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たなかあきみつ『イナシュヴェ』(書肆山田)

たなかあきみつ詩集『イナシュヴェ』について


 詩は言語を用いる作品であるが、その伝達においては概念的コミュニケーションよりはイメージコミュニケーションの果たす役割が大きい。もちろん、論理的に明快である詩もあるし、感情が明快に伝わってくる詩もある。そういう詩作品においては、言語が概念として論理的に機能し、あるいは言語が感情の伝達を媒介するものとして滞りなく機能している。そういう詩作品を前にした読者は、「この詩はこういうことを言っているんだね」と容易に理解することができる。
 だが一方で詩は、言語にうまくなじまないようなものも言語を媒介に伝達してしまうものであるし、作者の方でも言語にうまく回収できないものをぎりぎり言語化して伝達するものでもある。言葉が概念を伝達するテクストの典型的なジャンルは論文であり、言葉が物語や感情を伝達するテクストの典型的なジャンルは小説である。詩はテクストの諸ジャンルの果たす諸機能から漏れ落ちた隙間の機能を果たすジャンルであり、それを考えると、概念や物語、感情という理解しやすいものを伝達する諸ジャンルと一線を画すところに詩の純粋性はあるのではないだろうか。そのような詩の純粋性を如実に示す詩集として、たなかあきみつの『イナシュヴェ』(書肆山田)を採り上げることにする。

鶏卵と喉笛を瞬時に変換するかのように
バサッと幾何学の外へ断ちおとされる風景
ノイズの地肌でしかないそこへ
それまで視線だった瘡蓋や錆の断裂が群れをなして漂着する
てんでに火気をおびた原景の破線はひたすら砂呼吸
声の痣はなめし皮からもウィスキイの獣毛からも
やおら発着を繰りかえし
風のレンズで発吃しては
その熱から波状的にブレつづける
       (「闇の線」)

 たなかの詩はこのように、硬質なイメージを次々と射出し、しかもそのイメージの連結は屈折的であり、全体として「では何を言っているか」というのをうまく説明できない作品が多い。「鶏卵と喉笛」を「変換」するといったとき、そこで読者に一番よく伝わるのは、「鶏卵」「喉笛」「変換」というイメージではないだろうか。そして、この意味的には不自然であるつながりを生み出している知性や感覚の働きがよく伝わってくる。概念や感情が意味として自然に伝わってこない、概念や感情を読み取るには高度な解釈作業を必要とする、そのような詩行であるけれども、そこにはうまく言葉にできない或る感覚と知性が働いている。「幾何学」という論理的な概念も、「幾何学の外へ断ちおとされる風景」という具合に、視覚や運動感覚と共に与えられることで概念としての純粋さを失っている。「声」という切実な印象を残しそうな言葉も、「声の痣」という不思議な結合によってその感情的な意味合いが薄れ、抽象的になり、あるいは触覚と混ぜ合わされる。そして、このような概念や感情が詩行において自在に操作されるとき、作者において働いている、あるいは読者に向かって伝わってくる、うまく言葉にはできない繊細な知性と感覚があるのである。
 たなかの詩は、できあいの慣用句を並べたものではない。常に自らの深部へと手を伸ばし、そこに漂っている様々なイメージの感覚を確かめながら、その中でもたなかの感性の様式に照らして美的に整合的であるものをつかみ取ってくるのである。この際、たなかの深部にあるイメージは、単純に視覚的なものではないし、単純に聴覚的なものでもないし、単純に触覚的なものでもない。たなかの深部にあるイメージは、五感を統合する第六感のようなもの、「共通感覚」とでもいうべき諸感覚を統合する器官によって保持され、また探られていくのである。例えば「風のレンズで発吃しては」という詩行を見てみよう。風を感じるのは触覚であり、レンズをのぞくのは視覚であり、吃音の感覚は体性感覚である。だが、この詩行から読者の受けるイメージは、一つの感覚に限定されないイメージであり、それらの諸感覚が連合して一つ高次のものになったイメージであろう。

