今回山本育夫が刊行した二つの詩集は、生権力という形で存続し続け、パンデミックにより強化された管理社会というロゴスに対する、詩的抒情というピュシスによるささやかな抵抗の試みのようにも読める。だがそれだけではない。山本の詩集においては、ロゴス(理性的なもの)とピュシス(自然的なもの)が、様々な形で現れ、様々な形で互いに関わっていくのである。
『ことばの薄日』においては、「ことば」という語が頻出する。「ことば」は変幻自在に変身していき、もはやことばは何ものにでもなりうるかのようだ。ここにおいては、ことばの身体のようなものが主題になっているととらえることが可能だ。ことばは通常の用法において、もっぱらロゴスとして何らかの情報を伝えるものであるが、ここにおいて自らの身体、ピュシスをあらわにして、その裸形の爆発的な混沌の力を示しているかのようだ。ここにおいては、理性的なものそれ自体の自然的な側面を前面に出すことによる力の創造が見て取れる。
「ことばが/ほっこり猫のかたちになって/吹きこぼれている/その橋は危うい/ことばでつくられているから」(「猫とば」より)
ことばは猫にでも橋にでもなり、吹きこぼれたり危うかったりする。ここに、ことばの混沌的な威力が爆発しているのがわかる。つまり、ここでは、ことばは秩序だっていて安全なロゴス的なものではなく、不安定で予測不能なピュシス的なものなのである。
「その双子の姉妹はこちらを見て笑っている/「ふたごのしまい」ということばが/その姿から少し離れたところに/ひっそりとゆれながら浮かんでいる」(「ことばの羽音」より)
「双子の姉妹」を「ふたごのしまい」とひらがなに変換するところに見え隠れするのは、山本のことばの音韻的側面への関心あるいは偏愛である。山本はオノマトペも好むが、そのような言葉が崩れていくところへの偏愛が生み出す独特のユーモアがある。いわばこれは山本の直情があふれているところであり、そのような直情の発露はことばのピュシス的側面である。山本はロゴス的に詩を書こうとしてもそこからピュシス、ユーモアがあふれだしてしまう、そしてそうであるからこそ山本の詩の魅力は作り出されているのである。
『こきゅうのように』においては、日常の様々な情景を描きながら、そこにいやおうもなく入り込んでくる新型コロナウイルスについて書いている。
「女はそれから裸のまま/除菌液を部屋中の/あらゆるものに/スプレーして歩く/ベランダに出てハンモックで日光浴をする/乳房と陰毛の先で最後のコロナが/いま消えたことを感じるまで」(「コロナの日常」より)
このパンデミックにおいて、公衆衛生の観点から様々なパターナリスティックな生活への介入がなされた。パターナリズムについては個人の自己決定権を侵害する恐れがあり、最小限にとどめることが望ましいが、この緊急事態においては個人の自己決定権への大幅な介入が行われた。本詩集はいわばそのようなパターナリズムというロゴスに対する詩的抒情というピュシスによる抵抗とも読める。
また、この詩集には、処理水の問題であるとか、ハラスメントの問題であるとか、そういう社会的なものも詩的言語の中に組み込んでおり、そういう散文的でロゴスの側に属するものを、詩というピュシスのシステムに複雑に組み込んでいることがわかる。
詩的抒情とは、単純に詩人が自らの感情を叙するものにとどまらず、広く詩の読者に感銘を与えることだと私は考えている。詩的抒情とは詩人の側から発される側面と受け手の側へと波及する情緒的効果の両方を包含すると考える。そして、この理性ではなくあくまで情緒の側面を重視するという意味で、詩というジャンルはピュシス的なのである。
「ことばは あなたの くちをかりて/この世に 出現 したんだね/なにもかもが 必然の/こきゅうの よう に」(「こきゅうのように」より)
このように、詩というものは呼吸のように身体的なものであり、理性の側というよりは自然の側に属する。
理性的なもの(ロゴス)と自然的なもの(ピュシス)の単純な対立を足場にしてここまで山本の詩集について議論してきた。散文的でロゴス的な社会に対して抒情的な詩はピュシスの側である。ことばというロゴス的なものの中でも、さらにことばそのものの身体やユーモアはピュシスの側である。山本の姿勢は抵抗なのか懐柔なのかはっきりとは読み取れない。散文的でロゴス的で個人の尊厳を侵してくるものについて、詩的でピュシス的な抵抗をしているのか、それとも詩的にピュシス的に懐柔しようとしているのか、あるいはそのような対立を超越した次元で複雑な言語システムを構築しているのかそれは解釈のわかれるところであろう。
だが、現代において詩は抵抗たりうるか。単純な敵と味方の構図が崩壊し、中心が存在しないリゾーム的ネットワークとして社会がとらえられていく中で、単純な抵抗のポーズはすぐさま解体されるのではないかと思われる。むしろ、山本の作品は、そのようなリゾーム的ネットワークの一つの結節点として、ことばへの偏愛の中にロゴスもピュシスも溶かし込んでしまっているのではないか。そのくらいことばへの強い愛情を感じる詩集だった。
詩と労働
