聴覚は音に触れている。感覚的なものとはそもそも身体と世界との無媒介な融合であり、そこでは基本的に触覚が感覚の基本的なものとしてとらえられている。聴覚はその不透明さからより触覚に近いものであり、視覚はその透明さからより触覚から遠いものである。
 石田の詩に見られた感覚的なものへの遡及は、私たちの自明な意識からは省略されてしまう身体と世界との根源的な融合への遡及であり、詩の成立する源泉にある不透明な根拠に立ち返るということである。感覚的なものの相においては、視覚も聴覚もその原初的な触覚的様相を明らかにし、それゆえ、石田が視覚的イメージを列挙してもそこには触覚的な手触りが感じられるのである。
 引用部を見ると、「無精髭」「枯葉」「宝石」「カミキリムシ」など主に視覚によってとらえられるものたちが列挙されているが、この詩集の文脈で読んでいると、あたかもそれらのものたちから音が聞こえて来たり、それらのものたちの手触りが伝わってくるかのようである。

twitterは からきしだめ
e-mailも よくさぼるので
手仕事の呼吸がうれしい
       (「Rose」)

 石田の詩集は、引用部にあるように、twitterやe-mailという視覚的なものよりも「手仕事の呼吸」という身体的で触覚的なものに立ち返る身振りに満ちている。今多くの詩人はワープロソフトで詩を書いていると思うが、そこには「タイプする」という手仕事が必ず含まれている。普段我々はその「タイプする」という手仕事を透明化してしまい、あたかも存在しないかのように無視しているが、実はその「タイプする」行為がなければ作品を書くことはできない。
 同じように、普段我々は、何事かを思いつき、それを言葉にして詩を書いているように思っているが、その間には何らかの感覚的なものが介在しているのである。例えば木について詩を書くのであれば、木の視覚的なイメージはもちろん介在するだろうし、木にまつわるかすかな感情も伴うだろう。詩を書く場合、言葉に先立って生起する感覚的なものはいつだって根源に現前しているのである。そして、その感覚的なものの介在がなければ私たちは詩を書くことができない。この、あまりにも自明であるがため透明化されながらも根源的に必要である感覚的なものを非透明化して改めてそこに遡及するということ。そこで開かれてくる肉感的な詩世界。石田の詩集はそのような「肉」の世界を構築しているように思われる。
 視覚も聴覚も透明ではない。それらが世界として現前する場合、必ず感覚的なものが介在するのであり、感覚的なものの根源的な現前がなければ世界は構成されない。その不透明な感覚的なものが、世界の根源にあり、詩作の根源にある。石田の詩集は聴覚を探求することにより、その根源的な感覚的なものに肉薄しようとしている。


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by sibunko | 2016-11-09 12:07 | 現在の詩人たち

金井雄二『朝起きてぼくは』(思潮社)

金井雄二詩集『朝起きてぼくは』について

 金井雄二の詩集『朝起きてぼくは』を読むととても安心する。なぜならそこには見慣れた「生活」の光景があるからだ。金井は特に気張って「詩」を書こうとしない。「詩」よりも「生活」を重んじるのが彼の立場だ。だが、この安心は曲者である。この安心には深い裏切りが隠されているように思える。金井は生活を描くことで逆説的に読者を裏切っている。その構造について少し語ろう。
 現代詩を読むとき、私たちはいくつもの判断停止をしなければいけない。詩人はそれぞれに固有の世界を持ち、詩人たちそれぞれの世界はそれぞれに相容れないものであり、詩の中で使われている言葉の意味や言葉のなす行為について私たちは共通了解を持たない。私たちは詩を読むとき、言葉の意味や言葉のなす行為などについて一度判断停止をしなければならない。その判断停止の中で私のものとも詩人のものとも違うような言葉の意味や行為が見いだされていく、あるいは判断停止の中で揺らめく心象風景を楽しむ、それが現代詩の読解の一つのモデルである。

こうして階段に足をかけたとき
むかしならば
二段ずつ昇れたなあ、と思っている

次の電車は
何分の発車だろうか
その電車に間に合うだろうか
腕時計ばかり見ている
席はあいているだろうか
座れるだろうか
立っていくのは
少々つらいなあ、と考えている
       (「雑踏の中に」より)

 ところが金井の詩を読むと、そのような世界の共有不可能性など存在しないかのようである。金井の詩は、私たちが現に生き、意思疎通をし、感情を交わし合い、意味を共有し合っている「生活」と同じ構造をしているように思われるのである。金井の詩の世界は「生活」の世界そのものであるから、私たちは金井と同様に物事を感じ、解釈し、言葉を発しているように思ってしまう。
 つまり、金井の詩は「詩」の特権的な空間を作り上げない。金井固有の言葉の意味や言葉の行為などを、現実の多様性としてことさら提示しようとしないのである。金井の詩は「生活」の世界と同じく、誰もが共有可能で誰もが共感できる大きな公の広場なのである。私たちはそこで判断を停止しない。そのかわり疑念を停止する。この言葉は言葉通りの意味を持つ。この世界に謎など存在しない。私たちは、通常「詩」を読むときに抱く様々な疑念を抱かなくて済むので、疑うことを停止してしまう。つまり、私たちは金井の詩を「信頼」するのである。
 だが、実は「生活」の世界ほど豊饒で奥深く謎めいている世界もまた存在しないのである。なるほど、私たちは「生活」の世界の中で様々なツールを共有することができるかもしれない。それでも、言葉などのツールを用いて拾い上げていく内容は実に幅が広いし、その解釈も一様には定まらない。私たちは同じ「生活」の世界に居ながらも、実に異なった体験をするし、実に違ったものの見方をする。

怖い夢をみたという
どんな夢だったのとたずねると
お父さんが口をあけて寝ている夢だという
そんな夢
何も怖くはないと思うのだが
心の奥底にある
見たくないものを
不意に見てしまうと
どんなものでもすべて怖いかもしれない
       (「子供が見た怖い夢」より)

 金井の詩は確かに「生活」の世界を描いており、異なった固有の世界間での共有不可能性の問題は生じない。だが、同じ「生活」の世界の中での微妙な裏切りを描いていないだろうか。それは世界を構成する原理が異なるという次元での裏切りではなく、まさに世界を構成する原理が同じだということに基づく信頼があるがゆえの裏切りなのだ。
 引用部では、「生活」の世界で起こった何気ない出来事が描かれている。「お父さんが口をあけて寝ている」ことが怖い、という子供の発言が描かれている。このような詩行に直面したとき、私たちは生活の奥深さ、また、生活が日々新しく更新されていくこと、そんなことに思いを馳せるのではないだろうか。
 誰かが口をあけて寝ることを見て怖いと感じる人は普通はいない。だがそこに恐怖を感じ取ってしまうことは「生活」の世界ではむしろ頻繁に起こりうるのだ。考えてみれば、私たちの生活というのは日々新しい物事との直面であり、新しい領域の開拓であり、決して定常状態にはないものである。
 金井は私たちと同じ「生活」を描きながらも、「生活」の中での私たちの知らない領域をあらわにしていく。同じ「生活」という世界の構造を共有しながらも、金井は金井自身の生活の領域を開拓していく。それは私たちにとっては新しいものであり、見慣れないものである。

現実とはこんなものだ
石は石でしかなく
私は私でしかない
小学生の頃
何が楽しかったのか
こうやって
何度も石を蹴り続け
自分の家まで帰ったっけ
石を
見つめる
今度は
ぼくがころびたい
      (「石でもあれば」より)

 引用部では突如「今度は/ぼくがころびたい」という詩行が現れる。このような詩行を前にしたとき、私たちは金井に裏切られたように感じるのではないだろうか。金井は私たちと同じ構造の「生活」という世界を描いているのだから、私たちは共感することはあっても驚くことはないのではないか。金井は詩人固有の共有不可能な異次元の虚構を書いたりはしないが、現実的な「生活」の世界のただ中で微妙に新しい領域を開いていく。私たちは金井を信頼するが、金井の詩集を読み進めるにつれて少しずつ裏切られていくのを感じる。
 だがどうだろう、この裏切りはむしろ快いものではないだろうか。それは悪意や不誠実さから生じるものではなく、単純に金井が日々を生きているというその事実から生じるものだからだ。金井は私たちとは異なる人生を生きているし、金井の人生は日々新しく更新されていく。金井の「生活」は日々新しく領域を更新しているわけであり、そこに裏切りが生じるのは自然なことなのである。金井は「生活」を極めて誠実に生きている。彼の裏切りはその誠実さから必然的に生まれるものであって、そこに快さはあっても不快感はない。
 私たちもまた金井と同様、日々新しく更新されていく「生活」を生き、日々新しい「生活」の領域と直面していく。金井の足取りは私たちの足取りと何ら変わらない。私たちは金井の詩を読むことで、「生活」の豊かさ、「生活」が日々更新されていくということ、そういったことを再確認するのではないだろうか。
 詩は決して詩人固有の共有不可能な虚構だけではない。金井の詩のように共有可能な世界の構造を持つものも多数あるし、そういう詩であっても十分驚きに満ちている。それがある意味裏切りであるとしても、それは詩人が日々歩みを新たに生きていることの証左に他ならない。

