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田村隆一論(上)

田村隆一論――フィクションの危険
                  

0.序論

 詩は言葉の信用性を失墜させていないだろうか。詩は、一方で、表現主体の内面を最も率直に表現する媒体として使用され、もう一方で、読者にとって美しくなければならないという要求のために真実を歪曲することが往々にしてある。つまり、(1)思想や感情をありのまま表現するという動因と、(2)思想や感情をありのままではなく装飾をくわえて表現するという動因、この二つの動因が詩を書く者の表現現場では葛藤している。例えば、

春が転落する

このような詩行を考えてみよう。ある詩人Aは、春に急激な憂鬱に襲われ、まさに春そのものが転落するような実感を得てこの詩行を書いたとしよう。別の詩人Bは、とにかく修辞的に面白い詩行を書こうとして、特に実感もないのに言葉遊びとしてこの詩行を書いたとしよう。ところが読者としてはこの詩行の背後に実感があるのか、それともこの詩行が単なるレトリックであるのか、判断するのは難しい。当然文脈によってある程度は判断できるが、それも決定的ではない。読者Cは、詩行の背後の実感を信じる読者だとする。一方で読者Dは、詩など所詮すべてレトリックに過ぎないと信じている読者だとする。読者Cが単にレトリックで書かれた詩を実感に基づく詩だと読むとき、そこには誤読がある。また、読者Cもいつか気付くであろう。すべての詩が実感に基づいているのではないということに。すると読者Cもいずれ読者Dに変わっていくのである。ところで、読者Dにとってみれば、いかに詩人が実感に基づく言葉を発しようと、それは単なるレトリックに過ぎない。詩人の実感など信用されないのである。とすると、先にあげた詩を書く二つの動因のうち先の方、つまり、思想や感情をありのまま表現するという動因、これが正しく理解されないことになる。詩人がいくら率直に真実を述べたとしても、読者はそれを真実ではなく実感も伴っていないレトリックとして読む。こうなると詩の言葉はもはや信用性を失ってしまうし、詩人の方でも自分が正しく理解されないという欲求不満を抱くであろう。
 本稿では、詩の言葉が修辞的になることによって詩の言葉の信用性が失墜してしまったなどという問題は本当に生じているのかについて、詩が修辞的に思想を語り出した時代の代表的詩人である田村隆一を取り上げることで論じようと思う。田村はまさに、実感を語ろうとする動因と修辞的に語ろうとする動因との葛藤で揺れ動いた詩人だからである。なお、本稿を書くにあたって、フィクション論については清塚邦彦『フィクションの哲学』(勁草書房、2009年)を参考にした。

1.フィクションとは何か

一篇の詩が生れるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを、射殺し、暗殺し、毒殺するのだ
      (「四千の日と夜」)

この詩行に対する鮎川信夫の反応を見てみよう。

 この言葉の理解は非常に困難であり、かつ私自身の独断的推定を多分に加えての説明なので、あまり自信がないのですが、強いて言えば、これはもっとも破壊的、否定的な行為を通じてしか、個人にとっていとしいものを救う道はないということだろうと思うのです。
      (「恐怖への旅」)

田村の詩はほとんどが基本はノンフィクションだったと思われる。つまり、田村は詩を書くときに、虚構的な主体に虚構的真実を語らせるというよりは、まさに田村自身が田村自身の思考や感情や認識を語っていたのだと思われる。これは田村に限らず、ほかの多くの詩人にも共通することである。
 ところが、鮎川の言葉にもあるように、それにしても引用部は難解である。果たして田村が本当に実感だけでこの部分を書いたのか、それが怪しいのである。一篇の詩を書くために詩人が何かを殺すということは滅多にないのではないか。いとしいものなど殺さなくても多くの詩人は詩を書いているではないか。だから、引用部は端的に偽である、つまり、現実と対応していないことを語っているように思える。あるいは、田村は、詩をかっこよく書くために、図らずも田村自身とは別の「詩を書く主体」を作り上げてしまっていて、その詩を書く主体が書いた詩行だから実感とは離れた虚構的な詩行が生れているのではないか。修辞的に、誇大にものごとを歪曲して虚構的に思想を語っているのではないか。また、田村はどこかで自分の詩が真実として受け入れられることをあきらめていないか。つまり、語る行為がそもそも実感を語ることをあきらめていないか。そして、鮎川が引用部をことさらに解釈しなければならなかったように、引用部は、受け手によってその内容が真であるように想像されなければその語りが完結しないような虚構的な語りなのではないか。
 つまり、田村の語りの態度は、一方でノンフィクションであり、他方でフィクションであるような二層構造をなしていて、しかもそれが田村の中で矛盾していない。詩の語りの危険性は、まさにこのフィクションでありノンフィクションであるという二重性から生じている。一方で、読者は詩人の直接的な声を聞いているようにも感じるが、他方でそれが修辞によって歪曲されているようにも感じる。だから、読者は、一方で詩人の言葉をそのまま信じるように促されているかのように感じながら、他方で無批判に詩人の言葉を信じては騙されるように感じる。この点について、もう少し理論的に見ていこう。

1.1 意味論的フィクション

 意味とは、言語と現実の対象との間の関係において成立するものである。言語と対象の関係という観点からフィクションの問題をとらえようとする立場がある。つまり、フィクションはどんな対象を指示しているのか。またフィクションの語る事実は現実と一致していて真なのか、現実と反していて偽なのか。
 これについて、まず、(1)フィクションにおいて用いられている名前や記述は何も指示していない、とする説がある。次に、(2)作品中の文が偽であることがフィクションの特徴である、とする説がある。ここでは、(1)も(2)もフィクションの必要十分条件を主張している、ととらえるのではなく、何も指示しない名前や記述が多いほど、あるいは作品中の文が偽であることが多いほど、よりフィクション的である、ととらえておこう。というのも、通常我々がフィクションだと考える作品の中にも、実在する対象についての真なる記述が含まれていることは多くあるからだ。

針一本
床に落ちてもひびくような
夕暮がある
卓上のウィスキーグラスが割れ
おびただしい過去の
引出しから
見知らぬカード
不可解な記号
行方不明になってしまった心の
ノートがあらわれてくる
       (「恐怖の研究」)

確かに「針一本床に落ちても響くような夕暮」はあるかもしれない。これは全くのノンフィクションかもしれない。だが、「過去の引出し」とは、「心のノート」とは、いったい実在のどんな対象を指示しているのだろうか。そもそも実在の何も指示していないのではないだろうか。また、何の原因もなく卓上のウィスキーグラスが割れるなんてことは考えられず、その記述は現実と対応しない偽の記述なのではないか。そのようなイメージや記述が存在する以上、この詩はフィクションなのである、と。そもそもこの詩行全体が田村の想像にすぎず、現実に何らの対応物をもたない偽の詩行なのではないかとすら思える。
 だが、意味論的フィクションは、それ自体では読者の詩への不信を駆り立てるには不十分である。なぜなら、読者の方でも、詩に意味論的フィクションがあることを承知しているからである。実在しないこと、嘘のことでも、それがはじめから、実在しないものとして、嘘のものとして提示されていれば、読者はむしろ詩人の想像力を称賛するであろう。問題は、意味論的フィクションと、次に述べる語用論的フィクションが一致しないときに起きる。

1.2.語用論的フィクション(1)――言語行為論

 意味論とは言葉の内容についての議論である。それに対して語用論とは言葉の用いられ方についての議論である。例えば、「そこをどけろ」という命令文は、意味論的には「相手がそこをどける」という内容しかもっていないかもしれない。だが、「そこをどけろ」には、その内容に、相手に対する命令という話者の態度が付与され、かつ相手がそれに対して反応する、というコミュニケーションの次元での動き方があり、その動き方を解明するのが語用論である。
 まず、ジョン・サールの見解を挙げよう。サールは、言葉を発する行為を、発話行為(utterance acts)、発語内行為(illocutionary acts)、発語媒介行為(perlocutionary acts)に分ける。発話行為とは、単に言葉を発することである。発語内行為とは、何かを指示しかつ社会的慣習やその場のコンテクストに応じて命令や約束などを遂行することである。発語媒介行為とは、発語内行為を行うことで相手を喜ばせたりなどの副次的な効果を発生させることである。サールの見解によれば、フィクションは発語内行為のレベルの問題である。
 サールによると、虚構的な発言を行う人は、表現された命題が真だという立場に加担していないし、その命題を真だとみなすべき証拠を持っていないし、その命題を信じていない。だから虚構的な発言は「主張」ではなく、主張の変異体である。虚構的な発言は、その発言の内容が真か偽かを問題としないような慣習に従ってなされる言語行為である。つまり、発語内行為は、命令や約束や主張というそれぞれの慣習的属性を帯びているが、主張行為の変異体として、フィクションは、発言内容の真偽を問題にしないという属性を帯びた種類の言語行為なのである。
 一方、マーシャ・イートンは、虚構的な発言を、通常の言語行為を架空の語り手へと転嫁する行為ととらえている。発語行為・発語内行為・発語媒介行為をそれぞれ転嫁する行為としてとらえるのである。
 また、マーガレット・マクドナルドは、フィクションを「フィクションを語る」という独立した発語内行為だと考える。虚構的な発言は創造のために用いられるという点で事実的な言明から区別される、その意味で独立した発語内行為なのである。

