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高岡修『屍姦の都市論』(思潮社)

詩であり論であるということ
               

 高岡修「屍姦の都市論」(思潮社、二〇〇五年)は、詩であると同時に、「都市論」とあるように論でもある。では、それはどのような意味で論であり、それが同時に詩であることによって何が実現されているか。

1.事実と評価

 ここで「事実」とは、感覚(あるいは超感覚)経験をもとに、それを定型的な出来事の枠組みの中へと構成したものである。「評価」とは、事実をもとに、(1)複数の事実の間に関係を見出したり、(2)複数の個別的事実から普遍的な命題を抽き出したり、(3)事実を特定の基準に照らして判断したりすることである。大雑把に言えば、経験から事実が構成され、事実から評価が構成される。事実を「論」と呼ぶことはできないが、評価なら「論」と呼ぶことができる。

q1.都市のまどろみに吊るされているのは夢。既に全身を傷口と化した袋状の夢である。(7ページ)

ここにあるのは「夢が吊るされている」という個別的事実だけであり、事実を述べるだけでは論とはならない。

q2.いま、都市のまどろみに吊るされた夢がひときわくきやかに見えるのは、やがて明けようとする永遠の一日へのおののきが、袋状の夢の傷口を、さらに鮮明に裂いているからである。(7ページ)

ここでは、「夢」が「くきやかに見える」という事実と、「おののき」が「鮮明に裂いている」という事実が、結果と原因という関係で結ばれている。これは評価であり、論と呼ぶにふさわしい。

q3.本能的に影は浮力のものだ。だが、それでもなお、影は物質として微量の重さを持っている。したがって、鳥たちは、空の深みへ影を捨てにゆく。(51ページ)

本詩集は、特定の都市について語るという体裁をとっていて(「この都市」という表現を使っている)、およそ都市一般について語っているわけではない。だが、ほとんどの記述は一般名詞で語られるので、どの記述が普遍的な命題で、どの記述が「この都市」内部でのみ通用するのかは微妙である。「影」「浮力」「重さ」については普遍的に語っているようであり、その部分については論である。だが、「鳥」についての記述は、「この都市」の鳥を念頭においているようで、個別的な事実を記述しているに過ぎず、論とは呼べない。

q4.その滅びの肉化を屹立しているものがあるとすれば、それこそが死者の情念の蟻塚。(73ページ)

ここでは「蟻塚」を「屹立しているもの」と判断・評価しているので、この部分は論と呼べる。
 このように、本詩集では、(1)「この都市」についての個別的事実が述べられたあとに、その事実の理由を語ったり、その事実を評価したりする一方、(2)一般名詞の利用により、「この都市」のみについて妥当する個別的事実を述べるだけでなく、普遍的に妥当する命題も述べている。要するに、事実と評価、すなわち事実と論が混在し、論が事実を前提としたり、論を前提に事実が展開していったりする。

2.評価により開かれる詩的領域

 評価すなわち論を展開することにより、詩的な感興を惹き起こす記述を展開する領域が開かれる。
 まず(1)複数の事実の間に関係を見出す場合。例えば、ある事実と別の事実の間に原因・結果の関係がある場合を考える。詩人が、通常ありえないような原因から結果が惹き起こされていると記述する場合や、通常は気づかれていない真の原因を結果に対して対峙させる場合、それが説得的なものであれば、読者に新鮮な感動を与えることができる。q2では、おののきが傷口を裂くことによって夢がくきやかに見える、とされている。だが、そもそも夢に傷口など存在しないのだから、おののきが夢の傷口を裂くこともありえず、そのような原因はありえず、そのような原因と結果の関係もありえない。ありえない原因と結果の結びつきで驚きを導いている。
 また、事実と事実を関係でつないでいくことは、詩の世界を広げていく一つの方途である。

q5.枯れかけた一本の街路樹がかたく眼を閉じている。その想念にみずみずと息づいている一本の若木(中略)。しかし、気がつけば、この都市の枯れかけた街路樹のすべてが、その想念の中にある。その想念の総体が、森である。死者たちも、ときおり、その森で遊ぶ。(57ページ)

ここでは、「街路樹」と「想念」と「森」と「死者」の客観的で時空間的な関係により、科学的な世界が構成されている。ここにあるのは、詩の世界を大きくかつ繊細なものにする技術である(なお、q5において描かれている関係は、例えば原因を探るような主観性の強い作用を媒介としていない客観的な関係であり、そこでは個別的な事実が提示されているに過ぎないようにも思える。事実と評価は判然と区別されるものではなく、q5はいわば事実と評価のグレーゾーンに位置するものと言える)。
 次に、(2)複数の個別的事実から普遍的な命題を抽き出す場合(通常、普遍的な命題がいきなり提示され、帰納の過程は意識されない)。この場合には、詩の記述の適用される範囲が広がる。q3では「本能的に影は浮力のものだ」という一般論が語られているが、これは世界に存在するあらゆる影について語っているのであり、記述のカバーする事象領域はきわめて広い。それゆえ、特定の影について通常ありえない記述をするよりも、読者に強い驚きを与えることができている。特定の影について新奇な認識を提示しても、ほかの影については日常的なあり方をしているかもしれないので驚きはさほど強くないのである。
 次に、(3)事実を特定の基準に照らして判断する場合。これは詩人が得意とするもので、例えば比喩はこの類型に入るだろう(ちなみに比喩は事実と事実の類似関係を見出すものだから(1)の類型にも該当する)。

q6.まさしくメビウスの環のように、無限もまた、完全に閉ざされた球体の、内なる鏡の反映の中に生まれ出るのである。(39ページ)

ここで詩人は「メビウスの環」のある特定の性質に着目し、それを基準にすると、「無限」もまた似た性質を持っているので、「無限」と「メビウスの環」は類似すると判断しているのである。
 ただ事実を描写して累積させていくだけでなく、それについて、例えば自分の感性を基準として巧みな形容を加える。あるいは、別の事実を基準としてそれと比較することで、問題となっている事実が基準となる事実と類似していれば比喩を使い、対照していれば対比させる。そのようにすることで、詩人は、詩に、事実の喚起するイメージだけでなく、それについての詳細な認識による豊かさを持たせることができる。また、提示した事実にまつわる別の事実のイメージを加えることで、イメージの融和や対立が生じ、詩の喚起するイメージを複雑にすることができる。
 論であるということは、詩の世界を広げ、詩の記述の妥当する領域を広げ、それと同時に詩の感銘力を強める。また、詩における認識を詳細にし、詩の喚起するイメージを複雑にし、そのことによって詩を豊かにする。詩であり論であるということはそのようなメリットを持っているのであり、本詩集はそれを有効活用している。
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by sibunko | 2012-11-24 04:58 | 現在の詩人たち