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by sibunko | 2016-07-31 15:12 | 現在の詩人たち

佐峰存『対岸へと』(思潮社)

佐峰存詩集『対岸へと』について


 詩は「読む」ものというよりは「触れる」「聴く」ものである。文の論理構造に従って明確な意味を読み取るものというよりは、そこに立ち上る言葉の響きや質感を聴いたり、意味の多義性や構文の揺らぎに触れるものである。詩は視覚によって一定の距離のもと整然と分析されるものではない。それよりも、詩は距離を無化してその肌触りを感じたり、そこから発される声の揺らぎやテクスチュアを、行きつ戻りつしながら繰り返し聴くものである。
 読者が詩に対峙するとき、このような臨床的な空間が立ち上がる。読者は詩人の語る言葉を全面的かつ肯定的に受け入れる。読者は何も口出しをせず、詩人の告白を遮ることなく、くつろいだ空間を作り出して言葉を受け入れるのだ。歓待――ホスピタリティの空間が詩の受容においては成立する。

私とあなたの影は忙しなく
気配に割られた道路をわたり
坂を上がる 彼方で曲がり
行方が分からなくなる
屋根の一帯からは
見慣れない白いアパートが
産声を上げている
      (「影のすむ街」)

 ここで佐峰存の詩集『対岸へと』(思潮社)を読んでみよう。佐峰は一見風景を淡々と描写しているように見える。そして、読者はそこに描かれた風景をただ視覚的に見ればいいかのように思われる。佐峰の詩は一見視覚だけで処理すればいいかのように思われるのだ。
 だが、実は佐峰の視覚的な詩群もまた、視覚モデルだけで処理できるものではないことを示そうと思う。むしろ、佐峰は風景の描写に、敢えて視覚をかく乱する要素を取り入れているように思われる。そして、佐峰の詩の魅力もまた、単純に視覚モデルで処理できない臨床的な空間を広げることに由来すると思うのである。詩の受容における臨床的な空間は豊饒な空間であるが、それを作り上げるためには読者の態度のみならず詩人の態度も必要なのである。
 引用部では、「私とあなたの影」が動き出し行方不明になる。これを文字通り視覚的な映像でとらえると、ただ人間から影が分離されて動くという珍妙な映像が出来上がるだけである。そうではなく、この引用部は、「影」の忙しない雰囲気を肌で感じ取り、「影」の気配が道路の空間を割っていく様を味わい、影が人から離れて動き出し行方不明になる不穏さなどを感覚するためにあるのだ。この不穏な記述が惹起する空気に触れ、この不穏な記述の声のテクスチュアをよく聴く。単に風景を目で見るだけではなく、風景に触れたり風景を聴いたりする臨床的な空間が作り上げられているのである。
 ところで、詩における臨床性は、詩が読まれる現場のみで成立するのではない。それ以前に、詩を書くという行為は、詩人が自己の詩想に対して臨床的にふるまうということである。詩人はまるで自分が自分のカウンセラーになったかの如く、自分の内側に渦巻いている声をありのままに受け入れ、その声を聴きその手触りを感じつくすのである。
 詩はそのような臨床的な空間から生まれるので、必ずしも分かりやすい表現にはならないし、過不足なく情報を伝える紋切り型の表現にもならない。様々な余剰や揺らぎや矛盾を反映したものとして詩は表現されるのである。詩がしばしば難解になるのは、詩が作られる空間の臨床性によるといってよい。

木々の皺に 傾いた石の反射に
空気の発酵に 生物の断絶を宿らせて
あなたも
雨の匂いを吸っているのだ
      (「雨の匂い」)

 例えば「空気の発酵」を単純に見ることはできるだろうか。そうではなく、詩人が自己の中に渦巻いている空気の一つの態様をいちばんありのままに表現する言葉が「発酵」だったのである。「空気の発酵」は一見視覚的なようでありながら、それよりももっと深い空気の独特の態様に触れることにより生み出される表現であろう。
 さて、詩人が自己に対して臨床的にふるまうことにより詩が生まれ、読者はその詩を臨床的に読む。この二重の臨床性の現場ではいったい何が起こっているのか。

呼吸に茂らせた 葉の裏側に
指が産みつけた 小さな卵
胸から唇へと繋ぐ回廊を
飾られた食卓も 足を覆う革靴も
鏡の中で剃り上げた脈も
振り切って思念は走る
一枚の告解を こわさないように
      (「指に念じる」)

 詩人が自己に対し臨床的にふるまうということは、己の実存を引き受けるということである。すべての属性を引きはがしてもなお残る人間存在そのもの――これを「実存」と呼んでおこうと思うのだが、臨床の現場では、何よりもまず実存が肯定され承認される。詩人は詩を書くとき、自らの本源的な存在を引き受け、その存在から湧き出る無数の詩想を次々と言語化していくのである。嬉しいとか悲しいとかの感情よりももっと根源的で、孤独や連帯の基体となるものが実存であって、この実存は存在の雰囲気だけまとっている。この存在の雰囲気は漠然と快だったり苦だったりするが、この己の実存をまず引き受けること。それが詩を書くということである。
 引用部では様々な身体の部位が登場し、また「告解」という言葉も登場する。このような身体性や告解は実存に近いものであり、それをありのまま引き受けるところから詩は出発するのだ。
 さらに、読者は詩を読むとき、詩に託された詩人の実存をさらに引き受けることになる。詩人は詩を書くことによって、自らの実存を引き受けるとともに自らの実存を他者に対して開く。そして、読者は詩人が開いた詩人の実存を、その苦しみと快さを引き受けるのである。このようにして、詩が書かれ、詩が読まれるということは、詩人が己の実存をその深淵からつかみ取ってきて他者に対して開くと同時に、読者がその実存を引き受けるという「実存の受け渡し」に他ならないのである。
 ここに、詩の生み出すコミュニケーションの特異性が生まれる。通常のコミュニケーションは言葉同士のやり取りであって、言葉でもって何となく合意が得られればいい。言語行為のやり取りで互いに行為し合い、適当な落としどころを見つければいい。
 だが詩のコミュニケーションは、言葉よりも根源的な実存のやり取りである。ひとまず詩人の実存が、詩人自信を経て読者へと引き渡される。読者もまた臨床的な空間で、己の実存に立ち返って詩人の実存に応答しなければならない。これは論理でつじつまを合わせれば済むという問題ではなく、互いの気配やしぐさを感じ取ったり、互いの声の肌理を繊細に受容したり、そういう存在の全てを賭けたコミュニケーションであり、だから詩を読むのは楽しいと同時に深い疲労を伴うのだ。
 佐峰存の詩群は、一見視覚的で、論理的に把握すればそれでおしまいであるかのように見せながらも、実は視覚に回収されない実存の細かな振る舞いが息づいていて、聴覚や触覚も動員しなければ鑑賞できないものである。そして、そのような鑑賞の空間を成立させているのは二重の臨床性の空間であって、それは詩人と読者の間の実存的なコミュニケーションを要求するものである。
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by sibunko | 2016-01-03 07:12 | 現在の詩人たち

白鳥央堂『晴れる空よりもうつくしいもの』(思潮社)

白鳥央堂詩集『晴れる空よりもうつくしいもの』について


 詩もまたコミュニケーションの一種である。確かに作者の意図が読者に正確に伝わらないこともあるだろうし、そもそも作者は伝達を意図していないかもしれない。だが、詩を書く者がいて、読む者がいる。そこでは広い意味でのコミュニケーションが必ず成立するのである。
 コミュニケーションとは、複数の者が話し合いをし、合意を得ることである。この際、コミュニケーションの当事者はわかりあう必要はない。その場合は「わかりあえない」という合意がコミュニケーションの結果となる。当事者は様々に話し合い、了解の内容を調整する。
 そして、この社会におけるコミュニケーションによって、初めて言葉の意味や物事の価値は生成されるのである。言葉の意味が、社会における人々の使い方によって常に揺らいでいることは周知の事実であろう。そして、言葉の意味は、共同体における緩やかな合意により調整される。例えば過去において、ある人が「前衛」という言葉を軍事用語ではなく芸術用語として使ったとしよう。すると、社会における力関係により、それに合意した様々な人が「前衛」という言葉を芸術に関する意味で用いるようになり、今における「前衛」の意味が形成されたわけである。
 同じように、真理や正義や美といった価値もまた社会でのコミュニケーションを通じた合意によって生成される。真理や正義や美は、あたかもアプリオリで普遍的であるかのように思われがちだが、歴史における真理が勝者により簡単に調整されてしまうこと、実践における正義が臨機応変な議論により調整されること、美のとらえ方が各個人様々であり共同体での調整なくしては権威づけが難しいこと、などを考えると、これらの価値もまた社会におけるコミュニケーションを通じた合意があって初めて生成されることが分かるだろう。
 さて、では詩はどのようなコミュニケーションを行っているのか。白鳥央堂の『晴れる空よりうつくしいもの』(思潮社)を俎上に上げることで検討したいと思う。

