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111.続続・田村隆一詩集

111.続続・田村隆一詩集



木は黙っているから好きだ
木は歩いたり走ったりしないから好きだ
木は愛とか正義とかわめかないから好きだ

ほんとうにそうか
ほんとうにそうなのか

見る人が見たら
木は囁いているのだ ゆったりと静かな声で
木は歩いているのだ 空にむかって
木は稲妻のごとく走っているのだ 地の下へ
木はたしかにわめかないが
木は
愛そのものだ それでなかったら小鳥が飛んできて
枝にとまるはずがない
正義そのものだ それでなかったら地下水を根から吸いあげて
空に返すはずがない

若木
老樹

ひとつとして同じ木がない
ひとつとして同じ星の光のなかで
目ざめている木はない


ぼくはきみのことが大好きだ


 この詩が収められている詩集『水半球』は、1980年、田村が57歳のときに出されています。さて、この詩集が刊行される前年、1979年に、田村は西脇順三郎について、篠田一士、鍵谷幸信とともに、「諧謔と幽玄の哀歌」という対談を行っています。そこから引用します。

篠田 そうなんだ、つまり吉田一穂とは違うのよ。
田村 ありゃだめよ。
篠田 いや、だめじゃないけど、吉田一穂は固執しないとわからないし面白くない。固執させることによって詩的言語を確保したんだから。
鍵谷 それは意味あることでね、吉田一穂の場合は言葉に固執し、詩の世界を閉鎖することで成立する。だけど西脇順三郎の場合は、解放するということで、まず歩きゃいいんだから。
篠田 読者もまた固執しちゃいけないのよ。固執したらかえってわからなくなりますよ。
田村 あのね、一人で歩いちゃだめなんだ、二人連れでなきゃ。
(中略)
鍵谷 田村さんが吉田一穂をだめだというのはどういうこと。
田村 肩に力が入ってる。
鍵谷 そうなんだ(笑)。ところが西脇さんは肩どころか全身から力が抜けちゃってる。
(中略)
田村 詩を書く場合は肩に力を入れたらだめよ。
(中略)
篠田 しかしねえ、そんなこと言うなら『四千の日と夜』なんて、肩の力が入れっぱなしじゃないか。
鍵谷 むしろ力の入れすぎといえないこともない。
田村 若いのよ(笑)。
(中略)
田村 肩から力を抜くということは、たいへんな力がいるということだ。セバスチャン=バッハよ。

 つまり、肩から力が抜け、それ以上に全身から力が抜けているという意味で、後期の田村と西脇順三郎は共通していたのです。『四千の日と夜』の頃の初期田村は、若さゆえに自動的に肩に力が入ってしまい、垂直的人間でなければならない、などの倫理性が強く出ていて、西脇とそれほど似ていなかったのです。後期田村と西脇に対立するものとして、肩に力が入っているとされる吉田一穂が挙げられています。では、後期田村と西脇の類似性、後期田村と吉田の差異について見て行きましょう。
 まず、吉田の作品を読んでみましょうか。

白鳥



掌(て)に消える北斗の印(いん)。
……然(け)れども開かねばならない、この内部の花は。
背後(うしろ)で漏沙(すなどけい)が零れる。



燈(ラムプ)を点ける、竟には己れへ還るしかない孤独に。
野鴨が渡る。
水上(みなかみ)は未だ凍つてゐた。

(後略)

 このように、吉田の作品にみられるのは、きびきびとした断言であり、そこに「遊び」は感じられません。漢字の読み方も逐一指定していて、彼の詩は大きな目標に向けて自らを律していく彼の姿勢を如実に表しています。彼はエッセイ「極の誘ひ」において、北極への憧れを強く語っています。そこでは「人・獣・神」が一体となり、そこには神話力の源泉があり、そこは「ネガティフな生命の源泉」であり、彼はそこへと垂直に向かっていこうとします。彼には壮大なロマンがあり、そのロマンへ向けて彼自身を厳しく律していくのです。
 この吉田の姿勢は、初期田村に似ていないでしょうか。確かに、初期田村は主に思想を語っており、吉田のようなイメージ偏重ではありません。ですが、戦後、軍隊での厳しい規律や戦時の緊張状態をどこかひきずりながら、と同時に敗戦の傷と立ち向かい、その傷から否応なく発されていく言葉を発した初期田村の厳しさと遊びのなさは吉田に似ています。生ぬるい生活や雅な叙情などには回収されず、意志と自律によって虚構の厳しい世界を作り出したという意味では、吉田と初期田村はかなり似ているといえるでしょう。ですが、だからこそ田村は吉田を否定する必要があったのです。
 次に、西脇の作品を見てみましょう。



南風は柔い女神をもたらした。
青銅をぬらした、噴水をぬらした、
ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。
静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、
この静かな柔い女神の行列が
私の舌をぬらした。

