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伊達風人『風の詩音』(思潮社)

プロセスを無化させるためのプロセス


 伊達風人とは同人誌「kader0d」(カデロート)を一緒に作った仲だ。伊達は無口な男だった。電話をしても余計なことは話さない。勢い私ばかりしゃべることになる。同人会でも穏やかに笑っているだけで積極的に話そうとはしなかった。同人会が終わった後、「伊達さん、もっと話してもよかったんですよ」と言うと、「みなさん知識のある方ばかりで…」と謙遜するのである。だが、私は、伊達はきっと、コミュニケーションなどと言う余分なプロセスを欲していなかったのだと思う。
 話し言葉と言うものは面倒だ。まず、相手に話しかけるのにも勇気が要ることが多いし、相手にいきなり話しかけられると自分のやっていることが遮断される。それに、話が始まると話の流れに沿って自分も話さなければならなくて、結局肝心なことが話せなかったりする。さらに、話し言葉は「理解してほしい」「理解してあげる」という厄介な志向性があるために、それが挫折したときに「理解されなかった」「理解しようとしてもらえなかった」という傷を残すのである。そんな厄介なプロセスに言葉を乗せていくことで、肝心なことが台無しになってしまうこと、直接伝えたいことが逆に伝わらなくなってしまうこと、無駄に傷付いてしまうこと、そういうことについて、伊達は警戒していたのだと思う。
 「影」の全文を引用する。「君の影を見よ/はるか宇宙を越えて/何者にも遮られること無く/届いた この光を/君が いま/宇宙で初めて遮ったのだ//君よ/これが存在なんだ」伊達の詩は、すべてこのような直接性を志向している。「光」は愛でもあるだろうし認識でもあるだろうし言葉でもあるだろう。それが存在に宇宙で初めて直接に触れる。伊達にとって、詩とは、宇宙で初めて存在を直接感知するものであった。そして、詩は、存在を直接把握し、その存在の影をつくるために、何億光年という宇宙の真空を通過しなければならないのである。
 伊達の詩の書き方は、このように、余分なプロセスを省略し、存在に直接触れるために、逆に別の長いプロセスをとるというものだった。「ブランコを揺らすもの」にあるように、目に見えなくとも、耳に聞こえなくとも、言葉にならなくとも、ただ直接彼の精神を充満させるもの、それに到達するために、様々な言葉を費やす。自らとじかに触れ合うものも、意識や感覚や環境などの余分のノイズによってその直接性が失われている。その直接性を取り戻すために言葉を費やす。また、自らがいまだ感知していない存在にも直接触れようとしていく、そのために言葉を費やす。
 そして、この対象と直接触れ合うための言葉は書き言葉でなければならなかった。対話が不可能な言葉、永続する言葉、話の流れなどには左右されない言葉でなければならなかった。つまり、言葉に対して余分な反応が返ってくることを一応遮断する、そういう書き言葉で純粋に対象を探っていくことが伊達には必要だったのだ。理解して欲しいなどという欲望を一度捨て去る。相手の反論なども一度度外視する。自らの内面と対象との純粋で直接的な交渉において立ち昇ってくる言葉たちをどこまでも記していくということ。それによってのみ、伊達は対象と直接触れ合うことができた。
 「水錘」「鼓舞器」などの意味の取りづらい詩は、彼が現代詩の詩法に毒されて書いたものというよりは、むしろ、それまでの対象との触れ合いをより精密に行おうとして書いたものと解釈するのが妥当だと思われる。例えば「生命線は羽のように編まれて」と言われても、言葉の受け手はどう返してよいかわからないだろう。しかし、伊達にとっては、まさに言葉の受け手の反応を一度遮断するような書き方が必要だったのだ。すぐに共感されてコミュニケートできてしまう言葉は、その共感によって意味が変貌させられてしまう。共感は、ステレオタイプな認識を量産するだけで、対象との直接的で繊細な接触をむしろ阻害する。話し言葉的な様々なプロセスを遮断し、話し言葉にまつわるノイズを遮断し、純粋に直接対象と向き合ったとき、彼には書き言葉による精密な書法が必要になったのである。
 このように、伊達は、話し言葉的なプロセスを無化することにより、対象に直接接触しようとしたが、その接触を精密に行うために、新たに書き言葉的なプロセスが大量に必要になったのである。伊達は、対象との直接の接触を実現するために、話し言葉のプロセスを無化し、書き言葉のプロセスを精密に遂行せざるを得なかったのである。
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by sibunko | 2012-11-24 05:15 | 現在の詩人たち