破氷の陸を 形成する
一面の吐瀉 まっとうな
妹の うつくしき遅延
大河が押し寄せるなら
真っ先に逃げ出すだろう
両眼が 一面を踏んでも
私はここに 残る
だろう うつくしき
妹の、
漂着を 待って
       (「破氷の陸」)

 多くの詩は、作者によって、孤独に、いまだ意味も価値もほとんど確定していない言葉によって書かれる。作者は多くの読者に対してコミュニケーションを投げかける。自分としてはこの言葉にこのような意味を持たせたいんだ、このような価値を持たせたいんだ、そういう主張を、議論の現場に投げかけるのである。
 引用部において、「破氷の陸を形成する」「妹の遅延」などがあるが、こういった新規性の強い言葉に関して、社会における意味や価値の合意は予めなされていない。だから、作者も読者も社会における予めの合意というものを手掛かりに意味や価値を確定することはできない。あくまでも、作者の孤独な提案に対して、読者もまた孤独に、どのように意味づけ・価値づけしていくか、という実験が詩におけるコミュニケーションの内実なのである。
 詩におけるコミュニケーションでは、それゆえ読者の方が優位に立ちやすい。そもそも作者は、意味や価値が不確定なものを、意味や価値に満ちたものとして提案してくるわけであるが、それが本当に意味や価値に満ちたものであるかどうかを決定するのは基本的に読者である。詩集というコミュニケーションの場において作者に釈明の余地はない。あるのは詩集の、意味や価値が未確定な言葉だけだ。それに対して読者はあらゆる解釈体系を動員して、自由な解釈を行うことができる。詩におけるコミュニケーションにおいて、基本的には読者が優位に立つのである。

春走るバスは
天国を抜けて
フィンランド語教室へ
夜走るバスは
暗い雨雲の天井して
フィンランドの言葉の教室へ
急襲するか
そうしよう
「こちら未来から過去、応答願いますどうぞ」
答え方はどうせわからない
急襲しよう
そうしよう
       (「春はふたりぼろバスの最前に飛び乗って盛大に燃やすゴミの詩」)

 ところで、白鳥は上のような詩行も書いている。非常に意味が通りやすいため、一読して、「これは詩というよりは歌詞ではないか」と思った人は多いのではないだろうか。ここで、歌詞についてはどのようなコミュニケーションがなされるのか考えてみよう。
 歌詞に使われる言葉というものは、あらかじめ意味や価値が定まっているものが多い。だから、作者が歌詞を読者に投げかけるとき、作者の言葉の意味や価値には社会の合意があらかじめ付与されてしまっているのだ。だから、読者の解釈も当然社会の合意に大きく束縛されることになる。歌詞のコミュニケーションにおいては、作者も読者も孤独ではない。作者は社会的合意を背景に言葉を繰り出してくるし、読者も社会的合意を参照したうえで解釈する。それゆえ、歌詞のコミュニケーションにおいて、作者は読者の読みをかなり思い通りに誘導することができる。
 詩のコミュニケーションにおいては、孤独な作者が孤独な読者に、意味や価値が未確定な言葉を投げかけ、そこでは、新たな言葉の意味や価値が生じることを期する実験が行われていた。だから、そこでは読者の自由な解釈が重要性を持つのだった。それに対して歌詞のコミュニケーションにおいては、作者は読者に、意味や価値についての社会的合意を取り付けた言葉を投げかけ、読者もまたその解釈において社会的合意に束縛されるのである。だから、そこでは作者の伝えたいことが伝えたいままに読者に伝わり、そこに新たな意味や価値が生まれることは少ない。

「あがる幕
ありがとう
記憶しようと想う
忘れてもいいんだから」
そういう歌がありさえすれば
あなたもすぐに歌い終えるさ

そして
幼い
美学者たちの街を
当夜 出ていく

無限の打ち水を追う 唇をぬぐう手の果てに
当夜出ていく
       (「つぐみに訊いた、いくつかの讃歌」)

 さて、白鳥の詩に興味深いのは、詩的な部分と歌詞的な部分、さらには詩的とも歌詞的とも言えない中間的な部分を織り交ぜてくる点だ。引用部の初めの連は歌詞的であるが、第二連は詩と歌詞の中間であり、第三連になると詩的になっている。ところで、詩のコミュニケーション構造と歌詞のコミュニケーション構造はだいぶ違っていた。詩は新たな言葉を生み出す実験であるのに対し、歌詞は伝達による分かり易い感動を重視している。そのような異なるコミュニケーション構造をダイナミックかつ自由奔放に切り替えていくということ。そこに、私は詩作者が再び力を取り戻す契機を見出さずにはいられない。
 つまり、私は白鳥の作者としての地位に、詩のコミュニケーションにおける主導権を感じるのである。それは、詩と歌詞を自由に織り交ぜることにより、コミュニケーションの構造を詩作者の側でコントロールし、読者をそのダイナミズムに巻き込むことによって可能になっている。もちろん、白鳥が権力志向であるとか、支配欲に満ちているとか、そういうことを言いたいわけではない。だが、白鳥の詩の書き方は、詩のコミュニケーションにおいていつも劣位に立たされていた作者というものの主導権を期せずして回復し、異種のコミュニケーションによる異種の感銘を与えるという美的効果を持つものである。
 歌詞は現代詩から排斥され続けてきた。だが、歌詞は現代詩とは違ったコミュニケーション構造を持ち、現代詩とは違った読者への働きかけを行うものであり、それを現代詩へとうまく導入することで、今まで劣位に立たされていた現代詩の作者というものの地位を回復する可能性を持つものである。繰り返すが、白鳥がそのような戦略家だと言いたいわけではない。だが、白鳥の詩集にはそのような戦略性が期せずして宿っていると私は考える。



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by sibunko | 2015-07-19 09:59 | 現在の詩人たち

疋田龍乃介詩集『歯車VS丙午』(思潮社)

疋田龍乃介詩集『歯車VS丙午』について


 疋田龍乃介の作品を読んでいると、使われている単語の意味が攻撃的だったり、構文が逸脱的だったりして、漠然と「暴力的である」と感じる。ところで、疋田の詩の暴力性とは実際どのようなものだろうか。それは意味や構文の侵犯性で説明できる程度の表層的なものに過ぎないのだろうか。疋田の詩集『歯車VS丙午』は、詩の暴力性について考えるには格好の素材である。
 暴力はそれ単独で存在するというよりは、社会の中で、相互の関係の中で、互いに対抗するように相克している。もちろん始原的な暴力というものもあるだろう。単純に区別する、線を引く、そのような認識作用だって立派な暴力だ。だが、そのようにしてなされた暴力に対しては次から次へと対抗する暴力が定立されていき、社会の網の目は相互に対立し牽制し合う暴力で満ち溢れている。
 だとしたら、詩の暴力もまた社会のネットワークの中で、何らかの暴力と対抗する形で成立し、一方で詩にはまた別の暴力が反措定されていくはずである。私の見立てでは、まず世の中の支配的言説というものがある。それは社会の多くの成員の同意や共感を得たもので、多くの成員を支配し、定常的で固定的である。世の中の支配的言説は、権力を持ち、多くの人間を支配すると同時に、そこからの逸脱を許さない。そして、詩は、この支配的言説の暴力的支配に対抗する暴力だと私は考える。
 詩は、勝者の語る言説に対抗する敗者の言説であり、いまだ十分正当化されず、様々な廃残物の寄せ集め、主流の歴史から取り残されたものの寄せ集めでできている。そして、それでありながら、詩は、激しい生命力、激しく充実して生きようとする意志として暴力的なのである。そして、詩はその強靭な意志の力によって、自由な人間を創造しようとする。社会においてヘゲモニーを持つことに失敗した弱者が、それでもヘゲモニーに異を唱え、支配的言説による抑圧から自らを解放し自らを表現していく創造力、それこそが詩の暴力なのである。

 あら、不可思議な摩訶ざわざら
 義母にゆっくり、ざらら
 ざわざらざっわーん
  絶ちますよ、
 枝垂れた触角、
 ねっとりまわすよ、
 湿った櫛の隙間を嗅がされても!
 今なおこぼれる露も!
 むせぶ嗚咽も!
       (「剥がし剥がされ燈るのさ」)

 さて、この引用部を見てみよう。「摩訶ざわざら」という造語の作り方と響きの暴力性、「ざわざらざっわーん」という意味不明な擬態語の暴力性、「絶つ」という言葉の暴力性、「むせぶ嗚咽も!」における単語と感嘆符による暴力性、更には全体の構文の混沌的な暴力性、など、表面的には見て取ることができる。だが、それはせいぜい言葉の意味が暴力的だったり、言葉のつくりが暴力的だったり、構文が規範侵犯的だったり、それだけのことであって、上述したような意志や創造力のレベルでの暴力性とは次元を異にする。だが、詩の暴力とは意志や創造力で人間を解放する力であり、ただ言葉の表面的な次元での暴力とは異なるのだ。
 私は疋田の詩からより根源的な暴力を読み取ることができると考える。そのために取るべき手順としては、疋田の詩の際限のない細部をモナド論的に分解し、くまなく経廻り、遡及的に根源を仮定し、その根源の表現を細部に見出すという解釈手段が考えられる。根源は実在しないが、細部において表現される。その表現から根源へと遡及するのである。