 この作品は、西脇の第一詩集『Ambarvalia』に収録されています。1933年、彼が39歳の時に出版されたものです。その四年前、1929年、彼が35歳の時、『超現実主義詩論』を出版しています。『超現実主義詩論』において、西脇は、退屈な人生を面白くするために時空間的に遠く離れたイメージを結びつけることを詩学として提示しています。さらに重要なことは、この論において、彼は芸術を、経験を表現する現実主義ではなく、経験を破る超現実主義としてとらえていることです。
 確かに、「雨」を読んでみますと、青銅と噴水とツバメと、意外なものが結合されているのが見えますし、雨を女神の行列とみなすことも意外な比喩であります。そして、この作品は全き虚構であり、西脇の経験を超えたところで成立しています。ですが、この作品にみられるのは、それ以上の官能性ではないでしょうか。女神が舌をぬらす、というのはまさにエロティックな表現でありますし、様々なイメージの列挙も、読者を惑わし、読者をイメージの官能の中に巻き込むものであります。さらに、この詩には「遊び」がふんだんに取り入れられています。遠いものを結びつけるということは、逆に言えば恣意性を許容するということであり、また、経験を破るということは、経験の呪縛から自らを解き放つということでもあります。また、官能性自体も遊びであり、感覚の自由な刺激の中に自らを漂わせることであります。
 西脇はのちに、彼が74歳の時に出版された『詩学』に収録されることになれる「ボードレールと私」というエッセイで、ボードレールの『悪の華』を諧謔の産物とみなしています。西脇は老境に達するにつれ、ウィットや軽みや諧謔や無の方角へと傾いていきますが、その「遊び」への志向はすでに『超現実主義詩論』の一見厳しそうな詩学にも胚胎されていたといえるでしょう。
 「遊び」とは、その根源的な無償性によって特徴づけられます。遊ぶ者は、遊びに様々な資源を費やしながらも、それを何か生産的な目標に寄与させることを拒みます。遊びは、現実のさまざまな規律から逃れ、自由に自らを費やしながら、遊びそのものを目的とする行為です。遊びは外に目的を持たないその自由さによって、かえって外の現実の役に立ったりします。芸術における美もその一つであり、芸術がそれ自身を目的とするとき、そこに美が生まれやすく、そしてその効用は外側へと波及していきます。
 田村は、詩においても詩論においても「遊び」のない吉田を嫌った。それは自身の初期の創作の超克でもあるでしょう。一方で、詩においても詩論においても「遊び」に満ちている西脇を好んだ。
 さて、ここで冒頭に掲げた「木」を読み返してみましょう。「木は黙っているから好きだ/木は歩いたり走ったりしないから好きだ/木は愛とか正義とかわめかないから好きだ」。このあたりの思想はまさに軽妙洒脱であり、話すことや移動することの生産性の拒絶、大義名分へと自己を律していくことへの拒絶が語られています。しかし、ここまでは本当の遊びではありません。
 次を見てみましょう。「ほんとうにそうか/ほんとうにそうなのか」。そして、それ以前とは違った木の在り方の可能性について語っていきます。このような、直線的ではなく、旋回し、反転するような詩行の動きはかつての田村にはほとんど直接的には見られなかったものです。かつての田村は、基本的に詩において直進を続けていた。まさに、何かしらの現実の目的のため労働するかのように。ところが、ここで田村の詩行に、明示的に、立ち止まり、振り返る、という余裕が生まれてきます。このような思弁は、まったく無益で、何の役にも立たないかもしれない。その遊びが田村には生まれてくるのです。
 そして最終連。「木/ぼくはきみのことが大好きだ」。こんなに詩的に自由な表現はあるでしょうか。ここに来て田村は、詩であるために必要な規範をすべてなげうっているように思えます。この言葉は詩でなくても全く普通に発されうる言葉です。ですが、後期田村の作品には、このような、詩であることからも自由であるようなぶっきらぼうな言葉がたくさん出てきます。詩というものを遊びと化すこと。そしてさらに、詩という遊びのルールまで無視して、詩であることからも自由になり、詩を超えた遊びを展開していくということ。後期田村の作品には、このような遊びの極致のような特徴がみられます。
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by sibunko | 2012-10-26 09:24 | 田村隆一

はじめに

このブログでは、思潮社の現代詩文庫を一冊ずつ取り上げ、読解していきます。日本の詩を安価で手軽に読めるこのシリーズは、大変貴重なものです。それぞれの詩人が出版するそれぞれの詩集は、高価だったり入手困難だったりしますが、現代詩文庫は入手が容易であり、かつ収録されている詩人、掲載されている作品が厳選されていて、日本の詩を楽しむうえでなくてはならない存在となっています。それでは、批評をお楽しみください。

・「詩と向き合う」は初心者向けの詩論です。詩をよりよく分かりたい人はお読みください。

・あとは、詩人別にカテゴリーを作っていきます。

・「現在の詩人たち」は現代詩文庫以降の若い世代の詩集を取り上げています。リアルタイムの詩の状況を知りたい人はお読みください。

・「詩の理論」は、多少本格的な詩論です。

・「現代詩人論」は、多少本格的な評論です。

・書いている人:広田修
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by sibunko | 2012-10-25 09:14 | はじめに

13.詩とフィクション

詩とフィクション

 詩は本当のことを語っているのでしょうか。つまり、詩はノンフィクションなのでしょうか。それとも、詩は嘘のことを語っているのでしょうか。つまり、詩はフィクションなのでしょうか。

岩が   吉野弘

岩が しぶきをあげ
流れに逆らっていた。
岩の横を 川上へ
強靭な尾を持った魚が 力強く
ひっそりと 泳いですぎた
逆らうにしても
それぞれに特有な
そして精いっぱいな
仕方があるもの。
魚が岩を憐れんだり
岩が魚を卑しめたりしないのが
いかにも爽やかだ。
流れは豊かに
むしろ 卑屈なものたちを
押し流していた。

 ある文章がフィクションであるか、ノンフィクションであるかについては、(1)その文章が実際に現実と対応しているか、(2)語り手がその文章を本当のものとして語っているか、(3)受け手がそれを本当のものとして受け取っているか、その三つの要素を考慮しなければなりません。
 この「岩が」という詩は、まず、現実の川の流れとそこにある岩とそこを泳いでいる魚についてありのままを語っています。この意味でノンフィクションです。次に、吉野自身、自分の経験、自分の実感を、本当のものとして語っています。その意味でもノンフィクションです。そして、読み手も、この詩を吉野が真実を語ったものとして受け止めるでしょう。その意味でもノンフィクションです。
 つまり、この詩はノンフィクションである詩の典型例と言えます。ノンフィクションである詩に向き合ったとき、私たちは、詩人のありのままの声に耳を傾け、それをありのままに受け止めて、その思想なり経験なりを共有するのが望ましいと言えます。
 では次の詩はどうでしょうか。