眼に見えないものは
存在しないのだ
       (「ある種類の瞳孔」)

ぼくらは眼を閉じて見なければならぬ
       (「虹色の渚から」)

この二つの詩行は、同じ『新年の手紙』という詩集に所収されている。ところがこの二つの思想は矛盾しないだろうか。眼に見えないものが存在しないならば、眼を閉じて見ても何も見えないではないか。それを見ろというのはおかしくないか。確かに、眼を閉じたときにも何かが見え、それは眼に見えないものではないのだから存在する、そういう解釈も可能だが、どうも田村は、矛盾した思想を持ちつつ、その矛盾を自覚していないという節がある。そして、思想が矛盾していても詩なら許されるのではないか、そういう甘えがあったように思われる。田村はその詩において、軽々しく断定し、否定し、命令するが、その軽薄さは結局詩の言葉に責任を持っていなかったことに由来するのではないか。詩が絶対的な真実を語らなければならないと田村が信じていたとするならば、修辞によって思想をゆがめることもしなかっただろうし、思いつきで軽々しく思想を語ることもしなかったであろう。田村は詩に対して一種の甘えがあったと思われる。詩においては自分の無責任さがある程度(完全にではないが)許される、といったような甘えである。
 そうだとすると、田村の詩に矛盾があっても何ら不思議ではない。サール流に言えば、田村は詩行において主張行為をしているのではなく、真偽があいまいになってもかまわない、そういう語りをしているのである。イートン流に言えば、田村は詩を書くときに、自らその真実性についての責任を負わずに、ある程度架空の語り手に責任を転嫁しているのである。マクドナルド流に言えば、田村は詩を語る際に、事実を語るということよりもむしろ思想を創造することを重視し、その創造の結果が多少非現実になってもかまわないと思っているのだ。
 ここで注意しなければならないのは、田村が完全に虚構的な発言をしているわけではないということである。田村の詩の行っている発語内行為は、命令や約束といったように、社会的慣習によって相手に求められる反応が決定されている、そういう行為ではない。つまり、強圧的に命じた行為を行わせる(命令)、信頼関係に基づいて誓った行為を行わせる(約束)、そのように相手の反応を固定的に要求していないのだ。田村の詩の行っている発語内行為は、いわば過失的に虚構になってしまった語りである。あるいは、虚構になってしまってもかまわないという態度でなされる語りである。真実を主張する行為と虚構を語る行為との中間で揺れ動く言語行為、あるいは真実を主張する意図を中途半端に持ちつつも、修辞や自分の無責任さのためには多少虚構が混じってもかまわないという態度を併せ持ちながらなされる言語行為だというのが正しい。だから、読者はどう反応してよいのか分からない。読者の反応の仕方は慣習によって指定されていないし、田村によっても明確に指定されていない。

1.3.語用論的フィクション(2)――ごっこ遊び理論

 ケンダル・L・ウォルトンは、フィクションを受け手の側からとらえた。彼によれば、フィクションとは、その受け手に、作者が記した言葉を読むという現実の経験と、ある非現実の語りを読むという経験を、想像の中で重ね合わせることを要求するものである。田村の詩を、田村の書いた言葉として経験すると同時に、非現実の語り手による語りだとして経験する、これが田村の詩のフィクション的な読み方である。
 ところでウォルトンの言う想像とは、以下のようなものである。第一に、想像とは、何かの像を思い描くということではなく、一定の命題的な内容が真であると考える、ということを意味する。第二に、想像は、作品によって促された非現実なものだけではなく、当の作品に関する想像でもある。田村の詩に鳥のモチーフがあって、そこから鳥をめぐる様々な想像をめぐらしたからと言って、それが直ちにフィクション的な想像であるわけではない。その想像は、同時に田村の詩に関して、田村の詩がそういうものであるとして、なされなければならない。第三に、想像とは勝手気ままな想像ではなく、作品やそのコンテクストによって方向性を指定されたものである。
 子供が積み木を車だと見立ててごっこ遊びをする、そのとき、子供は、現実の積み木をそのものとして経験すると同時に、それを非現実の車だと信じて、しかも自らそれを車だと指定して、積み木について非現実の経験をし、その二つの経験を想像の中で重ね合わせる。そのごっこ遊びと同じことを、フィクションの受け手は行っているのである。

性器と
乳房を
つなぐものが
脚だとしたら
その脚によって
はじめて
彼女の顔は
創造されるのだ
       (「女性に顔があるとは……」)

性器と乳房をつないでいるのは腹であり脚ではない。物理的に脚は両者をつないでいない。ここでは田村は、脚の何らかの観念的な媒介作用を思いつき、それによって読者にとって意外な思想を提示しているのだ。さらに、脚によって顔が創造されるとはまた奇怪な思想である。田村はここで読者に対して意外な思想を提示することで、女性に対する新奇な認識を提案しようとしている。おそらく、田村は、女性においては乳房も脚も顔もすべて性器であるという思想を土台にして、同じ性器である以上自在に結び付けていいのだ、と考えているのだろう。
 このようにして、読者は、田村の書いた現実の言葉を、まずは誰によっても語りえないような奇妙な女性認識としてとらえる。現実の言葉を、非現実の語りとしてとらえ、その両者を想像の中で重ね合わせるのである。そして、そこで行われる非現実の語りは、解釈の余地を多分に残しており、読み方が田村によって十分指定されていない。私の提示した読みは、同じ詩の中の「顔は女性の性器そのものだから」という詩行に触発され、だったら顔以外の魅力的な部分も女性の性器として田村はとらえているのだろう、との推測に基づく。だが、これはあくまで推測で、引用部の解釈の余地の広さは否定できない。
 このように、解釈の余地を広く残すような修辞的な思想を田村は好むが、そのような語りを前にして、読者はごっこ遊びを厳密に行うことができない。だが、ごっこ遊びが厳密にできないような不明確な思想だからこそ、作者と非現実の語り手が分離し、そもそもごっこ遊びが成立していたのだ。だから、上述したような解釈によって、田村の思想の意味が明確に定まれば、田村の詩はまさに田村の言葉でしかないと考えることも可能であり、そこに非現実の語り手など生じず、ごっこ遊び的なフィクションは成立しない余地がある。つまり、田村の詩はまず田村自身の言葉であるが、その思想が修辞的であるがゆえに意味が不明確となり、田村から遊離するが、適切な解釈でその意味を決定することで再び田村自身の言葉となりうる。
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# by sibunko | 2012-12-04 01:53 | 現代詩人論

詩作行為の倫理学

詩作行為の倫理学
          

0.はじめに

 例えば外を歩くという行為を考えてみよう。その際私は歩く場所として歩道を選択し、車道は歩かないだろう。そのとき、歩き方は「人間は歩道を歩くべきだ」という一定の社会的な規範に従っている。また、私は、常に大股で速く歩くかもしれない。そのとき、歩き方は「大股で早足に」という一定の個人的なスタイルに従っている。そして、私は買い物をするためにスーパーに歩いて向かっているのかもしれない。そのとき、歩くことには「買い物」という目的がある。また、私は友人との約束を失念して買い物に行ってしまったかもしれない。そのとき、スーパーへと歩くことは約束を破ることを来たし、私は約束を破った責任を問われる。
 さて、詩を書くことも行為である。よって、歩く行為についての以上の記述が、同様に詩作行為にも適用される。詩を書くとき、私は詩の社会で肯定的に評価されているスタイルで書くかもしれない。それでも私個人のスタイルというものも表れてしまうだろう。そして私は自己満足という目的で詩を書くかもしれない。詩を書くことで出来上がった詩が読んだ人に高く評価されるかもしれないが、そのときその評価は私に帰属する。
 要するに、詩作行為についても、それが行為である以上、規範の問題、価値・目的の問題、因果関係・帰属の問題、などが生じてくる。これらの問題はとりもなおさず倫理学の問題である。私が本稿で意図するのは、倫理学の行為分析の枠組を詩作行為について適用することで、詩作行為の倫理性を明らかにするとともに、詩作行為について倫理学的な分析を加え、詩作行為についての明晰な認識を提示することである。
 なお、倫理学には、「何が正しい行為か、何が善なる行為か」という、善などの具体的内容を問う実体的倫理学と、実体的倫理学で用いられる道具立てを分析するメタ倫理学がある。本稿は、規範などといった、行為を語るときに用いられる道具を分析するので、メタ倫理学に対応するものである。
 また、本稿を書くにあたって黒田亘『行為と規範』(勁草書房、1992年)、山田・小田部編『スタイルの詩学』(ナカニシヤ出版、2000年)を参考にした。