生まれるまえ(鼻や耳のぶつ切りに混じって斬首台の隙間を覗いて(その半分くらいの小さな歯車のまわる(首の切れ間は暖簾の狭間(覗かば揺れ続ける店の軒先で十二支の終わりげな鼻先だ(欲深い獣が嫌いだった、鼠や羊の指が怖い(水無月の節季は四つ足どもの酣だ(中払いに暖簾くぐれば、
       (歯車VS丙午)

 私が疋田の詩に感じるのは、他者に対する責任への応答が、自己に対する責任への応答でもって代替されている点である。疋田はストレートに他者に応答しようとはしない。かといって独善に陥っているわけでもない。まずは自己に対して誠実に応答するということ、それが他者に対して誠実に応答することの前提となっていることを自覚しているのではないだろうか。
 例えばお笑いがそうである。お笑い芸人は一見意味不明で奇天烈で独善的なことを観客の前で話すが、それは観客にウケるために、観客に対する責任に応答するために、いったんまずは自己に対する責任に応答しているのである。
 引用部にあるように、「(」に「(」が続くような文章は意味がとりづらく独善的であるように思える。だが、これは括弧を閉じないことにより、読者に詩行がどんどん展開し完結しない面白さを感じさせることを期しているのである。また、引用部は文の意味がうまく接続せず、まったく文脈を形成していない。これは他者に対する伝達を拒絶しているようにも思える。だが、伝達は必ずしも文脈の形成による分かり易いものである必要はない。読者はここでイメージの高速の変転による美を感じ取るわけであり、直接読者への責任に応答せずとも、まずは自己への責任へと応答することが、間接的に読者への責任に対する応答となっているのである。
 言葉というものは厄介なものである。社会関係において人間は責任を果たすために他者に対して言葉を発しなければならない。そしてその言葉はコミュニケーションに成功しなければならない。分かり易く、無駄がなく、相手の要望に応えるものでなければならない。そしてもちろん、内容において不適切なものであってはならない。支配的言説はその内容だけでなく伝達の仕方も規定するのである。
 疋田の詩の暴力は、単に支配的言説に異を唱えるという直接的なものではない。そのような直接的な暴力に対して支配的言説は敏感であり、支配的言説はそのような暴力を即座に圧殺するだろう。だが、疋田の詩はちゃんとウケを狙っているのである。つまり、支配的言説による圧殺を回避するために読者に対する責任に応えつつ、同時に自己の自由な言語空間を展開していく。支配的言説に受容される道を開きつつ、同時に自己の自由な創造力を発揮させる。そのことにより、支配的言説を内部から侵食していく。

いぬがひ、げのがん、
そうやって剃ったばかりの無精ひげを
すべり台の上から流しながら
一緒にサイコロを転がしている
出目が5なら
僕の犬がひげの癌にかかり
そのとき育てた大根は温かく
貪っていた犬が
ほくほくしていたから
       (「犬がひげのがん」)

 詩というものは敗者の言説であった。廃墟のがれきの寄せ集めであった。詩人が詩行を思いつくとき、そこには世間に流布した勝者の歴史は余り混ざり込まない。むしろ、詩人は自らの些細な知識や感覚や体験という忘却されかけているものを掘り起こして詩行を紡ぎ出しているのである。だから、詩人の言葉は全く無力であり、いかに自らを解放させるために意志的に創造力を働かせると言っても、社会の中で何ら力を発揮することができない。それは詩人が支配的言説と直接衝突しようとして、あっけなく圧殺されてしまうことからよく分かる。
 詩人が真に自らの暴力を発揮させるためには、まず支配的言説に自らの言葉を受容させなければならない。そのためには、詩人はお笑い芸人のようにいったんウケを狙わなくてはならない。つまり、支配的言説が課してくる責任に対して一定の応答をしなければならない。そうしていったん権力の側に受容されたうえで、権力の側が言葉の新しい形態に気付くのを待つ、そして権力の側が自発的に詩人の言葉に耳を傾け、その可能性を認識するのを待つのである。
 疋田の詩は暴力的である。それは社会の支配的言説に異を唱え、自由な言語空間を開発するものである。だが、だからといって支配的言説と直接衝突して敢え無く撃沈するものではなく、むしろ支配的言説からの受容をもとりつけながら、その受容の先で支配的言説の側の自発的な気付きを促すものである。引用部にあるような「犬がひげの癌」などのユーモアに疋田のそういった姿勢が端的に表れている。疋田はユーモアによる詩の受容を期しているのである。詩が暴力を有効に発揮するためには、直接的で単純な革命を目指してはいけない。詩が暴力を発揮するためには一度その暴力を隠ぺいしたうえで、社会からの受容を促し、社会に浸透していく必要がある。そこにおいて初めて詩は社会を漸進的に変革する暴力になれるのである。
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by sibunko | 2015-06-07 20:08 | 現在の詩人たち

中村梨々『たくさんの窓から手を振る』(ふらんす堂)

中村梨々詩集『たくさんの窓から手を振る』について


 中村梨々の詩集『たくさんの窓から手を振る』(ふらんす堂)を読んでいると、奇妙な点に気付く。この詩集には「青春」が存在しないのではないか、と。子どもと大人の視点では書かれているが、若者の視点が不思議と抜けている。だが、この詩集を駆動する原理やこの詩集の構造は、青春時代に直面している書き手の詩集の原理や構造とパラレルであることを以下に述べたいと思う。
 青春とは定義しづらいものだと思うが、ひとまずここでは、自己と社会との葛藤や理想と現実との葛藤、そして自己形成していくにあたっての自己という混沌との対峙、という点から青春というものを眺めてみたい。中村の詩集にはこのような青春の契機があまり見えてこない。その代わり、それに類するような構造が見えてくる。

ナオちゃんがいうには、あたしたち自転車に乗って
ロシアの平原を突っ走っていたって
すごいねぇ、ロシアなんて行ったこともないし行きたいと
思ったこともないのに、ロシア
ロシアロシアロシア、あたしはもう駅とか空港とか
思い切り空とかすっ飛ばして、ロシアにいる
       (「ロシア」)

 この詩編に見て取れるのは、大人には理解不能な子ども独特の盲目さだ。「あたしたち」はよく知りもしないロシアのことで頭がいっぱいになってしまい、そこへ至る手続きや距離など無視されている。このような不条理な執着とエネルギーの爆発、大人である私たちはそこに「異文化」を見て取るのではないだろうか。私たちの常識では説明できない未分化で周縁的なものがそこにはある。
 このように子どもの世界というものは我々を拒む不条理さを備えているが、中村はそれを直視するどころか、むしろ子どもの世界の中に再び入り込み、その不思議な魅力を言葉で訴えかけてくる。中村にとって、自己の中に潜む魔物、自己という混沌は「子ども」の形をとっており、それは若者が青春の時期に直面する、熱を帯びて分裂した、成長の途上にある自己という混沌の代わりをなしている。若者が激動のさ中にある自己の混沌を見つめ、それを表現するのとちょうど同じように、中村は、自己の中に潜む「子ども」を見つめ表現するのである。

皮膚からガラスの焦げた匂いがする。姿をかえて異国。白い砂をすくって音は静か。真後ろの水際を呼ぶ、おいで。手のように握って頬のようにつねって陸にあがれば、断たれた水路。風速にしかばねが切れていく。ばららあばラ骨、戯れる。(わたしはいちどこわれたかたち。(はじめて会ったものにこわされてゆくの))。
       (「春雷」)

 詩を書くという行為は、何らかの葛藤に駆動されていることが多い。青春期における人間は、社会と自己との葛藤や理想と現実との葛藤などで、生理的なレベルで声を上げざるを得なくなる。その場合、内容は特に問題とならない。苦しみをそのまま叫びたてるケースももちろんあるが、およそ抽象的で、人間らしさのかけらもない詩行が葛藤に基づいて発されたりもするし、まったくもって静けさに支配された詩行が発されたりもする。だがそれらの詩行は何らかの意味で葛藤に結びついている。
 この引用部の前半は、きわめて静的な描写になっており、大人の女性の淡々とした精神がうかがわれる。引用部の後半には、こわれやすい子どもの世界が幾分投影されている。だが、ふりだしに戻って考えよう。そもそもこの詩がなぜ書かれなければならなかったか。私はここに、中村の、自己の中における大人と子どもの葛藤を見て取る。中村は大人になりながらも子どもの精神、その自然な混沌をずっと鮮明に抱き続けた詩人である。だがもちろん、子どもの原理と大人の原理はうまく整合性が取れない。中村の中の大人は、処世術もわきまえ常識も手に入れ落ち着いたまなざしを持っている。だが、中村の中の大人は、中村の中の子どもによって不断の挑戦を受けているのである。中村の中の子どもは未分化なまなざしでもって暴走しようとする。それを中村の中の大人はうまく手なずけようとする。この葛藤がそもそも中村の詩作を駆動しているのではないか。
 だから、整合性の取れないもの同士の葛藤に駆動されているという意味で、中村の詩作は青春期にある若者の詩作と何ら変わらないのである。そして、引用部にあるように、中村の作品には大人の視線と子どもの視線が競い合いながら同居している。中村の詩の緊張感は、詩作を駆動する葛藤をそれなりに忠実に映し出すことから生じていると言えるだろう。