 よく判断できなかったが、彼女らは、何かかすかな歓喜に酔っているらしい。かわるがわる、交替しては、殺し合っているのだ。
 ひとりが痙攣しながら死ぬと、次は、生き残った娘が、死んだ娘に、胸を切り裂かれる。剃刀が閃めき、麻縄が舞い、やがて、彼女らは、ぼろのように、ちりぢりに散乱して、雪に埋まったのである。
   (粕谷栄一「犯罪」より)

 まず、死んだ人間が動くことはありませんから、この詩は現実と対応していません。現実にはあり得ないことを語っているのです。この意味でこの詩はフィクションです。次に、粕谷はこの詩を初めから嘘のこととして、虚構として語っています。その意味でもこの詩はフィクションです。また、私たちもこの詩を現実に起こるものとして受け止めることはないでしょう。その意味でもこの詩はフィクションです。
 つまり、この詩はフィクションである詩の典型例と言えるでしょう。フィクションである詩を前にしたとき、私たちは、その詩がフィクションであることについて作者と共通了解があります。そして、その詩を想像の産物、虚構の産物として、その虚構の豊かさを感じ取っていくことになります。現実には起こり得ないような奇妙な物語は、それだけで幻想的で意表を突き味わい深いものです。
 では次の詩はどうでしょう。

犬は内なる犬のなかで走り
猫は内なる猫のなかで眠る
鳥は空に釘づけになったまま鳥のなかで飛び
魚は砂漠をこえて水にあえぎながら魚のなかで泳ぐ
   (田村隆一「緑色の観念形態」より)

 「内なる犬」とは一体何でしょう。そんなものは存在しないからこの詩は現実を語っていずフィクションなのだ、という考え方もあるでしょう。ところが、この詩で田村は何か真実を語ろうとしているようにも思えます。「内なる犬」とは犬の内面のことであり、その中で走るとは、犬が自分が走っていることをその内面で把握していることを言っているのだ、そう解釈すれば、この詩が真実を語っている、と解することも可能です。この意味で、この詩はフィクションともノンフィクションとも決定されません。次に、田村は本当のことを語ろうとしているように見せかけながら、自分の書いた詩が難解なものになってしまったから、嘘のことを語っていると思われても仕方がない、そういう気持ちでこの詩を書いているように思えます。その意味でも、この詩はフィクションともノンフィクションとも決定されません。また、私たちも、田村の真意を汲み取ろうとしてこの詩を本当のものとして解釈しようとする一方、初めから虚構のものとして、その虚構の真新しさ、奇抜さを楽しもうとすることもできます。その意味でも、この詩はフィクションともノンフィクションとも言えないのです。
 詩には、本当のことを本当のこととして語り、読み手もそれを本当のものとして受け取る、というノンフィクションもあります。他方で、嘘のことを嘘のものとして語り、読み手もそれを虚構として受け取る、というフィクションもあります。その中間として、本当だか嘘だかわからないことを、本当だか嘘だかわからないように語り、読み手も本当のように受け取ったり虚構として受け取ったりする、そういうフィクションともノンフィクションともつかないものもあります。私たち読み手は、ノンフィクションの詩からは、詩人の実感や主張、体験などを共有するのが良いかもしれません。フィクションの詩からは、詩人の想像力や世界構成の巧みさを楽しむのが良いかもしれません。フィクションともノンフィクションともつかない詩を前にしたときは、そのあいまいさ、浮動性に心地よく漂い、読みの自由さを受け取ってあれこれ詩の読み方を試してみるとよいかもしれません。

参考文献
清塚邦彦『フィクションの哲学』(勁草書房、2009年)
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by sibunko | 2012-10-25 02:36 | 初心者への詩論(詩と向き合う)

12.詩と科学

詩と科学

飄然(へうぜん)と家を出(い)でては
飄然と帰りし癖よ
友はわらへど
   (石川啄木『一握の砂』より)

PV=kT(ボイル=シャールの法則、Pは圧力、Vは体積、Tは絶対温度、kは定数)

 上は短歌であり、下は自然科学の法則です。この二つを比較しただけでも、詩と科学は全然違うのではないか、という直感を抱くのに十分でしょう。
 まず、自然科学の対象は何か。それは、私たちが生活で出会う生の具体的な経験ではありません。自然科学の対象は、時空間に関係づけられていて、数量化・抽象化される、何度でも再現することのできるものです。V(体積)とは、空間の抽象的な量であり、数字で表され、例えば1リットルであったらその1リットルを、水を汲んだりすることで何度でも再現できます。そして、自然科学の法則は文脈に依存しません。例えば「私」という言葉は、伊藤さんが話せば伊藤さんを指すし、後藤さんが話せば後藤さんを指す、という具合に、言葉が発された状況によって意味が違います。ところが、自然科学の法則は、伊藤さんがそれを用いても後藤さんがそれを用いても意味を変えることはないし、伊藤さんが用いても後藤さんが用いても同じように役に立つのです。さらに、ボイル=シャールの法則を見ればわかるように、圧力(P)と体積(V)が分かれば自動的に温度(T)が厳密に分かることになっています。このように、自然科学は、法則による推論によってどんどん新しい認識を増やしていくのです。つまり、自然科学は、明確に意味の定まった抽象的な「概念」(圧力、体積、温度など)を用いて、推論によってどんどん人間の外界に対する認識を増していくのです。
 それに対して詩はどうでしょうか。まず、詩は、私たちが出会う具体的な生の体験を語ります。しかもその体験は一回限りで、二度と繰り返すことはないものです。そして、詩が描く体験というものは、決して数字などで表されるものではなく、その体験をめぐる状況・文脈に依存しており、詩の言葉は自然科学の概念のように明確な意味を持っていません。例えば、上掲した歌にある「家」という言葉。これは、自然科学における「体積」のように、抽象的に数量化されたりはしません。むしろ、「家」という言葉は、それにまつわる様々で雑多なものを詩の中に持ち込みます。例えば、ガストン・バシュラールというフランスの哲学者は、『空間の詩学』において、家という言葉の呼び起こすイメージを非常に細密に描いています。例えば、家は「われわれの最初の宇宙」であると言っています。家は私たちが生まれる場所であり、幼年時代を過ごす場所であり、私たちが眠る場所であります。詩の言葉というものは、連想によって、その言葉にまつわる様々な人間の体験を呼び起こすものなのです。
 デイヴィド・アームストロングはジョン・ロックという哲学者について次のようなことを言っています。

