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光冨郁埜『豺(ヤマイヌ)』(狼編集室)

愛と孤独の彼方へ


 光冨郁埜の詩集『豺』は、大雑把にいうと二つの原理と二つの空間から成り立っている。二つの原理とは傷と愛であり、二つの空間とは体験と虚構である。
 人間誰しも生きていれば心に傷を負うものである。傷は外的なものが不意に内部に暴力的に侵入することによって生じるものであり、断片的でまとまりがなく、回避されると同時に脳裏に反復され、感情の複雑な混成体を作り出す。傷は本質的に孤独に抱え込まれるものであり、また外的衝撃が訪れたときに誰も助けてくれないという孤独は傷を生み出すし、対人関係において傷を負った人間は孤独に生きることになじんでしまう。傷は孤独の中にあり、孤独により生み出され、孤独を生み出す。
 愛は他者や社会と共生する欲望であり、共生それ自体が目的となる。人は相手を保護するように愛することもあれば、相手に依存するように愛することもある。本能的な、あるいは発達の諸段階で徐々に獲得していく愛もあれば、社会生活の中で獲得していく愛もある。愛は連帯の中に入り込みたいという欲求でもあり、連帯の中で新たに発生してくる安定感でもあり、連帯の中に自己を見失う危険も蔵している。
 光冨は自己の孤独を叫び立てているだけではないし、愛の充溢をのんきに歌っているわけでもない。傷から発される支離滅裂な表現に終始しているわけでもないし、満たされた愛を多幸感いっぱいに自慢するのでもない。光冨は常に愛と孤独との途上にいて、自らと向き合い、どこへ向かうともわからない軌道へと自らを投げ出し、自らを超えていこうとするのだ。

(お前は「キチガイ」だ、あのひとは、
(二十数年間、わたしを罵りつづけて、
(わたしはわたしを生んだあのひとを、憎んでそだった、
       (「ヤマイヌ、ヒトニアラズ」)

 この詩編で光冨は、子供の頃に母親から愛されず、むしろ罵倒され、死ぬことすら考えたことを物語の形で告白している。彼は母親から愛されようとして愛されなかったという傷、母親からの心理的な攻撃による傷、そして愛する母を憎まなければならなかったという傷を背負って育ったのである。このような傷は容易に解消されるものではない。それは固定的で、断片的で、直視するのには苦痛が伴う。光冨としては、それを解消しないままずっと孤独に抱えていてもよかったはずである。だがそのような幼児の傷を物語として言語化することは傷の解消になる。そして、光冨は単に孤独に自らの傷を癒すだけではなく、それを他者に開かれたものとして、他者が読むに堪えるものとして、作品的強度を備えたものとして他者との物語的連帯に持ち込んでいるのである。ここには光冨の、孤独で傷を負った自己を超えて他者との連帯の中へ自己の物語を試していく姿勢が見て取れる。

(わたしのひとよ
(わたしの土を喰らうとよい
(それであなたが新たにそだっていくのであれば
       (「幼虫」)

 この詩編は、作者の愛する人が新しく生まれていくことに希望を見出し、「やがて わたしたちは 並びたち/金色にそまりだした 翅を 天にむける」という具合に、愛する人と共に生きていこうとする希望を歌っている。だが、この詩編の示す連帯もまた安穏なものではない。この連帯には互いに破壊し合いながらもかろうじて成立しているような危うさがある。光冨が連帯を描く場合、連帯はたいていこのように却って、孤独な主体の闘い続ける姿勢を浮き彫りにするのである。ここには、光冨が安易に連帯に安住していたのではなく、そのような連帯を超えて自己自身の闘いを見つめようとしているのがうかがわれる。
 さて、これまで見てきた、孤独から連帯へ向かう主体であると同時に連帯の中でも孤独であり続ける主体であるという光冨の在り方は、彼の生々しいリアルの在り方である。だがこの詩集には、そのようなリアルの自分を吐き出すだけにはとどまらないもう一つの平面がある。それが虚構の平面である。

女の寝息のなかで、ふたたび目を覚ますと、淡い光と陰の部屋は、洞窟だった。その洞窟の入り口からは、紺色の凪の海が見えていた。女の背中越しに、ぼんやりと夜の海を眺め続けていた。わたしの手の甲に、女が無意識に手を重ね、吐息をもらした。
       (「砂と太陽。」)

 第二部「潮騒」では、主人公と「女」との不思議なやり取りが描かれる。女は確かに人間のようだが、声は風にしかならない。女は主人公に好意を持っているし、主人公も女に好意を持っている。だがそこから恋が発生するのでもなく、表情による豊かなやり取りがあるだけである。確かにこれは、光冨が、母親から愛されなかったことを補償するためにつくりあげた癒しの劇だとも見ることができる。だが、それだったら、ここまで情景を丁寧に描写し、ここまで豊かに想像力を膨らませる必要はなかったはずである。それに、バーから部屋、仕事場へと場面を移したり、その合間に女の声を降らせたり、部屋になぜか砂があったり、夢の中で洞窟に居たり、光冨の語りは非常に工夫に満ちている。それはミステリーとスリルを生み出し読者を楽しませる語りであって、この語りは明らかに、読者に語られる内容を虚構だと受け取るように要請している。我々はいわば観客席に座って、光冨の織り成す虚構の舞台を、一つの完結したテクストとして観賞する必要があるのである。ここには、第一部「ひとの声」のようなリアルな空間ではなく、虚構的なテクストの空間が開かれているのが分かるだろう。だから、読者はこのテクストを光冨の実体験に還元する必要は全くない。読者は一人一人違った風に、主観的にこのテクストを読み、また楽しむことができるのである。

灰色の毛皮のところどころに褐色の部分がある。鼻から額にかけては黒っぽい色をしている。わたしに牙をむくことはないが、ときおり覗かせる歯は鋭い。わたしは膝を折って、木の根本に座り、豺の背に体をよせた。豺はわたしの匂いをかぎ、口元をなめる。互いの体温だけを頼りにした。
       (「火」)

 第三部「豺(ヤマイヌ)」では、主人公は豺に取り囲まれ、また豺と親密な交渉をする。これはもちろん、光冨の少年時代の記憶と願望なのかもしれない。同輩たちから敵意を持って迎えられる一方で、自分に似た仲間と仲良くしたい、そういう気持ちが投影されているのかもしれない。だがやはり、ここに現れるテクストの詳細さとエンターテインメント性は、光冨のリアルの在り方にある程度根差しながらも、そこには回収され尽くせない独自の論理と展開があると見なければならない。光冨は、リアルな自己の傷の治癒という差し迫った要求に従うのに終始したのではない。そこには何の遊びもないし余裕もない。そうではなく、リアルな自己を題材としながらも、そこから一気に虚構の平面を展開させ、偶然的に湧き起ってくるアイディアに駆動されながら、テクストの詳細さと整合性・エンターテインメント性を作り出し、余裕に満ちた遊びの空間を展開しているのだ。
 多くの人がそうであるように、光冨もまた傷を負った孤独な存在であり、連帯を求める愛を抱いた存在である。だが、光冨はそのようなリアルの自分を物語的に治癒しながらも、そのリアルの自分を虚構の次元に解放し、エンターテイメント性のあるテクストの制作と共有によって、新たな孤独と連帯を手にしたように思われる。読者はもはや光冨の実存まで遡ってはくれず、好き勝手な読みを始める、その意味で光冨は孤独になった。だが、自らの実存を普遍的なテクストとして読者と共有することで、光冨はリアルな次元とはまた異なった連帯を、数多くの読者と同時に結ぶようになったのである。



