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2.繊細微妙であること

繊細微妙であること

 「作品」へのかかわり方を素朴に分類すると、「創作」と「鑑賞」の二つになると思います。
 「創作」と言っても様々なタイプのものがあります。日常感じたことをそのまま書く創作もあれば、プロットを綿密に構成し文飾を凝らす創作もあります。一気呵成に書き上げる創作もあれば、何年もかけて推敲を繰り返して完成へと向かう創作もあります。そのような様々な創作の態様にしたがって、生み出される作品は影響を受け、一方で、生み出される作品によって、創作の態様は影響を受けます。
 また、「鑑賞」と言っても様々なタイプのものがあります。斜め読みをして表面的な印象を得るだけの鑑賞もあれば、深く読み込んで様々に解釈・批評する鑑賞もあります。鑑賞者が作品から特に何も得ない鑑賞もあれば、鑑賞者が作品に影響を受け技法を学んだり認識の仕方を学んだりする鑑賞もあります。
 単純化すると、作品はいわば創作と鑑賞の間に位置します。では、文学はいったい(創作―作品―鑑賞)のどこに宿るのでしょうか。私は、文学は、(創作―作品―鑑賞)のすべての部分に宿る、と思っています。つまり、創作に際して次はどんな言葉を使おうかなどと迷うことも文学的であり、できあがった作品も文学的であり、作品から印象を受け意味を読み取ろうとすることも文学的であると思います。
 さて、(創作―作品―鑑賞)のすべての部分に文学が宿ると書きましたが、では「文学」とは何なのでしょう。様々な要因が「文学性」を形成していると思いますが、その中の一つの要因として、「繊細微妙であること」があると思います。もちろん、繊細微妙でなくとも文学にはなりえますし、繊細微妙であっても文学にならないこともあります。しかし、多くの場合、「繊細微妙であること」は文学であることにつながると思います。では、「繊細微妙であること」とはどういうことなのか、少し敷衍していきたいと思います。

 風がそこいらを往ったり来たりする。
 すると古い、褐色の、ささくれた孟宗の葉は、
 一頻り騒めこうと気負うてみるが、
 ひっそり後はつづかない。

 犬は毛並みに光沢があり、何も求めていない癖に、
 草の根かたなど必ず鼻先をもってゆく。
 が忽ちその気紛れが、馬鹿らしく、
 あちらの方へ行って仕舞う。

 伊東静雄の「早春」から引用しました(旧仮名遣い・旧字体を改めました)。まず一連目。通常だったら「風が吹く」で済まされそうなところですが、伊東はもっと長い時間のスパンで風をとらえていて、また風の吹く方向をしっかりと認識しています。そのような、比較的長い時間の注意深い観察によって、「そこいらを往ったり来たり」という、より繊細微妙な認識が生まれます。「孟宗の葉」についても同じことが言えます。「孟宗の葉がざわめく」で済まされそうなところを、比較的長い時間の注意深い観察によって、「一頻り騒めこうと気負うてみるが、/ひっそり後はつづかない。」という繊細微妙な認識が生み出されています。二連目では、自然の事物ではなく、動物の行動が繊細に描かれています。
 現実の世界はとても繊細にできています。ですが、人間はそれを単純化して認識します(「風が吹く」のように)。人間の日常的な世界認識はだいぶ単純なものですが、実は、人間はもっと複雑微妙に世界を認識することも可能なのです(「そこいらを往ったり来たり」のように)。日常的な単純な認識を超え、日常ではあまり注意されない事象を記述すること。そのような記述は読者を「発見」に導き、この発見に際して読者は文学を感じます。繊細微妙な記述をすることは、日常を超えた事象を記述するひとつの方法であると考えられます。
 創作行為は、それがどのような作品を生み出すものであれ、たいがい文学的です。ですが、繊細微妙な作品を生み出すとき、その文学性は複雑に発展し、ある次元において強まります。作品もまた、繊細微妙であることにより、文学性が強まります。鑑賞もまた、作品が繊細微妙であれば、文学性が強まると思います。
 (創作―作品―鑑賞)のすべての段階に文学が宿ります。そして、繊細微妙な作品をめぐる創作・鑑賞はより文学的です。というのも、繊細微妙な作品は、人間の日常的な世界認識を超出し、読者を発見に導くからです。作品の文学性が増すことにより、作品と密接に関連する創作・鑑賞の文学性も増すように思われます。
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# by sibunko | 2012-10-25 02:21 | 初心者への詩論(詩と向き合う)