ロックは『観念』という語を異常に幅広い仕方で用いる。それは少なくとも次のものを含んでいる。
(a)感覚知覚(感覚印象)
(b)体感(痛みとかくすぐったさのようなもの)
(c)精神的心像(イメージ)
(d)思考と概念
一つの語でもってこのように異質な事物の集合を含むという用法が、ロックをしてあらゆる種類の誤謬へと導いているのである

 アームストロングは、ここでロックを非難しているわけです。ところが、詩を書いたり読んだりする者の立場からすれば、ロックの「観念」とはまさに詩の言葉そのものを言い当てているということができるでしょう。先ほどの「家」という言葉だったら、啄木が見たその具体的な家の見え方、家を出たり家に戻ったりするときの歩いたりという身体感覚、そのとき啄木が家について抱いている感情、考え、そういうものがすべて「家」という言葉(観念)に含まれているのです。そういう異質な事物の集合を含むのが詩の言葉であり、さらに異質な事物へと開かれていくのが詩の言葉なのです。「家」は啄木がそこから出たりそこへと戻ったりする場所ですが、その様子を友人は笑います。そのように、詩の言葉はそれにまつわる出来事へとつながっていき、その出来事はさらに出来事を生むという具合に、どんどんと世界の生の具体的なあり方に従って広がっていきます。
 自然科学は、物事を抽象化・数量化し、何度でも再現可能なものとします。また、物事を明確な意味を持った「概念」で把握し、さらに数学的推論で人間の認識を厳密に増していきます。それに対して詩は、物事をあくまで具体的なものとしてとらえ、物事をそれが置かれた状況・文脈のもとで捉え、物事のかけがえのなさ、一回限りであることを重視します。また、物事を雑多な「観念」で把握し、物事と物事を連想でどこまでもつないでいき、偶然的な出来事の連鎖に対して目を開いています。

参考文献
ガストン・バシュラール『空間の詩学』(岩村行雄訳、ちくま学芸文庫、2002年)
イアン・ハッキング『言語はなぜ哲学の問題になるのか』(伊藤邦武訳、勁草書房、1989年)
小林道夫『科学哲学』(産業図書、1996年)
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by sibunko | 2012-10-25 02:35 | 初心者への詩論(詩と向き合う)

11.隠喩について

隠喩について

東へ旅立つ人々よ
にくしみを夜明けの庭に植えて
立ちたまえ
妹の胸に植えて 去りたまえ
花嫁をうばわれた機関手のために
蘇鉄はけさうすあかい綿を噴き
ふるさとの日の出をぬぐう
   (谷川雁「異邦の朝」より)

 詩を読んでいると、様々な隠喩に出会います。隠喩とは直喩に対する概念です。直喩とは、「彼は狼のようである」のように、喩えるものと喩えられるものの類似性を、「ようである」「似ている」などの言葉を用いて明示する表現です。それに対して隠喩とは、比喩の関係を「ようである」「似ている」などの言葉で明示することをしません。その代わりに、隠喩は、端的に「彼は狼である」と断言し、そこで読み手に違和感を感じさせます。「彼は人間であって動物ではないはずだ」などの違和感です。ですが、読み手はすぐさまそれが比喩であることに気付き、「彼と狼には何らかの類似性があるに違いない」という思慮に導かれます。このように、隠喩とは、明示的ではない仕方で、あるものと別のものの類似性を示す表現のことを言います。
 さて、引用部にある「にくしみを植える」とはどういう意味でしょう。にくしみとは感情であって庭に植えることのできるものではありません。このような表現に難解さを感じる人は多いと思いますが、このような表現はいったい読み手に何を要求しているのでしょう。
 まず、第一段階として、読み手は、「にくしみを植える」は文字通りに読むと無意味であるということに気付きます。にくしみという感情を物理的に植えることなどできないからです。第一段階は、読み手が、書き手が書いた言葉を文字通りに読むべきか、それとも文字通りでない解釈を探すべきか、それを決定する段階です。「にくしみを植える」は文字どおりには読めませんから、読み手はそれを解釈することに迫られます。
 次に第二段階として、読み手は、「にくしみを植える」の意味となる候補を探さなければなりません。第二段階は、第一段階で読み手が文字通りでない解釈を迫られたとき、文字通りでない意味の候補を、類似性に着目して探し出す段階です。「にくしみを植える」とは、「にくしみを一旦置き去りにしながらも、のちにそれが成長するのを見守る」という意味かもしれません。あるいは、「にくしみが豊饒な果実を生らせるのを期待してにくしみを育て始める」という意味かもしれません。「植える」という動詞の持つ特徴のうち、「にくしみ」とうまく結び付く特徴の候補としては、上記の二つなどが考えられます。
 最後に第三段階として、読み手は、第二段階であげられた候補のうち、文脈に照らして最も意味されている可能性の高いものを選びます。引用部では、「にくしみを植える」のあとに、「立ちたまえ」「去りたまえ」とあるので、上掲した二つの解釈のうち、「にくしみを一旦置き去りにしながらも、のちにそれが成長するのを見守る」の方が適切かもしれません。立ち去るということは置き去りにするということだからです。
 このように、隠喩とは、読み手に対して文字通りでない解釈を迫り、読み手がその表現に類似する複数の意味の候補を連想することを要求し、さらに、その中から文脈に照らして適切な解釈を選択することを要求します。「にくしみを植える」は、一応「にくしみを一旦置き去りにしながらも、のちにそれが成長するのを見守る」と解釈できるのではないかと提案しましたが、ほかの解釈も十分可能だと思われます。例えば、「にくしみを大地に定着させることでより強固なものとする」など。
 だから、隠喩は、まず読者を当惑させ、次に読者に連想や推論を強い、さらに決定的な意味を持つことを拒絶し読者の認識を停止させすらします。隠喩はこのように、読み手にとって大変負担をかける表現です。ですが、隠喩表現を用いてなされる書き手のこのような作用は、読者を楽しませもします。読み手はまず表現の奇抜さに新鮮味を感じます。今までにない言葉と言葉の結びつきの斬新さは読み手の目を楽しませます。そして、一つの意味に決定されないという不安定さは、逆に言えば読み手に対して広大な意味の領域を開き、その意味の浮動感もまた楽しかったりします。隠喩は難しいものであると同時に楽しいものでもあるのです。

