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峯澤典子『ひかりの途上で』(七月堂)

峯澤典子詩集『ひかりの途上で』について
            

 峯澤典子の詩集『ひかりの途上で』(七月堂)を読んだ人は、大方がその美しさに感嘆したことだろう。だが、ここで言う「美しさ」とはいったいどのようなところから発生しているのだろうか。

闇にまぎれかかった一羽の鳥が
翼が濡れるのもかまわず川面すれすれに落ち
空の在りかを示すように
ふたたび飛び上がっていった
異郷において
無意識に空を見上げる目の高さに
果てはなく
そうした高さに救われるこころにも
終わりはない、と思い
もし果てがあるとすれば
その先に広がる星夜を
なんと呼ぶのか
わたしはいちども
優しいひとに尋ねずに
帰国した
       (「ある瞳」)

 「詩はイメージを用いる」とよく言われる。だが果たして詩は単に「イメージ」によって印象を引き起こすだけなのだろうか。「イメージ」とは多くの場合、言葉がテクスト内で成立させる感覚の基となるものを指すように思うが、果たして詩はテクストや感覚といった表層でのみその美を開くものなのだろうか。恐らくそうではない。詩は言葉を用いて、具体的な我々に対して具体的な働きかけをする。それは、我々が生活していく基底の次元に働きかけてくるものであり、単なる感覚上の印象で終わるものではない。例えば「闇にまぎれかかった一羽の鳥」とは、実際に生活しているときの我々に対して迫ってくるものなのである。この詩行は、我々が夕方川辺を歩いているときに「一羽の鳥」が近くの空を飛び上がっていくのを目撃する状況を設定する。そして「一羽の鳥」は、その速さや鋭さ、飛翔感や高さの感覚を我々に与え、我々をふと立ち止まらせ注視させる、そのようなものとして現れているのである。もちろん詩は現実自体ではないから、現実ほどの体験の強度を我々にもたらすものではない。だが、普通に「イメージ」と呼ばれているものの背後には、たとえ言語によって希薄化されたにせよ、我々が実際に生活していく上でそのイメージの具体化したものが我々にとってどのような意味と価値を担っているかが潜在しているのである。
 事物はそれ自体として意味や価値を持つ。事物は、それについて我々がどんな行為をすることができるかを知らせる特性を持っているのである。つまり、環境は、我々の行動が組み込まれるような生態学的出来事を生じさせる特性を持っている。例えば椅子は人間に座ることを提供し、壁は避けることを提供する。行為の開始・続行・変化・停止をもたらすような客観的な性質(「アフォーダンス」と呼ばれる)を環境は備えているのである。もちろん、環境の持つ意味合いは、それに向き合う個人によって多少は異なってくるだろう。だが、だからと言って環境の持つ意味合いは個人によって主観的に異なるのではなく、環境がそれらの意味合いの束を客観的に備えているというのが正しい。
 峯澤の詩編は、環境を多く描写することによって、豊かな生態学的環境を作り上げている。例えば「異郷」という言葉が出てくるが、これは読者に憧れのような気持ちを抱かせ、想像を膨らませ、ロマンチックな印象をもたせ、異郷との隔たりを感じさせるだろう。これらの読者の反応を生み出す「異郷」の働きかけが、「異郷」の生態学的な意味なのである。だが、この生態学的環境は何も自然だけではない。この引用部では「優しいひと」というのが出てくるが、人間もまた読者に生態学的な働きかけをしてくるのだ。優しい人は、人間の甘えるという行為を誘発したり、話しかけるという行為を誘発したり、和やかな気分を誘発したりする。そして、詩の抒情性とは、畢竟この作品中の言葉が生み出す読者への働きかけなのではないだろうか。抒情性とは、作者が自らの感情を吐露することにあるというよりは、作者の生み出す作品世界が豊かな生態学的な意味を担い、読者に生活に根差したような情緒的・知性的・意志的反応を引き起こすこと、そこに本質があるのではないだろうか。