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# by sibunko | 2014-02-24 09:19 | 現在の詩人たち

榎本櫻湖『増殖する眼球にまたがって』(思潮社)

詩を救うための音楽
      ――榎本櫻湖『増殖する眼球にまたがって』

1.現代詩をめぐる状況

 現代詩の読者は減っている。団塊の世代のある詩人と話したとき、「私の若い頃は詩が若者たちの普通の話題に上がってきたが、いまはそんなことはないだろう。」と話していた。現代詩は、60年代、70年代の頃はまだ人口に膾炙していたが、時代と共に段々それを享受する人口が縮小していったのだ。また、私自身の見聞としても、ここ10年くらいで、詩の雑誌の取り扱いをやめた書店は多いし、詩のコーナーを大幅に縮小した書店も多い。それは、端的に、現代詩が限られた読者にしかその魅力を理解されなくなったからだろう。
 そこには、表面的な豊かさを追求するあまり、かえって真の豊かさを失いつつあるという現代社会の逆理が投影されているように思える。かつてアドルノが『不協和音』で音楽について指摘したように、現代の芸術は大衆化しており、瞬時に感覚され快楽をもたらすものばかりが安易かつ大量に消費されるようになった。大衆は、享受に際して深い教養や批評精神が要求されるものを忌避し、労働の間の余暇を心地よく過ごすために功利的な、つまり快楽の量が多いような作品を好んでいる。そして、大衆は、作品そのものの価値よりは、作品のまとっている価値の方に興味が向かい、作者や演奏者のアイドル性やネームバリュー、その作品がどんな賞をとっているかによって作品を選択するようになっている。さらには、作品を供給する出版社やレコード会社などの側でも、そのような大衆の志向に合わせることで商業主義の本質である利益追求の目標を満たし、または宣伝やイデオロギー操作によって大衆を供給側の都合の良いように管理していく。そのことによって、大衆は表面的には豊かになったかのように思える。余暇の時間を分かり易い作品の心地よさで満たし、疲労を回復してまた労働に向かう。だが、芸術作品の深い享受が失われていることは間違いがない。よく言われるように、作品は感覚のみによって捉えられるものではなく、知性や教養の裏付けがあって初めてその本来の在り方や深みを捉えることができるものである。簡単にわかりそうなものであっても、享受者の側にある体験の豊かさや芸術に関する洞察の深さによって、享受体験は単なる消費を超えた深みを獲得するのである。分かり易いものばかりを消費する大衆は、表面的な快楽を求めるあまり、作品の構造の把握や作品の置かれた背景の把握などによってもたらされる豊かな芸術体験ができなくなってしまっているのだ。
 だがそれだけではない。芸術の大衆化は、ある意味芸術における悪しき民主主義であり、それは少数者を抑圧し、社会の多様性を殺して行く方向に働いている。トクヴィルが大昔に指摘したように、民主主義は単に国民の声を政治に反映させる有効な制度であるだけではなく、多数派による専制を生み出し、社会を腐敗・混乱させる可能性を蔵したものである。今や詩を書く人間は、自ら詩を書いていることを「カミングアウト」することすら困難な状況である。詩を書いているというだけで何か内向的で気味の悪い存在だと受け止められ、一般社会において詩を書くこと自体が抑圧されている雰囲気がある。だが、それは社会の均質化圧力の横暴であり、均質化した社会からは生産的な発展は奪われてしまう。歴史の発展は、社会の不均質さ・多様性に基づく諸力の運動によってもたらされてきたのであり、社会の多様性の喪失は社会全体の豊かさの喪失に他ならないのだ。
 現代詩は、言語芸術の分野において、常に自らを他の言語形式から異質たらんとして、常に自らを更新していく分野である。「現代詩」の定義など論者の数ほどあるだろうが、ひとまず私は、現代詩の成立を、その抒情の質の多様性が確保されることによって段階的になされたものだと考える。それは、旧来の日本の詩歌にあったような、はかなさ・弱さ・甘美さ・単純さへの志向から、永続性・攻撃性・粗野さ・複雑さへの志向への転換だと大まかには見ることができる。具体的な名前を挙げるなら、恐怖を重要なモチーフとした田村隆一・黒田喜夫・粕谷栄市など、性や暴力を重要なモチーフとした鈴木志郎康・吉増剛造など、不条理を前面から取り扱った天沢退二郎・吉岡実など、観念や思想や論理による抒情を展開していった谷川俊太郎・岩成達也など、社会性を積極的に取り込んでいった谷川雁・吉野弘などにより「現代詩」は段階的に形成されていったのである。抒情は、とっくの昔に、花鳥風月の甘美な快楽を歌うものではなくなっている。抒情は、人間の根源から沸き立つあらゆる情念の奔出であり、また思想や哲学・論理などのもたらす知的な美の追求でもあり、社会の中で社会を内面化しながら生きる人間の歌でもある。抒情のこのような多様性と不均質性が現代詩の特色をなしていると私は考える。
 だから、現代詩は必ずしも心地よいものではないし、必ずしも容易に理解されるものでもない。大衆の安易な消費に抵抗するのが現代詩であり、それゆえに大衆社会からは抑圧され疎外されているのである。だが、流行歌の歌詞や小説に飽き足らず、現代詩にそれらとは異質な衝撃力を見て取って、現代詩に魅せられていく若い世代もまた少なからずいるのである。大切なことは、現代詩がそのような異質な衝撃力を保ち続けること、そして、現代詩が安易に消費されないだけの内的な構造と強度を保ち続けることにより、社会の多様性と不均質性を保ち続け、社会を活性化することだと思われる。

2.榎本櫻湖『増殖する眼球にまたがって』

……蠢動と顫動のさなかに滴る蜜月の、海洋へととめどなく流れゆく吐血による櫛水母の残骸を集め、瀕死の刺胞生物から他の刺胞生物へと伝達される、ありうべき脱臼、帯状に引き延ばされていく虚ろな風浪は、剝落する樹皮の内側でどよめく樹脂に絡めとられた華やかな石化しゆく糸、波濤から波濤へ伝播する、分泌の論旨に、〈つまり陰茎は覚束ない花器として一輪のカーネーションを挿されて佇んでいる〉のであり、並ぶ死滅の瓦解に畏怖の亀裂を目撃し、抉られた鼠蹊部の暗澹と落ち窪む猶予をひときわ勤しむ……
       (「陰茎するアイデンティファイ あらゆる文字のための一幕のパントマイム」)