詩と働くことはしばしば対立的に語られる。実際、詩を書く人は労働において挫折した人であることが少なくない。労働において挫折した人が労働を嫌悪するのも当然とも思われる。一方で、働きながら詩を書いている人であっても、詩と働くことは原理的に異なると考えている人は多い。
詩と労働における主な対立軸を挙げてみよう。①詩は有用性を志向しないが、労働は有用性を志向する、②詩は社会的地位の獲得を目的としないが、労働は社会的地位の獲得を目的とする、③詩は見捨てられた小さな声を拾うものであるが、労働は大きな声を拾うものである、④詩は無償であるが、労働は有償である、⑤詩は生活のためのものではないが、労働は生活のためのものである。
まず、詩の有用性についてであるが、詩は何かの役に立つためのものではないことが主張されることがある。だが、もちろん詩は世の中の役に立つ社会的有用性は持たないかもしれないが、社会的有用性とは別の次元で有用性を持っている可能性がある。それは遊戯的有用性というか、世の中の役には立たないけれども詩を読むと心が豊かになり楽しいという有用性だ。
次に、詩は出世など目的としないが、労働は他者と競争しながら社会的地位を追い求めていくものだという論点である。だが、詩の世界にももちろん詩の世界の地位というものがあり、そこで上りつめることを望んでいる人は多い。社会的地位は獲得できなくても詩壇での地位は獲得したい。少なくとも詩人として一目置かれたい。そう望む人は多いはずだ。
また、詩は小さな声を拾うものであり、大多数の労働者のお決まりの言葉を拾うものではないという論点。だが、労働者にも人権を蹂躙されていたりして声を上げたくても上げられない人たちがいる。そういう人たちの声を拾うとも詩の重要な機能であろう。
そして、詩は無償であるという論点。詩は確かにお金の獲得を目的としないが、その代わりに社会的承認を得ることを求めている人は多い。詩を書きながら無名でいたいという人は少ない。詩を書くことで、例えばたった一つの「いいね」でいいから見返りは欲しいものである。
最後に、詩は生活から離れたものであるという論点。もちろん生活と一見無関係に詩を書くことは可能であるが、そこに生活が入り込まないように書くことは不可能である。詩も生活も同じ一人の人格が行っている以上、そこに何らかの連関が生じるのは当然である。
詩と労働は一見対立しているようだが、その対立は脱構築することが可能だ。社会的有用性がなくても遊戯的有用性がある。出世を目的としなくても他の地位を求めるものである。大きな声を拾わなくても、労働の中の小さな声を拾うことは可能だ。無償であっても何らかの見返りは求めている。詩と労働は実はそれほど大きく対立していないのである。
詩を書くことと子を育てること
年齢40くらいの頃を「人生の正午」といって、その頃になって「いったい自分は何を成し遂げたのだろうか」などといった空虚感を抱える人が多いという。それだけではなく、仕事一筋で定年退職した後、仕事がなくなってしまえば自分は全く空虚である、結局自分は何事もなしえなかった、そう思う人も多いようだ。
「結局何事もなしえなかった」という空虚感を防ぐために、人生を意義あるものとするために、例えば子どもを残すことや作品を残すことが考えられる。そしてそれは単なる自己満足ではなく、子どもという新しい人格に膨大な愛を与える行為であり、作品を他者に開いていくことで場を活性化する行為でもある。それは他者とのかかわりあい、他者へ与える行為でもあるのだ。
詩を書くことと子を育てることは共通点が多い。一つは、自らの類似物を後世へ残すということ。子どもは自分の遺伝子を継いでいるし、詩は自分の個性を表現している。それを残していくということ。それは自らの空虚を満たし、他者へ与えるものとなる。
それだけではない。子どもも詩も、そうでありながら自分を裏切るものである。子どもは自分の思った通りに育たないし、詩は予想もしない方向に展開していったりする。基本的に、子どもも詩も自分が支配できているようで支配から逃れていくものである。
詩を書くことは達成の連続である。ドーパミンを放出するものである。一方、子どもを育てることも子どもの成長の段階を見守ることが達成感につながる。子どもが歩けるようになったり話せるようになったりすることは、育児に達成感をもたらす。
子どもを育てることは親密圏を形成することだ。オキシトシンを放出するものである。一方、詩を書くこともまた、それを発表していろんな反応を得ることで、詩の世界で承認を受け詩の仲間ができ、そこに親密圏を形成することができる。
詩を書くことも子を育てることも、自分に似たものとの愛憎の歴史である。詩を書くことで、自分の詩に満足ばかりするわけではない。気に食わない作品もあれば、そもそも作風自体変えようと思うこともあるだろう。そのように詩を書くことも愛憎を伴い変遷していくものである。同じように、子どもを育てることも、子どもを愛すると同時に、思い通りにいかない子供を憎んだり、子どもと仲たがいしたり、日々変化していく子供との愛憎の歴史である。
詩を書くことと子を育てること、この、自らの類似物を生み出すということ。様々な点において比較しうる興味深い二つの営みだ。
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