 出産後すぐに、搾乳、という言葉を覚えた。生まれた子は別の病棟で眠っていた。飲むもののいない母乳を自分で絞り、専用の容器に入れて冷凍保存する。赤ん坊が自力で乳を吸えるまでに回復したら、それは解凍され、哺乳瓶に移される。
 赤ん坊と離れていても、小さな空腹を見透かすように、母乳は乳房に迷いなく満ちてきた。乳房の丸みから乳輪に向かって、肉をつまみ上げるように親指と人さし指に力を入れると、乳房の張りがふとゆるみ、生温かい雪解けが広がる。どの一滴も無駄にしないよう、もう片方の手でおさえた器で慎重に受け取る。
       (「夏の木」)

 さて、子を産んだ母と子の関係は豊かで複雑である。子は母親に対し様々な行動を要求する。母親は子という存在に対して、搾乳という行為に導かれるのである。もちろん、ここで明示的に語られてはいないが、子の存在は母親に大きな喜びをもたらすだろうし、母親の人生に対する思想を幾分か変化させるだろう。そういう意味で、子は母親に対して非常に豊かな生態学的意味を持つ。つまり、子は母親に対してきわめて抒情的なのである。先ほどは、詩作品が読者に対して持つ抒情性を、作品による読者への働きかけの次元で検討したが、それよりも作品は第一次的には作者にとって抒情的なのである。
 峯澤は、人間をすっぽり包み込んでくれるような温かく豊かな生態学的環境を作品として作り出すという意味で作品の抒情性を高めていた。だが、それ以前に峯澤は、自らが具体的に生活するうえで、環境が働きかけてくるものの豊かさにとても敏感なのではないだろうか。自らの生活する空間に微細で多彩な叙情性を読み取ること。峯澤の詩作品の抒情性の強度は、彼女が生活世界の抒情性を極めて豊かに取り入れてくることから生じるのではないだろうか。
 さらに、自己の身体もまた自己にとって抒情的である。この引用部では乳房のふくらみについて書かれているが、それに対して作者は母親としての自覚を強めたり色々な反応をとるだろう。だがそのように描かれる峯澤の母親としての振る舞い、そこに読者としての我々はまた独自に反応していくのではないだろうか。作者は母親として、搾乳という行為を行ったり、乳房のふくらみを感じたりする。その作者もまた読者にとってはひとつの生態学的環境であって、その作者のたたずまいに対して、読者は、好ましく思ったり、羨ましく思ったり、母親がどういう存在であるかを認識したり、様々な反応を返すのである。つまり、作者自身、読者にとっては抒情的なのである。そして、引用部から読み取れるように、峯澤の作者としてのたたずまいは、とても清潔で落ち着いていて端然としていて、読者に美しさを感じさせるものである。

視線を合わせるのも そらすのも
こうして花に姿を重ねるのも、不遜、と知りながら
目はなぜ瞬時に識別するのか
底に満ちる孤独を
底が深ければ深いほど
見つめたあとは すべもなく離れるしかないというのに

すべての花が店頭に並べられ
花屋の扉がいったん閉まると
手折られた庭薔薇も男も 朝日に溶け
丸まった新聞紙だけが
風に運ばれていった
       (「運ばれた花」)

 このように、峯澤の詩編には彼女の倫理的なたたずまいが示されることがしばしばある。「すべもなく離れるしかない」という倫理を語るとき、そこに「法」は設定されない。今まで見てきたように、峯澤の作品を貫くのは、個別の生活の出来事に対し、その豊かさと個別性を十分踏まえたうえで個別に反応していくという働きであって、その個別性を超えた普遍性を定立しようとはしていないのである。その後に続く花屋と新聞紙の記述は、彼女が世界に対してきめ細かな配慮をした結果であり、何かしら普遍的な規範に従った記述ではないのだ。「法」という社会的なものによって規格的に物事を捉えるのではなく、あくまで自己の微妙で規格化されない倫理に従って詩行を紡いでいくということ。そこに彼女の詩の倫理はあるのではないだろうか。
 峯澤の作品は、豊かで温かく包み込んでくるような生活環境を描き、それらの環境が読者に情緒的・知性的・意志的に働きかけてくるという意味で抒情性に満ちている。それだけではなく、作品はまず彼女にとって多様で個別的な意味を持ち、彼女にとってこそ一番抒情的であった。さらに、作品に描かれる彼女のたたずまいも好ましく繊細な倫理に貫かれており、峯澤自身が読者にとって抒情的であった。それは、彼女が規格的な世界を描いたり、規格的な倫理に従ったりするのではなく、あくまで世界や他者に対して個別的で臨床的なケースバイケースの反応をしているから可能になったのである。彼女の詩の美しさは、そのようなところから生まれてくるのだと思われる。



