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現代詩の記号論(中)

2.現代詩の記号論的分析



2.1.記号論の基本

 表現が内容を「意味する」という関係が成立しているとき、その表現はその内容の「記号(サイン)」であるという。たとえば「猿」という言葉(表現)が、外界に存在する猿もしくは猿のイメージ(内容)を意味するとき、「猿」は猿の記号である。このときの表現を「記号表現」もしくは「シニフィアン」、内容を「記号内容」もしくは「シニフィエ」、関係を「記号関係」と呼ぶ。この節では、(1)記号の分類、(2)記号を律する規範(コード)、(3)トドロフの「象徴作用」、について説明しておく。
 まず記号の分類について。記号は伝統的に三種類に分類されてきた。すなわち、「イコン」「インデックス」「シンボル」である。

 S1.イコンはたとえば肖像画であり、記号表現(肖像画)と記号内容(モデルになった人)が類似しているような記号である。
 S2.インデックスは近接性に基づく記号であり、時間的・空間的近接性や因果関係、全体と部分の関係などによって成立する。たとえば煙が火を因果的に意味するとき、煙は火のインデックスとなる。
 S3.シンボルは無契性(記号表現と記号内容が本質的には無関係であること)を特徴とする。たとえば言語である。たとえば「猿」という記号表現は、なんら現実の猿の特徴を反映していないし、現実の猿と近接しない。

 また、動物的実践的世界での記号を「シグナル」と呼び、人間的観想的世界での記号を「シンボル」と呼ぶ分類もある。たとえば交通標識のように行動を支配する記号がシグナルであり、哲学用語のように人間の思考でもっぱら使用されるのがシンボルである。
 さらに、「既成の記号」と「新しい記号」という分類を立てることも可能であろう。既成の記号とは、社会的慣習的にあらかじめ表現と内容の対応関係が定まっているものである。言語記号の大部分は既成の記号である。それに対して新しい記号とは、たとえばある昆虫の特定の行動(記号表現)に対して生物学的な機能(記号内容)を新たに見出すときに生み出されるものである。詩人が独自の隠喩表現を使って独特の意味内容を指示させるような場合も、既成の慣習に縛られない新しい記号が生み出される。
 次にコードについて。我々は沢山の記号を使ってコミュニケートしている。たとえば言語を考えてみればよい。我々は無数の単語を複雑につなぎ合わせることでコミュニケートしているのである。これら無数の記号の織り成す体系がある。そして、そのような体系を規律する規範がある。この規範のことを「コード」と言う。
 コードには「意味論的コード」と「統辞論的コード」がある。意味論的コードとは辞書のようなもので、記号表現と記号内容の対応関係を規律するものである。一方で統辞論的コードとは文法のようなもので、記号表現たちの結合の仕方を規律するものである。
 ここで「選択制限」について言及しておこう。たとえば「青い軽蔑」という表現を考えてみる。この表現は文法的には許容される。だが、軽蔑については色を考えることができないから、「青い」と「軽蔑」の結合は原則として論理的には許容されない(隠喩としては許容されるが)。このような、語の論理的意味による結合の制限を選択制限と言う。
 選択制限は、意味論的コードによる規律であると同時に統辞論的コードによる規律でもある。このことについて少し説明しよう。まず、原則として、「青い軽蔑」という記号表現に対応する記号内容は存在しない。いわば「青い軽蔑」は「辞書に載っていない」のである。だから、「青い軽蔑」は意味論的コードにより拒絶される。一方で、「青い」と「軽蔑」の結合を禁止することは、語と語の結合を規律することだから、統辞論的コードによる規律であるとも言える。
 さらに、コードを補完するものとして「コンテクスト」に言及しておこう。メッセージの受け手は、コードだけではメッセージを解読できないことがある。たとえば、「私は象だ」という発言は、それが、「好きな動物は何ですか?」という問いかけの後に言われたものだというコンテクスト(文脈)の理解があって初めて正しく理解される。そのようなコンテクストがなければ、発話者が象という動物である、という意味にとられかねない。
 最後に「象徴作用」について。トドロフによれば、象徴作用とは、二つのシニフィアンもしくは二つのシニフィエのあいだの類似的連合もしくは近接的連合である。語は象徴作用によって、自身と関連するシニフィアンやシニフィエを喚起する。トドロフは象徴作用を4つに分類している。

 Sy1.シニフィエの類似(炎と愛、同義語など)
 Sy2.シニフィアンの類似(同音異義、語音類似、韻など)
 Sy3.シニフィエの近接(文化的意味、バラが愛を喚起するなど)
 Sy4.シニフィアンの近接(パロディなど)