1.スタイル

1.1.スタイルの類型

 行為は何らかの規則にしたがって行われる。その規則のうち、社会的な圧力によって維持されるものが規範である。規範の例としては、法規範、社会的慣習などがある。それに対して、その維持のために社会的圧力がかけられない規則があり、例えば格率(マクシム)と呼ばれる私的な生活上の決まり(例えば「食事は腹八分目」など)や、歩き方のような自生的に発生してくる事実としての規則がある。
 詩作行為については、(1)その規則に従った方が社会的に認められやすい、そういった規則があり、それは事実上詩を書く者に社会的な圧力をかけているといえるから、そのような規則は規範と呼べる。一方で、(2)特に社会的に歓迎されるわけではないが、個人的に好んで従うような規則は格率と呼べる。さらに、(3)規範や格率のように、意識的に定立されたものではないが、詩人の個性の流出として自然に形成される規則(個性的スタイル)というものがある。これら三種の規則を包括して、私は「スタイル」(あるいは「様式」)という言葉を使いたい。
 なお、規範や格率については、その規則に「従うべき」という当為(すなわち評価)が伴っているが、個性的スタイルについては、詩人がそのスタイルに「従っている」という事実があるのみである。もちろん、規範や格率が個性的スタイルに浸透し、あるいは個性的スタイルが規範や格率に格上げされるということはあるわけで、それらを判然と区別することは困難である。

1.2.howとwhat

 さて、行為には対象がある場合とない場合がある。詩作行為に限って言えば、それには対象があり、その対象とは語であり詩行であり詩である。詩作行為において、スタイルの問題は、まずは(1)対象(what)をどのように(how)描くかという問題である。さらに、それに先立つものとして(2)対象(what)をどのように(how)選ぶかという問題もある。
 howの問題がスタイルの問題である。そして、whatとhowは様々な抽象度を持ちうる。

 うつらうつらと雨の滲む酒場を
 ひっそりと私は魚となって泳いでゆく
(雨森沈美「丘、または酒場で」GT0007 )

 まずここで詩作行為の対象(what)を「酒場」という抽象的なものだと考えよう。雨森は酒場を、「雨が滲む」という形容を施し、また「私」が泳ぐ場所として描いている。雨森はここで(1)何を(what)(2)どのように(how)描いているかというと、(1)抽象的な酒場というものを、(2)形容しまた主体が行為する場所として、描いている。
 次に、ここで描かれている対象(what)を、具体的な酒場としてとらえよう。すると、ここでは、「雨が滲み私が泳ぐ場所となっている酒場」が詩作行為の対象(what)であることになる。具体的な対象のあり方には、その描かれ方が入り込んでしまっている。つまり、whatにhowが入り込んでいて、それらは不可分である。
 つまり、描かれる対象を抽象的なものとして捉えれば、対象とスタイルは一応可分であるが、描かれる対象を具体的なものとして捉えれば、対象とスタイルは不可分なのである。
 さて、次に対象の選択のスタイルについて。ここで一方井亜稀の詩をいくつか採り上げる。

 死ンダ鮭/ノ/朝日ニギラツク/鋭イ目玉/其ノヒカリ
(「まよなかの地震」GT0407)
 グラスからジュースが/血液のように零れて/ぎょっとする
(「日曜日」GT0501)
 泥濘の道を来た(中略)植物の匂いをへばり付け
(「倦怠」GT0504)

これらからは、一方井が、平穏な生活意識からは無意識的に隠蔽されてしまう生々しく直視しづらい対象を採り上げる、という選択のスタイルを持っていることがわかるだろう。
 描写のスタイルについてはwhatの抽象度によってhowとwhatの可分性が問題となったが、選択のスタイルについてはhowの抽象度によってhowとwhatの可分性が問題となる。
 選択の仕方が抽象的なもの(例えば「生々しさを感じさせるように」など)であれば、その選択のスタイルによって選ばれる対象の範囲は広い。この場合、選択のスタイルと選択される対象の結びつきは弱く、howとwhatは可分である。
 だが、選択の仕方が具体的なものであるとき(例えば「生理的で生々しさや醜さを感じさせるように」など)は、選択のスタイルによって選択される対象はかなり限定されてくるので、howとwhatは不可分になる。
 スタイルとは選択・描写の仕方であるが、場合によって、それは、選択・描写の対象と不可分である。それゆえスタイルを論じる際には、形式だけではなく内容についても論じる必要が出てくる場合がある。

1.3.複数種のスタイル間の相互浸透

 倫理学には義務倫理学(deontology)と、価値倫理学(axiology)・目的倫理学(teleology)がある。カントによれば道徳法則とは、無条件に従われるべき普遍的な定言命法(kategorischer Imperativ)であり、何らかの目的を持つ仮言命法(hypothetischer Imperativ)ではない。道徳的な行為とは、普遍的に妥当する規範に無条件に従うことであり、何らかの価値を目的としてなされるものではない。カントの立場は義務倫理学の典型である。
 さて、ここで詩作行為に目を転じてみよう。特定の詩作スタイルがカント的な意味で普遍性を獲得するということは難しいとしても、詩人が特定の詩作スタイルに無条件に従うという事態はそれなりに起きているのではないか。何らかの目的を達成するためではなく、ただ理由も分からないまま特定のスタイルに従って詩を書くということは十分ありうる。例えば俳句を例にとってみよう。五七五のリズムで季語を入れるというスタイルに従うことが、何らかの価値を実現するためであることをしっかりと認識している俳人はどれほどいるだろう。もっと大きなスケールの規範としては、日本語というものがある。詩人は詩を書くとき、日本語の語彙・文法という規範(社会的圧力の伴うスタイル)に従って書いているが、そのことの目的を自覚しているだろうか。何の疑いもなく日本語というスタイルで詩を書いているのではないか。では、現代詩内部でのスタイルはどうか。

 素足の私は捩じれた棒となって巻き上がった 発熱する息子がかわいいとうすい大地を舌で舐めながらあなたの妻は私を舐める(中略)非の打ち所のない出会いだった
(雨森沈美「半島へ」GT0008)

ここには、まず、(1)「素足」「発熱」「舐める」という身体的なモチーフの選択というスタイルがある。次に、(2)「私」を「捩じれた棒」にたとえ、さらに棒は通常巻き上がれないにもかかわらず「巻き上がる」という隠喩を使っているという、比喩の連続というスタイルがある。そして、(3)通常「出会い」を修飾するためには用いられない「非の打ち所のない」という形容句を用いている。ここには、「非の打ち所のない」という言葉の意味を正確に把握することにより、その適用対象範囲を広げ、意外な対象(「出会い」)へそれを適用することにより対象の微細なあり方をとらえるというスタイルがある。
 ここで、雨森は、それぞれのスタイルのもたらす効果を認識しながら詩を書いていたと思われる。身体性の言語化による非日常化、比喩の連続による変転の爽快な速度、修飾の工夫による世界の豊かさの開示。雨森は「良い詩」を書くために、以上のようなスタイルを採用したのだと思われる。
 さて、ここで三つのスタイルを採り上げた。(1)雨森の作品に見られたスタイル、(2)俳句の形式、(3)日本語の形式。(2)(3)については、規範と呼ぶにふさわしく、通常の意味での普遍性もあり、またそれに従う者はその目的を認識していない。つまり、(2)(3)は自己目的的な規範であり、詩人はその規範に従うべきだから従っていて、その規範に従う目的は滅多に意識されない。よって、義務倫理学的な発想になじむ。
 一方で、雨森の詩に見られたスタイルはそう単純ではない。そこには自己目的的な規範が個性的スタイルに浸透し目的を回復したり、個性的スタイルが格率や規範となり目的を失ったりというスタイル変動のダイナミズムがある。
 引用部にみられたスタイルのうち、比喩の連続は規範性があるかもしれない。つまり、先行する詩人たちが比喩を多用し、それに影響を受けて雨森も比喩を多用し、また詩人の社会でも比喩の巧みさが高く評価される。詩において比喩を使用することは比較的規範性が高い。つまり、初めは雨森は規範・当為として「比喩を使うべき」だったのである。一方で、そもそも規範的で普遍的で自己目的的だった比喩の使用というスタイルが、雨森のものの見方に浸透していき、やがて、雨森は事実としてごく自然に比喩的なものの見方をするようになっていく。つまり、雨森は次第に個性的スタイル・事実として「比喩を使う」ようになったのである。そして、比喩を使う目的は「よりよい詩を書くため」などといった風に、十分に意識されていく。
 一方で、引用部に見られたスタイルのうち、身体的モチーフの選択や絶妙な語句の使い方は、雨森がごく自然に生み出した個性的スタイルだったかもしれない。だが、そのようなスタイルに従って作られた詩に、雨森自身が満足し、あるいは他の詩人がそのような詩を高く評価するようになると、それらのスタイルは格率となり、それらのスタイルに「従うべき」という当為が発生してくる。
 (1)社会的な圧力を伴う規範は普遍的であることが多く、従うべきものであり、目的が隠されていることが多い。確かに規範についても人間はそれに事実的に「従っている」という側面もあるが、その背後には「従うべき」という当為が控えている。よって義務倫理学的な発想になじみやすい。(2)社会的な圧力を伴わない格率は、それほど普遍的ではないが、個人的に従うべきとされたものであり、ある程度目的が隠されてしまう。(3)自生的な個性的スタイルは、普遍性はなく、個人的に事実として従っているものであり、必ずしも背後に当為があるわけでなく、それなりに目的が意識されていることが多い。それゆえ義務倫理学的な発想にはなじみにくい。
 現代詩の詩作行為にはこのような複数種の性質の違ったスタイルが相互に浸透し合いながらかかわっているのであり、単純に義務倫理学的に把握することはできない。


