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2.谷川雁詩集

2.谷川雁詩集


東京へゆくな


ふるさとの悪霊どもの歯ぐきから
おれはみつけた 水仙いろした泥の都
波のようにやさしく奇怪な発音で
馬車を売ろう 杉を買おう 革命はこわい

なきはらすきこりの娘は
岩のピアノにむかい
新しい国のうたを立ちのぼらせよ

つまずき こみあげる鉄道のはて
ほしよりもしずかな草刈場で
虚無のからすを追いはらえ

あさはこわれやすいがらすだから
東京へゆくな ふるさとを創れ

おれたちのしりをひやす苔の客間に
船乗り 百姓 旋盤工 坑夫をまねけ
かぞえきれぬ恥辱 ひとつの眼つき
それこそ羊歯でかくされたこの世の首府

駈けてゆくひずめの内側なのだ


 谷川雁は、単に見たことや感じたことや考えたことを叫びたてた詩人ではありません。そのように、「私」「僕」という一人称の閉ざされた独白として詩を書いていたわけではないのです。彼の中には、自然や農村共同体や、「あなた」「君」という二人称、そして「社会」「彼ら」「それら」という三人称が複雑に交錯していたのです。
 「東京へゆくな」という題名が示す通り、この詩は「あなた」に対して向けられています。「立ちのぼらせよ」「追いはらえ」など、「あなた」への呼びかけがこの詩にはたくさん出てきます。ですが、ここでいう「あなた」は特定の誰かではないし、かといってまったく空虚で言葉尻を合わせるために使われている「あなた」でもないのです。それは、不特定多数の「あなた」、呼びかけの場に常に存在しているけれど、無数の人が入れ代わり立ち代わり交替していく「あなた」なのです。だから、谷川の呼びかけは決して恋人同士の閉ざされた空間に収まるようなものではないし、誰かを特別扱いしてその人にだけ呼びかけるのでもありません。それはあらゆる人に対して開かれている、というよりむしろあらゆる人に対して開かれていたい、より多くの人に伝えていきたい、そういう呼びかけなのです。
 だから、谷川は積極的に他者に呼びかけ、そして積極的に他者からの声を聴く、そのように、他者との応答の関係を重視した詩人であります。そこでは言葉はもはや無責任に発せられるものではありません。谷川は言葉を他人に対して届けるものとして扱っているので、言葉を他人に届けるにあたってその言葉の責任は谷川にしっかり帰属しているのです。閉ざされた空間の中で親密な「あなた」に囁くのではなく、広い空間から呼びかけ応えるべき「あなた」を見つけて、責任を持って積極的に関わっていくということ、谷川の詩の他者とのかかわりの相はその辺りにあります。
 また、この詩には「都」「革命」「国」といった、社会的なモチーフが頻出しています。そしてそれらのモチーフは、例えば「なきはらすきこりの娘は/岩のピアノにむかい/新しい国のうたを立ちのぼらせよ」の部分からも分かるように、「娘」や「歌」といったあまり社会的でないモチーフと自在に組み合わされているのです。これは何を意味しているのでしょうか。
 社会というものは単なる個人の寄せ集めを超えたものです。個人が集まっただけで社会ができるわけでもないし、そこに物的施設や物流を加えても社会は生まれません。社会というものは、その部分となる要素の集合には還元できない一つ上の包括的なシステムであり、個人を規律する法則とは別の法則が社会では動いています。社会は歴史によって規定されていると同時に、法や経済などの動的システムによっても規定され、個人には還元できない様々な制度で満ちています。
 重要なのは、個人が社会を形成していくと同時に、社会もまた個人を形成していくということです。社会の内側に個人があると同時に、個人の内側にも社会がすでに入り込んでしまっている。谷川には確かにこの自覚がありました。だから、彼の詩には普通の詩に出てくるような語彙と共に社会的な語彙が頻出するのです。それは、彼が自分の内部に社会がすでに侵入していることを自覚していたからでもありますし、また自ら社会に対して働きかけようとしていたからでもあります。
 このように、谷川は「あなた」という二人称に対して責任を持って積極的に働きかけ、また働きかけられただけでなく、「社会」という三人称に対してもそれを内面化し、またそれを形成していこうとした詩人でした。だから彼の詩の世界は、単なる個人的な感覚や妄想の世界でもないし、「私」と特権的な「あなた」の閉ざされた世界でもありません。彼の詩の世界は、不特定多数の「あなた」や巨大な「社会」を包み込むと同時に、それらに包み込まれ、互いに呼応していくスケールの大きな世界なのです。



