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森山恵『みどりの領分』(思潮社)

森山恵詩集『みどりの領分』について


 今の日本では、誰でも理科の教育を受けると機械論的自然観を植え付けられる。自然界は元素の組み合わせでできています。自然は量的に計測可能です。厳密な実験に基づいて自然を利用していくのです。だが、人々は本当に機械論的自然観を受け入れているのだろうか。科学の文脈と日常生活の文脈では、人々の自然のとらえ方は違っており、しかもその捉え方は特段互いを排斥せず棲み分けがなされていると同時に、相互に微妙に影響を与えているように思える。世界観もまた文脈依存的であり、文脈が重なるところでは世界観も重なっていくのである。
 機械論的自然観は近代の産物であり、自然を純粋な量的空間としてとらえ、自然を知的操作によって構成し、認識の正確さを追求し、制作することによって自然を征服することを求めた。機械論によって世界は個物に分解され、それゆえ人間も個人に分解され、そこにデカルトの「考える我」という個体原理が成立した。
 一方で有機的自然観は、日常的な自然観であり、あらゆるものはある種の生命的なものを持っていると考え、一つ一つの物の中に固有の原理を認め、その固有の原理は相互に還元不可能であり、個物それぞれの宇宙がより大きな宇宙の生命原理によって包摂されていると考える。
 さて、詩に現れる自然観と言えば、当然有機的自然観であり、機械論的自然観など文学の文脈で現れることはめったにない、と思われるかもしれない。確かに文学は日常生活における直接的な感受を表現するものであり、そこに抽象化や厳密化の操作が加えられることはない。だが、機械論的自然観のベースになっている、人間も自然も同質であるという思想には、どこか近代以前から人間の世界認識に宿っている、人間と自然との親密な交感がひそかに反映されていないだろうか。ここで森山恵の詩集『みどりの領分』(思潮社)を検討することで、現代の詩において人間と自然とはどのように関わっているのか見ていくことにしよう。

夜が明け初める
―――――――
空はその肌を開き、うるみ明るむ
にじみざわめき

夜明け前の鳥、はじめにアカハラが
囀り、わたしの眠り―――
―――に波立ちざわめき
夜の肌を破る キョロンキョロン ツリー
(中略)
とりどりがわたしの骨の中で
騒ぎ、
泣き、
破り、
骨を、空を、肌を破り、ことばは、なく、なく
       (「はじめにことば、は」)

 森山は自然と人間との深い関わり合いを詩作のテーマにしている現代では珍しいタイプの書き手であるが、ここには詩の主体と自然との同質的で非常にダイナミックな交渉が見られないだろうか。
 「空はその肌を開き」というとき、この「肌」は作者自身の肌でもあるだろう。空が肌を開くとき、同時に作者も肌を開いているのであり、身体が自然と親しく重ね合わせられているのが見て取れる。いわば森山は自然を比喩するのに自身の身体を用いているのである。その後、「とりどりがわたしの骨の中で/騒ぎ、/泣き、/破り、」とあるのは、森山の身体のざわめきを自然を用いて比喩している典型的な手法である。重要なのは、森山が自身を自然で比喩するのみならず、逆に自然を自身の身体でもって比喩しているように思えることである。比喩においては比喩されるものが主体となって前景に現れるのであり、それゆえ森山の身体によって自然が比喩されるとき、森山自身よりも自然の方が主体であり前景に現れるのだ。
 このように、自然が単に人間に従属するのではなく、同時に人間が自然に従属していくところに、森山の自然と人間との関係性についての深い洞察がある。そして、この見方は人間が自然を支配し分析していくのだとする機械論的自然観と真っ向から反する。かといって自然と人間が互いに独立した原理を持つ有機体だとみなす有機的自然観とも異なる。森山は、たとえ自然と人間とが異なる原理を持つものだとしても、同時に共通する原理も持っていることを直感しているように思える。そして、その原理は、単に人間も自然も生命を持つんだ、ということではなく、その生命の根底にあるような原理であり、自然と人間との深い交渉を可能にする共通の原理であろう。かといってそれが人間や自然を超えたり包摂したりするより大きな宇宙の原理であるわけでもなく、あくまで人間と自然が互いにコミュニケートする次元に存在する原理である。だがその自然と人間との深い交渉を可能にする共通の原理とはなんだろうか。

