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金井雄二『朝起きてぼくは』(思潮社)

金井雄二詩集『朝起きてぼくは』について

 金井雄二の詩集『朝起きてぼくは』を読むととても安心する。なぜならそこには見慣れた「生活」の光景があるからだ。金井は特に気張って「詩」を書こうとしない。「詩」よりも「生活」を重んじるのが彼の立場だ。だが、この安心は曲者である。この安心には深い裏切りが隠されているように思える。金井は生活を描くことで逆説的に読者を裏切っている。その構造について少し語ろう。
 現代詩を読むとき、私たちはいくつもの判断停止をしなければいけない。詩人はそれぞれに固有の世界を持ち、詩人たちそれぞれの世界はそれぞれに相容れないものであり、詩の中で使われている言葉の意味や言葉のなす行為について私たちは共通了解を持たない。私たちは詩を読むとき、言葉の意味や言葉のなす行為などについて一度判断停止をしなければならない。その判断停止の中で私のものとも詩人のものとも違うような言葉の意味や行為が見いだされていく、あるいは判断停止の中で揺らめく心象風景を楽しむ、それが現代詩の読解の一つのモデルである。

こうして階段に足をかけたとき
むかしならば
二段ずつ昇れたなあ、と思っている

次の電車は
何分の発車だろうか
その電車に間に合うだろうか
腕時計ばかり見ている
席はあいているだろうか
座れるだろうか
立っていくのは
少々つらいなあ、と考えている
       (「雑踏の中に」より)

 ところが金井の詩を読むと、そのような世界の共有不可能性など存在しないかのようである。金井の詩は、私たちが現に生き、意思疎通をし、感情を交わし合い、意味を共有し合っている「生活」と同じ構造をしているように思われるのである。金井の詩の世界は「生活」の世界そのものであるから、私たちは金井と同様に物事を感じ、解釈し、言葉を発しているように思ってしまう。
 つまり、金井の詩は「詩」の特権的な空間を作り上げない。金井固有の言葉の意味や言葉の行為などを、現実の多様性としてことさら提示しようとしないのである。金井の詩は「生活」の世界と同じく、誰もが共有可能で誰もが共感できる大きな公の広場なのである。私たちはそこで判断を停止しない。そのかわり疑念を停止する。この言葉は言葉通りの意味を持つ。この世界に謎など存在しない。私たちは、通常「詩」を読むときに抱く様々な疑念を抱かなくて済むので、疑うことを停止してしまう。つまり、私たちは金井の詩を「信頼」するのである。
 だが、実は「生活」の世界ほど豊饒で奥深く謎めいている世界もまた存在しないのである。なるほど、私たちは「生活」の世界の中で様々なツールを共有することができるかもしれない。それでも、言葉などのツールを用いて拾い上げていく内容は実に幅が広いし、その解釈も一様には定まらない。私たちは同じ「生活」の世界に居ながらも、実に異なった体験をするし、実に違ったものの見方をする。

怖い夢をみたという
どんな夢だったのとたずねると
お父さんが口をあけて寝ている夢だという
そんな夢
何も怖くはないと思うのだが
心の奥底にある
見たくないものを
不意に見てしまうと
どんなものでもすべて怖いかもしれない
       (「子供が見た怖い夢」より)

 金井の詩は確かに「生活」の世界を描いており、異なった固有の世界間での共有不可能性の問題は生じない。だが、同じ「生活」の世界の中での微妙な裏切りを描いていないだろうか。それは世界を構成する原理が異なるという次元での裏切りではなく、まさに世界を構成する原理が同じだということに基づく信頼があるがゆえの裏切りなのだ。
 引用部では、「生活」の世界で起こった何気ない出来事が描かれている。「お父さんが口をあけて寝ている」ことが怖い、という子供の発言が描かれている。このような詩行に直面したとき、私たちは生活の奥深さ、また、生活が日々新しく更新されていくこと、そんなことに思いを馳せるのではないだろうか。
 誰かが口をあけて寝ることを見て怖いと感じる人は普通はいない。だがそこに恐怖を感じ取ってしまうことは「生活」の世界ではむしろ頻繁に起こりうるのだ。考えてみれば、私たちの生活というのは日々新しい物事との直面であり、新しい領域の開拓であり、決して定常状態にはないものである。
 金井は私たちと同じ「生活」を描きながらも、「生活」の中での私たちの知らない領域をあらわにしていく。同じ「生活」という世界の構造を共有しながらも、金井は金井自身の生活の領域を開拓していく。それは私たちにとっては新しいものであり、見慣れないものである。

現実とはこんなものだ
石は石でしかなく
私は私でしかない
小学生の頃
何が楽しかったのか
こうやって
何度も石を蹴り続け
自分の家まで帰ったっけ
石を
見つめる
今度は
ぼくがころびたい
      (「石でもあれば」より)

 引用部では突如「今度は/ぼくがころびたい」という詩行が現れる。このような詩行を前にしたとき、私たちは金井に裏切られたように感じるのではないだろうか。金井は私たちと同じ構造の「生活」という世界を描いているのだから、私たちは共感することはあっても驚くことはないのではないか。金井は詩人固有の共有不可能な異次元の虚構を書いたりはしないが、現実的な「生活」の世界のただ中で微妙に新しい領域を開いていく。私たちは金井を信頼するが、金井の詩集を読み進めるにつれて少しずつ裏切られていくのを感じる。
 だがどうだろう、この裏切りはむしろ快いものではないだろうか。それは悪意や不誠実さから生じるものではなく、単純に金井が日々を生きているというその事実から生じるものだからだ。金井は私たちとは異なる人生を生きているし、金井の人生は日々新しく更新されていく。金井の「生活」は日々新しく領域を更新しているわけであり、そこに裏切りが生じるのは自然なことなのである。金井は「生活」を極めて誠実に生きている。彼の裏切りはその誠実さから必然的に生まれるものであって、そこに快さはあっても不快感はない。
 私たちもまた金井と同様、日々新しく更新されていく「生活」を生き、日々新しい「生活」の領域と直面していく。金井の足取りは私たちの足取りと何ら変わらない。私たちは金井の詩を読むことで、「生活」の豊かさ、「生活」が日々更新されていくということ、そういったことを再確認するのではないだろうか。
 詩は決して詩人固有の共有不可能な虚構だけではない。金井の詩のように共有可能な世界の構造を持つものも多数あるし、そういう詩であっても十分驚きに満ちている。それがある意味裏切りであるとしても、それは詩人が日々歩みを新たに生きていることの証左に他ならない。

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by sibunko | 2016-07-31 15:12 | 現在の詩人たち