指先で撃ちおとされる前に永代橋から左方向を眺めれば
トラックの群れがぎしぎしジュラルミンの隊列をなして
象のたわんだ鼻のようにスロースローで生き急ぐ

ブランコなればこそよじれても影の肢体は着地せよ
命綱のタップダンスのかかとをもっと気ままに踏み鳴らせ
影のゆれにゆれる消息をいちずに銀の闇のシンバルにして!
       (「レジェンドにあらず」)

 まず、右の連の内容は、大雑把にいえば「トラックが群れを成している」ということである。ところがたなかがそれを表現しようとすると、そこに様々な知が働いているのがよく分かるだろう。なぜか「指先で撃ちおとされる前に」という奇妙な状況が付加され、「ジュラルミンの隊列」という発見的な認識が付加され、「象のたわんだ鼻のように」という意外な比喩が付加され、「スロースロー」と「スロー」が面白く強調されている。これらの様々な知のひらめきについてはたなか自体もうまく説明できないに違いない。だが、たなかの詩の知的な魅力は、そのような暗黙の技術的な知によって作り出されているのであり、それがなかったらただの単調な作文で終わってしまうし、ただのイメージの羅列で終わってしまう。
 また、たなかの詩行には命令などのニュアンスが付加されていることがしばしばある。「着地せよ」「踏み鳴らせ」のように。ここではニュアンスが付加されていると同時に、詩行がひとまとまりとして統合されているのがよく分かるだろう。命令でなくとも、「眺めれば」のような条件であるとか、「生き急ぐ」のような断定であるとか、とにかく詩行を一つ終えるにあたって、たなかはその詩行に何らかの統合と意味付けをしようとしているのがよく分かる。たなかの詩行は多方向に屈折しているからこそ、その終わりにおける締めの部分の統一が際立ってくるのだ。ところで、このようにいちいち統一を志向するような詩行を生み出すにあたって、たなかは詩行、ひいては詩全体を包括するような知性を働かせているのがよく見える。それは、イメージが多方向に屈折している詩であるからこそよく見える働きであり、そのような細部から全体への包括において働いている知についても、たなかは自らうまく説明できないであろう。
 詩は単なる短い小説ではないし、短い論文でもない。そして詩は単なる安易な表現方法なのでもない。詩が自律的な独立ジャンルとして存続している理由は、詩が他ジャンルがそれほど熱心に扱わないような、言葉になりにくい知や感覚を研ぎ澄ましているからである。もちろん、概念や感情という説明しやすいものを扱う詩があっても構わない。だが、詩というジャンルが優れている点は、それが説明しにくい、言葉では表現しにくい、知や感覚をメインに取り扱っているからであり、その方向性に純化した作品としてたなかの作品を採り上げたのであった。たなかの作品においては、諸感覚を統合する共通感覚が鋭敏に働いており、それが作品のもととなるイメージを保持し探索する際に活発に働いている。そのような共通感覚の働きは、詩によってきちんと伝達され、読者の感覚を刺激するものであるが、かといってそれがどんなふうに働いているかはうまく説明できないものである。一方で、たなかの作品においては、イメージの思い付きや連結、全体の構成などについて、言葉ではうまく説明できない暗黙的な知が働いており、だがこのような知性もまた読者には非常によく伝わってくるのである。
 詩はコミュニケーションに失敗しているのではない。分かりづらい詩というのは概念や感情によるコミュニケーションを初めから狙っていないだけであり、感覚や知によるコミュニケーションは、むしろそのような詩の方が優れているのである。そして、そのような詩は詩のジャンル的特性を純化させた作品であり、ジャンルの存続にはそのような作品が書かれ続けていかなければならない。たなかの詩はジャンル純粋的な作品であり、このような詩が書かれ続けているからこそ、詩は他ジャンルに包摂されず、他ジャンルに従属せず、その独自の領土を保持し続けているのである。
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by sibunko | 2013-10-26 01:57 | 現在の詩人たち