さまざまな眠りに就いた。鳥の数が増えた。鳥の数が増えたぶんだけわたしの数も増えた。夜明けに飛び立つ鳥は、帰って来るとき数を減らした。飛べないわたしは夜明けになるとわたしを集めて組み立てる。雨も雪も分かるのだけど、雨に近いもの雪に近いものがみんな、うっすらとした灰色に覆われていくし、いたずらな数を言うので増えたり減ったりしたような気分が味わえる。
       (「夜、鳥を飛ばす」)

 だが、人間が長ずるにあたって青春の葛藤が和らぎ、対立物もだんだん調停されていくように、中村の中の大人と子どももただ対立しているだけではない。この引用部において、中村は、数という理性的なものを登場させ、数によって全体に統合を与えているし、「組み立てる」というのも大人らしい統合の働きである。だが、ここでは「わたし」の数が増えたり、「わたし」が集められる前のバラバラな状態であったりもする。子ども的な不合理で秩序だっていない感覚が、大人的な秩序によってうまくまとめあげられているのがわかる。
 かつて「永遠の子ども」という文学のモチーフがあった。例えば『星の王子さま』のように、文学作品において、主人公が子供としての自然と自由と純粋さを保つために夭折するというものである。人間が俗世にもまれて世知に長けていくことへのアンチテーゼとして、純粋な子どもは純粋さを固定するために作品内で死ななければならなかった。
 中村は、この「永遠の子ども」というモチーフを、単なる問題提起として投げかけているのではなく、自らの血肉と化しているのではないかと思われる。もちろん中村は大人であるが、その子ども性を外部に投擲してしまうのではなく、自らのうちに子どもを永住させ結合させることで、子どものポジティブな面を保存し続けたのではないだろうか。子どもらしい幾分唐突だけれど意表を突くような認識が大人の筆致でうまくまとめあげられているのを、私たちは中村の詩群に見て取るが、そこでは、子どもの大人世界への問題提起というものが、その鋭さを失うことなく巧みに整理されている。
 中村の詩には「青春」が欠落しているかのように見える。そこには若者特有の青臭い悩みは見当たらない。だが、中村が詩を書かざるを得ないのは、内なる大人と子どもが葛藤しているからであり、葛藤に駆動されて詩を書いているという意味で青春期の詩人と何ら変わるところはない。また、中村が葛藤の際に見つめているのは「子ども」という内なる混沌であり、若者が青春期に直面する「未整理な自己」という混沌と類似している。さらには、中村は単に葛藤するだけでなく、内なる大人と子どもの間で調停をとっていることも見て取れる。ちょうど青春期にあった人間が徐々に社会や現実と調停をとっていくように。
 だから、中村の詩作の内容に青春らしさがないからと言って、それを単なる大人の余技とみなすことはできない。むしろ中村は内なる混沌と向き合い、激しく葛藤し、それでも調停を試みるという、若者顔負けの営為を詩作の現場で行い続けているのである。そして、そこには青春の刹那的な激しさとは異なり、子供らしい純粋さや鋭さを血肉化し保存していこうという永続的な営みが見て取れるのだ。中村は月並みな青春に駆動された一過性の詩人ではない。否応なく成熟を迫られる社会の中において、このように内なる子どもを保存し続けることは困難であり、その困難な営為を詩作として表現している中村は稀有な存在だと言わねばなるまい。


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by sibunko | 2015-01-03 16:00 | 現在の詩人たち

森山恵『みどりの領分』(思潮社)

森山恵詩集『みどりの領分』について


 今の日本では、誰でも理科の教育を受けると機械論的自然観を植え付けられる。自然界は元素の組み合わせでできています。自然は量的に計測可能です。厳密な実験に基づいて自然を利用していくのです。だが、人々は本当に機械論的自然観を受け入れているのだろうか。科学の文脈と日常生活の文脈では、人々の自然のとらえ方は違っており、しかもその捉え方は特段互いを排斥せず棲み分けがなされていると同時に、相互に微妙に影響を与えているように思える。世界観もまた文脈依存的であり、文脈が重なるところでは世界観も重なっていくのである。
 機械論的自然観は近代の産物であり、自然を純粋な量的空間としてとらえ、自然を知的操作によって構成し、認識の正確さを追求し、制作することによって自然を征服することを求めた。機械論によって世界は個物に分解され、それゆえ人間も個人に分解され、そこにデカルトの「考える我」という個体原理が成立した。
 一方で有機的自然観は、日常的な自然観であり、あらゆるものはある種の生命的なものを持っていると考え、一つ一つの物の中に固有の原理を認め、その固有の原理は相互に還元不可能であり、個物それぞれの宇宙がより大きな宇宙の生命原理によって包摂されていると考える。
 さて、詩に現れる自然観と言えば、当然有機的自然観であり、機械論的自然観など文学の文脈で現れることはめったにない、と思われるかもしれない。確かに文学は日常生活における直接的な感受を表現するものであり、そこに抽象化や厳密化の操作が加えられることはない。だが、機械論的自然観のベースになっている、人間も自然も同質であるという思想には、どこか近代以前から人間の世界認識に宿っている、人間と自然との親密な交感がひそかに反映されていないだろうか。ここで森山恵の詩集『みどりの領分』(思潮社)を検討することで、現代の詩において人間と自然とはどのように関わっているのか見ていくことにしよう。

夜が明け初める
―――――――
空はその肌を開き、うるみ明るむ
にじみざわめき

夜明け前の鳥、はじめにアカハラが
囀り、わたしの眠り―――
―――に波立ちざわめき
夜の肌を破る キョロンキョロン ツリー
(中略)
とりどりがわたしの骨の中で
騒ぎ、
泣き、
破り、
骨を、空を、肌を破り、ことばは、なく、なく
       (「はじめにことば、は」)

 森山は自然と人間との深い関わり合いを詩作のテーマにしている現代では珍しいタイプの書き手であるが、ここには詩の主体と自然との同質的で非常にダイナミックな交渉が見られないだろうか。
 「空はその肌を開き」というとき、この「肌」は作者自身の肌でもあるだろう。空が肌を開くとき、同時に作者も肌を開いているのであり、身体が自然と親しく重ね合わせられているのが見て取れる。いわば森山は自然を比喩するのに自身の身体を用いているのである。その後、「とりどりがわたしの骨の中で/騒ぎ、/泣き、/破り、」とあるのは、森山の身体のざわめきを自然を用いて比喩している典型的な手法である。重要なのは、森山が自身を自然で比喩するのみならず、逆に自然を自身の身体でもって比喩しているように思えることである。比喩においては比喩されるものが主体となって前景に現れるのであり、それゆえ森山の身体によって自然が比喩されるとき、森山自身よりも自然の方が主体であり前景に現れるのだ。
 このように、自然が単に人間に従属するのではなく、同時に人間が自然に従属していくところに、森山の自然と人間との関係性についての深い洞察がある。そして、この見方は人間が自然を支配し分析していくのだとする機械論的自然観と真っ向から反する。かといって自然と人間が互いに独立した原理を持つ有機体だとみなす有機的自然観とも異なる。森山は、たとえ自然と人間とが異なる原理を持つものだとしても、同時に共通する原理も持っていることを直感しているように思える。そして、その原理は、単に人間も自然も生命を持つんだ、ということではなく、その生命の根底にあるような原理であり、自然と人間との深い交渉を可能にする共通の原理であろう。かといってそれが人間や自然を超えたり包摂したりするより大きな宇宙の原理であるわけでもなく、あくまで人間と自然が互いにコミュニケートする次元に存在する原理である。だがその自然と人間との深い交渉を可能にする共通の原理とはなんだろうか。

土を伝い根を伝い茎を伝ってのびあがり
またつぼみが生まれる
息をする 確かなはっきりとしたリズムで

鼓動する
開花する
爆発して咲きだす

百万回でも千万回でも生まれ変わることができる
生きながら死にながら 生まれ変わることができる
小さなつぼみに生まれ変わる

静かにそして強く 芯で脈打つものがある
根を張り いのちを吸い上げる
つぼみが裂けて花咲く
       (「くちびる」)