 さて、「詩の強度」というものを考える。これもまた論者によって諸説あるだろう。私は詩の強度というものを、どれだけ強度のある理論によって支えられるか、によって測ろうと思う。先述したように、詩は単に感覚されるだけではなく、何らかの知的な営みと共に享受されるときに、より豊かに受容されるのである。その詩がどれだけ強靭な知的な営みを触発し、どれだけ強靭な理論によって解釈され、その解釈によってどれだけ豊かに受容されうるか、というところに詩の強度の在り処を求めようと思う。そして、そのような強度のある詩の豊かな受容によって、言語芸術の中でも異質なものであるべき現代詩は、その威力を増し、異質な衝撃力や言語表現の多様性を世に定着させるのである。
 さらに、「詩の強度」には、その詩がどれだけ内面的な力に推進されているか、というのも付け加えることにしよう。というのも、いくら理論により深く解釈される詩であっても、単なる様式の模倣だけでは老化していくだけだからである。詩には静的な強度だけでなく動的な強度も必要である。詩の動的な強度として、それがどれだけの「若々しさ」「前衛精神」「内的必然性」によって駆動されているかも考慮することにしよう。
 さて、ここで榎本櫻湖の詩集『増殖する眼球にまたがって』(思潮社)を採り上げる。先の引用は同詩集からのものである。榎本の詩は現代音楽という巨大な理論体系による解釈を触発するという意味で、強度のあるものであり、また、通常の言語に対する異質性も際立っており、さらには榎本の内的な推進力を強く感じさせるものである。
 言葉というものは音楽の一種である、というと驚かれるだろうか。だがあえて「言葉は音楽の一種」と断言しておこう。音楽史的に言えば、古代ギリシアにおいて「ムシケー」と呼ばれたものは、音楽的に規定された韻文であり、そこでは音楽と詩が一体となっていた。T.G.ゲオルギアーデス『音楽と言語』の一節を引こう。

 このようにギリシャ語の語句はそれぞれに固定した実体的な音を備えており、それぞれに固有の音楽的意志をもっていた。個々のシラブルは、伸ばすことも縮めることもできない固有の長短をもっていた。これを語る人にとってこれらのシラブルは、必然的に柔軟さを欠いた固体のように感じられた。古代ギリシャ語の有するこのような固体的対象的な性質、これが他の西洋の言語にはみられないギリシャ語固有の音楽的リズムにほかならなかった。

 このムシケーから音楽的要素を取り去ったものが散文となり、散文的要素を取り去ったものが音楽になった、というのが分かり易い解説である。だが、言葉はついに音楽的であることをやめなかったのではないだろうか。言葉は声として発されるとき、必ず何らかの音色を持ち、何らかの抑揚を持ち、何らかのリズムを持つ。それは標準的な記譜にはなじまないものかもしれないが、声として発された言葉は、それがギリシャ語であれ日本語であれ、そのような音楽的要素を備えるのである。そして、これは言葉が文字で書かれたときも同様である。純粋な黙読というものは想定しがたく、声を発さずに言葉を読んでいるときでも、人間の頭にはその言葉の音声がうっすらと再生されているものである。黙読していても、人間はその言葉の音楽を感じ取ることができる。
 だとすると、言葉から離れた音楽というものはいかにして存在しているのだろうか。言葉は、それが読まれるときでも音韻的な在り方をしている。その音韻を超えたところに詩の音楽の在り処はあるのではないだろうか。実際、器楽曲においては言葉とは次元を異にした音楽が奏でられているのであり、器楽曲の体系は言葉の意味とは別の意味を生み出している。それは、言語的なメッセージには回収されない音楽独自の印象であり、ある種の内容を伴った装飾である。
 さて、上掲した榎本の詩を読んでみよう。この詩には言葉に伴う音韻的な意味での音楽はもちろん備わっている。だがそれに加えて、メッセージを超えた、それでありながら何らかの内容を伴った装飾が加えられていないだろうか。それは言語の通常の意味を超えた異質な意味であり、音楽の意味に類するものである。「蠢動と顫動のさなかに滴る蜜月」と書かれたとき、そこには言葉の通常の意味を超えた意味が発生している。それは、滑らかな意味や論理やイメージの水平的な連続に、垂直的に刻まれた断裂である。通常の言葉が線条的であるとするならば、榎本の詩はそこから垂直に切り立つような新たな次元を加えている。それは、言葉の連続を切断したり、言葉のイメージ同士を衝突させることで生じる言葉の新たな意味である。「蠢動」とは何の蠢動であるのか。「顫動」とは何の顫動であるのか。それが分からないので、その「さなか」が何を指すのか分からない。このように榎本の詩にはあるべきところにあるべきものが明確に欠けている。反対に、「滴る蜜月」に関して言うならば、期間を表す「蜜月」が「滴る」運動をすることにされており、異なるカテゴリーが無理やり連結させられた時の衝突が鮮やかに見て取れる。つまり、榎本の詩には、あるべきものが欠けたり、異なる論理的範疇にあるもの同士が無理に衝突させられたりしていて、通常の言葉のもたらす意味とは何か異質な新しい意味が生み出されていると言わざるを得ない。
 もう少し丁寧に引用部を読んでいこうか。そこには、「カーネーション」という俗に美しい言葉から、「刺胞生物」という専門用語、「陰茎」という性的な言葉、「畏怖」という俗には美しくない言葉、と本来だったらそれぞれ異なった種類のテクストに整合的におさめられているはずの語彙たちが一つのテクストの中に集中し互いに腕を組みながらにらみを利かせている。「カーネーション」だったら本来はちょっとした美しい小話に出てくる言葉かもしれない。「刺胞生物」だったら本来は学術論文に出てくる言葉かもしれない。「陰茎」だったら本来は医学的なテクストに出てくる言葉かもしれない。「畏怖」だったら本来は暗澹とした告白に出てくる言葉かもしれない。そのような言葉のまとっているある種の「調性」を剥奪するということ。榎本の詩が「無調」であるのは、そのように、あらゆる領域から言葉を文脈から引きはがして持ってくるところに由来する。そこには当然、通常のテクストによっては実現されない分裂や衝突が生じ、それが榎本のテクストに通常の言葉の意味とは異なる音楽的な意味を付与するのである。「音楽的な意味」とは、言葉の通常のメッセージ的一貫性に垂直に切り立つ言葉の新たな意味であり、歌に対して伴奏が言葉以上の意味を付与するように、詩がその構文や語彙の選択を工夫することで獲得する言葉以上の意味である。連続的で一貫したメッセージ的な意味を超えた意味を詩が発するとき、それを「音楽的な意味」と呼ぶことにする。

 あらゆる家具のうちから任意のものを好きなだけ用意して、考えつく限りの音を、たとえば叩いたり擦ったりするのは当然のこととして、抽斗を開け閉めする音、なにか道具を使って、金具の部分をコントラバスの弓などで擦奏したり、撥やマレット、家具同士をぶつけあうのもよいかもしれない。とにかく、思いつく限りの音を、鳴らしてみるべきなのだ。ただしきをつけなあければならないのは、それが単純な整数で割り切れるような拍節感をおびてはならない、ということ。つねに衝動的で、まるで痙攣の発作を起こしてしまったかのような音をたてることに徹し、あまりにも退屈そうな風情で、しばしば聴くものを不快にさせるものでなければならない。
       (「《家具の音楽》 いくつかの家具と複数の人の声のための」)

