人気ブログランキング |

現代詩文庫を読む

sibunko.exblog.jp
ブログトップ

リア充は詩が書けない

 リア充は詩が書けない。これは最近強く実感していることだ。正確に言うと、文章を書けなくはないが研ぎ澄まされた詩的表現を思いついている余裕がない。詩を書くために何よりも必要なのが孤独で静かな時間なのである。生活の雑事で心が揺れ動いている状態では研ぎ澄まされた詩が降ってこない。
 仕事のことで心がいっぱいいっぱいになり、その上家庭や恋愛のことでさらに脳が占拠されるようになると、もはやその人の心に詩が入り込む余地がほとんどなくなってしまう。突き詰めて言葉と対峙するという余裕がなくなり、それよりも仕事での目標とかパートナーの悩み事とか、そういうことの方が優先度が高くなる。そうして詩が書けないままあれよあれよという間に時間が過ぎていく。
 詩というものは、人生の小さなことや大きなことと真摯に向き合い、大事にいつくしみ、そのうえで脳をフル稼働して書くものなので、それだけの孤独で静かな時間を必要とする。孤独で静かな時間がほとんど持てないリア充にとって、詩はなかなか書くことのできない贅沢なものとなってしまうのだ。
 リア充は感受性が鈍るのではない。むしろ人生が濃密であり多種多様なことを感じている。だがそれを言葉として整理する余裕がないし、それらと丁寧に向き合っている孤独な時間が取れない。そのようなリア充にとって詩とは何であるか。そもそもリア充に詩なんて必要なのか。改めて問い直す必要がある。
# by sibunko | 2019-05-17 14:07 | エッセイ

コーヒーの詩学

コーヒーの詩学

 コーヒーの暗褐色の液体は、私にとってすべての倫理的な源泉である。朝、まだ日が昇らない刻限にお湯を沸かし豆を挽いてコーヒーをドリップする。マグカップに注がれたコーヒーは私の生きる意志をそのまま凝縮している。コーヒーを飲む行為は存在を確かめる行為であり、意志を注入する行為である。私は毎朝コーヒーを飲むことによって、自らの存在を確かめると同時に生きる意志を再確認する。
 コーヒーは善悪を決定する液体である。あるいは美醜を決定するといってもいい。私にとって善い生き方とは美しい生き方であり、美しい生き方とは善い生き方である。コーヒーは通俗的な悪を善に転換する特殊な液体である。例えばコーヒーは殺意の液体であり憎しみの液体であり悪意の液体であり裏切りの液体であり傷の液体である。それらの通俗的な悪を美すなわち善に転化するのがコーヒーの役割だ。
 コーヒーは始まりを告げる創造の液体である。一日の始まり、思考の始まり、仕事の始まり、創作の始まり。コーヒーは何かを創り出す根拠として、動機として、エネルギーとして、飛躍として、私のトリガーを引く。コーヒーは光というよりは闇に近く、光と闇の渦巻きに近い。光と闇が渦巻くところであらゆるものは創造されるのだろうし、私は様々なものを創造する。
 私はコーヒーを偏愛する。コーヒーは郷愁の向かう先であり、孤独な情熱の向かう先であり、人生の余白が漂う辺りである。コーヒーという飲み物には私の人生の出来事が付着しており、一杯一杯のコーヒーにすべてエピソードがあってもおかしくないのだ。コーヒーの苦さは人生の苦さであり、コーヒーの香りは愛の香りだ。私はコーヒーに執着する。
 二つのマグカップにコーヒーを注いで二人で会話をしながらコーヒーを飲み合う。そのとき、その二人は互いの孤独を飲み合っているし、互いの孤独を愛し合っている。コーヒーの酸味を赦し合うということ。それは親密な二人の間の赦し合い、互いの欠点や不備の赦し合いに近い。コーヒーは孤独の飲み物であると同時に、愛の飲み物でもある。 

# by sibunko | 2019-02-09 16:18 | エッセイ

詩集を二冊出してみて

 私は思潮社から詩集を二冊出している。『zero』(2015.3)『vary』(2017.6)である。詩集を出してみて感じたのは、確かに自分は歴史に参画した、という手ごたえである。
 それまで私は現代詩手帖に投稿したり、同人誌を出したりしていたが、詩集を出すのはそれらとは一線を画す行為である。それはやはり現代詩の歴史の一つのページを作る行為であり、なぜかというと周囲に与える影響が大きいからである。
 詩集を出すと、まず雑誌に広告が載るし、アマゾンで販売されるし、大手書店の店頭にも並ぶし、書評も出れば手紙も多数届く。とにかく周囲に与える影響が尋常でない。それはやはり一つの事件なのであり、これだけ多くの人を巻き込む行為は人生の中でもそうあるものではない。自分の生み出したものがしっかりと他人の中に、社会の中に根を下ろすということ。詩集を出すということはそういうことだ。
 第一詩集『zero』はほとんど現代詩手帖投稿欄に掲載された作品で構成されている。35歳の時に出した詩集だが、作品は25歳~29歳の頃に書いている。幾何学的・造形的・抽象的・寓話的であり、生活臭をとことん排し、独自の語りの水準で作品世界を作り出した。
 第二詩集『vary』も、3分の1くらいは現代詩手帖掲載作品を載せ、あとはそののちの社会性や実存性を備えた作品で埋めた。詩人というものが30歳を経過することでどのように変容していくか、それを跡付けようとした。
 売れ行きは第一詩集の方が良いようだ。だが評価としては第二詩集の方が高かった。第一詩集は単なる作品集、第二詩集は明確なコンセプトに基づいた実験詩集というのが私の中での位置づけである。
 詩集を出すことで私は盛大に承認された。それらは何かの賞を獲得したわけではないが、色んな人からいろんな反応を受け、私は自らの行為がここまでの承認を獲得したのは初めてだった。詩集を出すということは私の人生の中でも大きな事件なのであり、それは否応なく自らの立ち位置を変えていく。盛大な承認を得ることは詩作に対する余裕を生むし、自らの自己評価を高める。健全に自己を承認できる大人となれるのである。
 要するに、詩集を出すということは社会的にも実人生的にも事件なのであり、それは自らの社会的地位と自己承認を高める。たとえ自費出版であっても、詩人が詩集を出したがるわけである。
# by sibunko | 2018-08-13 12:02 | エッセイ