1.感情の書き方

感情の書き方

 詩の作り方にもいろいろありますが、一つの方法として自身の感情の高まりを表現するというものがあります。読者は詩を読むことで心が動かされるのを望みますが、感動を伝える詩は読者の心を動かせるからです。例えば、花の美しさに感動したとか、手紙をもらって嬉しかったとか。ですが、それを直接「花が美しい」「手紙をもらって嬉しい」と文章化しても、詩としては面白くありません。特に新しさもなく、陳腐だと言われるだけです。では、先人はいったいどのようにして感情の高まりを詩に表現したのでしょうか。
 ここで、種田山頭火(1882-1940)の俳句を採り上げます。俳句といっても、自由律俳句というもので、季語もなければ575のリズムもありません。575の形式的なリズムを捨てることで、むしろ俳人の心身のリズムが現れてくる、そのような俳句だと思います。
 山頭火は、手紙について次のような句を作っています。

 けふは凩のはがき一枚

 まず指摘したいのは、この句のどこにも「嬉しい」などといった感情を表す言葉がないことです。「はがき一枚」と書くことだけで、はがきをもらったときの嬉しさやうまく言えない微妙な感情を表現できています。ここで「嬉しい」と書いてしまうと、感情が単純化されてしまい、はがきをもらったときの複雑な感情が逆に表現できなくなってしまうのです。
 また、「はがき一枚」とだけ書くことで、俳人がはがきを取りに郵便受けのところまで行く動作や、郵便受けにはがきが入っていたことに気づいたときの感情や、部屋に戻ってはがきを読む行為、そしてそこから受け取る何かしらの印象、などのすべてを読者に思い描かせることができています。ここで「はがきをもらって嬉しい」と書いてしまうと、嬉しさを感じている時点しか表現できず、時空間の広がりを読者に感じさせることができないのです。
 次に指摘したいのは、俳人の周囲の状況も付加されていることです。「凩(こがらし)の」という部分です。「はがき一枚」の部分は、読者に、どちらかというと屋内の状況を思い浮かばせますが、「凩の」は屋内と屋外の両方を思い浮かばせます。屋内で聞かれる木枯らしの音や、屋外で道の上や木の間や人家の屋根の上を吹き抜ける木枯らしそれ自体、また、木枯らしによって木が揺れる様、さらには、木枯らしによって木の葉が舞う様、それらすべてを読者に思い浮かばせることができます。「凩の」を付加することで、句の抱懐する時空間の領域がぐっと広くなるのです。
 また、木枯らしに伴う物寂しい印象が、はがきをもらったときの感情と対立し、あるいは混ざり合い、読者に複雑な印象を抱かせることに成功しています。
 句の原形として、「はがきをもらって嬉しい」という感情の高まりがあるのかもしれません。ですが、そこから「嬉しい」という直接的なことばを除くことによって、はがきをもらったときの微妙な感情や、はがきをもらうことに付随する行為や印象をも表現できるようになる。さらに、「凩の」という周囲の状況を付加することにより、句の抱懐する時空間を広げ、句の印象を精妙にしている。
 山頭火にとっては、このような句法は自然発生的なものだったのかもしれません。ですが、後世のわれわれは、それを技術として学び取ることができます。もちろん詩は技術だけで書けるものではありません。ですが、詩を書く技術を学ぶことは、われわれの世界の感じ取り方を豊かにすることでもあります。山頭火の技術を自分のものにすれば、単純な嬉しい感情だけではなく、もっと微妙な感情をとらえることができるようになり、また出来事に付随する広い時空間をも認識することができるようになります。参考にしていただければ幸いです。
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# by sibunko | 2012-10-25 02:19 | 初心者への詩論(詩と向き合う)

4.山本太郎詩集

4.山本太郎詩集


蛇蝎の唄
鏡にむかって唱える


おのれ 醜(シュウ)

どろあしで ふみにじる
鏡に 流るる どろえきのしたに
ちぬらるる

おのれ 蛇蝎の族(ウカラ)
韜晦を重ね
はや とおかいに心しびれ
おのれに 内射の眼を 蒸し殺し
誇りもしたのか
じだらくの智恵を

鏡面に醜たる
醜たる おのれ わらい わらいの
なお きたならしき
じだらくの智恵を

おのれ 醜

醜を恃む 蛇蝎の
この「いま」をなげうっては
逃げようとする
その みにくい
弱いゆえに狡猾な
死さえ装っては 隣人を狙う

ああ 遠くでは銃声がなってゐて
爛壊(ランエ)の匂いは土にしみ
暗い未来をはいめぐる
永劫蠕動

 イツノ日カコノ俺ハ失セテモシマイ
 テナヅケラレテ 失セテモシマイ

遠く愛より放たれて
暗い血をうけて匍う
じつに弱者の歴史なるに

なお 消(ケ)ぬか

さかしらの
文明人達


 山本太郎の詩から感じられるのは、人間の悲惨さや滑稽さを真っ向から受け止める強さと、それを生々しく陰惨な言葉で虚空へと放っていく弱さです。わざと卑俗な言葉を使ったり、呼びかけを多く使ったり、とにかく現世の人間のきれいごとでは覆いきれない部分を、切迫した語調で唄っていきます。

