現代詩文庫を読む

sibunko.exblog.jp
ブログトップ

廿楽順治『たかくおよぐや』(思潮社)

物語―半物語―物語
         

0.はじめに

 廿楽順治の詩集『たかくおよぐや』(思潮社、2007年)を語るには、その規範逸脱の仕方やモチーフの特殊性に言及するのが恐らく適切であろう。閉ざされた空間ですべき愚痴や否定的感情の吐露をおおっぴらにやることや、括弧内の部分を前の部分ではなく後ろの部分に接続することの規範違反性。人間の変形や喰い物、感情的批判というモチーフ選択の特殊性。だが、私は、廿楽の詩の構造や行為の特殊性を指摘することで、議論に幾分の抽象性を持たせ、他の詩人を論ずる際にも役立つような批評を試みてみたい。廿楽の詩がどのような構造を備え、どのような行為をなしているかを語るためには、何らかの基準との対比が有効である。その基準として、私は「物語」という言説のタイプを選ぶことにする。廿楽の詩はどのような意味で物語であり、どのような意味で物語でないか。そして、それが書かれまた読まれる場合にどのような物語を伴わせるか。

1.半物語

〈転居〉
家賃はこんなもんだろう。すこし古いが、若いうちはこういう平屋も経験さ。三日ばかりふたりで住んでいると、縁側から見える海が、すこしずつ膨れてきた。津波にしてはいやに緩慢だが、用心してあまり眠らないことにしよう。言ってるそばから、覇気のない波が床にぽわんとあがってくる。やばいな、これは。だって家賃がこんなもんだから、と妻はのんきなことを言っている。こら、いいかげんに目を覚まさんか。わたしは大声をあげて妻を見た。と思ったらなんだ船虫ではないか。こんなやつ、わたしは知らない。       (「無呼吸。」より)

廿楽の詩は物語性が弱いので、比較的物語性が強いと思われる散文詩を引いてみた。散文詩でも廿楽の詩は十分物語性が弱いことを示そうと思う。
 ところで物語とはなんだろうか。本稿ではジャン=ミシェル・アダン『物語論』(文庫クセジュ)を参考に、物語の構造と物語行為の作用を説明する。あるテクストが物語であるためには、構造的には(1)諸事件の継起、(2)テーマの単一性、(3)変換される述語、(4)事行、(5)因果関係、(6)最後の評価、が必要である。それでは、引用部がこれらの要件を満たしているかどうか検討して、その物語性の程度を明らかにしていこう。
 (1)「諸事件の継起」とは、物語の時間性のことであり、事件が時系列に沿って次々と起こっていくことである。引用部では、家に三日住んだ→海が膨れてきた→余り眠らないことにした→波が上がってきた→妻がしゃべった→大声をあげた→見ると船虫がいた、という風に、時間の流れに従って出来事が継起している。よって、引用部はこの意味では物語性がある。なお、廿楽の詩でも、例えば「肴町」は肴町のありかたを並列的に記述するだけで時間性がなく、その意味で物語性がない。
 (2)「テーマの単一性」とは、少なくとも一人の演技者としての主体について言説が展開されることである。引用部は、「わたし」という主体への人間的興味に基づき書かれていて、その意味でテーマの単一性があり、その意味で物語性がある。なお、廿楽の詩でも、例えば「あさくさにいく」では、主体が「うんち」「軍人」「きたないひとたち」「仁丹のあのおやじ」「ぼくたち一家」と替わり、テーマが変転していき、その意味で物語性がない。
 (3)「変換される述語」とは、主体をある時点で性質付けていた述語が、後の時点で別の述語になっていることである。つまり、主体に何らかの変化が生じることである。ここでは(5)因果関係も同時に検討しよう。因果関係とは、出来事の継起が互いに無関係ではなく、因果の連鎖で結び付けられていることである。引用部では、家に住んでいるという主体の状態に、海が膨れてくるという出来事が起こることに因って、余り眠らないことにするという主体の状態の変化が導かれている。主体は出来事の介在によって述語を変え、出来事と述語の変化には因果関係がある。引用部には述語の変換と因果関係があり、その意味で物語性がある。ただし、妻が船虫に変わることは明確に何かによって惹き起こされたことではない。妻がしゃべったり「わたし」が大声を出すことは妻が船虫になることの原因にはなっていない。その意味で引用部には因果関係のない部分もあり、物語性が弱まっている。
 (4)「事行」とは、何かが始まり、それが続き、それが終わるという一連の事件のまとまりである。これはいわば(1)(2)(3)(5)の上位概念であり、それらを前提にした巨大的な事件の連合である。引用部では、海が膨れてくる(始まり)→波が床に上がってくる(継続)→妻が船虫に変わる(終わり)、という構造があるが、波が床に上がってくることと妻が船虫に変わることの間には、通常の因果関係がない(解釈で読み込むことは可能だが)。その意味で、引用部は事行として不完全であり、物語性が弱い。
 (6)「最後の評価」とは、話者が結局その物語で何を言いたかったかを示すものである。この点、引用部は、特に明確に何かを主張するわけでも教訓を示すわけでもなく、評価は読者に対して開かれている。「わたしは知らない」という末尾は、船虫に言及しているだけでテクスト全体には言及していないため、「最後の評価」とみなすことはできない。引用部はその意味で物語性が弱い。
 以上から、引用部は、諸事件の継起、テーマの単一性、変換される述語、という物語の構造的構成要件は満たすが、因果関係、事行、最後の評価、という物語の構造的構成要件は満たさない。それゆえ、引用部は「物語」とは言えず、「半物語」とでも言うべきものである。