2.価値・目的

2.1.出来事の連鎖

 アリストテレスは、実践的推論のあり方として二類型を提示した。まず、(1)規範事例型。

 大前提:すべての人間は困っている人を助けるべきである。
 小前提:私は人間であり、彼は困っている。
 結論:私は彼を助ける。

これは義務倫理学型の推論形式である。つまり、この大前提には規範は示されているが、その目的は示されていない。まず規範に従うべきであり、そして現実問題として規範が作動する状況に自分がいるので、実際に規範に従うという推論形式である。次に、(2)目的手段連関型。

 私は喉を潤すものが欲しい
 コーヒーは喉を潤すものである
 私はコーヒーが欲しい
 私は自分の欲するものを買うべきである
 私はコーヒーが欲しい
 結論:私はコーヒーを買う。

ここではじめに前提とされているのは欲求であり、規範ではない。欲求(目的)を実現させるべく、その手段を模索し、手段を積み重ねる。これは無条件に規範に従うのではなく、目的を志向して行為を積み重ねるのだから、目的倫理学型の推論形式である。この型の推論の流れは、現実に実現されるできごとの流れと逆である。この推論にしたがって惹起される現実の出来事の流れは、「コーヒーを買う」→「コーヒーに対する欲求が満たされる」→「喉が潤される」というものである。つまり、目的手段連関型の推論においては、心理領域においては目的が出発点となり、推論を経て具体的な行為が導かれるが、現実の出来事の流れは、そのようにして導かれた具体的な行為から因果経過に従って目的が実現されるという、推論とは逆の流れである。
 さて、現実の人間の行為は、このように何らかの目的(価値)の実現のために行われることが多い。人間の意思が、具体的な行為から因果系列を経て目的とする状態へといたる事象系列を支配しているというのが、基本的な目的実現型の事象連鎖のあり方である。そうすると、人間の特定の行為に帰属される結果の範囲というものも自ずと限定されてくる。行為論においては、純粋に自然科学的な因果関係ではなく、行為に帰属可能な事象の範囲を限定する因果関係が適切である。
 結果の行為への帰属が問題となるのは、結果が利益もしくは不利益である場合である。石を投げたら転がった、だから「転がった」結果を「石を投げた」行為に帰属させるのは、自然科学的な意味くらいしか持たない。行為論が問題とするのは、自然科学的な因果関係ではなく、価値的な因果関係である。つまり、石を投げたら人を傷つけた、そのとき、「傷つけた」という不利益を「石を投げた」という行為に帰属させる。あるいは、石を投げたら猛犬を撃退して人を救った、そのとき、「人を救った」という利益を「石を投げた」という行為に帰属させる。こういった利益や不利益の行為への帰属が、行為論が問題とする因果関係論である。

2.2.帰属の問題

2.2.1.不利益の行為への帰属

 まず不利益な結果が生じた場合の、結果の行為への帰属方法を考えよう。この点について、日本の刑法学では、相当因果関係説が有力である。これは、まず(1)条件関係(「あれなければこれなし」)を判断して事実的な因果関係を確定した上で、(2)結果を行為者に帰属するのが社会的に相当かどうかを判断する説である。
 「石を投げたら人を傷つけた」例で考えよう。(1)まず、原因を取り除いたときに結果が発生しなかったであろうとき、原因と結果の間に「条件関係」があると言う。この場合、石を投げなかったら人を傷つけなかったであろうから、石を投げる行為と人を傷つける結果との間には条件関係がある。(2)次に、一般人が認識可能だったか行為者が特に認識していた事情をもとに(逆にそうでない事情は判断基底から除いて)、一般人の観点から結果が発生すると言えれば、その結果は行為に帰属することが相当だとされる。そのとき、原因と結果の間には「相当因果関係」があると言う。この場合、石が投げられればそれが誰かを傷つけるであろうことは一般人の見地から予測可能であるから、石を投げる行為と人を傷つける結果の間には相当因果関係がある。よって、人を傷つけた結果について石を投げた人は責任を負う。
 これに対して、「石を投げたら人がそれをよけて車道に飛び出し車に轢かれた」という例を考える。石を投げなければその人が車に轢かれることはなかったであろうから、石を投げる行為と轢かれる結果との間に条件関係はある。だが、多くの場合、人が石をよけて車道に飛び出すことは一般人にとって予測不能だから、それは度外視する。車道に飛び出すことを度外視すれば、車に轢かれるという結果は発生しないから、石を投げる行為と轢かれる結果の間に相当因果関係はない。よって、人が轢かれた結果について石を投げた人は責任を負わない。

2.2.2.利益の行為への帰属

 では、人の行為、特に詩作行為が他人に利益を与える場合はどうか。他人に不利益を与えた者が「非難」されるのに対し、他人に利益を与えた者は「賞賛」される。行為から不利益にいたる事象連鎖が、行為の「危険」の現実化の過程であるのに対し、行為から利益にいたる事象連鎖は、行為の「価値」の現実化の過程である。
 ここで、2.1.で挙げた目的手段連関型の実践的推論を、詩作行為の場合に当てはめて考えてみる。

 私は良い詩集を作りたい
 良い詩集を作るためには良い詩を書かなければならない
 私は良い詩が書きたい
 良い詩を書くためにはこのスタイルにしたがって書くべきである
 私は良い詩を書きたい
 結論:私はこのスタイルにしたがって詩を書く

この実践的推論で、主体が望んでいることは「良い詩集を作ること」である。ここで、(1)その行為の結果として主体が望んでいること、と(2)その行為の結果として一般人が予測可能であること、は異なることに注意しなければならない。

(1)主体が望んでいて一般人も予測可能なこと
(2)主体が望んでいるが一般人は予測不能なこと
(3)主体は望んでいないが一般人は予測可能なこと
(4)主体が望んでいなくて一般人も予測不能なこと

行為のもたらす結果は、以上のように分類できる。主体が望んでいる結果というものは、目的手段連関型の実践的推論の出発点をなすものであり(上の例だったら良い詩集を作ること)、そのような結果に至る過程を行為者は支配し、少なくとも予想しているのだから、そのような結果を行為者に帰属させることに基本的に問題はない。
 だが、(2)のように、例えば主体が誇大妄想的に望んだことがたまたま偶然実現したようなとき、その結果を主体に帰属させることができるだろうか。例えばある詩人が大きな賞を取りたいと望んだとして、誰もがその詩人がその賞を取れるとは思わなかったが、たまたま特定の審査員の奇矯な趣味からその詩人がその賞を取ってしまった。この場合で、2.2.1で説明した相当因果関係を判断してみる。その特定の審査員がその詩集を選ぶことは、詩人自身が特に認識していたわけでもなく、また一般人が予測できないことだから、その事実は判断材料から除かれ、そうするとその詩人が賞を取ることはなくなるから、その詩人が詩を書いた行為とその詩人が賞を取った結果の間には相当因果関係がなく、その賞はその詩人に帰属しなくなる。だがそれでよいのか。利益を行為に帰属する場合と、不利益を行為に帰属する場合では、帰属の判断が異なってもよいのではないか。つまり、この場合、賞賛の結果と詩作行為の間に相当因果関係がなくても、賞賛の結果を詩作行為に帰属させてもよいのではないか。
 (3)の場合、詩人自身が高評価を望んでいなくても、それが予測可能なものであれば、多くの読者に感銘を与えるという利益を発生させ、その結果と詩作行為の間に相当因果関係があるのだから、高評価を詩人に帰属させることに問題はない。
 (4)の場合の例として、金子みすゞの例を採り上げよう。金子みすゞは1903年に生まれた童謡詩人であるが、1930年に服毒自殺を遂げ、長らく忘却されたが、矢崎節夫らにより1982年に再び世に送り出され、現在では「わたしと小鳥とすずと」が小学校の教科書に採用されている。金子は、死後50年も経って自分の作品が多くの人に感銘を与えることを恐らく望んではいなかっただろうし、矢崎らが金子を発掘することは一般人に予見不能であったから、金子の詩作行為と現在金子の作品が読者に与えている利益の間には相当因果関係はない。とすると、現在の金子に対する評価は金子には帰属しないことにもなりそうだ。だが、現在の評価を金子に帰属させた方が妥当だと思われる。やはり利益を行為に帰属する場合は、不利益を行為に帰属する場合とは異なる帰属原理が妥当すると思われる。
 では、利益を行為に帰属する場合の帰属原理はどのようなものが妥当か。そもそも、刑法学の相当因果関係説は、刑法の行為規範としての側面に着目し、どのような結果を行為に帰責させれば犯罪抑止上効果的であるか、という観点から提唱されているものである。刑法は、行為時に結果が認識可能・予見可能であるのに行為者が敢えて行為するようなケースを禁圧するのであり、それは、個人的・社会的不利益が生じないようにという政策的配慮に基づくのである。つまり、相当因果関係説は、生じる結果が不利益であることを前提として、不利益を防止する観点から唱えられたものに過ぎないのであるから、生じる結果が利益である場合には違った帰属理論が妥当してもかまわないはずである。
 利益を行為に帰属する場合には、単純に、行為がその利益を生み出すのにどれだけ寄与したかを考えれば足りると思う。そして、詩が利益を生み出す場合というのは、基本的にその詩が読まれることによって読者が感銘を受ける場合のことである。金子みすゞの場合、彼女の詩作行為とそれが読まれて読者が感銘を受けるという結果が発生するまでの間に、矢崎らによる発掘という寄与が介在してはいる。だが、直接的に読者に感銘を与えているのは金子の詩作行為に基づいた金子の詩作品そのものであり、金子の詩作行為の読者の利益への寄与度は大きい。それゆえ、読者の感銘に基づく賞賛は、金子に大幅に帰属させて一向に構わないのである。