参考文献
W・G・ライカン『言語哲学』(勁草書房、2005年)
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by sibunko | 2012-10-25 02:34 | 初心者への詩論(詩と向き合う)

10.ポエトリーワールド

ポエトリーワールド

 「詩の定義について」で、詩は必要十分条件で定義することはできないと書きました。それでは、ここに何らかのテクストがある場合、それを詩だと決めているもの、それを詩ではないと決めているものはいったい何なのでしょう。
 ここで「アートワールド」という考え方を紹介します。直訳すれば「芸術世界」です。これは、アーサー・ダントーが1964年に論文「アートワールド」で提唱した概念です。
 ダントーは分析美学者であり、分析美学とは、美学における言語学的混乱を論理的・科学的・合理的に分析し、美学を明晰にする立場です。例えば、美学で用いられる「感情」という言葉がどういう意味を持つのかなどを分析して、美学の明晰化を図ります。「感情」は単なる印象の意味を持つこともあれば、行為の衝動の意味を持つこともある。そのように、美学で用いられる概念を分析して美学を明晰化するのです。ところで美学の中心概念は「芸術」です。だから、分析美学の分析の対象は当然「芸術」という概念に向かいます。芸術とは何か。何が或る物を芸術と決定するか。
 ダントーは、芸術を決めるのは、芸術の見え方ではない、と主張します。或る物を芸術であると決めるのは、芸術理論と作品解釈と歴史的文脈だとします。或る物は、芸術理論と歴史的文脈に照らし合わされて、現実の世界から離れて芸術の世界、アートワールドに入るとします。
 この考え方を詩を具体例にして敷衍しましょう。或るテクストは、それが理論や歴史的文脈に照らし合わされて詩になる。つまり詩の世界「ポエトリーワールド」に入るのです。

さまよひくれば秋ぐさの
一つのこりて咲きにけり
おもかげ見えてなつかしく
手折ればくるし 花ちりぬ

大正十年に刊行された佐藤春夫の『殉情詩集』所収の「断章」です。大正末期には主に民衆詩派のこのような人道主義的民衆讃美の詩が書かれました。一方で、その頃、平戸廉吉によって次のような詩が書かれました。

B●●●声●●声●塔●●●●●恋●人(「合奏」――大正十一年二月号「炬火」)

民衆詩派からすれば、平戸の詩は詩ではないと思われたかもしれません。ですが、平戸には彼なりの詩についての理論がありました。(平戸は自分の未来主義を理論ではないと言っていますが、それは理論ではないという理論です。)つまり、世界中の病的頽廃を突き破るためには過去幾世紀も続けて来たような姑息な療法では間に合わない。「直情」が必要である。引用部はその「直情主義」に基づいて書かれた詩なのです。また、平戸は「アナロジスム」という理論も持っていました。アナロジスムとは、実在に対する感覚と内潜する意識との合一を図る立場です。要は、平戸の未来主義の詩は彼独特の詩の理論に基づいており、その理論に合致するものとして、詩の世界「ポエトリーワールド」の中に入り、詩となったのです。
 詩の理論は、科学の理論と違って、先行する理論を排斥しません。民衆詩派の理論と平戸の理論は矛盾することはあっても、平戸の理論が民衆詩派の理論を排斥することはないのです。このように、或る物を詩とする理論というものは互いに併存しながら増えていき、それに従って、詩であるもの、つまり「ポエトリーワールド」の構成員は増えていきます。
 さて、ここでアートワールド論の別の展開を見てみましょう。ジョージ・ディッキーは、アートワールドを、芸術を取り巻く実在の社会制度、つまり美術界に置き換えました。ディッキーによると、或る物を芸術として決定するのは、理論や歴史的文脈ではなく、実在の芸術家・学芸員・批評家・美術史家などによる地位の授与であるとします。芸術に関係する人たちが、或る作品を芸術として評価されるべき候補として要求し、それが制度により認められると、その作品は芸術になるとするのです。
 ディッキーの観点からアートワールド、そしてポエトリーワールドを見た場合も、平戸の詩がどのようにして詩として認められていったかが説明できます。平戸の詩は、彼の死後、昭和六年、川路柳虹、萩原恭次郎、山崎泰雄、神原泰の共編で『平戸廉吉詩集』として刊行されました。つまり、平戸は、詩の世界の住人として、自らのテクストを、詩として評価されるべき候補として要求し、それは実際に、川路らによる詩集刊行として、それが詩であることが詩の制度によって承認されたわけです。
 ダントーのアートワールドは理論・言語であり、ディッキーのアートワールドは実在の制度です。アートワールドに対応するものとして、ポエトリーワールドというものを考えることができます。何が詩であるかは、それがポエトリーワールドに入っているか(ダントー)、ポエトリーワールドによって承認されるか(ディッキー)によって決まります。平戸の詩が、当時革新的であっても詩として認められたのは、それがポエトリーワールドへの参入(理論による正当化)、ポエトリーワールドによる承認(制度による地位付与)を経たからです。