 さて、ここで榎本は自らの詩作法を語っているわけだが、言葉に関することは一切書かれていない。もっぱら音に関することが書かれているわけであり、引用部に続く本編はもちろん詩なのだが、その詩によって音楽を実現しようとしている意志があるのは明確であろう。ここで語られている「奏法」は、普通の音楽の奏法ではなく、とにかくあらゆるノイズを狂ったように作り出せ、と言っているのである。本編では、例えば「母音の印象を耳から紡ぎだす営みに意思を失して従事すること、その足枷を労いながら神経症的なまでの震えを妄りにマリオネットの膨らんだ恥丘に貼りつけること、その二つは果たして銀鍍金を施されて今にも破裂しそうなほどです」などの詩句が展開される。これは「音楽として」読まれるべきであり、要するに、通常の線条的なメッセージ的言明を超えたような意味の戯れを「聴く」必要があるのだ。
 さて、このようにして、榎本の詩は決して感覚的に快いものではない。ノイズを作り出す「奏法」からも分かるように、既存の感覚的に快い形式では表現できないものを表現しようとしていることが分かる。だが、再度言うように、作品とは感覚だけで判断されるべきものではない。そのコンセプチュアルな意味合いであるとか、その置かれた文脈との関わり合いであるとか、その構造の理論的解釈であるとか、その根源にあるものと鑑賞者の体験との照らし合いであるとか、そういうものをひっくるめて、その芸術的価値は図られねばならない。
 そこで、先ほど述べた詩の静的な強度と動的な強度について考えたうえで、現代社会において意味のある作品であるかどうか考慮してみよう。まず、静的な強度について。榎本の詩は、通常の言語の意味を超えた音楽的な意味を作り出すことに成功し、そのような理論的解釈を強く触発するという意味で、静的な強度を備えていることは十分わかったのではないだろうか。では動的な強度はどうだろう。榎本の詩は決してダダやシュルレアリスムの様式的模倣ではない。彼女が自らの詩に音楽的な様式を付与しているのは、何よりも自らの不条理な衝動や疎外意識などを叫びたてるためである。彼女がその詩作法においてノイズを狂ったように奏でることを意図していることからも分かるように、安穏で幸福で居心地の良いものなど破棄しているのだ。その居心地の悪さや危機意識を叫びたてる媒体として、音楽的な詩編が必然的に要求されたのである。つまり、榎本の詩には内的推進力が伴っており、動的な強度も備えていると言えよう。そして、榎本の詩は、自動筆記的な様式に音楽的美を加え、さらにその音楽的美は現代音楽的な美であったという意味で新しく異質なのである。そのような異質で強度のある作品は、社会の多様性を増し、社会の均質化圧力に抵抗し、芸術の大衆化を防ぐ役割を果たすという意味で、現代社会の役に立っていると言えよう。

3.大衆化の先へ

 さて、ここまで、「芸術の大衆化」を前提に話を進めてきたのであるが、現代の芸術はそれよりもさらに先に進んでいるのではないだろうか。インターネットの普及は、マイナーな趣味を持つ者同士が情報を共有するプラットホームを作り上げた。いくらマイナーで昔だったら同朋を見つけるのが難しく人口がスパイラル的に減っていく運命にあったような趣味でも、簡単に仲間を見つけることができて、その趣味を放棄しなくても済むようになっている。現代詩もまたその恩恵にあずかっていて、すぐれた詩人たちが地域を超えて瞬時にやり取りができるようになっているし、それによって交流、新たな活動の立ち上げが容易になっている。榎本櫻湖の詩は大衆社会に抵抗するものであったが、このような小さな島同士が緩やかに連結するようになった社会に対してどのように反応していくのか、それが楽しみであるし、それは何も彼女の作品に限らず、現代詩自体の今後の運動の課題でもあるだろう。


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# by sibunko | 2013-12-21 14:50 | 現在の詩人たち

インターネットに詩作品を発表することについて



pdf詩誌としての「骨おりダンスっ」






0.はじめに




 大岩オスカールという美術家がいる。建築を学んだだけあって、都市の構築性を的確に描くと同時に、そこに自然や環境を被せていく、独特の作風を持った美術家だ。ところで、彼の作品の多くは、彼のホームページ(
http://www.oscaroiwastudio.com/)で観ることができてしまうのだ。彼のホームページで彼の作品を見た時に私が感じたのは、(1)うれしいなあ(2)もったいないなあ(3)癒されるなあ(4)物足りないなあ(5)危ういなあ、大体そんな感慨である。つまり、(1)これだけ優れた作家の作品をタダで観れてうれしいなあ、(2)でもウェブで公開することによって作品の何か大切なものが失われるようでもったいないなあ、(3)ウェブというリラックス空間で、しかもすぐれた作品に触れられて癒されるなあ、(4)でも実物に比べてやはり物足りないなあ、(5)それにこれだけ広大なネット空間にうずもれたりサービスの終了で観れなくなったりという可能性があり危ういなあ、という感慨である。これらの感慨について、もっと詳しく述べていこうと思う。




1.無償性




 作品というものを観賞するためには、たいていお金が必要である。作品は作家の労働の産物であり、作家の個性や創造性が発揮されたものである。それに釣り合っただけの代価を観賞者は支払わなければならない。これは、ウェブ時代が到来するまで長く人の心を支配していた通念だった。



 だが、作家は本当に代価を求めているのだろうか。自分の作品に高値がつくことは、作家の自尊心を満足させると同時に、作家の生活を保証するという意味も持つだろう。だが、それよりも、作家は、より多くの人に、単純に自分の作品を鑑賞してもらいたいのではないだろうか。それは、承認欲求と言えば承認欲求であるが、社会的な高い名声とか高い値段といった意味での強度の承認欲求ではなく、もっと平たく言えば、誰かに見てもらいたい、誰かの反応が聞きたい、というところに尽きるのではないだろうか。例えば、何か労働したとする。そして、労働の結果が出たとする。そのとき、労働者が得てうれしいものは、もちろん賃金もうれしいだろうが、それよりもより心を温めてくれるのが、他者の反応ではないだろうか。「今回はよくできたね」「ここはもっと改善できるんじゃないかな」。そういった、生きた他者に自分の労働の成果を見てもらって何か言ってもらえること、そこに、労働者の、賃金とは違った次元での人間的な満足があるのではないだろうか。



 ウェブは、作家の、この「見てもらいたい」欲求の充足に寄与している。もちろん、見てくれている人のうち、実際に声を上げて反応してくれる人はごく少数だろう。だが、中には、作品に感動して作家にメールを送る人もいることだろう。そうすると、作家の「反応を聞きたい」という欲求も満たされるのだ。ウェブに作品を発表しても、その見返りとして社会的権威が来るわけでもお金が来るわけでもない。ウェブに作品を発表する人は、そのような社会経済的な見返りを求めているのではない。それよりも、自分の作品を見てもらうということ。それに対して何か反応してもらうということ。そちらの、お金にはならない見返りを求めている。



 ところで、ウェブという場所は、インターネットに接続する料金さえ払っていれば、いつでもだれでも見れる場所である。見る側にとっても、ウェブ空間は無償の空間である。ウェブに作品が発表されていれば、見る方としてもタダで見れる。だから、ウェブは、作家の側の「見てほしい」「反応してほしい」欲求と、読者側の「見たい」欲求が、スムーズに結合して、互いの欲求充足が起きやすい場所なのである。



 では、「骨おりダンスっ」はどうだろうか。詩の世界では、「詩は食えない」ことは常識となっており、詩を書くことで社会的名声やお金を得ることを目指す人は一握りに過ぎない。大多数の人間は、お金や権威がほしいわけではなく、ただ読んでもらいたい、何か言ってもらいたい、という気持ちで詩を書いているのである。もちろん、詩の世界には詩の世界の内輪の権威はあるだろう。だが、詩の世界の住人は、その狭い世界の中での権威がいかに無力なものであるかを知っている。詩は、主に、同人誌という形で流通してきたが、同人誌は、一応価格を設定されはするものの、それよりも親しい人へとタダで送ることの方が多いし、そういう親しい人はきちんと反応してくれたりするものである。詩集にしても、献本の多さを考えれば、詩を書く人の大多数はずっとお金や権威を求めずに詩を書いてきたということがよく分かる。