 人間を苦しむ神、いや、俺を苦しむ神がどこかにいなければならない。
 俺はその神に、存在の悲しみを「問わ」なければならない。
 「問い」の仕事をはじめるべきだ。こんどはあわてず、ゆっくりと、神に届く言葉で。
 (「詩論序説」より)

 山本は、このようにして、存在の悲しみを神に問うために詩を書き始めたと言っています。ところで、「存在の悲しみを神に問う」といっても、問いの在り方は多様にあるでしょう。なぜ俺は悲しまなければならないのか。そのような悲しい俺はなぜ存在しているのか。神が俺を苦しんでいるのだとすれば、なぜ神は俺を助けないのか。そして、苦しむ神に助けてもらうには俺はどうしたらよいのか。ですが、山本がその詩で行っているのは、いわば問いの前提作業だといってよいでしょう。例えば上記の作品では、人間の醜さに対する山本の憎しみが綴られていますが、それは、人間がこれだけ醜いのだ、ということの表白であり、それ自身が問いではないです。むしろ本当の問いは、この詩を前提に、「こんな醜い人間存在を神よお前はどう考えるのか?」という形で発されるはずです。
 ところで、山本は問い自身ではなく問いの前提を書きつづった、まさにそのことによって、読者に対して非常に開かれた作品を生み出したと言えるでしょう。例えば、「わが市にはこんな問題がある。それについてあなたはどう考えるか?」という問題提起を考えてみましょう。「あなたはどう考えるか?」の部分は、発話者と「あなた」の間の閉ざされたコミュニケーションです。ですが、「わが市にはこんな問題がある」の部分は、問いかけの前提として、そこから問いかけが誰にでも向けられていくのです。山本は、このように、人間の問題を詩として提起した。その人間の問題を前提として、「ではあなたはどう考えるか?」という問いは、すべての読者にも同時に投げかけられているといえるでしょう。山本には問いかけの身ぶりはありますが、問いかけの内容や問いかけのあて先は白紙のまま読者の前に投げ出されています。読者は山本の提起した問題をもとに、問いを自ら想定し、それに対して答えを返していきます。
 さて、この「蛇蝎の唄」は、「このような醜い人間を神はなぜ生み出したのか?」という問いの前提であると仮定しましょう。ところが、この詩には、「永劫蠕動」「コノ俺ハ失セテシマイ」という語句が見受けられます。これは、もはや問うことすらあきらめている、仮に答えを聞いたところで何にもならない、そういう山本の態度の表れではないでしょうか。問う主体である俺も消えてしまっているし、理由が何であれ人間は永久に苦しまなければならない。問いには、常にその問いに対する答えへの反応もあらかじめ含まれています。人は何かを問うとき、その答えを予想し、その予想された答えに対してあらかじめ反応してしまうものです。
 だから、山本の詩は、問いの前提として、あらゆる存在に対して問いを開いていくと同時に、あらゆる存在に問いかけの身振りで接し、さらには問いへの答えを予想し、それに対してあらかじめ反応する、そういうことをしています。詩は決して、個人の私秘的で一方的な内面の吐露ではない。特に山本の詩には常に相手がいて、その相手との問いというコミュニケーションを図っているのです。




讃美歌


神 イエスを
靴べらにして
われを履き給いしかば
われ驚き怪しみて
いばらの道を駈け
ボロボロの駝鳥
のごとくなれり

ああ神
わが あらがいの舌を
ほろぼし
われを用い
ぬぎすて給わず
われら歩き歩きて
いくその時を経んとするか

いま街道はくれなずみ
悲しみの門は彼方に
夕焼雲は
腸のごとくながれる
とうふやのトレモロばかりが
黄昏を
恐怖の空間にしていて
精神のかかる荒廃した
地圏では
街も樹も人の群れも
みんなみんな
そこつな心で描かれた
落書に似たり

ああ 神
狂気の筆を挙げ
何ぞはるかに舞い給うや
そのとき 重たきもの
ついに来り
われ 地に在りて
深き坑(アナ)ぼこのごとくなれり
(後略)


 アリストテレスによれば、詩は歴史より偉大だそうです。なぜなら、歴史は個別的なことしか書けないのに対し、詩は普遍的なことを書けてより哲学に近いからです。歴史は、唯一のこの現実しか書けないのに対して、詩は言語の可能性を利用して、単語の組み合わせによって唯一のこの現実以外の事柄も書けるわけです。そして、神という存在が、この世界だけでなく、他のあらゆる世界をも治めているとすれば、言語によって自由に生み出される世界は、この世界を超えることで、より神の認識に近づいていけるとも言えます。