参考文献
大岡信『昭和詩史』(思潮社、2005年)
金悠美『美学と現代美術の距離』(東信堂、2004年)
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by sibunko | 2012-10-25 02:33 | 初心者への詩論(詩と向き合う)

9.文芸批評について

文芸批評について

 詩も言葉によって作られた芸術ですから「文芸」の一種です。ところで、人間というものは、何らかの物事があると、それを対象にして、それを説明したり解明したり評価したりしたがります。この説明・解明・評価のことを「批評」と呼ぶことにしましょう。ここに一編の詩、あるいは一冊の詩集があるとする。すると人間はそれを批評したがる。これは文芸批評の一種です。
 「説明」とは、説き明かすこと、すなわち、相手に対象を理解させるために言葉を尽くし、相手を説得して対象を明解なものにすることです。「解明」とは、発見的な説明であり、普通の人には容易に気づき難いような説明です。
 説明と解明には「方法」が必要です。どのようにして相手を納得させるか、それが方法です。方法として有効なものは、論理や理論や印象や連想です。論理とは人間の思考の筋道のことで、その筋道の中でも客観的に正しいとされているものです。理論とは人間の認識の枠組みのことで、それなりの構造を備えたものです。論理や理論に即した説明によって相手を納得させることができます。印象とは対象が観賞者に与える感覚的・感情的な質のことで、共感によって相手に伝わります。連想とは対象と類似関係など様々な関係に立つものを提示することで、これも共感によって相手に伝わります。
 「評価」とは、価値づけること、意味づけることです。評価には「基準」が必要です。基準としては、批評する者の感受性、一般人の感受性、理論、認識枠組み、価値体系などがあります。
 そして、説明・解明・評価、すなわち批評をするためには、「事実」が必要です。事実とは、作品がそう書かれてあることだったり、作者についての情報であったり、作品が書かれた時代の歴史状況であったり、批評する者や一般人の持っている価値体系であったり、既に与えられた理論であったりします。批評する者は、受動的に事実を受け入れます。事実を受け入れたうえで、それを素材に能動的に批評していくのです。そのことによって、批評という新たな事実が生まれます。

文学的であるとともに精神的でもある綿密さによって、内心の苦悩をためらうことなく洗練したので、彼はいわば世俗の聖者となっている。(アルベール=マリ・シュミット『象徴主義』、文庫クセジュ、10ページ)

 これはマラルメについての記述です。まず、ここでは説明と評価が一体となっていて不可分であることに気づいてください。「文学的」「精神的」という評価は、シュミットが、その感受性を基準にしてマラルメの綿密さに対して下した評価です。それは同時に、マラルメの綿密さに対する説明にもなっています。
 次に、事実と評価も一体となっています。マラルメが「内心の苦悩」を洗練したことは、シュミットがその感受性に基づいてマラルメの作品から読み取った評価です。ですが、その評価は、マラルメが実際そうであったという事実として提示されています。
 さらに、論理と印象・連想も不可分であることに気づいてください。シュミットは、マラルメが、綿密さと洗練ゆえに「世俗の聖者」になったと言っています。これは前提と結論を形式的には論理的に結び付けています。苦悩を洗練することは、苦悩しているという意味で世俗的であり、洗練しているという意味で聖者的です。ですが、この論理的な結びつきは、必然的なものではなく、この結びつき自体が一種の印象や連想となっています。つまり、厳密な論理に従えば、マラルメは「世俗の聖者」でないことも十分あり得るのですが、その論理を印象化・連想化することでマラルメが「世俗の聖者」であると断言しているのです。
 その上、この引用部は単に印象的であるだけでなく、背後には理論が控えています。おそらくシュミットはキリスト教の教義を知っていて、聖者がどういうものであるかを知っているはずです。聖者についてのキリスト教理論を踏まえた上で、初めて「世俗の聖者」という逆説的な評価が可能になっているのです。つまり、ここでは評価の背後に理論があるのです。
 批評とは説明・解明・評価です。批評には事実が必要です。また、説明・解明には方法が必要で、評価には基準が必要です。批評観をめぐる争いは、方法と基準をめぐる争いだと言えます。
 この方法と基準をめぐる争いにおいて、しばしば「印象か理論か」という争いが見られますが、引用部で検討した通り、実際の批評では印象・連想と論理・理論が複雑に絡まっていることが多いです。印象批評をやるときにも、その批評に説得力・創造性を持たせるためには論理や理論の助けを借りる必要があります。一方で、理論批評をやるときにも、その前提として作品から事実としての印象を忠実に受け取らなければ説得力を持たせることはできません。批評において重要な問題は、「印象か批評か」ではなく、「どれだけ説得的か」「どれだけ創造的か」だと思われます。
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by sibunko | 2012-10-25 02:31 | 初心者への詩論(詩と向き合う)