 「骨おりダンスっ」は無償で公開されている。それはツイッター上でリツイートされることで、詩に関心のある人にアクセスが開かれる。「骨おりダンスっ」で作品を発表する人は、単純に読んでもらいたい、反応が聞きたい、そういう気持ちで詩を発表しているのである。詩に関心のある人は、それに対してツイッター上でリアルタイムに反応していく。「骨おりダンスっ」は数多くの人にその存在が開かれていくと同時に、数多くの人の反応を得ることができ、そこでは、作家の「見てほしい」「反応してほしい」という欲求と、読者の「読みたい」欲求がうまく結合しているのである。




2.アウラ




 ウェブで作品を発表するなんてけしからん、という声をしばしば聞く。しかも割と感情的なトーンでそんなことが言われたりする。そういう人たちの言い分はそれぞれにあるかもしれない。だがここで、芸術作品が複製されることで大事なものが失われた、ということを明確に論じた思想家を紹介しよう。それはベンヤミンである。彼は、「複製技術時代の芸術作品」で次のようなことを書いている。




芸術作品は、それが存在する場所に、一回限り存在するものなのだけれども、この特性、いま、ここに在るという特性が、複製には欠けているのだ。しかも芸術作品は、この一回限りの存在によってこそその歴史性をもつのであって、そしてそれが存続するあいだ、歴史の支配を受けつづける。




ある事物の真正性は、その事物において根源から伝えられうるものの総体であって、それが物質的に存続していること、それが歴史の証人となっていることなどを含む。歴史の証人となっていることは、物質的に存続していることに依拠しているから、この存続という根拠が奪われている複製にあっては、歴史の証人となる能力もあやふやになる。




 いったいアウラとは何か? 時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。ある夏の午後、ゆったりと憩いながら、地平に横たわる山脈なり、憩う者に影を投げかけてくる木の枝なり、を目で追うこと――これが、その山脈なり枝なりのアウラを、呼吸することにほかならない。




 つまり、アウラとは、(1)芸術作品が一回的に存在する歴史性であり、(2)かつて芸術作品を見た無数の視線の集積として伝統を引き継いでいること、そして(3)近くにありながら遠いものとのまなざしのやり取りであり、(4)消滅していくものの瞬間的な経験である。そして、複製技術によって、芸術作品からこの大事なアウラが失われていくとするのである。



 ところで、このアウラ概念は、客観的な歴史の契機と、主観的な経験の契機を両方含むことに注意しよう。作品の成立と存続の客観的な歴史性と、受容者が作品と交感し瞬間的に作品を体験する主観性。



 だが、歴史とはそもそもそれほど客観的なものなのだろうか。ベンヤミンは、どうも、作品が客観的な歴史に属するものであるかのように考えている節がある。それは、歴史を物語る人間の存在以前に存在し、絶対的に厳密であり、細大漏らさず世界の出来事を網羅している、神の視点からの歴史に近い。ところが、歴史とは、物語る人間が存在して、さらにその人間が物語ることによって初めて存在するのではないだろうか。歴史を俯瞰的に眺めることはできない。それは常に、それぞれの人間の視点において積み重ねられていく出来事の総体ではないだろうか。歴史を一度主観性の中に取り戻すこと。そして、人々が出来事を物語ることによって、歴史を間主観性の中に解き放つこと。それが、歴史を物語としてとらえる人々の立場である。



 そういった立場からすれば、作品の客観的な存立や存続はそれほど重要ではない。重要なのは、作品が受容者によっていかに物語られるかである。受容者たちが作品の経験を物語ることによって、社会の中で相互触発しあい、作品像を作り上げていくこと、そこにこそ、作品の歴史性は宿る。作家が作品を作った客観的な事実、その作品を多数の人が見たという客観的な事実に歴史の一回性を求めるのではなく、受容者の物語行為に歴史の一回性を求めるということ。その観点からすれば、重要なのはアウラの主観的な契機の方であり、複製技術によってアウラが端的に消滅したとは言えない。



 つまり、アウラ概念は以下のように再構成できる。(1)芸術作品が一回的に物語られる歴史性、(2)まなざしのやりとり、(3)瞬間的経験。さて、このように再構成されたアウラは、複製技術時代にもなお残っているといわねばならない。確かに、ウェブで読まれる作品は、作者の肉筆によって書かれた原稿用紙そのものではないし、作者のパソコンに保存された大元のファイルでもない。その意味で、作者の側から発される唯一性は消滅してしまっている。だが、唯一性を作者の側に求めるのではなく、読者の側に求めるのである。読者がウェブで作品を読んで感動する、作品と交感し戦慄する、まさにその消えゆく瞬間に歴史の一回性を求め、そこに作品の唯一性を求めるのだ。作品とは常に、「誰かにとって」の作品である。さらに、読者が作品を物語ることで歴史が生成されていく。アウラをそのようにとらえれば、ウェブ上で容易に複製可能な作品についても、読者の受容の一回性に、再構成されたアウラの存在を認めることができる。




3.リラックス




 インターネットはリラクゼーション空間である。人は、誰にも強制されることなく、自分のペースで、自分の好きな情報にだけアクセスし、その情報の量も自分の負担にならない程度に制限できる。ウェブ空間にはリンクという無数の窓があり、そこを通じて人々は次々と自分の好きな風景を選んでいくのである。



 さて、そのように自分の好きな情報にアクセスする際、便利なのは検索ツールである。もしくはツイッターでの情報である。ウェブにおける情報の蓄積により、人々は、以前だったら容易にアクセスできないような情報にも容易にアクセスできるようになった。



 ここで、ロングテール論という考え方を紹介しよう。例えば、本を、その売上げ順に横にどんどん並べていくとする。そして、並べた場所には、その本が売れた冊数分本を積み上げるのである。すると、初めの方にはベストセラーが山のように高くそそり立ち、遠くに行くにしたがって本の積まれる高さは低くなっていく。初めの方の山を恐竜の頭と見立てて、遠くの方へとすそ野を広げるマイナーな本たちの並びを恐竜の長いしっぽ(ロングテール)と見立てる。インターネットは、このロングテールの部分を活性化した、というのである。例えば、地元の書店には、よく売れる恐竜の頭の方の本しか置いていないかもしれない。だが、アマゾンその他ネット書店には、あまり売れないようなロングテールの部分の本もちゃんと置いてあるのである。しかも、そのようなマイナーな多数派であるロングテールにも実は需要がたくさんあり、そこへのアクセスが開かれることにより、ロングテールの部分の本も多く売れるようになり、ロングテールが活性化する。



 これは、本に限らず、情報一般にもいえる。ウェブがなかった時代は、国会図書館にでも行かなければ手に入らなかった情報でも、少し検索することによりアクセスできたりする。マイナーな大多数を活気づけること。これがインターネットがなし得たことである。



 ところで、詩というものはもともとマイナーなジャンルだったし、今もそうである。だが、詩について関心のある人は、意外と多い。近所の本屋には詩集は有名どころしか置いていないけど、本当は現代詩文庫や今の詩集も読みたい。そんな人が、ネット書店を通じて多様な詩集を手に入れることが可能になったのである。詩集に限らずとも良い。何か良質な詩についての情報を得たいときに、ウェブはとても役に立つ。



 かつて、詩について情報を得ることは困難だった。せいぜい現代詩手帖が大きめの本屋においてあるくらいで、人々はそもそも詩についてアクセスすること自体困難だった。それが、ウェブ社会の到来によって、詩についてアクセスすることが非常に容易になったのである。



