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石田瑞穂『耳の笹舟』(思潮社)

石田瑞穂詩集『耳の笹舟』について

 私たちにとって目や耳は透明である。視覚情報や聴覚情報は記号作用によりすみやかに意味に変換されるし、そこに世界は現前していても、その世界を映し出している目や耳自体は無視されてしまう。私たちはあたかも目や耳が存在しないかのように、当たり前に世界の現前を受容している。だが、そこで省略されているもの、括弧に入れられているものにこそ詩の源泉はあるのかもしれない。

注射をうった日は、とりわけ誰かが廊下にじっとひそんでいるような、音ともつかない音が耳の奥底を谺しながら流れている。耳鳴りとまではいえないものの、奇妙な気配が頭の芯からはなれていかないのです。
       (「星をさがして」)

 石田瑞穂の詩集『耳の笹舟』(思潮社)は、難聴に罹った詩人が、否応なく突き付けられる聴覚の問題と静かに闘った詩集である。詩人はあくまで言葉を用いて耳について語る。だが、そこにはその言葉の根拠となったもの、言葉を駆動するものが前提とされていて、詩人はその根源的なものへと最大限接近したうえで言葉を発しているのである。
 私―世界という対立図式が成立する以前に、私と世界が不可分で一体となっている状態が存在する。そこではいまだ認識すら生じていず、私の身体と世界とが感覚の相で合一している「感覚的なもの」のみが根源的に現前する。この感覚的なものにおいては主体と客体が分化しておらず、感覚がそのものとして現前するのである。ここにおいて身体と世界とは接触を通り越して直接性のもとに融合し、いかなる媒介も差異も含んでいない。感覚的なものにおいて根源的なものが現前するのである。
 引用部を見てみよう。ここでは、「耳の奥底を谺しながら流れている」とあるように、音があたかも物質であるかのように扱われているのが分かるだろう。そして、音を受容する器官としての耳が明確に可視化されている。ここで詩人は、物質とも感覚ともつかない感覚的なものに根源的に遡及している。もちろん、言語化されてしまった詩句と感覚的なものの間には隔たりがある。だがその言語の態勢として感覚的なものへと遡行しているのが分かるだろう。

弦のないヴァイオリンの響き
落葉 秘境の滝壺
遺失されたトライアングル
古い磁気テープに録音された
蝶の羽ばたき
世界にふたつとない音
ゆえに
世界そのものである音
       (「耳鳴り」)

 石田の作品には、例えば視覚的イメージなどに詩行が拡散していく運動も見られる。それこそ、あたかもノイズのように、石田の思念は遠くへと飛び散っていったりもする。だが、彼の詩的意識は常に聴覚の核心を巡って言葉を紡いでいるように思われる。
 引用部では、そこに挙げられた音が「世界にふたつとない音」とされている。ここに働いている意識もまた、感覚的なものの根源性に向かっているはずである。言葉で列挙された音たちは複数存在することが可能であるのが原則である。それがたった一つしか存在しないと言われるとき、そこで念頭に挙げられているのは根源的な感覚的なものそのものなのである。身体と世界とが融合している次元において、すべての感覚は歴史的であり、一回限りのものであるからだ。
 そしてさらに引用部では、その唯一の音が「世界そのもの」であると綴っている。ここでは、唯一のものに世界の唯一性が宿るといった数的な発想もあるのかもしれない。だが、ここで働いている意識はむしろ、その唯一の感覚的なものが、世界の根源として世界自体を基礎づける根拠になっているという意識ではないだろうか。

三日は剃っていない
銀色のまじる無精髭
防音ガラスの窓の外を
くるくる舞う枯葉
秋のセントラルパークの宝石
ルリビタキの羽音の泡
倒木のくず木にまぎれて
ひげをゆらすカミキリムシ
       (「本の音」)

 視覚や聴覚を触覚の延長として捉えることは可能であり、実際視覚は光に触れており、聴覚は音に触れている。感覚的なものとはそもそも身体と世界との無媒介な融合であり、そこでは基本的に触覚が感覚の基本的なものとしてとらえられている。聴覚はその不透明さからより触覚に近いものであり、視覚はその透明さからより触覚から遠いものである。
 石田の詩に見られた感覚的なものへの遡及は、私たちの自明な意識からは省略されてしまう身体と世界との根源的な融合への遡及であり、詩の成立する源泉にある不透明な根拠に立ち返るということである。感覚的なものの相においては、視覚も聴覚もその原初的な触覚的様相を明らかにし、それゆえ、石田が視覚的イメージを列挙してもそこには触覚的な手触りが感じられるのである。
 引用部を見ると、「無精髭」「枯葉」「宝石」「カミキリムシ」など主に視覚によってとらえられるものたちが列挙されているが、この詩集の文脈で読んでいると、あたかもそれらのものたちから音が聞こえて来たり、それらのものたちの手触りが伝わってくるかのようである。

twitterは からきしだめ
e-mailも よくさぼるので
手仕事の呼吸がうれしい
       (「Rose」)

 石田の詩集は、引用部にあるように、twitterやe-mailという視覚的なものよりも「手仕事の呼吸」という身体的で触覚的なものに立ち返る身振りに満ちている。今多くの詩人はワープロソフトで詩を書いていると思うが、そこには「タイプする」という手仕事が必ず含まれている。普段我々はその「タイプする」という手仕事を透明化してしまい、あたかも存在しないかのように無視しているが、実はその「タイプする」行為がなければ作品を書くことはできない。
 同じように、普段我々は、何事かを思いつき、それを言葉にして詩を書いているように思っているが、その間には何らかの感覚的なものが介在しているのである。例えば木について詩を書くのであれば、木の視覚的なイメージはもちろん介在するだろうし、木にまつわるかすかな感情も伴うだろう。詩を書く場合、言葉に先立って生起する感覚的なものはいつだって根源に現前しているのである。そして、その感覚的なものの介在がなければ私たちは詩を書くことができない。この、あまりにも自明であるがため透明化されながらも根源的に必要である感覚的なものを非透明化して改めてそこに遡及するということ。そこで開かれてくる肉感的な詩世界。石田の詩集はそのような「肉」の世界を構築しているように思われる。
 視覚も聴覚も透明ではない。それらが世界として現前する場合、必ず感覚的なものが介在するのであり、感覚的なものの根源的な現前がなければ世界は構成されない。その不透明な感覚的なものが、世界の根源にあり、詩作の根源にある。石田の詩集は聴覚を探求することにより、その根源的な感覚的なものに肉薄しようとしている。


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by sibunko | 2016-11-09 12:07 | 現在の詩人たち