8.詩の定義について

詩の定義について

 詩とは何でしょうか。ある人は、「詩とは、文字で書かれたものであり、行分けになっていて、読む者を感動させるものである」と定義するかもしれません。ですが、「視覚詩」の一種は文字で書かれていず写真やオブジェを使っていますし、散文詩もありますし、読む者を一向に感動させない詩もあります。上述した定義では、全ての詩を定義することができていないのです。
 「詩であるならば満たしている条件」を詩の「必要条件」、「これらの条件を満たしていれば詩である、そういう条件」を詩の「十分条件」と言います。必要条件とは、詩であるならば満たしている最低条件であり、十分条件とは、詩を他のものから区別し特徴付けるための条件です。例えば小説というものを考えてみましょう。あらゆる小説は文字で書かれているので、小説であるならば文字で書かれていると言えます。よって、「文字で書かれている」ことは小説の必要条件です。また、例えば「くちばしがある」「卵を産む」「足が二本ある」という条件を満たせば、それは鳥であると言えます。よって、上の三つの条件はそれらが合わさることで鳥であることの十分条件となります。
 詩の定義を試みようとする人は、詩の必要条件でありかつ十分条件であるような条件(必要十分条件)を探そうとします。ところが、一番先に掲げた定義のような、詩についての十分条件は存在しますが、詩についての必要条件は存在しません。全ての詩が文字で書かれているわけでもないし、行分けであるわけでもないし、読む者を感動させるわけでもないのです。だから、「文字で書かれている」「行分けである」「読む者を感動させる」は詩の必要条件ではありません。よって、詩を必要十分条件で定義することは不可能だと思われます。
 では「詩」という概念はどのような構造をしているのでしょうか。上述したように、「詩」という言葉で指示される要素の全てが満たしている特徴はありません。ですが、ある要素と別の要素は一定の類似性によって関係付けられています。全ての要素をつなぐ類似性はありませんが、部分的に要素同士をつなぐ類似性は複数存在します。
 ここで、「家族的類似性」という考え方を紹介します。これはヴィトゲンシュタインがドイツ語のSpiel(日本語だったら「ゲーム」)という言葉の構造を分析したときに提唱したものです。ここにAさんとBさんとCさんがいるとします。AさんとBさんは目が似ている。BさんとCさんは鼻が似ている。でも、AさんとCさんはどこも似ていない。だからAさんとBさんとCさん全てに共通する特徴は存在しない。それでもAさんとBさんとCさんはひとつの家族の中にいる。このような要素間の類似性のあり方を家族的類似性といいます。
 同じように、Aという詩は「文字で書かれているが鑑賞者を感動させない」、Bという詩は「文字で書かれていて鑑賞者を感動させる」、Cという詩は「文字で書かれていないが鑑賞者を感動させる」とします。AとBは「文字で書かれている」という類似性でつながっています。BとCは「鑑賞者を感動させる」という類似性でつながっています。でも、AとCに共通する特徴はありません。それゆえ、A、B、C、すべてに共通する特徴はありません。それでも、A、B、Cはひとつの「詩」という概念でくくられています。詩を必要十分条件で定義することはできませんが、詩という概念に含まれている要素間を部分的につなぐ類似性ならいくつか存在します。その類似性として、「文字で書かれている」「鑑賞者を感動させる」などがあるのです。詩の概念には家族的類似性があるに過ぎないのです。
 詩という概念に含まれている要素(個別の詩)を部分的につなぐ類似性としては、ほかにも、「行分けである」「レトリカルである」「短い」「主観的である」などがあります。これらの特徴をより多く備えている詩が、典型的な詩であるといえるでしょう。それに対して、これらの特徴を一つや二つしか満たしていないような詩は、非典型的な詩であるといえます。詩の中には、誰もがそれを詩と認めるような典型的な詩と、一部の人はそれを詩と認めないような非典型的な詩があり、典型性の度合いは様々です。ですが、典型的な詩だけを「詩」と呼ぶことはできず、実際「詩」という概念は非典型的な詩もその要素として含んでいます。
 「詩とは何か」という問いは、詩の必要十分条件を求めているのだと思われますが、詩の必要十分条件は存在しません。その意味では、「詩とは何か」という問いには答えがないと言えますし、詩は定義できないと言えます。かわりに、「詩」という概念に含まれている個別の詩どうしを「部分的に」つなげている類似性は複数存在し、その類似性を多く備えている詩は典型的であり、その類似性を余り備えていない詩は非典型的です。「詩」という概念は、「定義」の観点ではなく「家族的類似性」の観点からとらえなければならないと思われます。
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by sibunko | 2012-10-25 02:30 | 初心者への詩論(詩と向き合う)

7.詩の構造について

詩の構造について

ミツバチの午後 井坂洋子

恋人に会いにいくときは
緑樹の濃い反射がほしい
幾重にも層をつくる
日射しのプールの水面下
顔をあげると
ミツバチの唸りが耳もとをかすめる

肉体(からだ)は見境もなく
ほほえもうとするので
歩調をはやめ
輪郭のなかに肉体(からだ)を
おし込む
向かいの林は
だんだら模様の陽光のせいで汗ばみ
つりさがったハンモックから
蜜がたれている

どこかで輪郭がくずれたのだ
やわらかいところを出して
注入を受けている
双つの丘の
その中腹だろうか
ミツバチが無数の巣穴をあけているのは

(『マーマレード・デイズ』より)