世界をよこせ


まっかな腫れもののまんなかで
馬車のかたちをしたうらみはとまる
桶屋がつくる桶そのままの
おそろしい価値をよこせ 涙をよこせ

なめくじに走るひとしずくの音符も
やさしい畝もたべてしまえ
青空から煉瓦がふるとき
ほしがるものだけが岩石隊長だ


 美的なものと政治的なものは結びついています。ここで「政治的」であるとは、受け手に対して何らかの権力を行使することを意味することにします。権力の定義はいろいろありますが、そのなかでも、(1)相手を思い通りに動かす力、(2)相手の内面に自身を監視する傾向性を生み出す力、に注目することにします。
 さて、この詩では「世界をよこせ」「価値をよこせ」「涙をよこせ」と受け手に対して命令しています。受け手は何か思いもかけなかったことを強制されているような気がして気分が動揺するでしょう。そして、谷川のあくなき欲望に飲まれて、実際この人に自分のちんけな世界やちんけな価値やちっぽけな感傷など渡してもいいかな、などと思うかもしれません。反対に、受け手によっては、「ほしがるものだけが岩石隊長だ」という詩句に表されているように、谷川のあくなき欲望に感化されて、自らも世界や価値に対して貪欲に欲望の触手を伸ばしていくかもしれません。
 このように、受け手の気持ちを一定の方角に動かしていくということ、これは美的なものの持つ政治性といっていいでしょう。美的なものは何らかの仕方で受け手の心を動かします。その心を動かすところに権力の萌芽を見て取るのです。美的なものの受け手の動かし方は、その美の内容によって決まります。つまり、作者は、美的なものの内容を決定することによって、それを受容するものを特定の方角へと動かそうとするのです。そのような意味で、上掲した作品などは優れて政治的なものと言えます。
 さらに、美的なものの内容が受け手によって内面化されることもあります。上掲した作品だったら、世界に対するあくなき欲望が受け手によって内面化され、いつの間にか受け手もまた「世界をよこせ」と自ら欲望する主体に変わっていくかもしれません。そのように、美的なものはその内容によって、受け手の内面の傾向性まで変えていく可能性のあるものです。
 だから、詩というものは単純に「創作」と「観賞」という行為だけに閉じ込められるものではないのです。創作において、作者自らも変化するでしょうが、それ以上に観賞において受け手もまた変化していくのです。しかも受け手の変化は単なる知識の量の変化ではなく、倫理的な意味での変化、実践的な意味での変化です。受け手は作品を受容することにより、人生や他者や社会に対する関わり方が変わってくるのです。そして、そのように受け手の実践面での変化をより強く触発する作品こそが、より政治的な作品であるといえるでしょう。
 谷川の詩は受け手に対する呼びかけが強い詩です。受け手に何らかの態度変更を迫る詩だと言っていいでしょう。谷川の詩の政治性の強さは、まさに受け手の現実に対する関わり方を変化させる、その影響力の強さにあります。
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by sibunko | 2013-09-21 12:52 | 谷川雁

海埜今日子『セボネキコウ』(砂子屋書房)

