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詩集を二冊出してみて

 私は思潮社から詩集を二冊出している。『zero』(2015.3)『vary』(2017.6)である。詩集を出してみて感じたのは、確かに自分は歴史に参画した、という手ごたえである。
 それまで私は現代詩手帖に投稿したり、同人誌を出したりしていたが、詩集を出すのはそれらとは一線を画す行為である。それはやはり現代詩の歴史の一つのページを作る行為であり、なぜかというと周囲に与える影響が大きいからである。
 詩集を出すと、まず雑誌に広告が載るし、アマゾンで販売されるし、大手書店の店頭にも並ぶし、書評も出れば手紙も多数届く。とにかく周囲に与える影響が尋常でない。それはやはり一つの事件なのであり、これだけ多くの人を巻き込む行為は人生の中でもそうあるものではない。自分の生み出したものがしっかりと他人の中に、社会の中に根を下ろすということ。詩集を出すということはそういうことだ。
 第一詩集『zero』はほとんど現代詩手帖投稿欄に掲載された作品で構成されている。35歳の時に出した詩集だが、作品は25歳~29歳の頃に書いている。幾何学的・造形的・抽象的・寓話的であり、生活臭をとことん排し、独自の語りの水準で作品世界を作り出した。
 第二詩集『vary』も、3分の1くらいは現代詩手帖掲載作品を載せ、あとはそののちの社会性や実存性を備えた作品で埋めた。詩人というものが30歳を経過することでどのように変容していくか、それを跡付けようとした。
 売れ行きは第一詩集の方が良いようだ。だが評価としては第二詩集の方が高かった。第一詩集は単なる作品集、第二詩集は明確なコンセプトに基づいた実験詩集というのが私の中での位置づけである。
 詩集を出すことで私は盛大に承認された。それらは何かの賞を獲得したわけではないが、色んな人からいろんな反応を受け、私は自らの行為がここまでの承認を獲得したのは初めてだった。詩集を出すということは私の人生の中でも大きな事件なのであり、それは否応なく自らの立ち位置を変えていく。盛大な承認を得ることは詩作に対する余裕を生むし、自らの自己評価を高める。健全に自己を承認できる大人となれるのである。
 要するに、詩集を出すということは社会的にも実人生的にも事件なのであり、それは自らの社会的地位と自己承認を高める。たとえ自費出版であっても、詩人が詩集を出したがるわけである。
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# by sibunko | 2018-08-13 12:02 | エッセイ

若さという幻影

 若さは一つの美徳である。これに対して疑義を挟む人は少ないだろう。人は若いからこそ美しく活気にあふれ、情熱にかられ、理想を追い求め、甘い苦悩に囚われる。そして、若いころにしか書けない詩作品というものがある。それは衝動的であったり装飾的であったり理想的であったりする。
 だがもちろん美徳というものは若さだけではない。若さにも様々な欠点がある。まず教養の不足と経験の不足。若い詩作品には表面的な美しさや実験性はあっても、懐の深さや実体験に根差した叙情が不足することが多い。次に現実意識や社会意識の不足。若い詩作品は現実から遊離し、社会的な意識に乏しいことが多い。自らの生きている凡庸な現実を嫌うことが多い。
 若さは美徳である一方で様々な欠点を持つ。だが多くの人たちは、大人として生きていくに従い、多量の教養と経験を獲得し、現実を直視することに慣れ、社会的な意識を獲得していく。そこには成熟した詩作品が成立する土壌が出来上がるのである。
 ところが、詩の世界では「若さという幻影」が根強く生きているように思われる。年老いてもなお前衛を気取り続ける詩人は多い。実験や修辞に囚われ続ける詩人も少なくない。「詩は若くなければならない」という強迫観念でもあるかのようである。それは失われた若さへの執着であるかもしれないし、気持ちを若く保っていないと美しい詩は書けないという思い込みゆえかもしれない。
 だが、繰り返すが美徳というものは若さだけではない。教養や経験、現実意識や社会意識に基づいたより射程が広く普遍的な作品は歳をとってからでなくては書けないのである。歳をとるということも美徳だということを詩人たちは忘れていないか。ここで明言しておこう。詩人にとって歳を取ることは美徳である。そして、年相応にそれまで豊かに獲得してきた諸々を存分に発揮していけばいいのだ。何も若さを気取る必要はない。「若さという幻影」に囚われ続ける詩人も多いだろうしそれには理由がある。だが、「若さという幻影」に対し、その魅力に抗しながら少しずつ距離を取っていくこと、そこに成熟した詩作品の成立する大地が開けるのではないだろうか。
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# by sibunko | 2018-08-13 12:01 | エッセイ