土を伝い根を伝い茎を伝ってのびあがり
またつぼみが生まれる
息をする 確かなはっきりとしたリズムで

鼓動する
開花する
爆発して咲きだす

百万回でも千万回でも生まれ変わることができる
生きながら死にながら 生まれ変わることができる
小さなつぼみに生まれ変わる

静かにそして強く 芯で脈打つものがある
根を張り いのちを吸い上げる
つぼみが裂けて花咲く
       (「くちびる」)

 日常的な感覚において、自然は支配の対象ではないし、分析の対象でもないし、数量化の対象でもない。だが、だからといって、自然は人間とまったく異なる原理で成立しているわけでもない。自然と人間に共通する原理とは「愛」の原理ではないだろうか。ここで言う「愛」とは、生命を持続させていく根源的な働きのことであり、生命を破壊させる「憎しみ」の対義語となるものである。
 この作品に見て取れるように、自然も人間も栄えるだけではなく滅びることもある。だが、にもかかわらず、何回でも「生まれ変わる」、枯れていきながらも種を残し生命の筋を持続させていく、そのような働きにおいて根源的に通じ合っているのではないだろうか。人間の愛には様々な種類のものがある。恋愛もあれば親子愛もあれば友情もある。それらの愛の根底にあるのは、人々や物事との好ましい関係を持続させようとする意志であり、生命を持つものがその生命を支えていくために必須の原理である。生命を持続させる力、という点で、自然の愛と人間の愛は生命の根底にあって、その持続の糸が激しく絡み合うところで自然と人間は深いところで交感しあうのである。
 だから、森山の詩編には独特な持続性が宿っていると感じられる。それは物語の持続性であったり、論理の持続性であったり、抒情の持続性であったりするものではない。森山の詩編の底にあるのは、生命をどこまでもつないでいこうとする「愛」の持続性であり、しかもその「愛」は複雑に絡み合っているのであり、そのような意味で森山の詩編は特異なものであるといえる。

霧が降りる
しんじゅ色の霧がつみ重なって
木立が覆われていく

なにかが生まれようとしている
だれも知らない何かが
ゆっくりと生まれ出ようとしている

山肌をつたって霧がすべり降り
白い闇がさらに濃くなる
目の前の木々も白く沈んでいく
       (「白い闇」)

 自然と人間の根底にある持続の原理としての「愛」が互いに絡み合うところに立ち上る一種の熱気のようなものに森山の詩編は包まれている。そもそも、森山が自然と人間との交渉を詩として表現することで何が起こっただろうか。それこそ「だれも知らない何かが」生まれ出る場が設定されたのではないだろうか。作品は誰の目に触れるか分からない。だが、森山の作品を読んだ人間は、自分の「目の色」、つまり認識の様式が変化したことに気付くのではないだろうか。それは、読者自らが自然の深淵、自己の深淵へと降りていくきっかけとなるものであり、その深淵において絡み合っているすべてを持続させる「愛」の原理を見つけるきっかけとなるものである。森山はその場を設定した。だが読者はその場へ降りていったからと言ってどのように変化するかはわからない。ある者は何の変化も受けないかもしれない。別の者はただ自然描写が美しいと感じるかもしれない。注意深い者は根底にある「愛」の原理に気付くかもしれない。だが、それらを超えて、筆者の解釈をさらに凌駕するような形で、それこそ「だれも知らない何か」を生み出していく優れた読者もいるかもしれない。そのような得体の知れなさを孕んでいるのが、自然と人間の根底にある「愛」の原理の持続力ではないだろうか。




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by sibunko | 2014-07-30 11:30 | 現在の詩人たち