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光冨郁也『バード・シリーズ』(狼編集室)

+剥離+呼吸+孤独+写像+


1.はじめに

 光冨郁也の詩は白磁のように硬くて白くて滑らかだ。硬さは、詩語の硬さでありまなざしの硬さであり何よりも孤独の硬さである。白さは、詩世界を覆う光の白さであり風格の白さであり何よりも感知力の白さである。滑らかさは、語感の滑らかさであり詩行の連続の滑らかさであり何よりも呼吸の滑らかさである。

2.+剥離+呼吸+

 TVのカードの残り時間が切れた。電源の切れた暗い画面に、自分と背後の窓が映る。たわむ色のない世界。物音しない病室。点滴はもう液がなくなりかけている。そろそろ看護師が来るころだろう。二の腕にさしている点滴のチューブを見つめる。透明な液が私に流れている。(『海の上のベッド』より)

 何気ない日々の暮らしの中で、時折、事象を感受する能力が高まることがある。意識に一種の力がみなぎり、あらゆる事象との接続が容易に感じられることがある。まるで意識が輝く水、すべてをあまねく満たす水になったかのように。あらゆる事象は元来とても鋭いものであるが、その鋭さを鈍らせることなく直接に受け入れる状態。そのような状態において、世界は世界から剥離する。より人間に近い位置へ、より光と痛みに満ちた高度へと剥離する。
 光冨は、そのような剥離した、より鋭い世界の中で、常に何かと調和することを忘れない呼吸をする。吸気とともに光や形、音などが受け止められ、詩的生命が、それらとかつて吸われたものどもを変換して、呼気とともに彼の詩が生まれる。彼の詩行の簡素な打楽は、彼の普遍的な呼吸を、彼の普遍的な生命を、忠実になぞっている。光冨は決して呼吸を荒げることがない。だから、光冨の詩を貫くのは、空間を刻む呼吸の機械性であり、生命の機械性である。
 引用部を読めば分かるとおり、光冨の感覚には無駄な修飾すなわち過剰な認識が入り込まない。事象は修飾によりぼかされることなく、ありのままに近い状態と鋭さで読者に譲り渡される。そして、修飾や情緒により詩行を生み出す呼吸が乱れることもない。呼吸はあくまで淡々と滑らかに空間の中に居所を穿っている。

3.+孤独+写像+

女の腕の中、乳房に頭をあずけ、浴室に置き忘れた眼鏡を気にしながら、わたしは子どものように、身をまかす。彼女のひれがわたしの足にあたり、彼女の緑の、長い髪が、わたしの首筋にからまる。海の底、女に抱かれた、はだかのわたしに、魚が、群がる、静かな青。女は、わたしの二の腕に唇をあて、下をはわせ、歯をたてる。のぞきこむ彼女の目から、わたしは視線をそらす。(『サイレント・ブルー』より)

 『サイレント・ブルー』は後の『バード・シリーズ』を予感させる作品である。想像された動物的な女との淡白な交渉。孤独な男が孤独な女を生み出し、その女とのかかわりで一層孤独を深めていく。
 光冨の詩には三種類の孤独が出てくる。主体である男の孤独と、想像された幻想的な女の孤独、そして死んだ父親の孤独である。
 主体である男は他人との無垢な連帯を喪失し、たとえ他人と交渉することがあっても、その交渉の甘い架線の周囲には、常に絶対零度の真空が限りなく広がっていて、その甘い架線をすぐに切断する。だから引用部において男は女の視線を受けたときに「視線をそら」さないではいられないのだ。裏切られることは目に見えているからだ。男の孤独は人間的な孤独である。
 想像された幻想的な女――これはハーピーだったりマーメイドだったり精霊だったりする――はたいてい動物的であり、他の者と、人間的な観念と情緒の伴った交渉をすることができない。彼女らは触れたり視線を投げたり意味のない声をあげたりすることしかできず、たとえ男に触れようと、そこに人間的な愛情や欲望はない。女の孤独は動物的な孤独である。
 死んだ父親については、『コミック雑誌』『スカイライン』などが、その生前の有様や死後の周りの者たちの様子を描いている。死んだ者はもはや精神が存在しないから、他人との交渉が絶対的に不可能である。他人は、死んだ者についての記憶と交渉することしかできず、死んだ者自身とはもはや永遠に交渉することができない。父親の孤独は死者の孤独である。
 男は孤独に慣れるあまり孤独を純化しようとした。だが、究極的な孤独である死者の孤独は、人間である男にとっては厳しすぎた。そこで、孤独の純化を、動物的な孤独を備えた女を想像することにとどめたのである。男の孤独は、女の孤独へと、より純化される形で写像されているのである。男は、自分より孤独な存在である女とは安心して戯れることができる。女は社会性がないので自分を傷つけないからであり、女は人間的な交渉をしないからのちに自分を裏切ることもないからである。それでもときに女は自分の役割を超えて男の目を人間的に覗き込んだりする。男はそれを欲しながらも嫌う。

4.おわりに

 光冨の詩は禁欲的である。光冨自身が禁欲的ということもあるが、むしろ詩自体が禁欲的である。それは読者に絡み付こうとしない。読者にぶら下がろうとしない。読者を貫こうとしない。ただひっそりと生えている植物のように、読者に何かを積極的に投げかけようともしないし、読者から何かを積極的に受け取ろうともしない。現代詩には、明確に意味を持たないにもかかわらず読者に積極的に訴えかけようとするものが多いが、光冨の詩はそれと正反対で、明確に意味を持つにもかかわらず読者に積極的に訴えかけようとしない。ある種の宗教は禁欲的であることにより大衆に媚びようとする。光冨の詩にはそのような媚がない。光冨の詩は禁欲を標榜する宗教よりも禁欲的であり、その絶対的な禁欲がとても美しい。
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by sibunko | 2012-11-24 04:54 | 現在の詩人たち