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by sibunko | 2014-03-18 02:47 | 現在の詩人たち

時里二郎『ジパング』(思潮社)

時里二郎詩集『ジパング』について


 詩は詩人の内心の独白であることが多い。そのとき、詩は現実と結びついている。詩に書かれている内容は詩人の内心を指示するし、読者はその言葉に共感したり反感を覚えたりする。だが、そのように現実と対応関係を持つことを拒絶するような詩もある。時里の詩編は現実と対応することを拒絶する。時里は、「この詩編を作り物として読め」というメッセージを明確に発するし、読者もそのメッセージを容易に受け取れる。時里の詩の行っている行為は、「この詩を現実と対応させるのではなくあくまで作り物として読め」というメッセージを発する行為である。そして読者もまた時里の指示通り、彼の詩編を虚構として読むのである。だから読者は時里の詩編に対し共感も反感も示さない。

 大殿のつましい朝食には、乾燥した木の実のようなものが一個、皿に載せられているばかりである。それは極めて堅く、なかなか割れない。大殿は特殊な道具でそれを割る。迷宮のような皺、等高線のような褶曲のある果肉がその中にある。
 苦い。悔恨のように苦い。
 大殿はそれを一時間ほどかけてゆっくりと彼の舌で読む。
       (「食事」)


 さて、この部分が明確に虚構を志向していることは明らかであろう。朝食に木の実一個というのは現実にありえないし、それを舌で「読む」ということも現実にはありえないからだ。このような叙述で時里は自らの詩編を虚構として読むように読者に働きかけているのである。
 ところで、時里の虚構の作り方は、世界の文法をゆがめていくことで成立している。彼の散文詩は明確に一つの世界を作ろうとしているが、にもかかわらずその世界はたくさんの裏切りに満ちているのだ。この点、断片的に書かれる不条理詩とは異なっている。断片的な不条理詩はそもそも世界を作ろうとしない。だが時里は世界を作ろうとしながら、その世界を次々とゆがめていき、最終的に奇妙で整合性の取れていない擬世界が出来上がるのである。引用部を見てみよう。朝食の説明があるが、それが木の実一個に過ぎないというところでまず裏切りがある。朝食についての整合的な説明による整合的な世界形成というものが裏切られるのである。しかもそれは苦いのである。ここでも、食事は美味しいものを食べるものだという普通の期待が裏切られる。さらに大殿はそれを「読む」のである。このようにして時里は、世界形成の身振りを見せながらも次々と整合性への期待を裏切り、奇妙でグロテスクな擬世界を生み出すのである。
 ところで、この奇妙でグロテスクな擬世界はなぜか美しい。読者は時里の詩編を読んで戦慄を感じる。すごいと思う。これはなぜなのだろう。実際にこの引用部にあるような事態を目撃したら、我々は驚愕してものが言えなくなるだろう。それは著しく不快なものに違いない。だが、実際に存在したら不快であるような出来事も、それを虚構のものとして受け取るという約束のもとでは快に転じるのである。それは、グロテスクなものが恐怖を呼ぶだけでなく滑稽味を帯びたものでもあるということとも関係しているし、グロテスクなものの放出が一種の祝祭的な楽しみを生み出すこととも関係している。グロテスクなものの不快は、「それが現実であったならば」という条件のもので発生するのであって、その条件さえ削除すれば残るのは滑稽さや祝祭的な楽しみ、更には弱められた恐怖の快い戦慄である。時里の詩編は、虚構であることを明確に示すことで、グロテスクなものの不快さを非常に低くし、逆に快さを高めているのである。