 さて、そもそもウェブ空間はリラクゼーション空間だった。そのリラックス効果を増すためには、好きな情報に適度にアクセスするのが適切である。詩が好きな人は、詩についての情報に適度にアクセスできればくつろげる。さて、そこでpdf詩誌の登場である。詩に興味がある人は、何人かの詩人をフォローしておけばよい。それらの詩人は、詩についての情報をツイートの形で発信してくれるだろう。その情報の中に、良質な詩誌が、全部読めるものとして登場したら! 詩が好きな人は、ウェブでのリラックスをより良いものとすることができるだろう。「骨おりダンスっ」はそのようなものとしてある。




4.非拘束性




 ウェブで作品を見ても物足りない。やっぱり実物が見たい。詩だったら、やっぱり詩集が欲しい。そういう人は多いだろう。ウェブにある作品を所有することはできない。だが詩集なら所有できる。作品とじっくり取り組むためにも、ウェブでは気が散りすぎてうまく取り組めない。手元において、本として、自ら対価を払ったものとして、作品と取り組みたい、という人は多いだろう。確かに、無償で提供されるものにはどこか執着できないところがある。お金を払って買ったものだからこそ、身銭を削ったものだからこそ、真摯に向き合える。



 だが、逆に言えば、無償で提供されるものであるからこそ、執着しなくてもよい、そもそも読まなくてもよい、という発想が生まれる。無償で提供されるものを観賞する際には、それを買ったであろう時には生じたであろう、「きちんと読まなきゃ」という自己拘束が生じないのである。無償で提供される作品は、好きなものを好きなだけ読めばいい。先に言ったリラクゼーション効果ともつながるが、無償であることによって鑑賞者を拘束しない、そういう作品の在り方もあるのである。




5.本質化




 ウェブ空間は、リアルな空間と対比すると、非本質的であるとみなされることが多い。ウェブの発達とともに、それと比例するかのように「リア充」という言葉がはやった。これは、リアルな人間関係やリアルな体験の方が本質的で価値があり、ウェブ空間は非本質的でそれほど価値がない、というイデオロギーの投影であろう。確かに、ウェブ上の情報は玉石混交である。たとえ検索エンジンが発達して良いものへのアクセスが容易になろうと、依然リアル世界の体験と情報にはかなわない、というのが多くの人の抱いている考えであろう。



 だが、従来非本質的だと考えられていた領域に、本質的なものの登場する可能性を見出すこと。それこそが創造的な人間の一つの使命ではないか。実際、梅田望夫の言を借りれば、ウェブ空間には、「もう一つの地球」が生成する可能性が十分にある。実際、グーグルのストリートビューや、ウィキペディアなどの達成を見ると、ウェブにも質が高く人々の需要に応えるものが出現してきていることが実感されるだろう。その文脈において、pdf詩誌というものを考えてみよう。玉石混交で、大して役にも立たない、ろくな作品がない、いい作品を探すのが面倒だ、そんなウェブ空間に、アクセスが容易で質の高い詩誌が登場したのである。これはまさに、非本質的であるとみなされていた領域の本質化であり、いまや「骨おりダンスっ」は、その幅広さや実験性、質の高さで、一つの権威にすらなりつつある。




6.最後に




 結びとして、既存のウェブにおける詩のコミュニティと「骨おりダンスっ」を比較しておく。ウェブ空間には、詩のコミュニティや詩を書く人のホームページ・ブログが多数ある。その中で、特に目立っていた存在として、「現代詩フォーラム」(
http://po-m.com/forum/)と「文学極道」(http://bungoku.jp/)を採り上げる。



 現代詩フォーラムは、誰でも参加可能で、参加者は好きな作品にポイントを入れる。とにかく敷居が低く、それゆえ玉石混交問題が如実に起きている場所である。確かに、作品の得たポイント数である程度良いものと悪いものを識別できるわけだが、このポイントというものも、場で馴れ合うために互いに与え合うものであったり、素人受けがする作品に集中したりする。だから、現代詩フォーラムは、良いものを識別する機能を十分に果たしているとは言い難い。



 現代詩フォーラムの玉石混交ぶりとなれ合いが気に入らず、ダーザイン氏が立ち上げたのが文学極道である。トップページには、「芸術としての詩を発表する場、文学極道です。/糞みたいなポエムを貼りつけて馴れ合うための場ではありません。/あまりにも低レベルな作品や荒しまがいの書き込みは問答無用で削除されたり、「月間最低劣ポエム」
として晒し上げられたりする可能性があります。」と掲げられていて、明らかに敷居を高くしようとする姿勢が見受けられる。また、投稿作の中からは、毎月、「月間優良作品」が「発起人」たちにより選別され、顕彰される。掲示板では忌憚のない合評がなされ、しばしば感情的な争いにもなる。その中で頭角を現した人たちは、若いネットユーザーにとってはカリスマ的存在であり、例えば現在代表であるケムリ氏や、長く投稿し技術の向上を目指しているいかいか氏などは、同じく文学極道を閲覧したりそこに投稿している若い世代から尊敬されている。文学極道は、ウェブ上にもう一つの詩壇を作り上げたかのように見える。それは、完全に実力主義で、既成のものには媚びない、彼ら独自の民主主義の産物である。だがそれゆえの閉鎖性は否めない。文学極道には固有のカラーがあり、それに沿わない作品は評価されない。詩誌の投稿欄と似たようなものである。



 この二つのサイトと比較したとき、「骨おりダンスっ」にはどのような新しさがあるだろうか。まず、掲載する作品は編集の方で選ぶ。しかも、編集は紙媒体で活躍している実力派詩人と多数接点を持っていて、そのような実力派詩人の作品を掲載することができる。これがまず一番の強みである。ウェブにはなかなか作品を発表したがらないレベルの高い詩人の作品を掲載できる。それと同時に、編集は若手の詩人であり、若くてそれほど認知されてはいないけれど実力のある人間を積極的に起用することができる。詩集を出しているか、投稿欄で活躍しているか、そんなことはお構いなしである。とにかく面白い奴の作品を載せる。もちろん、コミュニティではなく飽くまで詩誌である以上、コミュニケーションは図れない。だが、小田原のどか氏の「むりえわ」のような、pdfという媒体を最大限活用したような作品をも積極的に掲載し、また山田亮太氏の実験的な作品も掲載している。



 確かに、今まで私が述べてきた、「ウェブに作品を載せることのメリット」は、現代詩フォーラムや文学極道についても言えることである。それらのサイトにおいても、作品は無償で提供され、アウラを保ち、見るものをリラックスさせ、見るものを拘束せず、非本質的だった空間を積極的に利用している。だが、「骨おりダンスっ」の強みは、その幅の広さと無党派性にあるだろう。詩集を何冊も出していたり詩の賞をとっていたりする詩人の作品から、若い実力者の作品や現代アートの作品まで、良いものなら大抵のものは載せる。ウェブ空間に質の高い詩誌が誕生したわけだが、その詩誌「骨おりダンスっ」は、何よりも詩の新しい可能性を最大限に見据えている点においてすぐれているのである。



 




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# by sibunko | 2013-11-10 10:27 | 詩の理論

たなかあきみつ『イナシュヴェ』(書肆山田)