言葉の個人史

 それぞれの詩人にはそれぞれの言葉の個人史がある。詩の中で用いる言葉は、かつてどこかで自分が書いた別の詩の中でも固有の位置を占めていたものである。例えば「水」という言葉をかつて別の作品で用いたとする。すると、その作品の文脈の中で「水」という言葉に詩人は固有の意味付けをする。「水」という言葉を新たに書く詩で用いる場合、その以前の意味付けをまとった「水」を用いるのである。詩人はそのようにして様々な作品で「水」という言葉を使うかもしれない。そうすると、それぞれの作品によって意味づけられた「水」という言葉が一つの歴史、系譜を作り上げるのである

 もちろん、この言葉の個人史の問題は作詩の領域の中に閉じるものではない。言葉は日常生活でも盛んに用いられ、詩人の日常での言語使用の文脈もまた言葉の個人史に影響を与える。日常生活を規定しているのはその人の生きる共同体や時代であるから、言葉の個人史には社会や時代の影響が刻まれる。例えば電車で通勤する詩人の作品の中では「駅」という言葉がその詩人独自の意味合いを生活から受け取るであろう。

 また、この個人史の問題は単語レベルで終わるものではなく、思想やテーマの問題にもかかわる。詩人がかつて一定のテーマのもとで思考し感受した内容は、当然後続の詩群へと引き継がれていく。思想やテーマについても詩人は個人史を持つのである。

 ところでこの言葉の個人史はきわめてプライベートなものであり、その実体は詩人自身にしか、しかも不完全にしか把握できない。言葉の位置づけは詩人の言語使用により絶えず流動するものであり、しかも複雑に錯綜している。言葉の個人史を詩人自体が語ることすら困難である。そこに批評家はどう介入するかであるが、もちろん批評家も一定の系譜を作り上げることはできる。特定の詩人が一定の言葉やテーマをどのようなダイナミズムで系譜的に使用していったか、批評家は一定のストーリーを作り上げることができる。だが、言葉の個人史はその詩人にしか本来知り得ないものであり、批評家の作り上げるストーリーとは次元の異なるものである。

 詩の読み手としての我々は、詩人一人一人の個人史の表面をなぞることしかできないが、それでもそこには様々な発見があるだろう。そして、詩の書き手としての我々はたまには自らの言葉の個人史を自覚的に語ってもよいかもしれない。


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# by sibunko | 2018-08-13 12:00 | エッセイ

孤独の変質

 若いころの孤独というものはナルシシズムと不可分である。若いころ、人はよく孤独に陶酔する。自分が孤独であることに酔って、孤独である自分がかっこいいと思う。そのような孤独な陶酔する主体が書いた詩というのは数多くあり、若い孤独を失った人でも詩を書くときはいっときその幼い孤独を取り戻すかのようだ。だが、このような狭隘なナルシシズムから生まれる文学が人間の全的な表現になるとはとても思えない。自己の殻にしっかり閉じこまってしまった状態で、人間や世間の総合的な表現など不可能であろう。

 人間の成熟に伴って、孤独はその構造を変えていく。もはや人は社会的に無責任ではないし、現実を直視するようになってくるし、様々な連帯を経験してしまっている。社会的な責任を果たしていく中で、必然的に他者と共に生きている存在として自分をとらえるようになっていくし、現実の苦さは自己の聖域を作ることをもはや許さないし、他者との実存的な連帯の経験は孤独な実存を複雑化する。

 そうすると、もはや孤独は純粋なものではなくなるし、孤独が自己愛的なものでもなくなってくる。孤独はもはやそこで陶酔する幼い聖域ではなくなってしまうのである。孤独な実存は常に他者に浸食されている、つまり、人はもはやその成立においても持続においても他者との複雑な関係性を抜きにしては語れなくなる。そうであるからこそ、人間はもはや孤独と自己愛を分離してしまう。なぜなら孤独な実存の中にはすでに他者が包含されてしまっているので、それを率直に愛することができなくなるからだ。人はもはや孤独に単純に酔うことができない。孤独は酔えるほど甘美なものではなく、何やら複雑な味わいのする他者との相克の現場となるのである。

 自己はもはや高山の頂に聖別された神殿などではない。多数の人間が往来する交差点に過ぎない。そのような自己を愛するということは、純粋に自己の内部で自足することではなく、他者や社会へとあまねくまなざしの範囲を拡散することに他ならない。もはや自己を探求することはすなわち他者や社会を探求することである。自己を愛するとき、そこにもはや純粋な自己は存在せず、ただ関係のネットワークを忙しなく追いかけていくことになるのである。

 だが、そのように変質した孤独にこそ、私は文学の成熟した形があると考える。自己の純粋培養ではなく、雑多な菌の混じる原野における他者との相互嵌入。現実の複雑さにおびえることなく、むしろその複雑さを楽しむための文学。実存的な開かれがない以上、文学の開放もないだろう。