2.行為の側面

 物語行為はコミュニケーションの一種であり、複数人により構成される発話空間を独占し、何らかの主張を聞き手に伝達するものである。その際、聞き手の注意を引くために始めに結論や評価が投げかけられたり(「面白い話があるんだ」など)、聞き手を納得させるために最後に明確な主張が投げかけられたり(「こうして俺は偉くなった」など)する。引用部にはそのような主張の投げかけがないという意味で、通常の物語行為をしていない。但し、廿楽は作品「木のよう」において、端緒と末尾において「木のようなのだった」という作品全体に向かった評価を加えているが、むしろそれは例外である。
 では、廿楽の詩は一体どんな行為をしているのか。それは、1.で述べた廿楽の詩の非物語的な特性から導かれると思う。まず、通常の因果関係を設定しない(いきなり妻が船虫になる)ことから、謎が生まれている。また、全体として何を言いたいのかも判然としないという謎もある。この「謎の投げかけ」こそが、廿楽の詩の行っている行為なのである。それによって、読者は詩的感興を覚えたり、解釈に導かれたりする。それによって、読者の批評行為が導かれ、それが作者へと伝達されることで、さらなるコミュニケーションが生まれたりする。

3.物語―半物語―物語

 物語というものは個人の中で確立した認知の枠組みであり、言説は物語という形式をとることで聞き手や読み手によく理解される。物語的であることは、有意義な情報を伝達する際の一種の規範として作用していて、それゆえ物語性のない言説を前にすると、人間はその規範からの逸脱を既存の認知枠組みの中に回収できず、そこに謎を見出す。廿楽の詩や他の多くの現代詩は、その物語性からの逸脱によって、聞き手や読み手の既成の認知枠組みからはみ出ることで美感を生み出そうとする。
 さて、そのような謎の投げかけがなされる場において、一体何が起こっているのか。物語を行為としてとらえる以上、そこには行為の主体と行為の受け手が想定される。行為の内容、すなわち詩のテクストに物語がない以上、人間の物語への欲求は、テクストの外側に物語を求めようとする。すると、そこには、書き手のたどる書かれざる物語、読み手のたどる書かれざる物語、があることが分かってくる。すなわち、書き手は、時系列に従って、自らを単一のテーマ(書く主体)とし、詩を書き始め、詩を書くことで何らかの変化をし、出来上がった詩を自分なりに評価する。読み手は、時系列にしたがって、自らを単一のテーマ(読む主体)とし、詩を読み始め、詩を読むことで何らかの変化をこうむり、その読詩体験を自分なりに評価する。特に、引用部における謎の投げかけは、読者に感銘を与えることで読者に情緒的な物語をたどらせることができる。そして、読者は今度は書き手として批評を書くという新たな物語を始めるかもしれない。ここには、作者の物語―書かれた半物語―読者の物語という三重構造がある。

4.おわりに

 廿楽の詩の、「物語」という規範からの逸脱は、他の多くの現代詩も行っていることである。私は多くの現代詩の行っている規範逸脱のひとつの例証として、廿楽の作品、特に引用部について詳しく分析した。それゆえ、廿楽の詩の特殊性について十分語れたとはいいがたいが、そのような反批評的な批評は、むしろ広い適用可能性を持つことによって、詩を批評する、あるいは批評しようとしている人間にとって有益であると考える。
[PR]
by sibunko | 2012-11-24 05:05 | 現在の詩人たち