たなかあきみつ詩集『イナシュヴェ』について


 詩は言語を用いる作品であるが、その伝達においては概念的コミュニケーションよりはイメージコミュニケーションの果たす役割が大きい。もちろん、論理的に明快である詩もあるし、感情が明快に伝わってくる詩もある。そういう詩作品においては、言語が概念として論理的に機能し、あるいは言語が感情の伝達を媒介するものとして滞りなく機能している。そういう詩作品を前にした読者は、「この詩はこういうことを言っているんだね」と容易に理解することができる。
 だが一方で詩は、言語にうまくなじまないようなものも言語を媒介に伝達してしまうものであるし、作者の方でも言語にうまく回収できないものをぎりぎり言語化して伝達するものでもある。言葉が概念を伝達するテクストの典型的なジャンルは論文であり、言葉が物語や感情を伝達するテクストの典型的なジャンルは小説である。詩はテクストの諸ジャンルの果たす諸機能から漏れ落ちた隙間の機能を果たすジャンルであり、それを考えると、概念や物語、感情という理解しやすいものを伝達する諸ジャンルと一線を画すところに詩の純粋性はあるのではないだろうか。そのような詩の純粋性を如実に示す詩集として、たなかあきみつの『イナシュヴェ』(書肆山田)を採り上げることにする。

鶏卵と喉笛を瞬時に変換するかのように
バサッと幾何学の外へ断ちおとされる風景
ノイズの地肌でしかないそこへ
それまで視線だった瘡蓋や錆の断裂が群れをなして漂着する
てんでに火気をおびた原景の破線はひたすら砂呼吸
声の痣はなめし皮からもウィスキイの獣毛からも
やおら発着を繰りかえし
風のレンズで発吃しては
その熱から波状的にブレつづける
       (「闇の線」)

 たなかの詩はこのように、硬質なイメージを次々と射出し、しかもそのイメージの連結は屈折的であり、全体として「では何を言っているか」というのをうまく説明できない作品が多い。「鶏卵と喉笛」を「変換」するといったとき、そこで読者に一番よく伝わるのは、「鶏卵」「喉笛」「変換」というイメージではないだろうか。そして、この意味的には不自然であるつながりを生み出している知性や感覚の働きがよく伝わってくる。概念や感情が意味として自然に伝わってこない、概念や感情を読み取るには高度な解釈作業を必要とする、そのような詩行であるけれども、そこにはうまく言葉にできない或る感覚と知性が働いている。「幾何学」という論理的な概念も、「幾何学の外へ断ちおとされる風景」という具合に、視覚や運動感覚と共に与えられることで概念としての純粋さを失っている。「声」という切実な印象を残しそうな言葉も、「声の痣」という不思議な結合によってその感情的な意味合いが薄れ、抽象的になり、あるいは触覚と混ぜ合わされる。そして、このような概念や感情が詩行において自在に操作されるとき、作者において働いている、あるいは読者に向かって伝わってくる、うまく言葉にはできない繊細な知性と感覚があるのである。
 たなかの詩は、できあいの慣用句を並べたものではない。常に自らの深部へと手を伸ばし、そこに漂っている様々なイメージの感覚を確かめながら、その中でもたなかの感性の様式に照らして美的に整合的であるものをつかみ取ってくるのである。この際、たなかの深部にあるイメージは、単純に視覚的なものではないし、単純に聴覚的なものでもないし、単純に触覚的なものでもない。たなかの深部にあるイメージは、五感を統合する第六感のようなもの、「共通感覚」とでもいうべき諸感覚を統合する器官によって保持され、また探られていくのである。例えば「風のレンズで発吃しては」という詩行を見てみよう。風を感じるのは触覚であり、レンズをのぞくのは視覚であり、吃音の感覚は体性感覚である。だが、この詩行から読者の受けるイメージは、一つの感覚に限定されないイメージであり、それらの諸感覚が連合して一つ高次のものになったイメージであろう。

指先で撃ちおとされる前に永代橋から左方向を眺めれば
トラックの群れがぎしぎしジュラルミンの隊列をなして
象のたわんだ鼻のようにスロースローで生き急ぐ

ブランコなればこそよじれても影の肢体は着地せよ
命綱のタップダンスのかかとをもっと気ままに踏み鳴らせ
影のゆれにゆれる消息をいちずに銀の闇のシンバルにして!
       (「レジェンドにあらず」)

 まず、右の連の内容は、大雑把にいえば「トラックが群れを成している」ということである。ところがたなかがそれを表現しようとすると、そこに様々な知が働いているのがよく分かるだろう。なぜか「指先で撃ちおとされる前に」という奇妙な状況が付加され、「ジュラルミンの隊列」という発見的な認識が付加され、「象のたわんだ鼻のように」という意外な比喩が付加され、「スロースロー」と「スロー」が面白く強調されている。これらの様々な知のひらめきについてはたなか自体もうまく説明できないに違いない。だが、たなかの詩の知的な魅力は、そのような暗黙の技術的な知によって作り出されているのであり、それがなかったらただの単調な作文で終わってしまうし、ただのイメージの羅列で終わってしまう。
 また、たなかの詩行には命令などのニュアンスが付加されていることがしばしばある。「着地せよ」「踏み鳴らせ」のように。ここではニュアンスが付加されていると同時に、詩行がひとまとまりとして統合されているのがよく分かるだろう。命令でなくとも、「眺めれば」のような条件であるとか、「生き急ぐ」のような断定であるとか、とにかく詩行を一つ終えるにあたって、たなかはその詩行に何らかの統合と意味付けをしようとしているのがよく分かる。たなかの詩行は多方向に屈折しているからこそ、その終わりにおける締めの部分の統一が際立ってくるのだ。ところで、このようにいちいち統一を志向するような詩行を生み出すにあたって、たなかは詩行、ひいては詩全体を包括するような知性を働かせているのがよく見える。それは、イメージが多方向に屈折している詩であるからこそよく見える働きであり、そのような細部から全体への包括において働いている知についても、たなかは自らうまく説明できないであろう。
 詩は単なる短い小説ではないし、短い論文でもない。そして詩は単なる安易な表現方法なのでもない。詩が自律的な独立ジャンルとして存続している理由は、詩が他ジャンルがそれほど熱心に扱わないような、言葉になりにくい知や感覚を研ぎ澄ましているからである。もちろん、概念や感情という説明しやすいものを扱う詩があっても構わない。だが、詩というジャンルが優れている点は、それが説明しにくい、言葉では表現しにくい、知や感覚をメインに取り扱っているからであり、その方向性に純化した作品としてたなかの作品を採り上げたのであった。たなかの作品においては、諸感覚を統合する共通感覚が鋭敏に働いており、それが作品のもととなるイメージを保持し探索する際に活発に働いている。そのような共通感覚の働きは、詩によってきちんと伝達され、読者の感覚を刺激するものであるが、かといってそれがどんなふうに働いているかはうまく説明できないものである。一方で、たなかの作品においては、イメージの思い付きや連結、全体の構成などについて、言葉ではうまく説明できない暗黙的な知が働いており、だがこのような知性もまた読者には非常によく伝わってくるのである。
 詩はコミュニケーションに失敗しているのではない。分かりづらい詩というのは概念や感情によるコミュニケーションを初めから狙っていないだけであり、感覚や知によるコミュニケーションは、むしろそのような詩の方が優れているのである。そして、そのような詩は詩のジャンル的特性を純化させた作品であり、ジャンルの存続にはそのような作品が書かれ続けていかなければならない。たなかの詩はジャンル純粋的な作品であり、このような詩が書かれ続けているからこそ、詩は他ジャンルに包摂されず、他ジャンルに従属せず、その独自の領土を保持し続けているのである。
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# by sibunko | 2013-10-26 01:57 | 現在の詩人たち