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# by sibunko | 2018-08-13 11:59 | エッセイ

われらの時代

 私はいわゆる氷河期世代の人間だが、就職だけにかかわらず、生きること全般について苦労の伴う昨今であると感じている。もともと日本はムラ社会であり、その体質は西洋文化の輸入後も変わることはなかった。そのムラ社会が解体されていき、個人主義の傾向が強まっていく中、人々は自らを実存的に支えてくれる根拠を失っていった。日本人は思想の薄弱な民族であり、理論を自らの支柱とすることに不慣れな民族である。だから、社会が近代化していっても、個人はその近代化を理論として内面化することができず、いまだ前近代のムラ社会の心性のままだった。

 ムラ社会において個人の実存的な支えとなるものは、上下左右の感情的なつながりである。農村共同体では、年上の者を敬い、年の近い者とは友情を結び、年下の者をかわいがる。天皇の権威をあがめる。これは高度経済成長期に大量の会社人間が生まれても変わることはなかった。会社というものもムラにすぎず、会社の中での感情的なつながりや、会社に対する滅私奉公が人々の存在理由となった。

 日本では、超越的な存在に対して自律した個人が対峙し、自律した個人が超越的な存在へ信仰を寄せることで存在理由を見出すということが起きなかった。一部の宗教団体に所属する人たちを除いて、日本人にとって超越的な審級は空白のままだったのだ。天皇ですら超越者にはなりえず、人々は自らの存在理由をムラ社会や会社社会における感情的関係や役割に求めざるを得なかった。

 ところが、戦後教育は日本国憲法のもと、個人を最大限尊重する方向で行われた。個への侵害はプライバシーの侵害や名誉権の侵害として厳しく断罪されるようになり、生活へ科学技術の成果が取り込まれることにより、人々は他人との緊密な関係がなくても生活できるようになった。核家族化の進行から単身世帯の増大へと、人々はどんどん孤立していくようになった。

 だが、戦後教育は結局片手落ちだった。個人の尊厳原理は、防御的に働くことが多かったが、積極的に働くことが少なかった。個人の尊厳原理は個人を守ることはあっても、それによって自律した個人が生まれる方向性を持たなかったのである。かくして、人々はどんどん孤立していきながらもよって立つ自律した精神を獲得することが少なかった。そこで私たちはどんどん不安や焦燥を感じるようになってきたのである。

 現在、私たちが存在の根拠を獲得するためには、自己をただ無根拠に肯定するか、自律した個人を理論的に内面化するかのいずれかであると思われる。そして、現在私たちの大勢は自己の無根拠な肯定に向かっており、その肯定に成功した人間は緩やかな幸福感に満たされ、その肯定に失敗した人間は絶望の淵を歩く、そのような二極化が進んでいると思われる。

 私は自己の無根拠な肯定に失敗した人間であり、そうすると自らの存在根拠を獲得するために個人主義の理論化を行わなければならない。個人主義に依拠する理由として、二点ほど挙げようと思う。

 まずは、これだけ個人を尊重する気運の高い世の中でありながら、個人がただそれを受動的に守備にしか用いていないことへの反省。また、個人を尊重するという建前がありながら依然として会社組織などで個人の蹂躙が行われている事実に対抗する必要性。個人の尊厳原理は、個人の守備にしか用いられていないという問題と、現実の個人蹂躙を上手に隠蔽してしまうという問題を抱えている。それらの問題を解決するために、個人はもっと積極的に自らの自律性を養い、個人主義を積極的に内面化し、また隠蔽されながら依然として行われている個人蹂躙に異議を唱えなければならない。

 次に、上下左右との感情的なつながりが希薄になった現代、私たちは否応なく現実に直面せざるを得なくなったということ。私たちのことは原理的に誰も救ってはくれない。そうすると、他人の助力によって現実にフィルターがかけられるということがなくなって、現実がじかに私たちを襲うようになってくる。そして、私たちは現実の波をうまく乗りこなすことなくしては生きていけないのである。現実は極めて複雑で困難であり、現実を打開するためにはたえざる向上が必要となる。その現実と格闘する根拠となる強力な個人が必要とされてきている。そこで、個人の自律性が強く要求されてくるのである。

 何の疑いもなく自己を緩やかに肯定できる人間であるならば問題は少ない。だが、多くの人たちが自らの存在の根拠を見失っていく中、個人主義を意識的に内面化する必要がある。それは、個人主義を攻めの姿勢で用いていく方向性であり、現実と自律して戦っていく意思表明である。文学もまたそのような色彩をまとっていくと私は考える。つまり、複雑な現実との困難な戦いを倦むことなく遂行する自律した人間の文学が生まれていくのではないか。


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# by sibunko | 2018-08-13 11:58 | エッセイ