3.結論

 詩を書くという行為は、(1)様々なスタイルに従ってなされるものであると同時に、(2)何らかの価値・目的を実現するためになされるものである。
 スタイルには選択のスタイルと描写のスタイルがあり、選択・描写の対象と方法は不可分な場合もある。また、スタイルには規範・格率・個性的スタイルがあり、現代詩の詩作現場では、それらのスタイルがダイナミックに相互浸透している。
 行為は、その目的実現へと向けた積み重ねに付随して、不利益・利益の結果を生じさせることが多いが、その不利益・利益を行為に帰属させる原理は、不利益の場合と利益の場合で分けて考えるべきである。詩作行為の結果としては読者への感銘付与という利益が主に問題となるが、その際に読者が詩作品自体を読むという行為が介在するため、読者の感銘に対して詩作行為の寄与する度合いは大きい。だから、その作品がいかに数奇な運命をたどろうとも、作品の評価は作者に大幅に帰属させてかまわない。
 しばしば「詩を語る」ことの困難さが指摘されることがある。だが、人間の文化の所産として、詩を語りうる様々な明晰な理論枠組は多数存在するのであり、それらを用いて科学的に詩を分析することは可能である。私は本稿においてその一例を示したに過ぎない。容易に語りえぬことはあるとしても、語りうることは語りつくさねばなるまい。
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# by sibunko | 2012-12-04 01:49 | 詩の理論

現代詩の記号論(下)



3.結論

 詩は鑑賞者に情緒的感銘を与える芸術作品であると同時に、論理的構造や機能を持った複雑な構成体でもある。だから、詩を誠実に受け止めるためには、その芸術作品としての側面だけではなく、論理的構造体としての側面にも目を向ける必要がある。分析とはまさに詩の構造体としての側面に目を向けることであり、もちろん限界もあるが、詩に対する誠実さの一つの現れである。
 分析の価値を、鑑賞の価値をはかる尺度ではかってはならない。分析には鑑賞とは違った目的がある。分析の目的に徴すれば、分析の価値をはかるためには、それがどれだけ詳細に、統一的に、重層的に、発見的に、構造的に、論理的に詩を理解できるかという尺度によらなければならない。この尺度によれば、理論的分析が優れたものであることが分かる。
 詩は、記号作用を媒介せずに直接読者の情緒に訴えかける側面もあるが、記号作用を媒介にして読者に感銘を与える側面もある。だから、詩の美的作用も部分的には記号論的に分析することが可能である。
 現代詩においては、意味論的コードや統辞論的コードが破られ、新しく記号やコードが創造されることがある。その際、新しくできた記号の記号内容はただちには特定されず、解釈の可能性の広がりとして読者に与えられる。これが読者に美を感じさせることがある。
 特殊なコードとして「世界の法則」がある。世界の法則を破ることによっても、読者に詩的感興を与えることができる。
 本稿では、詩の「コードを破る側面」に主に注目してきた。だが最後に、特にコードを破らなくても十分美しい詩は書けるし、特にコードを破らない詩行も詩においてはたいへん重要であることを指摘しておく。それは、ストーリーや思想、認識、情景、感動などを分かりやすく直接示すことで、現代詩においてはむしろコードを破る表現よりも重要なくらいである。そのようなものの好例として、高見順の「葉脈」から引用する。

 僕は木の葉を写生してゐた
 僕は葉脈の美しさに感歎した
 僕はその美しさを描きたかつた

 苦心の作品は しかし
 その葉脈を末の末までこまかく描いた
 醜悪で不気味な葉であつた

 現代詩のもっと多くの側面について記号論的に分析したかったが、紙数が尽きてしまった。芸術の記号論的分析にもそれなりの価値があることを分かっていただければ幸いである。
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# by sibunko | 2012-12-04 01:46 | 詩の理論

現代詩の記号論(中)

2.現代詩の記号論的分析



2.1.記号論の基本

 表現が内容を「意味する」という関係が成立しているとき、その表現はその内容の「記号(サイン)」であるという。たとえば「猿」という言葉(表現)が、外界に存在する猿もしくは猿のイメージ(内容)を意味するとき、「猿」は猿の記号である。このときの表現を「記号表現」もしくは「シニフィアン」、内容を「記号内容」もしくは「シニフィエ」、関係を「記号関係」と呼ぶ。この節では、(1)記号の分類、(2)記号を律する規範(コード)、(3)トドロフの「象徴作用」、について説明しておく。
 まず記号の分類について。記号は伝統的に三種類に分類されてきた。すなわち、「イコン」「インデックス」「シンボル」である。

 S1.イコンはたとえば肖像画であり、記号表現(肖像画)と記号内容(モデルになった人)が類似しているような記号である。
 S2.インデックスは近接性に基づく記号であり、時間的・空間的近接性や因果関係、全体と部分の関係などによって成立する。たとえば煙が火を因果的に意味するとき、煙は火のインデックスとなる。
 S3.シンボルは無契性(記号表現と記号内容が本質的には無関係であること)を特徴とする。たとえば言語である。たとえば「猿」という記号表現は、なんら現実の猿の特徴を反映していないし、現実の猿と近接しない。

 また、動物的実践的世界での記号を「シグナル」と呼び、人間的観想的世界での記号を「シンボル」と呼ぶ分類もある。たとえば交通標識のように行動を支配する記号がシグナルであり、哲学用語のように人間の思考でもっぱら使用されるのがシンボルである。
 さらに、「既成の記号」と「新しい記号」という分類を立てることも可能であろう。既成の記号とは、社会的慣習的にあらかじめ表現と内容の対応関係が定まっているものである。言語記号の大部分は既成の記号である。それに対して新しい記号とは、たとえばある昆虫の特定の行動(記号表現)に対して生物学的な機能(記号内容)を新たに見出すときに生み出されるものである。詩人が独自の隠喩表現を使って独特の意味内容を指示させるような場合も、既成の慣習に縛られない新しい記号が生み出される。
 次にコードについて。我々は沢山の記号を使ってコミュニケートしている。たとえば言語を考えてみればよい。我々は無数の単語を複雑につなぎ合わせることでコミュニケートしているのである。これら無数の記号の織り成す体系がある。そして、そのような体系を規律する規範がある。この規範のことを「コード」と言う。
 コードには「意味論的コード」と「統辞論的コード」がある。意味論的コードとは辞書のようなもので、記号表現と記号内容の対応関係を規律するものである。一方で統辞論的コードとは文法のようなもので、記号表現たちの結合の仕方を規律するものである。
 ここで「選択制限」について言及しておこう。たとえば「青い軽蔑」という表現を考えてみる。この表現は文法的には許容される。だが、軽蔑については色を考えることができないから、「青い」と「軽蔑」の結合は原則として論理的には許容されない(隠喩としては許容されるが)。このような、語の論理的意味による結合の制限を選択制限と言う。
 選択制限は、意味論的コードによる規律であると同時に統辞論的コードによる規律でもある。このことについて少し説明しよう。まず、原則として、「青い軽蔑」という記号表現に対応する記号内容は存在しない。いわば「青い軽蔑」は「辞書に載っていない」のである。だから、「青い軽蔑」は意味論的コードにより拒絶される。一方で、「青い」と「軽蔑」の結合を禁止することは、語と語の結合を規律することだから、統辞論的コードによる規律であるとも言える。
 さらに、コードを補完するものとして「コンテクスト」に言及しておこう。メッセージの受け手は、コードだけではメッセージを解読できないことがある。たとえば、「私は象だ」という発言は、それが、「好きな動物は何ですか?」という問いかけの後に言われたものだというコンテクスト(文脈)の理解があって初めて正しく理解される。そのようなコンテクストがなければ、発話者が象という動物である、という意味にとられかねない。
 最後に「象徴作用」について。トドロフによれば、象徴作用とは、二つのシニフィアンもしくは二つのシニフィエのあいだの類似的連合もしくは近接的連合である。語は象徴作用によって、自身と関連するシニフィアンやシニフィエを喚起する。トドロフは象徴作用を4つに分類している。