海埜今日子詩集『セボネキコウ』について


 詩を読むときの読者と作品の関係は、典型的には「所有」である。詩行が読者においてよどみなく流れ、詩行の喚起するイメージや音楽が読者において滑らかに受容されるとき、その詩行が「難解」であろうが「平易」であろうが、読者はその詩行を所有する。詩のリズムや美感が読者においてスムーズに共有されるとき、作品と読者は適度な距離を持ち、その適度な距離において成立する関係が所有なのである。近すぎるものは所有できない。例えば自己は自己を所有できない。自己は自己「である」ほど自己に近い存在であり、そのような自己は自己を所有しているわけではない。反対に、遠すぎるものは所有できない。所有とは支配や処分可能性であって、そのような力の及ばないものを所有することもできないのである。作品は言語というコードを媒介にして、そのリズムやイメージを読者に対して近すぎも遠すぎもしないところでシンクロさせ、読者がその作品を所有するという関係を築いているのが通常である。そのような所有の関係において、詩行は平坦なフィールドで滑らかに流れていき、読者は作品をスムーズに鑑賞する。

くうふくをおさえて、ぎょうかんをでかけた。おとこにかかげず、そしゃくのすすんだかんたいをみつけようとしたのだろう、しょもつたち。きっかけがこきょうをとおざけることもあるのです。でんぶんはそらからふって、つもって、ひっぱりますか、ろうとのようにくちをあけ、あたしはとてもとりをまっていた、
       (「雁信」)

 だが、そのような「読者が作品を所有する」という安定した距離感が成立していない作品群として、海埜今日子『セボネキコウ』(砂子屋書房)を採り上げることにする。海埜の作品に特徴的なのは、まず本来なら漢字で表されるべきところをひらがなを用いて表している点である。読者はここでつまずきを感じるだろう。「そしゃくのすすんだかんたい」とあるが、「そしゃく」はたぶん「咀嚼」だろうな、「かんたい」は「艦隊」なのか「歓待」なのか、いずれかなのだろう、などと、ひらがなを音から意味へと変換する必要性が出てくるのである。言葉はそれ自身として、そもそも意味と不可分なものである。言葉が記号であるとして、記号と意味内容を分離するのは、言葉の素の受容の仕方ではない。言葉は響きと意味と「共に」、響きと意味「それ自体として」与えられるわけであり、そのように受容されるのである。
 ところが、海埜は、そのような言葉の滑らかな受容を妨げようとする。通常漢字表記されるような部分について、読者は当然漢字表記を予想するわけであり、その漢字表記において、その言葉の響きと意味は平坦なフィールドで滑らかに受容されるのである。そのとき、読者は詩行を所有しているといえるだろう。ところが、海埜は、ひらがな表記によって響きをより一層独立させ、意味に対して距離を作り、そこでは読者は詩行に対して「隔たり」を感じるのである。「でんぶんはそらからふって」と書かれてあるとき、「でんぶん」はその響きだけが妙に拡大され物質化されて、意味伝達の媒体となることを拒否しているかのようである。「伝聞」と書かれたときに比べて、その響きもどこかすぐにもぐりこんでこないものとして遠いものと感じられるし、その意味も漢字への変換を介しなければならないほど遠いものである。読者は海埜の詩行を所有することができない。所有するだけの扱いやすさがないし、所有するだけの近さがないからである。

祭りのきれたあきないだった
ひよこたちのほうりなげ
がらすのはこにしまおうか
まだみぬおんなにうめようか
       (「卵売りの恋」)

