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一方井亜稀『疾走光』(思潮社)

一方井亜稀詩集『疾走光』について


 一方井亜稀の詩集『疾走光』(思潮社)は、とても視覚的な作品群からなり、そこでは詩の主体の目に映る物事が淡々と描かれていき、またその物事と詩の主体の内面とが相互に影響しあっている。彼女の詩編は恐らく虚構を志向していない。むしろ、固有の自己の紡いでいく出来事の並列が彼女の詩編を構成しているのである。だがもちろん、彼女の詩編は全くのノンフィクションではない。外界の物事、自らの内面のありよう、それらをとらえるのには常に解釈が挟まるし、外界や内界の出来事のうちどれをピックアップして詩編の内へ描き込むかにあたって、彼女の微妙な価値判断が混じるからだ。

車道と歩道を分かつ段差はなく
延々とガードレールが
つづくみちを歩きながら
ガードレールには
傷があることに気付く これは
こすったあとなのか かなしい
事故のあとなのか
骨を折ったり
内臓が腐ったり
するのはいやだな このときは
まだ ひふ の在り方を
軽視していた
       (「ぬりかえられてゆく、途上で」)

 このように、目に映るものを端的に描写し、それによって触発された心情をこれまた端的に描いていく、というのが彼女の基本的な詩作法である。ところで、このような記述は、歴史記述と似ていないだろうか。世の中で起こる一回きりの出来事を端的に記述し、何をどのくらい記述するかは記述者の主観によって左右される。そして、出来事については記述者の主観的な解釈が混じる。このような意味で、一方井の詩と歴史記述は相似しているように思われる。
 もちろん、通常の歴史記述は社会の出来事について行われ、一方井の詩作品は彼女の個人的な出来事について行われる。その差異はあるだろう。だが、社会についての史的記述と同様に、個人についての史的記述も考えることは可能なわけであって、それは「個人史」とでも呼ばれるべきものである。
 歴史の根源には、世界の諸力の細かな発現がある。ふと風が立ったり、木の実が落ちたり、誰かの脳裏に記憶が蘇ったり、誰かが誰かに意思を伝えたり、そのような、個別で些細な力の発現が歴史の根源にはあり、それは世界の網羅的で間歇的な発光のネットワークである。そしてそのような微細な諸力の発現が、様々な偶然に触発されて、より大きなシステムを形成していく。世界は均質ではなく不均衡であり、それゆえにその不均衡に触発されて様々な運動が発生して、より上位の不均衡なシステムを作り上げていく。社会の構造や大きな社会的事件は、歴史の根源にある微細な諸力と基本的な構造に偶然が作用することによって創発されるのであり、そのようにして創発されたより大きな出来事はその根源に還元できない独自の在り方をしている。
 さて、一方井の詩編も、彼女の身辺の出来事や彼女の内面の出来事を言語的にまとめあげた一つのシステム、「物語」のシステムとして読むことが可能だ。物語とは事実の記述によって変化を説明するものであり、物語作者の織り成すテクストであり、世界の根源的な「存在のカオス」に一定の筋道を与えるものである。実際、引用部では、詩の主体は道を歩きながらガードレールの傷に気付き、そこから事故のもたらす結果を嫌がっているのである。「道を歩く」という物語の導入から、「ガードレールの傷に気付く」という物語の展開、そして、「事故の生々しさを厭う」という主体の変化・結末へと物語のテクストは編まれていくのである。この際、一方井を取り巻く微小な出来事はほかにも無数にあったはずだし、一方井の内面ももっと複雑だったろう。だが、一方井はそのような存在のカオスから物語的な秩序を創発させ、そこに彼女が表象可能な筋道を作り上げるのである。そしてその筋道は、内面と外面の不調和、つまり、安穏に道を歩いていたらふとガードレールの傷があったという、内面の安定性と外面の不安定性の不均衡により生じているのである。
 だとすると、一方井の詩編は一つ一つが彼女の自己に関する物語であり、その集積であるこの詩集もまた、彼女にとって重要な部分を占める物語的歴史ということになるだろうか。

無色透明の風が吹き
橋の袂の古本屋から
黄ばんだ紙の匂いが
薫って来ていた
それは
遠い人の
吐息のように漂って

先刻
中折れ帽をかぶった人が
この道を
通らなかったであろうか
       (「川端にて」)