 帝をはじめ居並ぶ者どもは、初学の者ですら外すのも難しい動かぬ的の鹿が、呼吸を乱すこともなく庭の草を食んでいるのを唖然として見ていた。彼らが声を上げる機を制せられていたわずかの時をうずめるために、李童は静かに弓弦を断ち、その同じ短剣でもって、おのが腕の筋を切ったという。
       (「マカール、或いは旅する山羊」)


 さて、ここでは李童が自らの腕の筋を切るという残酷な描写がある。これもまた現実に目の前で目撃したらとても目を当てられない悲惨な状況である。ところが虚構の中で描かれると、不思議とその残酷さも快いものに変わってしまうのである。それは他人の不幸を喜ぶといったたぐいのものではない。むしろ、時里の叙述の美しさであるとか、その叙述の美しさを読む楽しみであるとか、そういうものによって残酷さが中和されているとは言えないだろうか。さらには、李童の潔さに対する道徳的な賞賛の念。もちろん虚構であるから残酷さが弱められているというのもある。
 残酷さは単純に残酷なのではない。残酷さが虚構の中で与えられるとき、その虚構が精密に織りなされていればいるほど、その精密さに対する読者の感嘆の念は強まる。読者の中には残酷さによる不快と精密さに対する感嘆が同居する。さらには、筋を工夫することで残酷さを和らげることができる。時里はここで、弓の名人である李童が失敗の償いをするために自らの弓人としての生命を絶った、という道徳的な潔さをプロットによって生み出すことで、残酷さによる不快と道徳的な賞賛の念を同居させている。
 時里の生み出す緻密な世界には、不条理だったり残酷だったりする出来事がたくさん生じる。だが、その世界の虚構性を明確に指定し、その世界を緻密に描き、さらにプロットを工夫することで、本来だったら不快であるようなことも、その不快性が薄められ、また他の快楽要因と共在させられることで、美しく快いものとなるのである。


 その<原器>の存在によって、ジパングの存在の根拠が保証されていたのであるが、大殿は、ジパングをわがものにしようという邪心を起こし、その<原器>を私物化しようとしたばかりか、彼の故意によるものか、もしくは過失によるものかはわからぬが、迂闊にも<原器>を床に落として割ってしまったのである。
 その結果、大殿は散りじりになった<原器>の破片を寄せ集め、新たな<原器>の再生を試みるために、ジパングの地誌の執筆に明け暮れているのだというのである。
       (「原器」)


 さて、このようにして時里は明確に虚構であるところの詩編を変幻自在に織りなしていくのであるが、読者としては素直にそれを虚構としてのみ受け取る必要もない。時里の虚構的詩編が、実は現実の何ものかを指示していないだろうか、と深読みするのも悪くない。
 この引用部では、ある国の存在の根拠を<原器>が担っていたとされている。これは様々なことのメタファーになりえないだろうか。しかもその<原器>を元首自身が割ってしまい、その収集に明け暮れるというさまは、きわめて寓意的だと読むこともできる。例えばこれは現実の国の元首の政治的失敗を表すものである、など。あるいは、この<原器>は物質化されてはいるが本当は世界の根本法則を表すものであり、かつて科学的に知られていたその法則が文書の散逸などでわからなくなり再びその法則を見出す過程がここで描かれているのだ、など。
 大体において、虚構の世界でいかに非現実的なことが起ころうと、それは現実の何ものかと寓意的に結び付けることができる。その意味で時里は、現実も虚構をも貫通する出来事の寓意的ネットワークを十二分に利用していると言えないだろうか。実際、彼が非現実的な挿話を思いつく際にも、現実のなにがしかのエピソードが参照されているはずである。とすると、時里は単純に虚構の世界を現実から峻別したというよりも、それを超えて再び現実へと回帰する寓意的ネットワークをも示しているといわなければならない。
 時里の詩は、読者に対し、「これを虚構として読め」と指示してくる。そして読者もその指示を容易に理解する。そして、虚構であるからこそ、グロテスクさや残酷さが、他の快楽要因と相まって快に転じていく。さらには、時里の詩は単純に虚構であるにとどまらない。それは寓意的ネットワークによって現実の様々なエピソードと対応可能であって、虚構と現実を両方とも相対化したところに様々な読みの可能性を開くものである。


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by sibunko | 2014-03-02 11:36 | 現在の詩人たち