 Sy1.シニフィエの類似(炎と愛、同義語など)
 Sy2.シニフィアンの類似(同音異義、語音類似、韻など)
 Sy3.シニフィエの近接(文化的意味、バラが愛を喚起するなど)
 Sy4.シニフィアンの近接(パロディなど)

ここで特に注目すべきはSy3で、だいたい「共示作用」あるいは「コノテーション」と呼ばれるものと一致する。「バラ」という記号表現はバラという記号内容を意味する。この通常の意味作用を「表示作用」と呼ぶ。この表示作用を前提として、「バラ」とバラの両方を記号表現として、愛という記号内容を意味するのが共示作用である。「バラ」という記号は、シニフィエの隣接によって(愛を伝えるためにバラを贈るという社会的慣習に基づいて)、愛という内容を喚起するのである。



2.2.芸術としての詩

 芸術の非記号的側面を強調し、芸術の本質はその非記号的側面にあるのだと主張することも可能である。

 TA.芸術は、記号作用によって鑑賞者に感銘を与えるのではなく、それ自身として鑑賞者に感銘を与える。芸術はそれ自身として自律性・完結性を持っている。

この主張は、抽象画や音楽についてはある程度妥当する。抽象画や音楽は原則として、明示的には何かの記号ではない。たとえば抽象画はその色や線、構成などによって直接鑑賞者の情緒に訴えかけてくる。何かを指示して、その指示内容を媒介にして鑑賞者に訴えかけてくるわけではないのである。
 では、TAは詩についても妥当するのであろうか。詩が言語で出来上がっている以上、詩の記号性は明らかであるが、他方で詩がそれ自身として直接情緒に訴えてくる側面もある。詩が自律性・完結性を示すのは、その(1)視覚性と(2)音楽性の側面においてである。
 まず視覚性について。ここで田村隆一の「恐怖の研究」から次の箇所を引用する。

 かれらは殺到する
 かれらは咆哮する
 かれらは掠奪する
 かれらは陵辱する
 かれらは放火する
 かれらは表現する

言葉の意味をしばし無視して、文字の形だけを注視してみよう。「かれらは  する」という比較的単純で丸みを帯びた、量産された台のような物に、「殺到」「咆哮」などの複雑で角張った造形物がはめこまれている。「量産され整然と並べられた台の上にそれぞれ異なった複雑な構成物が載っている」、我々はこの箇所において、このような視覚的印象を受け取る。その印象は特に記号作用を媒介とすることなく詩そのものから直接与えられる印象である。詩は第一次的に、文字の形や配置といった視覚性において読者に与えられる。そして、視覚性の段階でも詩は自律し完結しており、そのものとして読者の情緒に直接働きかけるのだ。
 次に音楽性について。ここで松浦寿輝の「ウサギのダンス」から次の箇所を引用する。

 トリウサギならばパタパタロンロン耳をふり ユルルンユルルンとのぼってゆく

「パタパタロンロン」は「耳をふ」る様子を意味する擬態語であり、「ユルルンユルルン」は「のぼってゆく」様子を意味する擬態語である。これらの語は、一応は記号内容を持つ記号なのである。だが、両方とも、既成のコードにはない擬態語であり、「新しい記号」として詩人が創造したものである。だから、読者はたとえば「パタパタロンロン」に対応する状態をすぐには思い浮かべられず、それゆえその時点では意味が不在である。シニフィエが不在なのだから読者の注意はもっぱらシニフィアンへと向かう。そこで、読者はもっぱら音に注意を向けるのである(当該擬態語は表音文字であるカタカナで表記されているので、読者の音に注意する傾向はさらに強まっている)。読者は「パタパタロンロン」「ユルルンユルルン」を前にして、何らかの意味を読み取るよりはむしろ、その音の響きを楽しむのである。音は詩そのものとして自律性・完結性を持ち、記号作用を媒介することなく直接鑑賞者に働きかけるのだ。
 ただし、詩の音楽性については少し注意しなければならないことがある。それは、詩は多くの場合、音声で聴かれるのではなく文字で読まれるということだ。詩が読まれるとき、第一次的に与えられるものは文字である。音は第二次的に与えられるのである。たとえば、「犬」という文字は、記号表現として、/inu/という音声(記号内容)を意味する。音は文字の記号作用の結果として与えられるのだ。詩の読者が音を楽しむとき、そこでは文字が音声を意味するという記号作用が先立っているのである。だから、詩が文字で読まれるときは、詩の音楽性は、文字が音声を意味するという記号作用を前提としているので、自律も完結もしていないことになる。
 最後に少し注意を促しておく。たとえば音楽性は、記号作用を媒介することなく直接鑑賞者の情緒に働きかけると私は言った。だが、この場合、音楽性によって引き起こされた情緒的印象を、その音楽性の意味であると考え、そこに記号作用を読み取ることができはしないか、という意見も考えられる。だが、その意見を採用すると、およそすべての対象は、人に認識されることにより、その認識内容を記号内容とする記号であるということになってしまいかねない。たとえば犬を見て犬の視覚的イメージを得たとき、犬はそのイメージの記号であることになってしまう。これでは記号の外延が不当に広がってしまい、「記号」という語の「記号と非記号を区別する機能」が著しく減殺される。私はそのような意見は採用しないことをここに明言しておく。
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# by sibunko | 2012-12-04 01:45 | 詩の理論

現代詩の記号論(上)

現代詩の記号論


1.序論

 本稿では、現代詩を記号論的に分析しようと思う。だが、そもそもそのような理論的分析には意義があるのだろうか。理論的分析に対するひとつの批判として詩学屍体解剖説を取り上げ、それがどのような批判であるか、またそれに対していかなる反批判が可能であるかを探り、現代詩を理論的に分析することの意義を明らかにする。



1.1.隠喩について

 詩を論ずることの意義を考えるに当たって、本稿では詩学屍体解剖説を吟味する。その先決問題として、隠喩の一般的な性格について少し述べておこう。

 MC1.隠喩は(比喩するものと比喩されるものの)共通性を基盤にして成立する
 MC2.隠喩は(比喩するものと比喩されるものの)共通性を読者に認識させる

 たとえば、「彼は狼だ」という隠喩を考える。彼を規定する無数の属性のひとつに凶暴性がある。一方で、狼を規定する無数の属性のひとつに凶暴性がある。この「凶暴性」という点において、彼と狼は共通するのである。この共通項(この例では「凶暴性」)があるからこそ、「彼は狼である」という隠喩が成立する。これが比喩のMC1の側面(共通性を基盤に成立すること)である。共通項(「凶暴性」)は、第一項(「彼」)と第二項(「狼」)の比喩的結合を媒介しているのだ。また、MC1の側面は、主に、表現者にとって重要である。表現者は共通性の認識を基にして比喩的表現を作り出すのである。
 次に、たとえば「人はカツ丼である」という隠喩を考える(「彼は狼だ」の例でもよいのだが、MC2の側面がより強く現れる例を採る)。この場合、読者は直ちにはこの隠喩を理解できない。人とカツ丼を媒介する共通項が思い当たらないからである。だが、表現者は、たとえば、人が激昂した時の熱とカツ丼の熱を対応させて(「熱」が共通項になっている)、比喩を成立させているのかもしれない。あるいは、人の情緒の微妙な具合と、カツ丼の味の微妙な具合を対応させているのかもしれない(「微妙な具合」が共通項になっている)。
 この点についてもう少し詳しく分析する。人を構成する諸要素を人の「役割」と呼ぼう。人の「情緒」は人のひとつの役割である(これは、「情緒は人の果たすべき役割である」という意味ではない。情緒が人に対して何らかの役割を果たしているのである)。カツ丼の「味」はカツ丼のひとつの役割である。「微妙な具合」は、直接的には情緒と味とを比喩的に結び付けている。だが、情緒は人の構成要素(役割)であり、味はカツ丼の構成要素(役割)であるから、人とカツ丼は、構成要素間の比喩的結びつきを媒介として間接的に結びついているのである。多くの隠喩では、このように、第一項(「人」)と第二項(「カツ丼」)が、それぞれの項の役割(「情緒」「味」)を通じて間接的に結びついている。結びつきを媒介しているのはそれぞれの役割の共通項(「微妙な具合」)である。
 本題に戻るが、「人はカツ丼である」という珍妙な隠喩に出会うことで、読者は、人の激昂した時の熱や、人の情緒の微妙な具合といった、人の精妙な側面について気づかせられる。そしてこれらの精妙な側面は、人とカツ丼それぞれの役割間の共通性なのである。これが、隠喩のMC2の側面(共通性を読者に認識させること)である。
 MC1の側面は常に隠喩に備わっているとは限らない。表現者は、特に二つの項の間の共通性を認識することなく、良さそうな二つの言葉を恣意的に結びつけるだけかもしれない。また、読者の方でも、単に意外な二つの言葉の結合を楽しむだけで、それらの間に共通項を見出そうとしないかもしれない。すなわち、MC2の側面も備わっていないこともある。それでも、MC1・MC2は、隠喩の原則的なあり方として、知っておく必要はあると考える。


