現代詩文庫を読む

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4.わからなさ

わからなさ


自分の外に美しい影を認めて、生きものは傷つく、胸のあたりで。触れようとして伸べられた苔生す手は、失うことを恐れ、まだ宙に引き攣っている。けれども、告げる声なく告げなければならない、呼吸はもう小さな嵐、と。いとしいものには、生きものの破綻を懸けて。

 平出隆の「胡桃の戦意のために」の「47」を引用しました。このパッセージは分からないことだらけです。「触れようとして伸べられた苔生す手」は何を触れようとしているのか、何を「失うことを恐れ」ているのか。さらに、なぜ告げなければならない内容が「呼吸はもう小さな嵐」なのか、それを告げなければならなくなった事情はどのようなものか。「告げる声なく告げる」という表現は矛盾しているようにも思えるが、作者はこの表現で何を意味したいのか。などなど。
 現代詩の作品には、このようによく分からない作品が数多くあります。このような作品を前にして、読者は、初めから拒絶してしまう、意味を理解しようとする、意味の理解を半ばあきらめてただ印象を楽しむ、などの反応をとります。では、どの反応が好ましいのでしょうか。
 ここで松浦寿輝の「わからなさについて」(思潮社の「戦後60年<詩と批評>総展望」に収録されています)という小論を採り上げます。松浦によると、「わかンない」と言って現代詩を拒否するということは、自身の同一性を危うくするような真正の差異を拒否することである。現代詩を拒否し「わかる」ことばかり求める人は、自己を危うくしない卑小な差異と戯れているだけである。ところが卑小な差異とだけ戯れるのでは人生は楽しくない。真正の差異、つまり「わからなさ」に触れることによって初めて、「ほとんど恍惚と区別しがたい官能的な脅えが全身に波及する。」「「わかる」ものの相対的な差異を消費するのではなく、「わからない」ものの絶対的な差異を享楽し、愛しぬくこと。詩は、そこにしかない。」
 さて、図式化を恐れずに松浦の論旨を少し整理してみましょう。

(1)わかる-卑小な差異との戯れ-自己同一性を危うくしない-楽しくない
(2)わからない-真正の差異との直面-自己同一性が危うくなる-楽しい

この「-」の部分、たとえば「わかる」ことがどのような意味で「卑小な差異との戯れ」であるのか、つまり「わかる」ことと「卑小な差異との戯れ」がどのように連結しているのか、について松浦はほとんど説明していません。その意味でこの小論には論理の飛躍が多くあるので、それらの論理の飛躍を私が私なりにごく簡単に埋めていこうかと思います。なお、その際、詩を読むときに直面するわかること/わからないことを前提とします。
 まず、松浦は「差異」が何と何との差異であるかについて明記していません。恐らく「差異」の意味内容は、「真正の差異との直面」の場合と「卑小な差異との戯れ」の場合では異なっています。
 「真正の差異との直面」の場合、「差異」は、「読者には問題となっている詩行の意味内容が備わっていないのに対して、作者もしくは当の詩行の可能的な解釈群には備わっている」という意味だと思われます。つまり、「言葉と意味との対応表」が、読者のものの方が作者のものより乏しいという意味で、読者と作者で異なっているのです。読者には「告げる声なく告げる」という詩行の含意する内容が思いつかないのに対して、作者はそれを知っている、そのような差異です。
 「卑小な差異との戯れ」の場合、「差異」は、「読者が体験したもの、読者にとって既知のものの領域」と「読者の理解した詩行の含意する内容を含む領域」の差異で、その詩行の含意する内容が前者に含まれないが後者には含まれる、という差異です。読者は詩行の内容を理解できるが、その内容は初めて理解するものである場合です。
 次に、「卑小な差異との戯れ」がなぜ同一性を危うくせず「真正な差異との直面」が同一性を危うくするのか。読者の自己同一性とは、読者が自分が何者であるかについて確固たる観念をもっていること、そしてその観念によって自分を自分だと認めていること、だと思われます。分からないものに直面したとき、読者は不安になり、読者には、その分からないものが理解できるよう自己を改変するような動因が生じます。よって、自分がどうあるかについて変更を迫られるという意味で、読者の同一性は危うくなるのです。
 最後に、分からないことはなぜ楽しいのか。「分からないことは楽しい」という命題は一般に言えることではなく、むしろ「ある種の分からなさは楽しい」と言い換えるべきです。裏から言うと、「ある種の分からなさは楽しくない」わけです。また、「分かることは楽しい」という命題もある程度妥当します。読者は「呼吸はもう小さな嵐」という詩行が理解できますが、そこに述べられている発見に楽しみを感じるはずです。
 分からないことの楽しさは、恐らく、分かりにくい詩行の複雑さが読者の知性を刺激することから生じるのだと思います。
 松浦は、分からないものを拒絶することは自己を安全な場所においているにすぎず楽しくないとしています。逆に、自己の同一性を賭けて分からないものと対峙することの楽しみを訴えています。分からないものに対してどのような態度をとるべきか、もう一度考え直しても良いかもしれません。
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by sibunko | 2012-10-25 02:24 | 初心者への詩論(詩と向き合う)