 日常的な感覚において、自然は支配の対象ではないし、分析の対象でもないし、数量化の対象でもない。だが、だからといって、自然は人間とまったく異なる原理で成立しているわけでもない。自然と人間に共通する原理とは「愛」の原理ではないだろうか。ここで言う「愛」とは、生命を持続させていく根源的な働きのことであり、生命を破壊させる「憎しみ」の対義語となるものである。
 この作品に見て取れるように、自然も人間も栄えるだけではなく滅びることもある。だが、にもかかわらず、何回でも「生まれ変わる」、枯れていきながらも種を残し生命の筋を持続させていく、そのような働きにおいて根源的に通じ合っているのではないだろうか。人間の愛には様々な種類のものがある。恋愛もあれば親子愛もあれば友情もある。それらの愛の根底にあるのは、人々や物事との好ましい関係を持続させようとする意志であり、生命を持つものがその生命を支えていくために必須の原理である。生命を持続させる力、という点で、自然の愛と人間の愛は生命の根底にあって、その持続の糸が激しく絡み合うところで自然と人間は深いところで交感しあうのである。
 だから、森山の詩編には独特な持続性が宿っていると感じられる。それは物語の持続性であったり、論理の持続性であったり、抒情の持続性であったりするものではない。森山の詩編の底にあるのは、生命をどこまでもつないでいこうとする「愛」の持続性であり、しかもその「愛」は複雑に絡み合っているのであり、そのような意味で森山の詩編は特異なものであるといえる。

霧が降りる
しんじゅ色の霧がつみ重なって
木立が覆われていく

なにかが生まれようとしている
だれも知らない何かが
ゆっくりと生まれ出ようとしている

山肌をつたって霧がすべり降り
白い闇がさらに濃くなる
目の前の木々も白く沈んでいく
       (「白い闇」)

 自然と人間の根底にある持続の原理としての「愛」が互いに絡み合うところに立ち上る一種の熱気のようなものに森山の詩編は包まれている。そもそも、森山が自然と人間との交渉を詩として表現することで何が起こっただろうか。それこそ「だれも知らない何かが」生まれ出る場が設定されたのではないだろうか。作品は誰の目に触れるか分からない。だが、森山の作品を読んだ人間は、自分の「目の色」、つまり認識の様式が変化したことに気付くのではないだろうか。それは、読者自らが自然の深淵、自己の深淵へと降りていくきっかけとなるものであり、その深淵において絡み合っているすべてを持続させる「愛」の原理を見つけるきっかけとなるものである。森山はその場を設定した。だが読者はその場へ降りていったからと言ってどのように変化するかはわからない。ある者は何の変化も受けないかもしれない。別の者はただ自然描写が美しいと感じるかもしれない。注意深い者は根底にある「愛」の原理に気付くかもしれない。だが、それらを超えて、筆者の解釈をさらに凌駕するような形で、それこそ「だれも知らない何か」を生み出していく優れた読者もいるかもしれない。そのような得体の知れなさを孕んでいるのが、自然と人間の根底にある「愛」の原理の持続力ではないだろうか。




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by sibunko | 2014-07-30 11:30 | 現在の詩人たち

峯澤典子『ひかりの途上で』(七月堂)

峯澤典子詩集『ひかりの途上で』について
            

 峯澤典子の詩集『ひかりの途上で』(七月堂)を読んだ人は、大方がその美しさに感嘆したことだろう。だが、ここで言う「美しさ」とはいったいどのようなところから発生しているのだろうか。

闇にまぎれかかった一羽の鳥が
翼が濡れるのもかまわず川面すれすれに落ち
空の在りかを示すように
ふたたび飛び上がっていった
異郷において
無意識に空を見上げる目の高さに
果てはなく
そうした高さに救われるこころにも
終わりはない、と思い
もし果てがあるとすれば
その先に広がる星夜を
なんと呼ぶのか
わたしはいちども
優しいひとに尋ねずに
帰国した
       (「ある瞳」)

 「詩はイメージを用いる」とよく言われる。だが果たして詩は単に「イメージ」によって印象を引き起こすだけなのだろうか。「イメージ」とは多くの場合、言葉がテクスト内で成立させる感覚の基となるものを指すように思うが、果たして詩はテクストや感覚といった表層でのみその美を開くものなのだろうか。恐らくそうではない。詩は言葉を用いて、具体的な我々に対して具体的な働きかけをする。それは、我々が生活していく基底の次元に働きかけてくるものであり、単なる感覚上の印象で終わるものではない。例えば「闇にまぎれかかった一羽の鳥」とは、実際に生活しているときの我々に対して迫ってくるものなのである。この詩行は、我々が夕方川辺を歩いているときに「一羽の鳥」が近くの空を飛び上がっていくのを目撃する状況を設定する。そして「一羽の鳥」は、その速さや鋭さ、飛翔感や高さの感覚を我々に与え、我々をふと立ち止まらせ注視させる、そのようなものとして現れているのである。もちろん詩は現実自体ではないから、現実ほどの体験の強度を我々にもたらすものではない。だが、普通に「イメージ」と呼ばれているものの背後には、たとえ言語によって希薄化されたにせよ、我々が実際に生活していく上でそのイメージの具体化したものが我々にとってどのような意味と価値を担っているかが潜在しているのである。
 事物はそれ自体として意味や価値を持つ。事物は、それについて我々がどんな行為をすることができるかを知らせる特性を持っているのである。つまり、環境は、我々の行動が組み込まれるような生態学的出来事を生じさせる特性を持っている。例えば椅子は人間に座ることを提供し、壁は避けることを提供する。行為の開始・続行・変化・停止をもたらすような客観的な性質(「アフォーダンス」と呼ばれる)を環境は備えているのである。もちろん、環境の持つ意味合いは、それに向き合う個人によって多少は異なってくるだろう。だが、だからと言って環境の持つ意味合いは個人によって主観的に異なるのではなく、環境がそれらの意味合いの束を客観的に備えているというのが正しい。
 峯澤の詩編は、環境を多く描写することによって、豊かな生態学的環境を作り上げている。例えば「異郷」という言葉が出てくるが、これは読者に憧れのような気持ちを抱かせ、想像を膨らませ、ロマンチックな印象をもたせ、異郷との隔たりを感じさせるだろう。これらの読者の反応を生み出す「異郷」の働きかけが、「異郷」の生態学的な意味なのである。だが、この生態学的環境は何も自然だけではない。この引用部では「優しいひと」というのが出てくるが、人間もまた読者に生態学的な働きかけをしてくるのだ。優しい人は、人間の甘えるという行為を誘発したり、話しかけるという行為を誘発したり、和やかな気分を誘発したりする。そして、詩の抒情性とは、畢竟この作品中の言葉が生み出す読者への働きかけなのではないだろうか。抒情性とは、作者が自らの感情を吐露することにあるというよりは、作者の生み出す作品世界が豊かな生態学的な意味を担い、読者に生活に根差したような情緒的・知性的・意志的反応を引き起こすこと、そこに本質があるのではないだろうか。

 出産後すぐに、搾乳、という言葉を覚えた。生まれた子は別の病棟で眠っていた。飲むもののいない母乳を自分で絞り、専用の容器に入れて冷凍保存する。赤ん坊が自力で乳を吸えるまでに回復したら、それは解凍され、哺乳瓶に移される。
 赤ん坊と離れていても、小さな空腹を見透かすように、母乳は乳房に迷いなく満ちてきた。乳房の丸みから乳輪に向かって、肉をつまみ上げるように親指と人さし指に力を入れると、乳房の張りがふとゆるみ、生温かい雪解けが広がる。どの一滴も無駄にしないよう、もう片方の手でおさえた器で慎重に受け取る。
       (「夏の木」)

 さて、子を産んだ母と子の関係は豊かで複雑である。子は母親に対し様々な行動を要求する。母親は子という存在に対して、搾乳という行為に導かれるのである。もちろん、ここで明示的に語られてはいないが、子の存在は母親に大きな喜びをもたらすだろうし、母親の人生に対する思想を幾分か変化させるだろう。そういう意味で、子は母親に対して非常に豊かな生態学的意味を持つ。つまり、子は母親に対してきわめて抒情的なのである。先ほどは、詩作品が読者に対して持つ抒情性を、作品による読者への働きかけの次元で検討したが、それよりも作品は第一次的には作者にとって抒情的なのである。
 峯澤は、人間をすっぽり包み込んでくれるような温かく豊かな生態学的環境を作品として作り出すという意味で作品の抒情性を高めていた。だが、それ以前に峯澤は、自らが具体的に生活するうえで、環境が働きかけてくるものの豊かさにとても敏感なのではないだろうか。自らの生活する空間に微細で多彩な叙情性を読み取ること。峯澤の詩作品の抒情性の強度は、彼女が生活世界の抒情性を極めて豊かに取り入れてくることから生じるのではないだろうか。
 さらに、自己の身体もまた自己にとって抒情的である。この引用部では乳房のふくらみについて書かれているが、それに対して作者は母親としての自覚を強めたり色々な反応をとるだろう。だがそのように描かれる峯澤の母親としての振る舞い、そこに読者としての我々はまた独自に反応していくのではないだろうか。作者は母親として、搾乳という行為を行ったり、乳房のふくらみを感じたりする。その作者もまた読者にとってはひとつの生態学的環境であって、その作者のたたずまいに対して、読者は、好ましく思ったり、羨ましく思ったり、母親がどういう存在であるかを認識したり、様々な反応を返すのである。つまり、作者自身、読者にとっては抒情的なのである。そして、引用部から読み取れるように、峯澤の作者としてのたたずまいは、とても清潔で落ち着いていて端然としていて、読者に美しさを感じさせるものである。