 構造とは、(1)存在と(2)関係があるときに人間がそこに見出すものです。例えば建物を想像してみてください。ある建物が3階建てであり、それぞれの階が上下に積み重っているとします。そのとき、「それぞれの階」という存在が、「上下に積み重なる」という関係を結ぶことにより、「3階建て」という構造が出来上がります。
 「3階建て」という構造は誰が見てもそれと分かる客観的な構造です。基本的に、ある人にとっては3階建てだけれど別の人にとっては2階建てだ、ということはありません。ですが、構造といってもそのあり方の客観性には様々な程度があり、ある構造体についての構造認識が人によって異なることもあります。そして、そのような主観性の強い構造認識は、詩の構造の認識の場面において顕著に現れることがあります。
 引用した詩「ミツバチの午後」が、形式的には「3つの連から成る」という構造を持っていることについて、異論のある人はいないでしょう。「3つの連から成る」という構造はきわめて客観的な構造と言えます。
 次に、2連目、「肉体(からだ)は見境もなく/ほほえもうとするので」が「歩調をはやめ/輪郭のなかに肉体(からだ)を/おし込む」ことの理由になっている、という論理構造もまた、「ので」という接続助詞の意味さえ知っていれば誰しもが見抜ける構造であり、客観性が強いと言えます。
 ですが、ミツバチのモチーフと、恋人に会いにいく詩の主体とが、どのような構造をなしているかについて、読者の意見は一致するでしょうか。多くの読者は、ミツバチのモチーフと詩の主体とは並列関係にあり、せいぜい詩の主体がミツバチを認識しているという構造があるに過ぎない、と思うことでしょう。ですが、中には、恋人に会うがゆえに上気している詩の主体の心理が、ミツバチの陽気さ・動きの煩雑さに類似するという関係にある。あるいは、上気した心の速度が速いために、ミツバチの巣穴にまで詩の主体の想像が及ぶという関係がある。そのような構造を見出す読者もいるでしょう。
 ミツバチのモチーフと詩の主体との織り成す構造はそれほど客観的ではなく、読者の主観によっていくつかの異なる構造が見出される可能性があります。読者の批評眼が試されるのは、まさにそのような、いくつかの構造認識の可能性がある場面においてです。凡庸で表面的な構造認識をするのではなく、より深く、あるいはより複雑に、本質的な構造を見抜く。そのような構造認識ができることが、より良い批評をすることにつながると思います。
 次に一連目「幾重にも層をつくる/日射しのプールの水面下」。ここで「日差しのプール」とは比喩であり、日が射している空間を、あたかも水が充満しているプールであるかのように見立てています。この「水面下」という場所が、「緑樹の濃い反射がほしい」場所なのか、あるいは「ミツバチの唸りが耳もとをかすめる」場所なのか、判然としません。ここの構造も客観性が弱いものであり、読者の批評眼が試されます。ですが、このように構造認識がかなり難しい場面においては、むしろ構造の不安定さが際立ち、その不安定さが読者を幻惑するレトリックとして機能しています。構造の不安定さはレトリックとして、テクストをより詩的にします。
 詩の構造の認識は、「良い/悪い」「うまい/へた」「面白い/つまらない」といった評価に比べて、ずっと中立的な詩の認識の仕方です。ですが、詩の構造の認識は、価値において中立的であるからといって、必ずしも客観的であるとは限りません。上で見たとおり、詩の構造のとらえ方には客観的なものもあれば主観的なものもあります。そして、主観的な構造認識が展開されるフィールドにおいて、より良い批評が生まれたり、テクストの「詩らしさ」が高まったりします。詩を読むときは、ぜひその構造にも注意して読んでみて下さい。
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by sibunko | 2012-10-25 02:29 | 初心者への詩論(詩と向き合う)

6.列挙する能力

列挙する能力

 血が流れた、青髭の家で、――屠殺場で、――円形競技場で。(「大洪水のあと」ランボー、宇佐美斉訳、『イリュミナシオン』所収)

 文章には流れがあります。それは、時系列に沿ったストーリーの流れであったり、論理を積み立てていく論証のながれであったり、思いついたことに即して筆に随い続いていく自然な心情の流れであったりします。これらのストーリーの流れ、論証の流れ、心情の流れによる文章の進行を「縦の進行」と呼びましょう。この縦の進行は、人間の思考・感情の流れに自然に即したもので、このような精神の進行はそれほど抵抗をうけません。
 それに対して、引用部のように、ストーリーや論証との関係で同じ位置にあるものを列挙していく文章の流れがあります。「青髭の家」「屠殺場」「円形競技場」はすべて「血が流れた」場所を表すという意味で論理的に同じ位置にあります。また、おそらくそれらの場所ではほぼ同時に(あるいはストーリー上時間のずれが問題とされずに)血が流れていて、それらはストーリーとの関係でも同じ位置にあります。過去と未来、前提と結論のように、違った位置の間をつなぐ進行ではなく、同じ時間、同じ論理的な位置をつなぐ進行のことを「横の進行」と呼びましょう。横の進行は、同じ時間、同じ論理的な位置にあるものを列挙することによって実現されます。そしてこの列挙は縦の進行ほど人間にとっては自然ではなく、それをなすには多少の能力が必要です。それが列挙する能力です。
 引用部を含む散文詩である「大洪水のあと」は、引用部よりもひとつ上の次元でも列挙を行っています。大洪水のあとの状況を、野兎や宝石、小舟、血、ビーバーなどのモチーフを用いて、並列的に描写しています。ではそのような列挙にはどのような効果があるのでしょうか。
 先の引用部を、同じ「大洪水のあと」の次の部分と比較してみましょう。

 村の広場で、少年が両腕をぐるぐる振り回した。するとその合図は、あちこちのさまざまな風見や鐘楼の雄鶏の風見によって理解された。

ここには「少年が腕を回す」→「風見がその合図を理解する」という因果系列・時系列の流れがあり、詩行はそれに沿って縦の進行をしています。ここには、イメージの飛躍や空間的な広がり・断絶はそれほど感じられません。誰かが合図を送りそれが理解されることはよくありうることであり、合図と理解されることの間は連想によって容易に接続されます。また、合図を受け取っているのはせいぜい広場の周囲の風見だけであり、それほどの空間的な広がりはありません。また広場と風見は近接しているため、そこに空間的な飛躍・断絶も少ないのです。
 それに対して、初めの引用部では、「血の流れる場所」というそれだけの条件の下、「青髭の家」「屠殺場」「円形競技場」が並列的に列挙されています。これらの場所に共通するのは「血の流れる場所」であるという一点だけで、これらの場所が並列される必然性は全くありません。縦の進行においては文の接続が連想によって容易に行われていたのに対し、ここでは、「青髭の家」から「屠殺場」を連想することは決して容易ではなく、恣意的であり、「青髭の家」と「屠殺場」の接続には何ら必然性はありません。それゆえ、「青髭の家」から「屠殺場」に詩行が進行していくときにはイメージの飛躍が伴います。また、「青髭の家」「屠殺場」「円形競技場」は近接している必要が全くなく、互いに遠く離れていても一向に構いません。それゆえ、ここには互いに遠い場所の間の空間的な断絶と、遠い場所を結びつける空間的な広がりがあります。
 縦の進行に比べて、列挙による横の進行は、イメージや空間の飛躍、そして空間の広がりにより、詩に驚きと壮大さを与えることができます。それゆえ、列挙する能力は、詩を書く上で重要な能力と言えます。
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by sibunko | 2012-10-25 02:27 | 初心者への詩論(詩と向き合う)