 何故、小説を選ばなかったか。俺にとって人間主題のドラマは不必要だったからだ。神との間になされる対話だけがドラマのように思えたのだ。その対話はそして意味に偏っているはずはないのだ。(「詩論序説」より)

 ここで言われている「意味」とは、現実の対象との対応関係によって成立するものだと思われます。「今日」という言葉が、まさにこの日を指している。そのように、言葉が対象とちゃんとした対応関係を結んでいることによって意味が発生します。言葉が対象と対応していないとき、その言葉は無意味、あるいは偽となります。ところが、そのような対象との対応関係以外の「意義」とでもいうべきものを考えることができます。例えば、「日本の大統領」は存在しません。その意味で、「日本の大統領」は現実の存在との対応に失敗し無意味となります。ところが、我々は「日本の大統領」と聞いて、なんとなく「わかる」のではないでしょうか。それは、我々が「日本の大統領」の意義をわかっているからです。「意義」とは、言葉の指し示す対象ではなく、その指し示し方を言います。指し示し方があったからと言って、指し示す対象があるとは限らない。だから、「日本の大統領」には「意義」はあるが「意味」はないのです。
 さて、引用した「讃美歌」を見てみましょうか。「神 イエスを/靴べらにして/われを履き給いしかば」これは現実のこの世界とは対応していません。あくまで想像や虚構・比喩でしかありません。ところが、山本の態度は、現実との対応を無視して、想像や虚構・比喩に現実と同じだけの存在と強度と文脈をまとわせようとするものです。イエスは靴べらになり、われは神に履かれる。このイメージは、詩においては、現実の描写のもたらすイメージと全く等価におかれます。山本が大事にする「言葉の音楽」とは、この意義のもたらす自由奔放なイメージの連結によってうみだされるのでしょう。それは、唯一のこの現実世界の束縛から逃れた、より自由な表現であるわけです。アリストテレスにおいては、詩が歴史に優位するのは、詩がこの世界の固有性から離れることが可能だという意味においてだったと思われます。そして、現代、言葉は言葉自体の文法から外れることにより、より世界の固有性から自由になりました。意味ではなく意義で読ませる詩の登場によります。
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# by sibunko | 2012-10-24 14:21 | 山本太郎

3.岩田宏詩集

3.岩田宏詩集


いやな唄


あさ八時
ゆうべの夢が
電車のドアにすべりこみ
ぼくらに歌ういやな唄
「ねむたいか おい ねむたいか
眠りたいのか たくないか」
ああいやだ おおいやだ
眠りたくても眠れない
眠れなくても眠りたい
 無理なむすめ むだな麦
 こすい心と凍えた恋
 四角なしきたり 海のウニ

ひるやすみ
むかしの恋が
借金取のきもの着て
ぼくらに歌ういやな唄
「忘れたか おい 忘れたか
忘れたいのか たくないか」
ああいやだ おおいやだ
忘れたくても忘れない
忘れなくても忘れたい
 無理なむすめ むだな麦
 こすい心と凍えた恋
 四角なしきたり 海のウニ

ばん六時
あしたの風が
くらいやさしい手をのばし
ぼくらに歌ういやな唄
「夢みたか おい 夢みたか
夢みたいのか たくないか」
ああいやだ おおいやだ
夢みたくても夢みない
夢みなくても夢みたい
 無理なむすめ むだな麦
 こすい心と凍えた恋
 四角なしきたり 海のウニ
 海のウニ!

 この詩では、「いやな唄」は疑問の問いかけの形をしています。「ねむたいか」「眠りたいのか たくないか」。それに対して岩田は率直な答えを返しません。「眠りたくても眠れない/眠れなくても眠りたい」のように、問いかけから上手に身をかわしながら、眠りたい欲求と眠れない現実の分裂を語っています。岩田は、自分自身が眠いとか眠りたいとかそういうストレートな答えを返しません。「いやな唄」の問いかけに対して、答えを留保するのです。
 さらに、この留保の態度は、自分や人間の備えている分裂に対しても向けられています。岩田は、眠りたいという欲求と眠れないという現実、そのどちらかを選択するわけではありません。つまり、眠くて仕方ないのだが眠れなくて腹が立つ、として欲求の方に軍配を上げたり、眠いけれど眠れないのは仕方がない、として現実の方に軍配を挙げたりはしません。岩田は、自分や人間の分裂についての態度も留保します。そして、自分が分裂しているというそのことについても、それを承認したり拒否したりという態度を取らず、態度を留保しています。
 さて、このような留保の姿勢は詩にとって本質的です。