若さという幻影

 若さは一つの美徳である。これに対して疑義を挟む人は少ないだろう。人は若いからこそ美しく活気にあふれ、情熱にかられ、理想を追い求め、甘い苦悩に囚われる。そして、若いころにしか書けない詩作品というものがある。それは衝動的であったり装飾的であったり理想的であったりする。
 だがもちろん美徳というものは若さだけではない。若さにも様々な欠点がある。まず教養の不足と経験の不足。若い詩作品には表面的な美しさや実験性はあっても、懐の深さや実体験に根差した叙情が不足することが多い。次に現実意識や社会意識の不足。若い詩作品は現実から遊離し、社会的な意識に乏しいことが多い。自らの生きている凡庸な現実を嫌うことが多い。
 若さは美徳である一方で様々な欠点を持つ。だが多くの人たちは、大人として生きていくに従い、多量の教養と経験を獲得し、現実を直視することに慣れ、社会的な意識を獲得していく。そこには成熟した詩作品が成立する土壌が出来上がるのである。
 ところが、詩の世界では「若さという幻影」が根強く生きているように思われる。年老いてもなお前衛を気取り続ける詩人は多い。実験や修辞に囚われ続ける詩人も少なくない。「詩は若くなければならない」という強迫観念でもあるかのようである。それは失われた若さへの執着であるかもしれないし、気持ちを若く保っていないと美しい詩は書けないという思い込みゆえかもしれない。
 だが、繰り返すが美徳というものは若さだけではない。教養や経験、現実意識や社会意識に基づいたより射程が広く普遍的な作品は歳をとってからでなくては書けないのである。歳をとるということも美徳だということを詩人たちは忘れていないか。ここで明言しておこう。詩人にとって歳を取ることは美徳である。そして、年相応にそれまで豊かに獲得してきた諸々を存分に発揮していけばいいのだ。何も若さを気取る必要はない。「若さという幻影」に囚われ続ける詩人も多いだろうしそれには理由がある。だが、「若さという幻影」に対し、その魅力に抗しながら少しずつ距離を取っていくこと、そこに成熟した詩作品の成立する大地が開けるのではないだろうか。
# by sibunko | 2018-08-13 12:01 | エッセイ

言葉の個人史

 それぞれの詩人にはそれぞれの言葉の個人史がある。詩の中で用いる言葉は、かつてどこかで自分が書いた別の詩の中でも固有の位置を占めていたものである。例えば「水」という言葉をかつて別の作品で用いたとする。すると、その作品の文脈の中で「水」という言葉に詩人は固有の意味付けをする。「水」という言葉を新たに書く詩で用いる場合、その以前の意味付けをまとった「水」を用いるのである。詩人はそのようにして様々な作品で「水」という言葉を使うかもしれない。そうすると、それぞれの作品によって意味づけられた「水」という言葉が一つの歴史、系譜を作り上げるのである

 もちろん、この言葉の個人史の問題は作詩の領域の中に閉じるものではない。言葉は日常生活でも盛んに用いられ、詩人の日常での言語使用の文脈もまた言葉の個人史に影響を与える。日常生活を規定しているのはその人の生きる共同体や時代であるから、言葉の個人史には社会や時代の影響が刻まれる。例えば電車で通勤する詩人の作品の中では「駅」という言葉がその詩人独自の意味合いを生活から受け取るであろう。

 また、この個人史の問題は単語レベルで終わるものではなく、思想やテーマの問題にもかかわる。詩人がかつて一定のテーマのもとで思考し感受した内容は、当然後続の詩群へと引き継がれていく。思想やテーマについても詩人は個人史を持つのである。

 ところでこの言葉の個人史はきわめてプライベートなものであり、その実体は詩人自身にしか、しかも不完全にしか把握できない。言葉の位置づけは詩人の言語使用により絶えず流動するものであり、しかも複雑に錯綜している。言葉の個人史を詩人自体が語ることすら困難である。そこに批評家はどう介入するかであるが、もちろん批評家も一定の系譜を作り上げることはできる。特定の詩人が一定の言葉やテーマをどのようなダイナミズムで系譜的に使用していったか、批評家は一定のストーリーを作り上げることができる。だが、言葉の個人史はその詩人にしか本来知り得ないものであり、批評家の作り上げるストーリーとは次元の異なるものである。

 詩の読み手としての我々は、詩人一人一人の個人史の表面をなぞることしかできないが、それでもそこには様々な発見があるだろう。そして、詩の書き手としての我々はたまには自らの言葉の個人史を自覚的に語ってもよいかもしれない。


# by sibunko | 2018-08-13 12:00 | エッセイ