1.2.詩学屍体解剖説

 高村光太郎は、詩学を「詩の屍体解剖」と言った。ここでは高村個人の抱いていた具体的意図は一応無視して、この言葉を文字通りに受け取って分析する。さて、ではこれはいったいどんなことを言っているのか。
 「詩学」とは、詩を学問的あるいは理論的に分析する営為のことを言うのだろう。あるいは、特定の理論を前提としない一般的な分析のことも指すのかもしれない。では、「屍体解剖」とはどういうことか。


1.2.1.詩学屍体解剖説の前提とする比喩

 まず、「詩の屍体解剖」という表現は比喩であることに注意しなければならない。詩には生命がないし、身体もない。だから、論理的には、詩を殺すことも解剖することもできない。「詩の屍体解剖」という表現においては、次のような隠喩が使用されている。

 MD1.詩は生命を持つものである
 MD2.詩は身体を持つものである

 「生命を持つもの」の役割=要素として「生命」がある。MD1が成立するためには、詩のある役割が、「生命」と、ある共通項によって比喩的に結び付けられているはずだ。いったい詩のどんな役割が「生命」と比喩的に対応しているのだろうか。「生命」に対応する詩の役割と、その対応を媒介する共通項として考えられるものを、思いつくままに挙げてみる。

 RCL1.【役割】詩を読んだときに感じる情緒的高揚 【共通項】充溢
 RCL2.【役割】詩が読者に現示する生の真実 【共通項】本質的重要性
 RCL3.【役割】詩が体現している有機的な美 【共通項】価値的重要性

 詩は美を体現し、生の真実を読者に現示し、読者に情緒的高揚感を与える。それぞれの側面が、生命になぞらえられているのかもしれない。
 次に、「身体を持つもの」の役割として「身体」がある。MD2が成立するためには、詩のある役割が、「身体」と、ある共通項によって比喩的に結び付けられているはずだ。「身体」に対応する詩の役割と、その対応を媒介する共通項を、思いつくままに挙げる。

 RCB1.【役割】詩の内容 【共通項】構造性・機能性・充実
 RCB2.【役割】詩を表現する文字や音声 【共通項】生命の容れ物であること


1.2.2.詩学屍体解剖説は詩学をどのように批判しているか

 「解剖」とは、分析のことを指すのだろう。だが、分析者が詩を分析するとき、詩は死んでいるのである。死んだものをいくら解剖してみても、臓器などといった生命の舞台装置を知ることができるだけで、実際の生命活動を知ることはできない。実際の生命活動は、血液の流れ、臓器の運動、代謝など動的な過程であり、屍体のような静的な対象からはその実相をとらえることができないのである。屍体解剖がなぜよくないのかというと、それは生命の実相をとらえることができず、せいぜい生命の痕跡や生命の舞台しかとらえることができないからだ。 
 さて、1.2.1での分析をもとに、この批判をもう少し詳しく見ていこう。詩の「生命」の内実を明らかにすることによって、詩学屍体解剖説の詩学批判がどのようなものであるか、具体的に見ていく。
 まずRCL1を仮定してみる。つまり、「詩を読んだときに感じる情緒的高揚」が「生命」に対応し、それは充溢するという点で生命的であると考えるのである。すると、詩学は詩の屍体解剖にすぎないという批判は、次のようなものであると考えられる。すなわち、

 C1.詩を分析する際には、我々はたいへん冷徹であり、詩を楽しんでいるのではなく、詩を科学的対象のような無味乾燥なものとしてとらえている。そのような分析では詩の情緒的作用をとらえることができない。情緒的作用を抜きにしたら、詩は屍体でしかない。そのような分析では、詩の本質をとらえることができない。

 次に、RCL2を仮定する。すなわち、「詩が読者に現示する生の真実」が「生命」に対応し、それは本質的重要性を持つがゆえに生命的である、と仮定する。すると、詩学屍体解剖説による批判は次のようなものであると考えられる。

 C2.詩が我々に現示するところの真実は、人間の生の全体性のうちでとらえられる有機的で複合的なものであり、分析によってはその全的なあり方をとらえることができない。分析は、分析による真実の断面を示すのみであって、真実の全体を示すことはできない。

 最後に、RCL3を仮定する。「詩が体現している有機的な美」が「生命」に対応し、それは価値的重要性を持つがゆえに生命的である、と仮定する。すると、詩学屍体解剖説による批判は次のようなものだと考えられる。

 C3.詩を分析する際、我々は特に美を感じているわけではなく、機械的に分析する。これでは詩の本質をとらえられない。また、美は有機的・複合的なものであるから、理論的分析に適さない。

C3は、C1とC2を合わせたものである。だから、実際問題としてはC1とC2のみを検討すればよい。また、C1・C2によって、学問的分析だけではなく、理論によらない一般的な分析を批判することも可能である。それゆえ、詩学屍体解剖説は、理論的学問的分析のみならず、理論によらない一般的な分析をも批判していると考えることが可能だ。
 ついでに、RCB1とRCB2をそれぞれ仮定したとき、詩学の分析の対象がどう変わってくるかも見ておこう。
 RCB1のように「詩の内容」が「体」に対応すると考えると、解剖の対象が「体」である以上、詩の分析=解剖の対象は詩の内容であるということになる。そうすると、詩学は、詩の内容的分析(詩句の解釈や、主題の発見、内容の織り成す構造の分析、それぞれの詩句がどのように互いに関連しているかの内容的分析など)を為すことになる。
 一方で、RCB2のように「詩を表現する文字や音声」すなわちシニフィアンの複合体が「体」に対応すると考えると、詩の分析の対象はシニフィアンの複合体であるということになる。そうすると、詩学は、詩の形式的分析(子音や母音の使い方の分析、押韻の分析、リフレインの発見、視覚的効果の分析など)を為すことになる。


1.2.3.詩学屍体解剖説に対してはどのような反批判が可能か

 それでは、詩学の営為は意味のないこととして、詩学を排斥してしまってよいのだろうか。詩学屍体解剖説による詩学批判は、詩学を排斥してしまうほど強力なものなのだろうか。
 まずC1を検討する。C1は、詩学は詩の情緒的作用をとらえることができないとして詩学を批判する。ここで、荒川洋治の「水駅」の次の箇所を引用する。

 妻はしきりに河の名をきいた。肌のぬくみを引きわけて、わたしたちはすすむ。

ここで、この詩行を形式的に分析することを考える。「しきりに」「きいた」「ぬくみ」「わけて」「すすむ」といったひらがな表記によって、独特のやわらかさや多少の粘性を我々は感じる。ところで、やわらかさや粘性といったものは、分析者の情緒に与えられた価値である。ここでは、表記の仕方がどのような情緒的効果をもたらすかが分析されていて、決して詩の情緒的作用を無視しているわけではない。このように、情緒的作用を分析するのも詩学のひとつの役割なのである。
 だが、ここで次のような再反論が起こるかもしれない。なるほど、確かに詩学によっても情緒的作用を分析できるかもしれないし、その分析の最中にも分析者はある程度詩を楽しんでいるかもしれない。だが、詩の分析の最中には分析という理性的作用がどうしても優位に立ってしまい、情緒的価値を楽しむという心の働きは後退せざるを得ない。分析の最中、分析者はある程度詩を楽しんでいるかもしれない。だがその楽しみは、純粋に詩を読んで楽しんでいるときに比べれば、だいぶ減殺されたものである。情緒的作用が後退するという意味で、詩の分析の最中は、分析者にとって詩はほとんど死んでいるのである、と。
 しかし、かりに詩の分析の最中に詩の情緒的作用が不在だとしても、詩の分析が無意味であるということになるだろうか。鑑賞と分析では目的が違う。鑑賞の目的が情緒的高揚を得ることだとしたら、鑑賞において情緒的作用が不在なときは鑑賞は無意味であるということになるかもしれない。だが、分析の目的は情緒的高揚を得ることではない。分析の目的は論理的な理解を得ることである。ある分析を評価するとき、人はその分析がどれだけ精密かつ合理的に対象を理解しているかを基準に評価するのであって、どれだけ情緒的効果があるかを基準に評価するのではない。ある分析を評価する基準として情緒的作用を持ち出すのは、身長を測るのに体重計を持ってくるようなものである。評価する基準が適切でないのである。分析はそもそも情緒的高揚を得ることを目的としない。それゆえ、分析に情緒的効果が伴わなくても分析の価値はなんら減ぜられるものではないのである。
 次にC2を検討する。C2は、詩学は詩の現示する真実や美(ここではC3の趣旨も含めて考える)を全体性においてとらえることができないとして、詩学を批判する。
 まず、詩(より一般的には芸術)の現示する真実というものが何であるかを明らかにしなければならない。「真実」の内実として、次の三つが考えられる。