張りつめた対峙の中でサディストは苛立つ。かれは対象を分析的にではなく、一挙に把握したいのだが、そうしようと焦れば焦るほどかれの対象は霧に包まれ始める。それは存在の不明瞭さから湧きあがってくる霧であるのかもしれない。(「サディストの苦悶」より)

 ここにおいて、「サディスト」とは詩を書く者のことです。詩を書くものは対象を一挙に把握しようとするため、逆に対象をあいまいにしかとらえられない。対象は隅々までよく見えて理解できるものではなく、不透明で、それについての判断を下しがたいものとして現れます。詩というものはそのようなサディズムによって書かれるために、対象を分析できず、対象の荒々しい存在の現場において対象の不透明さの前で屈服するのです。
 だから、詩は必然的に様々な態度を留保しなければならない。例えば結論付けること。評論や論文は結論付けることに意味があります。そのことによって、対象に理解の筋道を与え、対象を透明にします。また、例えば結末をつけること。小説や戯曲はたいてい明確な結末があります。それは物語の終了であり、そこまでに語られてきたことについて一応の決着を与えるものです。ところが、詩には結論も結末もない。理解の筋道が明確に与えられることもなければ、語られた内容について決着も付けられない。岩田の詩には、そのような詩の本質が如実に表れていると言えます。
 ところが、岩田も、ある一点においては留保しませんでした。

もともと詩人とは憑かれるべき存在だった。神が、自然が、霊感が、信念が、時には社会科学が、詩人というボイラーにとり憑くと、ボイラー内部の温度はどんどん上って、じきに圧縮された熱いことばが吐き出された。いわば詩人は一箇の道具であり、超越的なものの通過する道に過ぎなかったわけである。だが、現代の詩人たちは、このような巫女的な存在から、字義通りの創造者へ変貌する道程を、徐々にではあるが確実に歩んでいる。ことばによる被創造物を自由にコントロールするためには、憑かれる者であった詩人が、憑く者、積極的に対象へ乗り移るものにならなければいけない。(「演劇性について」より)

 岩田が留保しなかったのは、詩を書くということ、歌うということです。詩を書くべきか書くべきでないか、歌うべきか歌うべきでないか、そのような迷いは岩田には感じられません。そのような迷いにおいて受動的に歌ってしまうのではなく、自ら積極的に、神・自然・霊感・新年・社会科学に乗り移っていき、迷うことなく歌うのです。
 ところで、歌うという一点においてのみ留保せず、しかし歌うことをめぐる様々な問題について留保せざるを得ないというのは仕方のないことでしょう。サディストとして積極的に迷うことなく情熱的に歌う場合、余りにも対象を一挙にとらえようとするが故、対象は一層不透明になってしまうのです。岩田にとって詩人はサディストでしたが、サディストであるがゆえに、逆にいろんなことについて留保せざるを得なかったのです。



動物の受難


あおぞらのふかいところに
きらきらひかるヒコーキ一機
するとサイレンがウウウウウウ
人はあわててけものをころす
けものにころされないうちに
なさけぶかく用心ぶかく

ちょうど十八年前のはなし

熊がおやつをたべて死ぬ
おやつのなかには硝酸ストリキニーネ
満腹して死ぬ

 さよなら よごれた水と藁束
 たべて 甘えて とじこめられて
 それがわたしのくらしだった

ライオンが朝ごはんで死ぬ
朝ごはんには硝酸ストリキニーネ
満腹して死ぬ

 さよなら よごれた水と藁束
 たべて 甘えて とじこめられて
 それがわたしのくらしだった

象はなんにもたべなかった
三十日 四十日
はらぺこで死ぬ

 さよなら よごれた水と藁束……

虎は晩めしをたべて死ぬ
晩めしにも硝酸ストリキニーネ
満腹して死ぬ

 さよなら よごれた水と……

ニシキヘビはお夜食で死ぬ
お夜食には硝酸ストリキニーネ
まんぷくして死ぬ

 さよなら よごれた……

ちょうど十八年前のはなし

なさけぶかく用心ぶかく
けものにころされないうちに
人はあわててけものをころす
するとサイレンがウウウウウウ
きらきらひかるヒコーキ一機
あおぞらのふかいところに。

 言語というものは反復可能なものです。本来、物事というものは、一回限り、唯一のものであり、例えば昨日の私と今日の私は別物であるはずです。それでも、そのような違ったものさえも同じ「私」という言葉で反復してしまう。これは、それぞれの時点での私の差異を度外視した一種の暴力であります。本来なら、唯一でかけがえがなく、それぞれ異なっているはずのものを、同じ言葉で同一化してしまうのですから。言語は、ものごとの唯一性・かけがえのなさを破壊するのです。
 ですが、本当にそう言い切れるでしょうか。