視線を合わせるのも そらすのも
こうして花に姿を重ねるのも、不遜、と知りながら
目はなぜ瞬時に識別するのか
底に満ちる孤独を
底が深ければ深いほど
見つめたあとは すべもなく離れるしかないというのに

すべての花が店頭に並べられ
花屋の扉がいったん閉まると
手折られた庭薔薇も男も 朝日に溶け
丸まった新聞紙だけが
風に運ばれていった
       (「運ばれた花」)

 このように、峯澤の詩編には彼女の倫理的なたたずまいが示されることがしばしばある。「すべもなく離れるしかない」という倫理を語るとき、そこに「法」は設定されない。今まで見てきたように、峯澤の作品を貫くのは、個別の生活の出来事に対し、その豊かさと個別性を十分踏まえたうえで個別に反応していくという働きであって、その個別性を超えた普遍性を定立しようとはしていないのである。その後に続く花屋と新聞紙の記述は、彼女が世界に対してきめ細かな配慮をした結果であり、何かしら普遍的な規範に従った記述ではないのだ。「法」という社会的なものによって規格的に物事を捉えるのではなく、あくまで自己の微妙で規格化されない倫理に従って詩行を紡いでいくということ。そこに彼女の詩の倫理はあるのではないだろうか。
 峯澤の作品は、豊かで温かく包み込んでくるような生活環境を描き、それらの環境が読者に情緒的・知性的・意志的に働きかけてくるという意味で抒情性に満ちている。それだけではなく、作品はまず彼女にとって多様で個別的な意味を持ち、彼女にとってこそ一番抒情的であった。さらに、作品に描かれる彼女のたたずまいも好ましく繊細な倫理に貫かれており、峯澤自身が読者にとって抒情的であった。それは、彼女が規格的な世界を描いたり、規格的な倫理に従ったりするのではなく、あくまで世界や他者に対して個別的で臨床的なケースバイケースの反応をしているから可能になったのである。彼女の詩の美しさは、そのようなところから生まれてくるのだと思われる。



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by sibunko | 2014-03-18 02:47 | 現在の詩人たち

時里二郎『ジパング』(思潮社)

時里二郎詩集『ジパング』について


 詩は詩人の内心の独白であることが多い。そのとき、詩は現実と結びついている。詩に書かれている内容は詩人の内心を指示するし、読者はその言葉に共感したり反感を覚えたりする。だが、そのように現実と対応関係を持つことを拒絶するような詩もある。時里の詩編は現実と対応することを拒絶する。時里は、「この詩編を作り物として読め」というメッセージを明確に発するし、読者もそのメッセージを容易に受け取れる。時里の詩の行っている行為は、「この詩を現実と対応させるのではなくあくまで作り物として読め」というメッセージを発する行為である。そして読者もまた時里の指示通り、彼の詩編を虚構として読むのである。だから読者は時里の詩編に対し共感も反感も示さない。

 大殿のつましい朝食には、乾燥した木の実のようなものが一個、皿に載せられているばかりである。それは極めて堅く、なかなか割れない。大殿は特殊な道具でそれを割る。迷宮のような皺、等高線のような褶曲のある果肉がその中にある。
 苦い。悔恨のように苦い。
 大殿はそれを一時間ほどかけてゆっくりと彼の舌で読む。
       (「食事」)


 さて、この部分が明確に虚構を志向していることは明らかであろう。朝食に木の実一個というのは現実にありえないし、それを舌で「読む」ということも現実にはありえないからだ。このような叙述で時里は自らの詩編を虚構として読むように読者に働きかけているのである。
 ところで、時里の虚構の作り方は、世界の文法をゆがめていくことで成立している。彼の散文詩は明確に一つの世界を作ろうとしているが、にもかかわらずその世界はたくさんの裏切りに満ちているのだ。この点、断片的に書かれる不条理詩とは異なっている。断片的な不条理詩はそもそも世界を作ろうとしない。だが時里は世界を作ろうとしながら、その世界を次々とゆがめていき、最終的に奇妙で整合性の取れていない擬世界が出来上がるのである。引用部を見てみよう。朝食の説明があるが、それが木の実一個に過ぎないというところでまず裏切りがある。朝食についての整合的な説明による整合的な世界形成というものが裏切られるのである。しかもそれは苦いのである。ここでも、食事は美味しいものを食べるものだという普通の期待が裏切られる。さらに大殿はそれを「読む」のである。このようにして時里は、世界形成の身振りを見せながらも次々と整合性への期待を裏切り、奇妙でグロテスクな擬世界を生み出すのである。
 ところで、この奇妙でグロテスクな擬世界はなぜか美しい。読者は時里の詩編を読んで戦慄を感じる。すごいと思う。これはなぜなのだろう。実際にこの引用部にあるような事態を目撃したら、我々は驚愕してものが言えなくなるだろう。それは著しく不快なものに違いない。だが、実際に存在したら不快であるような出来事も、それを虚構のものとして受け取るという約束のもとでは快に転じるのである。それは、グロテスクなものが恐怖を呼ぶだけでなく滑稽味を帯びたものでもあるということとも関係しているし、グロテスクなものの放出が一種の祝祭的な楽しみを生み出すこととも関係している。グロテスクなものの不快は、「それが現実であったならば」という条件のもので発生するのであって、その条件さえ削除すれば残るのは滑稽さや祝祭的な楽しみ、更には弱められた恐怖の快い戦慄である。時里の詩編は、虚構であることを明確に示すことで、グロテスクなものの不快さを非常に低くし、逆に快さを高めているのである。


 帝をはじめ居並ぶ者どもは、初学の者ですら外すのも難しい動かぬ的の鹿が、呼吸を乱すこともなく庭の草を食んでいるのを唖然として見ていた。彼らが声を上げる機を制せられていたわずかの時をうずめるために、李童は静かに弓弦を断ち、その同じ短剣でもって、おのが腕の筋を切ったという。
       (「マカール、或いは旅する山羊」)


 さて、ここでは李童が自らの腕の筋を切るという残酷な描写がある。これもまた現実に目の前で目撃したらとても目を当てられない悲惨な状況である。ところが虚構の中で描かれると、不思議とその残酷さも快いものに変わってしまうのである。それは他人の不幸を喜ぶといったたぐいのものではない。むしろ、時里の叙述の美しさであるとか、その叙述の美しさを読む楽しみであるとか、そういうものによって残酷さが中和されているとは言えないだろうか。さらには、李童の潔さに対する道徳的な賞賛の念。もちろん虚構であるから残酷さが弱められているというのもある。
 残酷さは単純に残酷なのではない。残酷さが虚構の中で与えられるとき、その虚構が精密に織りなされていればいるほど、その精密さに対する読者の感嘆の念は強まる。読者の中には残酷さによる不快と精密さに対する感嘆が同居する。さらには、筋を工夫することで残酷さを和らげることができる。時里はここで、弓の名人である李童が失敗の償いをするために自らの弓人としての生命を絶った、という道徳的な潔さをプロットによって生み出すことで、残酷さによる不快と道徳的な賞賛の念を同居させている。
 時里の生み出す緻密な世界には、不条理だったり残酷だったりする出来事がたくさん生じる。だが、その世界の虚構性を明確に指定し、その世界を緻密に描き、さらにプロットを工夫することで、本来だったら不快であるようなことも、その不快性が薄められ、また他の快楽要因と共在させられることで、美しく快いものとなるのである。


 その<原器>の存在によって、ジパングの存在の根拠が保証されていたのであるが、大殿は、ジパングをわがものにしようという邪心を起こし、その<原器>を私物化しようとしたばかりか、彼の故意によるものか、もしくは過失によるものかはわからぬが、迂闊にも<原器>を床に落として割ってしまったのである。
 その結果、大殿は散りじりになった<原器>の破片を寄せ集め、新たな<原器>の再生を試みるために、ジパングの地誌の執筆に明け暮れているのだというのである。
       (「原器」)