 T1.真なる命題(思想)
 T2.出来事・情景・心情
 T3.人が真実を発見した時に感じる感情に似た感情(真実感)を引き起こすもの

 たとえば、高良留美子の「雨滴」から次の箇所を引用する。

 雨のしずくは 走っている乗用車の屋根の上に ときおり完全な半球状の植物を繁殖させる。

 ここでは、「半球状の植物」は何かの比喩であるととらえるのが自然である。たとえば、雨と光でできる小さな虹を「植物」と言っているのかもしれない。あるいは、深読みするならば、「植物」とは、乗用車の機能性のような抽象的なものを、雨が奇跡的に具象化させ可視化させたものだととらえることも可能かもしれない。
 だから、解釈=内容的分析によって、この詩行から、「雨は乗用車の屋根の上に、その乗用車の機能性を具象化させる」という命題の形の真実(T1)を抽出することができる。命題の形で表される真実(T1)はこのように内容的分析によって導き出せる。それゆえ、詩の現示する真実が命題の形をしていれば、それは原則として分析によって把捉可能である。
 だが、今の引用部のような多様な解釈を許す表現の場合、分析者は、可能な解釈をすべて思いつくことはまずありえない。解釈の可能性全体の大きな広がりを「真実」と考えれば(T4とする)、分析は真実をとらえ損なうことになる。
 次に、今の引用部は、雨が降っていて、乗用車が走っていて、その屋根の上に植物が繁殖している、そんな情景(T2)を伝えているのだといえる。この情景は、現実に対応物を持たない虚構であっても良い。つまり真でなくても良い。そのような情景があたかも真実のものであるかのように、我々に迫ってくれば良いのである。だが、詩における情景描写は所詮言語を超えるものではない。分析者は原則として、内容的分析によってその詩においてどのような情景や心情が語られているのかが分かる。文字通りの意味をなぞればよいのである。
 だが、T2の場合も分析の限界がある。たとえば、詩人が情景に仮託してなんらかの心情を伝えようとしている場合である。この場合も、分析者は不十分な解釈しかできない可能性がある。
 最後に、T3の場合について。引用部において、雨や乗用車や植物の情景は、ある種の切迫感を持って鑑賞者に迫ってくる。一方、世界や生についての重大な真実もまた、それを発見した者に対して切迫感をもって迫ってくる。この切迫感という点において、情景描写も真実の発見も共通するのである。それゆえ、情景描写が切迫感を持つとき、鑑賞者は、そこにあたかも真実を見たかのような感情(真実感)を抱くことになるのだ。
 また、引用部においては、非現実的な描写により美が実現されている。この美の感覚もまた、ある程度の強度を備えるとき、人が重大な真実を発見したときに抱く感情に似た、目覚しい感情を鑑賞者に与える。それゆえ、詩の誘発する美の感覚が一定以上の強度を持つとき、鑑賞者はそこにあたかも真実を見たかのような感情(真実感)を抱くことになるのである。
 だから、我々が芸術作品に接して真実感を抱くとき、実は切迫感や美感を通じて真実を見たように錯覚しているだけで、本当に真実を見ているわけではないことも十分考えられる。この場合我々は真実なき真実感を抱いているわけで、真実がないのだから、原理的に真実を知ることは不可能である。あえて真実に対応するものを挙げるとするならば、それは作品の性質やそれに喚起された鑑賞者のイメージなどである。それらが真実感を引き起こしているからである。ところが、作品の性質やそれに喚起された鑑賞者のイメージなどは複雑に絡み合いながら我々に真実感を喚起しているので、どの性質やイメージがどのように真実感に寄与しているのか知るのは容易ではない。
 このように、何がどのように真実感を引き起こしているのかを分析するのは容易ではない。ここにも分析の限界がある。
 これでだいたいC2の内実が明らかになったのではないだろうか。すなわち、

 C2a.多様な解釈を許す表現に直面したとき、分析者は、解釈の可能性全体の大きな広がり(真実)に直面する。だが、分析では、可能な解釈のすべてを明らかにすることはできない。よって、分析は、真実の全体を把捉することができない。
 C2b.作品は、切迫感や美感を通じて、読者に、真実感を抱かせる。だが、真実感は、作品の性質やそれが喚起するイメージなどが複雑に絡み合って読者に誘発するものであるから、真実感の原因を分析するのは容易ではない。

 確かに分析によっては解釈のすべての可能性をとらえることはできないし、真実感の原因を完全にとらえることもできない。そこに分析の限界がある。その点、詩について文学的に含蓄深く書けば、解釈の可能性のうちの広い部分をカバーできるかもしれないし、読者に美感を与えることで、自分の感じた真実感をある程度読者に伝えることができるかもしれない(詩に関する文学的言説については、紙幅の関係上、本稿では深く立ち入らない)。
 だが、だからといって、詩の分析は無意味なものとして排斥してよい、ということにはならない。分析には確かに限界があるが、その反面で積極的意義もある。分析するということは、理解するということである。詩に接するとき、我々には、鑑賞者として詩を情緒的に楽しみたいという欲求が第一次的にある。だが、詩を多く読んでいくにつれて、自然と、分析者として詩を理解したいという欲求も第二次的に生まれてくる。詩に対して誠実であろうとするならば、すなわち、詩の全存在を受け止めようとするならば、読者は単に詩を楽しむだけでなく、必然的にその構造や意味や機能などを分析することに導かれてゆくはずだ。人間は情緒的な楽しみだけでなく理性的な楽しみをも欲する。詩を理性的にも楽しむことによって、初めて詩に対して完全に誠実であることができるのである。詩は分析されることを求めているのだ。たとえその分析が不完全なものであっても。



1.3.詩を論ずることの意義

 詩学に対するひとつの批判として詩学屍体解剖説を取り上げ、その批判の具体的内容を1.2.2で見た。そして、それに対してどのような反批判が可能かを1.2.3で見た。それらを踏まえた上で、詩を論ずることの意義を考えてみよう。
 C1に対する反批判で述べたように、分析の価値をはかるために、鑑賞の価値をはかる尺度を持ち出してはならない。だから、分析の価値を「情緒的効果が伴っているか」という尺度ではかってはならない。では、分析の価値はどのような尺度ではかればよいのだろうか。
 分析の価値は、それによって詩がどれだけ詳細に、統一的に、重層的に、発見的に、構造的に、論理的に理解できたかによってはかられるべきだと私は考える。分析は理性的な理解を目的とするからである。
 こう考えたとき、理論的分析すなわち何らかの理論を前提とした分析が、重要であることが分かる。なんとなれば、理論的分析は、詩を統一的・重層的・発見的・構造的・論理的に理解することが可能だからである。ただし、我々の認識は、理論が単純であることを要請する(そのほうが理解しやすいから)ので、理論的分析は詳細な分析にはそれほど適していないかもしれない。だが、理論的分析と個別的で詳細な分析を組み合わせることによって、理論的分析のみに依拠した場合の欠点を補うことはできる。そして、C2の反批判で述べたように、詩が分析を求めている以上、このような分析的態度は詩に対する誠実さに他ならない。確かに分析には限界があるが、我々は分析せずにはいられないのである。
 詩を理論的に分析することにより、我々は、詩を統一的・重層的・発見的・構造的・論理的に理解することができる。これが詩を論ずることの意義である。我々は詩に多く接してゆく中で自然とこのような分析を欲することになる。また、詩が我々に対してその全存在(構造・意味・機能などを含む)を投げかけてくるのならば、分析は、詩を誠実に受け止めるひとつのやり方でもある。もちろん分析には限界があるが、限界があるからといって無意味であるということにはならない。自然科学は自然界を完全に記述することはできないが、だからといって自然科学が無意味であるということにはならない。事情はそれと同じである。
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# by sibunko | 2012-12-04 01:41 | 詩の理論