 辞書によれば、「既視感」とは「実際は一度も経験したことがないのに、ある体験を以前にしたことがあるという感じがするような錯覚」である。(中略)さきに引いた辞書の説明を敷衍すれば、わたしたちのあらゆる体験は厳密にいえば一回きりのものである。にもかかわらず、日常的手順のなかでは体験は何度でも繰り返されるもののように見える。つまり、新しいのに新しくない体験をつねに強いられている状態、それがわたしたちの日常である、とでも言えるだろうか。(中略)既視感の定義を裏返すなら、新しくないと感じられる体験は、つねに新しいのである。(「誉むべき錯覚」より)

 ここで岩田は、経験もまた反復可能であることを述べています。つまり、本来は違っているはずの経験を同じ経験だと認識してしまう、人間にはそのような錯覚があるのだ、と。それが既視感です。ですが、岩田はそこで発想を逆転させます。既視感とは、かけがえのない個別の体験を同一のものとしてしまう暴力なのではなく、むしろ、同じものを新しくとらえなおすことなのだ、と考えるのです。過去の経験と現在の経験が同じように思われるけれども、実際は違う、現在の経験は新しいのだ、そのことに改めて気付かせてくれるのが既視感なわけです。
 さて、岩田の詩に戻りましょうか。この詩にはリフレインが多用されています。「さよなら よごれた水と藁束」以下や、動物の死、ヒコーキの襲来と獣を殺すこと。リフレインは同じものを繰り返すことですが、まったく同じ言葉が繰り返されていても、それは実は違ったものを指していると言えましょう。それはまさに既視感と同じ理由によるもので、言語という反復可能なものは、実は同じ言葉を反復しながらも違うものを指示しているからです。そして、岩田は、リフレインにおいて言葉を微妙に変えていきます。「さよなら よごれた水と藁束/たべて 甘えて とじこめられて/それがわたしのくらしだった」これが、「さよなら よごれた水と藁束……」になり、さらに「さよなら よごれた水と……」になり、さらに「さよなら よごれた……」となります。これは明らかに同じ詩行の繰り返しなのですが、その繰り返しのごとに差異が組み込まれていっているのが分かるでしょう。言葉を少し変えていくことによって、同じ物事を違った角度からとらえなおしていく。つまり、同じで新しくないものを、リフレインすることにより、新しいものへと変えていくのです。岩田は一見同じものを退屈に繰り返しているかのようですが、実はそこでは、同じものをつねに新しい角度からとらえなおそうという彼の詩的態度がうかがえるのです。
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# by sibunko | 2012-10-24 12:41 | 岩田宏

110.続・田村隆一詩集

110.続・田村隆一詩集

栗の木

そのとき
ジョージ・オーエルの『一九八四年』を読んだばかりの彼女が云った
「お店の名前は栗の木がいいわ」
ぼくはグレアム・グリーンのスパイ小説『密使』に夢中になっていた
 「いやD(デイ)がいいよ 反革命と戦うために
 石炭を買いにイギリスへ渡る
 『ローランの歌』の研究家Dがいいな」

ちいさな論争のあげく
DからDAY(デイ)ということになった

DAYは銀座裏の酒場(バー)の名前である
小説の題名でもなければ 孤独な中年男の頭文字(イニシアル)でもない

「そのとき」から七年たった
むろん、彼女もDAYもぼくの夢から消えてしまっている
四十歳の夢にあらわれるのは
一本の栗の木
十月の栗の実 あの
六月の栗の花の匂いだ

 この詩「栗の木」が収められている『緑の思想』という詩集は、1967年、田村が44歳のときに出版されています。『田村隆一詩集』で取り上げた「四千の日と夜」が収められている『四千の日と夜』という処女詩集は、1956年、田村が33歳のときに出版されています。その間、1962年、39歳のとき、翌年高村光太郎賞を受賞することとなる『言葉のない世界』という詩集を出しています。『言葉のない世界』は『田村隆一詩集』に所収されているのですが、重要なので、ここで同詩集のタイトルともなった「言葉のない世界」の部分を引用します。



言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって
真昼の球体を 正午の詩を
おれは垂直的人間
おれは水平的人間にとどまるわけにはいかない