 海埜の詩の所有のむずかしさ、その隔たりについては、文法の次元でも同様のことが言える。「祭りのきれた」と書かれる場合、「きれた」が「切断」を表すとするならば、本来なら「祭りがきれた」と書かれるべきである。「きれた」が「不充足」を表すとしても、「あきない」において「祭り」が不充足であるというのは意味が通りづらい。ここでは、言葉の流れやリズムがスムーズに読者に渡されないし、意味もまたスムーズに渡されていない。読者は詩行を所有することができず、やはり隔たりを感じるだろう。
 だが、海埜の詩はそのように単純に隔たりを作り出すだけなのだろうか。逆に、読者に対して近すぎる接近も行ってはいないだろうか。例えば先に挙げた「そしゃくのすすんだかんたい」は、読者による適度な距離化をすりぬけることで、読者にそのありのままの姿で襲ってこないだろうか。読者はそのようなコードを外れた言葉に対して無防備である。適切な所有のすべを知らないのである。海埜の言葉はそのような無防備さを突いてきて、所有するよりももっと近いところへと読者に迫ってこないだろうか。それは、読者による言葉の所有に先立って、読者の内部へと、その同一性の中へとも突き刺さる「他なるもの」であり、読者はそれが自己の内側へと不意に襲ってくるのを感じるだろうし、その他なるものとの近距離での交響を強く感じるのではないだろうか。
 言葉は、響きと意味と流れとリズムがそれぞれ分離されずに融合してあるものであり、そのような融合のままに相手に手渡されるとき、そこでは相手が言葉を所有し、相手と言葉の間の平坦な対話が生じるのである。だが、海埜は、そのように本来なら融合してあるであろうところの響きや意味や流れやリズムを初めから分離して相手に手渡す。響きは響きとして際立ち、意味もその不明性により異物と化し、流れもまた順当にはいかず、リズムも不規則なものとなる。そのようにして海埜の作品と読者の間には滑らかな対話が生じず、一方で言葉は読者から遠く隔たり、他方で言葉はそれそのものとして読者の懐に突き刺さる。
 さて、ここでは何が起こっているのだろうか。ここではまず、作品と読者との関係性が膨らみを持ってくる。作品は読者の所有による平坦なフィールドの中でのみ展開するのではない。作品は読者の所有という距離感を外れて、限りなく遠く、同時に限りなく近いものとして、読者との間に大きな空間を作り出す。海埜の詩の生み出す響きや意味や流れやリズムは、そのような大きな空間の中で無限にこだまを繰り返していくのである。
 それと同時に、ここには詩を観賞すること自体への問題提起も含まれていないだろうか。詩とはそもそもよく分からないものであったはずだ。読者は初め詩に対して隔たりを感じながら接していたはずである。だが、詩を読むことになれるにつれ、読者はよく分からない詩であっても、そのリズムやイメージや流れをスムーズに楽しむことができるようになってくる。読者は詩の観賞になれてしまうのである。だが、海埜の作品は、そのように詩の観賞になれた、詩を所有するすべに長けた読者を再び、詩を読み始めたころの原点に回帰させるのである。そこでは詩は限りなく隔たっており、また不意に読者の内奥にまで迫ってくるものであったはずだ。海埜の詩は、それが安易に所有され、安易に鑑賞されることに対してささやかな抗いをすることにより、読者に詩を読むことのより初源的な興奮を味わわせることができる。
 そしてなにより、海埜の詩においては言葉が逆説的に生命を回復しているように思われる。言葉が生きている、といったとき、それは言葉が平坦なフィールドでスムーズに流れていることを意味することが多いかもしれない。確かに生命の通常な働きにおいて、生命は自動化しているのであり、何も違和がない状態において生命は通常の生を生きている。だが、海埜の詩においては、言葉が、その響きにおいても意味においても流れにおいてもリズムにおいても、それぞれが独立に目立ち始め、言葉がその自動的な流れをやめて、そのそれぞれのパーツのありのままの姿を再認識させようとして迫ってくる。言葉が自動化をやめる、つまり正常な働きを幾分停止することによって、その言葉のありようを可視化してくる。人間が日々の生活の合間、不意にその自動的な生を停止して「自分は生きている」と実感するときのように、言葉もまた、その自動的な流れをわずかに停止させるとき、逆にその生命を再確認するのではないだろうか。
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by sibunko | 2013-09-01 14:45 | 現在の詩人たち