 物語の体裁を整えた歴史というものは、「それが何であるか」を明らかにするものとして発されてきた。それは典型的には国家の歴史であり、その国家がどういうものであるかを明らかにし、その国家のまとまり・同一性を作り上げ、さらにはその国家の正当性・正統性を主張するものであった。同じように個人の歴史というものも、その個人が何者であるかを明らかにし、その個人の自我の確立に不可欠のものとなっている。だが一方井の詩がそのような公的な自我を説明するものではないことは明らかである。一方井の詩を読んでも、彼女の素性や経歴がわかるわけでもない。詩は、公的に外側から要求される物語の規範に従うのではなく、むしろ詩人自身の感性の様式を公的な場に開いていき、公的な物語の場にさざ波を立てていくものであろう。
 そして、物語としての歴史は、出来事をすべて、整った言語のテクストの中に織り込もうとするが、一方井の詩は、そのようなテクストの外部へともまなざしを向けていないだろうか。あるいは、一方井の詩は、それ自体がテクストであっても、テクストとして整わないことにより、その背後にある真の存在のカオスを指し示すものではないだろうか。
 引用部を見てみよう。初めの連と後の連の間には、因果的であったり法則的であったり時間的であったりする関係は弱い。後の連はそれまでの因果の流れや時間の流れを破るように突如出現するのであり、そこでは導入―展開―結末のような物語構造はとられていない。だが、そのような物語の枠組みから外れた詩行の展開こそ、一方井の詩作当時の感慨をよく表しているのである。つまり、心象が連続せず様々な想念が不意に湧いてくるという心理状態である。そして、後の連では、「中折れ帽をかぶった人」の通行についての瞬間的な錯覚を語っているわけであり、それは言語以前、さらには知覚以前のあいまいな領域へと読者を誘っていく。歴史とはそもそも、微細な事象が不均衡なまま運動し合い発光し合う存在のカオスに根差しているわけであり、その根源においては表象の困難なものである。一方井のこの錯覚の瞬間への導きは、そのような表象困難な歴史の根源へのまなざしだと受け止めることができる。だから、初めに読んだ詩行もまた読み返されなければならない。一方井の詩は確かに物語的な部分もあったわけだが、そのような物語的な部分でさえ、常に歴史の根源にある存在のカオスにより創発され、また存在のカオスへとまなざすものであるのだ。

魚の線はあらゆる線となり
あくまで目を合わせずに会釈する老人の背骨
またはブラウン管に映るあらゆる背骨の線
朝の食事の最中にも
テレビに見とれて袖を汚す間にも
白い陶器は魚の線であるあくまでも
遠くを見る眼は夏の陽を抉ろうとして
テレビの中から あるいは
水槽の中から眺める部屋もまた水槽である
遠くを見たがる両の目も
捲る本の文字も
手渡される
みんなみんな
白いページに丁寧に
並んでいた
光だった
       (「夏の光」)

 ここに至ると、もはや一方井は単に歴史を「記す」作業をしているだけではなく、積極的に歴史を「創る」作業をしているように思われる。詩を書くことは、公的かつ規範的に定められた物語のテクストを作ることではなく、自ら公的な場に問いを発していく個人史を書くことであった。だが、そのような上位システムとしての個人史は、それ自体を一つの下位システムとして、新たな上位システムが創発するために運動の場を設定することが可能である。引用部では「魚の線」が他の様々な線に重ねあわされていく。それは一方井のれっきとした個人史の一部である。だが、異質なもの同士が重ねあわされていくことによって生じる不均衡は、読み手のイメージに新たなる運動を巻き起こすだろうし、読み手の批評のフィールドに何らかの上位システムを作り出すだろう。すべてが「光だった」と断言するくだりにしても、それは一方井にしては純然たる事実であろうが、それ自体不均衡な存在のカオスの一コマとして、読者の中に新たなシステムを創発していくだろう。
 一方井の詩は、歴史記述に相似するが、物語として構成された歴史ではなく、飽くまで世界の根源にある存在のカオスから偶然的に創発されてできたテクストである。そのテクストは公的な物語規範に沿うことなく、むしろ公的な物語の場に問いを発していくタイプの個人史である。そして、彼女の詩は、表象困難なものや世界の根源へまなざすことを忘れず、さらにそれ自身が一つの下位システムとして読者におけるより上位のシステムを創発する歴史創造行為の産物である。
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by sibunko | 2013-07-05 13:56 | 現在の詩人たち