 「垂直的人間」とは何でしょうか。あるいはそれと対比されている「水平的人間」とは。これも擬思想、つまりまがい物の思想であり、多様な解釈を許すと思います。ですが、「垂直的人間」というとき、その「人間」は第一次的には「詩人」であると思います。だから、田村は第一次的には「垂直的詩人」であったわけです。あるいは、「垂直的人間」とは第一次的には「詩人」のことを指していたと考えることも可能です。そうすると、田村の作品の中から垂直性を読み取るのが無難ではないかと思われます。
 垂直であるということは、まずは、水平的なものの流れをせき止めるということです。水が水平に流れている水路に垂直に板を差しこみ流れを止める。つまり、垂直ということは一つの停止であると同時に、その停止の際の衝突から物事が上昇していく、新たな発展を見せていく、そういうことです。水路の水は板でせき止められたとき、それでも流れようと垂直に盛り上がっていくはずです。垂直ということは、何らかの障害を設定することにより、その障害とぶつかるものを運動させ発展させることだと思います。
 さて、では田村の詩の垂直性はどのような点にあったのか。まず、「四千の日と夜」にあったような、倫理性。それは「水平的人間にとどまるわけにはいかない」という倫理性にも表れています。つまり、水平的人間であってはならないという規範、つまり水平的に流れてしまうことに対する障害、を設定し、それを自己にも他者にも向ける。この規範こそが垂直性なのです。そのことによって、水平的に流れてしまう態度を絶えず反省し、垂直へ向かうように田村自ら運動を続け、他者にも運動を続けさせる。
 次に、田村の詩に頻出する矛盾。「言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって」これは一見矛盾するように思われます。あくまで言葉を使っている以上常に言葉は存在するのであって、それによって言葉の存在しない世界を発見することは不可能なのではないか。読者はこのような矛盾に直面し、判断停止・宙吊り(エポケー)の状態に置かれます。この矛盾こそが垂直性なのです。読者は、言葉を使うからこそ、その言葉で覆えないものが見えてくるのだ、そして言葉で覆えないものはただ感覚され発見されるにすぎないのだ、例えばそういう解釈に導かれます。矛盾、つまり垂直性を詩の中に提示することによって、読者の水平的な読詩の流れを遮断し、読者に解釈や反省を強いる。
 さらに、詩の異化作用。「異化」とは、日常的なものを日常的ならざるあり方で再提示することです。異化こそが文学の本質だと論じていた学派(ロシア・フォルマリズム)もありました。異化とは暴力の行使でもあります。つまり、水平的に何のつまずきもなく滑らかに流れていく日常的な言葉のやりとりを破壊し、中断させ、異様な言葉を生み出すことで言葉の受け手に衝撃を与えます。「真昼の球体を 正午の詩を」この部分は、まさに詩の異化作用が如実に表れている部分です。日常的な言葉のやりとりで「真昼の球体」などという言葉はまず出てきません。真昼に何か充実するものを感じる、真昼に何かまとまっていくものを感じる、そしてその充実するもの・まとまっていくものは、なんとなく球体のようななめらかさ・完全さを備えている、そんな感覚を異化することによって「真昼の球体」という詩句は出て来たのです。この異化作用も垂直性だと思われます。
 さて、「栗の木」をもう一度読み返してみてください。ここには、倫理性も、矛盾も、異化作用もほとんどないことに気づくでしょう。つまり、田村はバーの成立の経緯を何の障害もなく、つまり垂直性に直面せずに、ただ漫然と思い出し、また、現在の日常的感覚を、これまた何ら垂直性に直面することもなく漫然と語っています。「栗の木は」その意味で極めて水平的な詩なのです。中期から後期に向かっていくにしたがい、田村の詩にはこのような水平性がどんどん現れていきます。佐々木幹郎は、「肉眼へ向かう感性の反乱」という対談の中で以下のように語っています。

「腐敗性物質」までは、水平的な資質にもかかわらず、垂直的な人間への憧れがあふれている。垂直にまっすぐ立つためには、骨格を持たなくてはいけないから、骨格を持った人間にあこがれるということですね。『緑の思想』(一九六七)以降は、骨格をなくした「クラゲ」になろうとしたという感じがするわけね。クラゲになると水平も垂直もありはしない(笑)。

 僕の言葉でいえば、「骨格」とは倫理性であり矛盾であり異化しようとする意志であるわけですが、いずれにせよ、中期以降の田村においては、垂直とか水平とかそういう契機が混ざり合っていて、混沌としていきます。



青い十字架

 ゴルコンダというインドのワインを飲んで そのワインは赤だったから その刺激的なタンニンの味が ぼくらの舌を形づくり 太陽と葡萄の結晶物 不定形で流動的な結晶物は やがて咽喉部の暗い通路を まがりくねって降りて行くと

(中略)

 ぼくらの心は インドのワインで燃えていたから創造的な芸術家 つまり批評家も立ち聞きしてくれない泥棒になるよりほかになかった インドの星を瞶めているうちに

 青いサファイアの十字架を狙って 神父に化けた大泥棒 その正体を見破ったカトリックの坊さんが云ったっけ――「あんたは理性を攻撃したではありませんか。それはよこしまな神学でな」