 さて、このようにして時里は明確に虚構であるところの詩編を変幻自在に織りなしていくのであるが、読者としては素直にそれを虚構としてのみ受け取る必要もない。時里の虚構的詩編が、実は現実の何ものかを指示していないだろうか、と深読みするのも悪くない。
 この引用部では、ある国の存在の根拠を<原器>が担っていたとされている。これは様々なことのメタファーになりえないだろうか。しかもその<原器>を元首自身が割ってしまい、その収集に明け暮れるというさまは、きわめて寓意的だと読むこともできる。例えばこれは現実の国の元首の政治的失敗を表すものである、など。あるいは、この<原器>は物質化されてはいるが本当は世界の根本法則を表すものであり、かつて科学的に知られていたその法則が文書の散逸などでわからなくなり再びその法則を見出す過程がここで描かれているのだ、など。
 大体において、虚構の世界でいかに非現実的なことが起ころうと、それは現実の何ものかと寓意的に結び付けることができる。その意味で時里は、現実も虚構をも貫通する出来事の寓意的ネットワークを十二分に利用していると言えないだろうか。実際、彼が非現実的な挿話を思いつく際にも、現実のなにがしかのエピソードが参照されているはずである。とすると、時里は単純に虚構の世界を現実から峻別したというよりも、それを超えて再び現実へと回帰する寓意的ネットワークをも示しているといわなければならない。
 時里の詩は、読者に対し、「これを虚構として読め」と指示してくる。そして読者もその指示を容易に理解する。そして、虚構であるからこそ、グロテスクさや残酷さが、他の快楽要因と相まって快に転じていく。さらには、時里の詩は単純に虚構であるにとどまらない。それは寓意的ネットワークによって現実の様々なエピソードと対応可能であって、虚構と現実を両方とも相対化したところに様々な読みの可能性を開くものである。


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by sibunko | 2014-03-02 11:36 | 現在の詩人たち

光冨郁埜『豺(ヤマイヌ)』(狼編集室)

愛と孤独の彼方へ


 光冨郁埜の詩集『豺』は、大雑把にいうと二つの原理と二つの空間から成り立っている。二つの原理とは傷と愛であり、二つの空間とは体験と虚構である。
 人間誰しも生きていれば心に傷を負うものである。傷は外的なものが不意に内部に暴力的に侵入することによって生じるものであり、断片的でまとまりがなく、回避されると同時に脳裏に反復され、感情の複雑な混成体を作り出す。傷は本質的に孤独に抱え込まれるものであり、また外的衝撃が訪れたときに誰も助けてくれないという孤独は傷を生み出すし、対人関係において傷を負った人間は孤独に生きることになじんでしまう。傷は孤独の中にあり、孤独により生み出され、孤独を生み出す。
 愛は他者や社会と共生する欲望であり、共生それ自体が目的となる。人は相手を保護するように愛することもあれば、相手に依存するように愛することもある。本能的な、あるいは発達の諸段階で徐々に獲得していく愛もあれば、社会生活の中で獲得していく愛もある。愛は連帯の中に入り込みたいという欲求でもあり、連帯の中で新たに発生してくる安定感でもあり、連帯の中に自己を見失う危険も蔵している。
 光冨は自己の孤独を叫び立てているだけではないし、愛の充溢をのんきに歌っているわけでもない。傷から発される支離滅裂な表現に終始しているわけでもないし、満たされた愛を多幸感いっぱいに自慢するのでもない。光冨は常に愛と孤独との途上にいて、自らと向き合い、どこへ向かうともわからない軌道へと自らを投げ出し、自らを超えていこうとするのだ。

(お前は「キチガイ」だ、あのひとは、
(二十数年間、わたしを罵りつづけて、
(わたしはわたしを生んだあのひとを、憎んでそだった、
       (「ヤマイヌ、ヒトニアラズ」)

 この詩編で光冨は、子供の頃に母親から愛されず、むしろ罵倒され、死ぬことすら考えたことを物語の形で告白している。彼は母親から愛されようとして愛されなかったという傷、母親からの心理的な攻撃による傷、そして愛する母を憎まなければならなかったという傷を背負って育ったのである。このような傷は容易に解消されるものではない。それは固定的で、断片的で、直視するのには苦痛が伴う。光冨としては、それを解消しないままずっと孤独に抱えていてもよかったはずである。だがそのような幼児の傷を物語として言語化することは傷の解消になる。そして、光冨は単に孤独に自らの傷を癒すだけではなく、それを他者に開かれたものとして、他者が読むに堪えるものとして、作品的強度を備えたものとして他者との物語的連帯に持ち込んでいるのである。ここには光冨の、孤独で傷を負った自己を超えて他者との連帯の中へ自己の物語を試していく姿勢が見て取れる。

(わたしのひとよ
(わたしの土を喰らうとよい
(それであなたが新たにそだっていくのであれば
       (「幼虫」)

 この詩編は、作者の愛する人が新しく生まれていくことに希望を見出し、「やがて わたしたちは 並びたち/金色にそまりだした 翅を 天にむける」という具合に、愛する人と共に生きていこうとする希望を歌っている。だが、この詩編の示す連帯もまた安穏なものではない。この連帯には互いに破壊し合いながらもかろうじて成立しているような危うさがある。光冨が連帯を描く場合、連帯はたいていこのように却って、孤独な主体の闘い続ける姿勢を浮き彫りにするのである。ここには、光冨が安易に連帯に安住していたのではなく、そのような連帯を超えて自己自身の闘いを見つめようとしているのがうかがわれる。
 さて、これまで見てきた、孤独から連帯へ向かう主体であると同時に連帯の中でも孤独であり続ける主体であるという光冨の在り方は、彼の生々しいリアルの在り方である。だがこの詩集には、そのようなリアルの自分を吐き出すだけにはとどまらないもう一つの平面がある。それが虚構の平面である。

女の寝息のなかで、ふたたび目を覚ますと、淡い光と陰の部屋は、洞窟だった。その洞窟の入り口からは、紺色の凪の海が見えていた。女の背中越しに、ぼんやりと夜の海を眺め続けていた。わたしの手の甲に、女が無意識に手を重ね、吐息をもらした。
       (「砂と太陽。」)

 第二部「潮騒」では、主人公と「女」との不思議なやり取りが描かれる。女は確かに人間のようだが、声は風にしかならない。女は主人公に好意を持っているし、主人公も女に好意を持っている。だがそこから恋が発生するのでもなく、表情による豊かなやり取りがあるだけである。確かにこれは、光冨が、母親から愛されなかったことを補償するためにつくりあげた癒しの劇だとも見ることができる。だが、それだったら、ここまで情景を丁寧に描写し、ここまで豊かに想像力を膨らませる必要はなかったはずである。それに、バーから部屋、仕事場へと場面を移したり、その合間に女の声を降らせたり、部屋になぜか砂があったり、夢の中で洞窟に居たり、光冨の語りは非常に工夫に満ちている。それはミステリーとスリルを生み出し読者を楽しませる語りであって、この語りは明らかに、読者に語られる内容を虚構だと受け取るように要請している。我々はいわば観客席に座って、光冨の織り成す虚構の舞台を、一つの完結したテクストとして観賞する必要があるのである。ここには、第一部「ひとの声」のようなリアルな空間ではなく、虚構的なテクストの空間が開かれているのが分かるだろう。だから、読者はこのテクストを光冨の実体験に還元する必要は全くない。読者は一人一人違った風に、主観的にこのテクストを読み、また楽しむことができるのである。

灰色の毛皮のところどころに褐色の部分がある。鼻から額にかけては黒っぽい色をしている。わたしに牙をむくことはないが、ときおり覗かせる歯は鋭い。わたしは膝を折って、木の根本に座り、豺の背に体をよせた。豺はわたしの匂いをかぎ、口元をなめる。互いの体温だけを頼りにした。
       (「火」)

 第三部「豺(ヤマイヌ)」では、主人公は豺に取り囲まれ、また豺と親密な交渉をする。これはもちろん、光冨の少年時代の記憶と願望なのかもしれない。同輩たちから敵意を持って迎えられる一方で、自分に似た仲間と仲良くしたい、そういう気持ちが投影されているのかもしれない。だがやはり、ここに現れるテクストの詳細さとエンターテインメント性は、光冨のリアルの在り方にある程度根差しながらも、そこには回収され尽くせない独自の論理と展開があると見なければならない。光冨は、リアルな自己の傷の治癒という差し迫った要求に従うのに終始したのではない。そこには何の遊びもないし余裕もない。そうではなく、リアルな自己を題材としながらも、そこから一気に虚構の平面を展開させ、偶然的に湧き起ってくるアイディアに駆動されながら、テクストの詳細さと整合性・エンターテインメント性を作り出し、余裕に満ちた遊びの空間を展開しているのだ。
 多くの人がそうであるように、光冨もまた傷を負った孤独な存在であり、連帯を求める愛を抱いた存在である。だが、光冨はそのようなリアルの自分を物語的に治癒しながらも、そのリアルの自分を虚構の次元に解放し、エンターテイメント性のあるテクストの制作と共有によって、新たな孤独と連帯を手にしたように思われる。読者はもはや光冨の実存まで遡ってはくれず、好き勝手な読みを始める、その意味で光冨は孤独になった。だが、自らの実存を普遍的なテクストとして読者と共有することで、光冨はリアルな次元とはまた異なった連帯を、数多くの読者と同時に結ぶようになったのである。



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by sibunko | 2014-02-24 09:19 | 現在の詩人たち