2.谷川雁詩集

2.谷川雁詩集


東京へゆくな


ふるさとの悪霊どもの歯ぐきから
おれはみつけた 水仙いろした泥の都
波のようにやさしく奇怪な発音で
馬車を売ろう 杉を買おう 革命はこわい

なきはらすきこりの娘は
岩のピアノにむかい
新しい国のうたを立ちのぼらせよ

つまずき こみあげる鉄道のはて
ほしよりもしずかな草刈場で
虚無のからすを追いはらえ

あさはこわれやすいがらすだから
東京へゆくな ふるさとを創れ

おれたちのしりをひやす苔の客間に
船乗り 百姓 旋盤工 坑夫をまねけ
かぞえきれぬ恥辱 ひとつの眼つき
それこそ羊歯でかくされたこの世の首府

駈けてゆくひずめの内側なのだ


 谷川雁は、単に見たことや感じたことや考えたことを叫びたてた詩人ではありません。そのように、「私」「僕」という一人称の閉ざされた独白として詩を書いていたわけではないのです。彼の中には、自然や農村共同体や、「あなた」「君」という二人称、そして「社会」「彼ら」「それら」という三人称が複雑に交錯していたのです。
 「東京へゆくな」という題名が示す通り、この詩は「あなた」に対して向けられています。「立ちのぼらせよ」「追いはらえ」など、「あなた」への呼びかけがこの詩にはたくさん出てきます。ですが、ここでいう「あなた」は特定の誰かではないし、かといってまったく空虚で言葉尻を合わせるために使われている「あなた」でもないのです。それは、不特定多数の「あなた」、呼びかけの場に常に存在しているけれど、無数の人が入れ代わり立ち代わり交替していく「あなた」なのです。だから、谷川の呼びかけは決して恋人同士の閉ざされた空間に収まるようなものではないし、誰かを特別扱いしてその人にだけ呼びかけるのでもありません。それはあらゆる人に対して開かれている、というよりむしろあらゆる人に対して開かれていたい、より多くの人に伝えていきたい、そういう呼びかけなのです。
 だから、谷川は積極的に他者に呼びかけ、そして積極的に他者からの声を聴く、そのように、他者との応答の関係を重視した詩人であります。そこでは言葉はもはや無責任に発せられるものではありません。谷川は言葉を他人に対して届けるものとして扱っているので、言葉を他人に届けるにあたってその言葉の責任は谷川にしっかり帰属しているのです。閉ざされた空間の中で親密な「あなた」に囁くのではなく、広い空間から呼びかけ応えるべき「あなた」を見つけて、責任を持って積極的に関わっていくということ、谷川の詩の他者とのかかわりの相はその辺りにあります。
 また、この詩には「都」「革命」「国」といった、社会的なモチーフが頻出しています。そしてそれらのモチーフは、例えば「なきはらすきこりの娘は/岩のピアノにむかい/新しい国のうたを立ちのぼらせよ」の部分からも分かるように、「娘」や「歌」といったあまり社会的でないモチーフと自在に組み合わされているのです。これは何を意味しているのでしょうか。
 社会というものは単なる個人の寄せ集めを超えたものです。個人が集まっただけで社会ができるわけでもないし、そこに物的施設や物流を加えても社会は生まれません。社会というものは、その部分となる要素の集合には還元できない一つ上の包括的なシステムであり、個人を規律する法則とは別の法則が社会では動いています。社会は歴史によって規定されていると同時に、法や経済などの動的システムによっても規定され、個人には還元できない様々な制度で満ちています。
 重要なのは、個人が社会を形成していくと同時に、社会もまた個人を形成していくということです。社会の内側に個人があると同時に、個人の内側にも社会がすでに入り込んでしまっている。谷川には確かにこの自覚がありました。だから、彼の詩には普通の詩に出てくるような語彙と共に社会的な語彙が頻出するのです。それは、彼が自分の内部に社会がすでに侵入していることを自覚していたからでもありますし、また自ら社会に対して働きかけようとしていたからでもあります。
 このように、谷川は「あなた」という二人称に対して責任を持って積極的に働きかけ、また働きかけられただけでなく、「社会」という三人称に対してもそれを内面化し、またそれを形成していこうとした詩人でした。だから彼の詩の世界は、単なる個人的な感覚や妄想の世界でもないし、「私」と特権的な「あなた」の閉ざされた世界でもありません。彼の詩の世界は、不特定多数の「あなた」や巨大な「社会」を包み込むと同時に、それらに包み込まれ、互いに呼応していくスケールの大きな世界なのです。



世界をよこせ


まっかな腫れもののまんなかで
馬車のかたちをしたうらみはとまる
桶屋がつくる桶そのままの
おそろしい価値をよこせ 涙をよこせ

なめくじに走るひとしずくの音符も
やさしい畝もたべてしまえ
青空から煉瓦がふるとき
ほしがるものだけが岩石隊長だ


 美的なものと政治的なものは結びついています。ここで「政治的」であるとは、受け手に対して何らかの権力を行使することを意味することにします。権力の定義はいろいろありますが、そのなかでも、(1)相手を思い通りに動かす力、(2)相手の内面に自身を監視する傾向性を生み出す力、に注目することにします。
 さて、この詩では「世界をよこせ」「価値をよこせ」「涙をよこせ」と受け手に対して命令しています。受け手は何か思いもかけなかったことを強制されているような気がして気分が動揺するでしょう。そして、谷川のあくなき欲望に飲まれて、実際この人に自分のちんけな世界やちんけな価値やちっぽけな感傷など渡してもいいかな、などと思うかもしれません。反対に、受け手によっては、「ほしがるものだけが岩石隊長だ」という詩句に表されているように、谷川のあくなき欲望に感化されて、自らも世界や価値に対して貪欲に欲望の触手を伸ばしていくかもしれません。
 このように、受け手の気持ちを一定の方角に動かしていくということ、これは美的なものの持つ政治性といっていいでしょう。美的なものは何らかの仕方で受け手の心を動かします。その心を動かすところに権力の萌芽を見て取るのです。美的なものの受け手の動かし方は、その美の内容によって決まります。つまり、作者は、美的なものの内容を決定することによって、それを受容するものを特定の方角へと動かそうとするのです。そのような意味で、上掲した作品などは優れて政治的なものと言えます。
 さらに、美的なものの内容が受け手によって内面化されることもあります。上掲した作品だったら、世界に対するあくなき欲望が受け手によって内面化され、いつの間にか受け手もまた「世界をよこせ」と自ら欲望する主体に変わっていくかもしれません。そのように、美的なものはその内容によって、受け手の内面の傾向性まで変えていく可能性のあるものです。
 だから、詩というものは単純に「創作」と「観賞」という行為だけに閉じ込められるものではないのです。創作において、作者自らも変化するでしょうが、それ以上に観賞において受け手もまた変化していくのです。しかも受け手の変化は単なる知識の量の変化ではなく、倫理的な意味での変化、実践的な意味での変化です。受け手は作品を受容することにより、人生や他者や社会に対する関わり方が変わってくるのです。そして、そのように受け手の実践面での変化をより強く触発する作品こそが、より政治的な作品であるといえるでしょう。
 谷川の詩は受け手に対する呼びかけが強い詩です。受け手に何らかの態度変更を迫る詩だと言っていいでしょう。谷川の詩の政治性の強さは、まさに受け手の現実に対する関わり方を変化させる、その影響力の強さにあります。
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# by sibunko | 2013-09-21 12:52 | 谷川雁