 太陽がのぼり 青い十字架は消滅する 内なる芸術家も批評家も行方不明になって ぼくと青年は 神々と動物と性とがはげしく呼吸しあい 空に向かって歓声をあげながら墜落して行く高塔寺院の方へ

 この詩は、1976年、田村が53歳のときに刊行した詩集『死語』に収められています。処女詩集を刊行してから20年。『四千の日と夜』では極めて垂直的だった田村がだいぶ水平的になっていることが分かります。「ゴルコンダ」という固有名の使用。「ワイン」という生活語の使用。田村は、音楽的で倫理的で矛盾をたくさん抱えた初期の詩編の境地には耐えられなくなった。

 やはりそれは、私としても現実的な手がかりがどうしても必要なんで、それがなくてはちょっともたないですよ。その意味で、たとえば『四千の日と夜』のようなやり方だけでいったら、とても生命がもたないですね。外的なものをもつということは、だから一つのぼくの健康法だろうと思うんですけど、それはしかし、ただ易きについたわけではないんですよ。現実的な手がかりを得ることによって、もっと違う深みが見つかるのじゃないかというようにぼくは思ったわけです。

 「恐怖・不安・ユーモア」より。現実というものは、何よりも一番存在することが確かなものです。そこには家族もいれば友人もいれば住居もあれば生活もある。何よりも、自分自身のありのままの姿がある。その現実の手触りはとても温かい。現実と触れていることは、あらゆる生活の事物と無意識的・意識的な結合関係に立つということであり、人間を安らかにします。現実的な手がかりというものを語ろうとするとき、どうしても必要なのが、現実に存在する人や土地の名前、つまり固有名であり、実際に生きるときに用いる様々な道具の名前、つまり生活語であるわけです。でも、中期以降、田村が現実へと向かってもなお失われなかったモチーフがありました。それが「恐怖」のモチーフです。少し田村の「恐怖」についての考えを聴いてみましょう。同じく「恐怖・不安・ユーモア」より。

 自分には確かに恐怖というものが一貫して大きな動機になっています。いわゆる現代的な詩人の詩というのは、恐怖よりむしろ不安、不安というものが大きなモチーフになっているわけですよ。その原動力になるものはというと、欲望なんです。欲望がなかったら不安とか不平不満とかいうものは生れないですからね。

 そして、欲望を軸にすると状況に依存した相対的な怒りしか生じない。だが、状況に依存しない絶対的な怒りも必要なのではないか。不安を軸にすると敵が見える。だが、そのようにして敵を存在させるのではなく、「人間の存在そのものに対する本質的な恐怖」が必要だ。不安と恐怖が交わったところで詩がかければ立派な詩が生れる。そんなことも言っています。
 ここに見てとれるのも田村の水平性と垂直性の交わりです。欲望を抱くことは、状況に対抗することであり、垂直的なことです。ですが、田村は欲望を抱くなと言う。これは状況に対して受動的であり、水平的なことです。ところが、欲望を抱くことは垂直的でありながら、絶えず状況という水平的なものにからみ取られ、水平的なものに脅かされ続け、不安を感じるということです。それに対して、欲望を抱かず、不安を感じないということは、状況という浅い水平的なものに依存せずに、より根源的な水平性、すなわち人間の本質というものに鋭く刺激され、そこから恐怖という垂直的なものを生み出すということです。状況という水平性は浅く、状況から脅かされることで生み出される不安という垂直性も浅い。それに対して、状況などという相対的なものに翻弄されず、むしろ人間存在という絶対的な水平性に対して神経をとがらせていて、その根源から、鋭く絶対的な恐怖という垂直性を感じ取るということ。これこそが田村の一貫した倫理であり、一見状況に対して水平的・受動的でありながら、人間存在については鋭く垂直的であるという、田村の本質がここにあります。
 さて、「青い十字架」を読み返してみてください。「不定形で流動的な結晶物は やがて咽喉部の暗い通路を まがりくねって降りて行くと」とあるように、不定形なものに対する恐怖、暗くて狭い通路に対する恐怖、曲がりくねることの恐怖など、この詩には恐怖が深く刻印しています。そしてこれらの恐怖は恐怖であって不安ではないのです。その都度その都度の社会状況、あるいはこの詩が書かれたもとになった体験の状況、そういうものからは独立し、純粋に根源から湧きあがってくる恐怖、それがこの詩には描かれていて、この「恐怖」のモチーフは、田村の詩においてはずっと維持されるのです。
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# by sibunko | 2012-10-24 12:39 | 田村隆一