ここで特に注目すべきはSy3で、だいたい「共示作用」あるいは「コノテーション」と呼ばれるものと一致する。「バラ」という記号表現はバラという記号内容を意味する。この通常の意味作用を「表示作用」と呼ぶ。この表示作用を前提として、「バラ」とバラの両方を記号表現として、愛という記号内容を意味するのが共示作用である。「バラ」という記号は、シニフィエの隣接によって(愛を伝えるためにバラを贈るという社会的慣習に基づいて)、愛という内容を喚起するのである。



2.2.芸術としての詩

 芸術の非記号的側面を強調し、芸術の本質はその非記号的側面にあるのだと主張することも可能である。

 TA.芸術は、記号作用によって鑑賞者に感銘を与えるのではなく、それ自身として鑑賞者に感銘を与える。芸術はそれ自身として自律性・完結性を持っている。

この主張は、抽象画や音楽についてはある程度妥当する。抽象画や音楽は原則として、明示的には何かの記号ではない。たとえば抽象画はその色や線、構成などによって直接鑑賞者の情緒に訴えかけてくる。何かを指示して、その指示内容を媒介にして鑑賞者に訴えかけてくるわけではないのである。
 では、TAは詩についても妥当するのであろうか。詩が言語で出来上がっている以上、詩の記号性は明らかであるが、他方で詩がそれ自身として直接情緒に訴えてくる側面もある。詩が自律性・完結性を示すのは、その(1)視覚性と(2)音楽性の側面においてである。
 まず視覚性について。ここで田村隆一の「恐怖の研究」から次の箇所を引用する。

 かれらは殺到する
 かれらは咆哮する
 かれらは掠奪する
 かれらは陵辱する
 かれらは放火する
 かれらは表現する

言葉の意味をしばし無視して、文字の形だけを注視してみよう。「かれらは  する」という比較的単純で丸みを帯びた、量産された台のような物に、「殺到」「咆哮」などの複雑で角張った造形物がはめこまれている。「量産され整然と並べられた台の上にそれぞれ異なった複雑な構成物が載っている」、我々はこの箇所において、このような視覚的印象を受け取る。その印象は特に記号作用を媒介とすることなく詩そのものから直接与えられる印象である。詩は第一次的に、文字の形や配置といった視覚性において読者に与えられる。そして、視覚性の段階でも詩は自律し完結しており、そのものとして読者の情緒に直接働きかけるのだ。
 次に音楽性について。ここで松浦寿輝の「ウサギのダンス」から次の箇所を引用する。

 トリウサギならばパタパタロンロン耳をふり ユルルンユルルンとのぼってゆく

「パタパタロンロン」は「耳をふ」る様子を意味する擬態語であり、「ユルルンユルルン」は「のぼってゆく」様子を意味する擬態語である。これらの語は、一応は記号内容を持つ記号なのである。だが、両方とも、既成のコードにはない擬態語であり、「新しい記号」として詩人が創造したものである。だから、読者はたとえば「パタパタロンロン」に対応する状態をすぐには思い浮かべられず、それゆえその時点では意味が不在である。シニフィエが不在なのだから読者の注意はもっぱらシニフィアンへと向かう。そこで、読者はもっぱら音に注意を向けるのである(当該擬態語は表音文字であるカタカナで表記されているので、読者の音に注意する傾向はさらに強まっている)。読者は「パタパタロンロン」「ユルルンユルルン」を前にして、何らかの意味を読み取るよりはむしろ、その音の響きを楽しむのである。音は詩そのものとして自律性・完結性を持ち、記号作用を媒介することなく直接鑑賞者に働きかけるのだ。
 ただし、詩の音楽性については少し注意しなければならないことがある。それは、詩は多くの場合、音声で聴かれるのではなく文字で読まれるということだ。詩が読まれるとき、第一次的に与えられるものは文字である。音は第二次的に与えられるのである。たとえば、「犬」という文字は、記号表現として、/inu/という音声(記号内容)を意味する。音は文字の記号作用の結果として与えられるのだ。詩の読者が音を楽しむとき、そこでは文字が音声を意味するという記号作用が先立っているのである。だから、詩が文字で読まれるときは、詩の音楽性は、文字が音声を意味するという記号作用を前提としているので、自律も完結もしていないことになる。
 最後に少し注意を促しておく。たとえば音楽性は、記号作用を媒介することなく直接鑑賞者の情緒に働きかけると私は言った。だが、この場合、音楽性によって引き起こされた情緒的印象を、その音楽性の意味であると考え、そこに記号作用を読み取ることができはしないか、という意見も考えられる。だが、その意見を採用すると、およそすべての対象は、人に認識されることにより、その認識内容を記号内容とする記号であるということになってしまいかねない。たとえば犬を見て犬の視覚的イメージを得たとき、犬はそのイメージの記号であることになってしまう。これでは記号の外延が不当に広がってしまい、「記号」という語の「記号と非記号を区別する機能」が著しく減殺される。私はそのような意見は採用しないことをここに明言しておく。
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by sibunko | 2012-12-04 01:45 | 詩の理論