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田村隆一論(上)

田村隆一論――フィクションの危険
                  

0.序論

 詩は言葉の信用性を失墜させていないだろうか。詩は、一方で、表現主体の内面を最も率直に表現する媒体として使用され、もう一方で、読者にとって美しくなければならないという要求のために真実を歪曲することが往々にしてある。つまり、(1)思想や感情をありのまま表現するという動因と、(2)思想や感情をありのままではなく装飾をくわえて表現するという動因、この二つの動因が詩を書く者の表現現場では葛藤している。例えば、

春が転落する

このような詩行を考えてみよう。ある詩人Aは、春に急激な憂鬱に襲われ、まさに春そのものが転落するような実感を得てこの詩行を書いたとしよう。別の詩人Bは、とにかく修辞的に面白い詩行を書こうとして、特に実感もないのに言葉遊びとしてこの詩行を書いたとしよう。ところが読者としてはこの詩行の背後に実感があるのか、それともこの詩行が単なるレトリックであるのか、判断するのは難しい。当然文脈によってある程度は判断できるが、それも決定的ではない。読者Cは、詩行の背後の実感を信じる読者だとする。一方で読者Dは、詩など所詮すべてレトリックに過ぎないと信じている読者だとする。読者Cが単にレトリックで書かれた詩を実感に基づく詩だと読むとき、そこには誤読がある。また、読者Cもいつか気付くであろう。すべての詩が実感に基づいているのではないということに。すると読者Cもいずれ読者Dに変わっていくのである。ところで、読者Dにとってみれば、いかに詩人が実感に基づく言葉を発しようと、それは単なるレトリックに過ぎない。詩人の実感など信用されないのである。とすると、先にあげた詩を書く二つの動因のうち先の方、つまり、思想や感情をありのまま表現するという動因、これが正しく理解されないことになる。詩人がいくら率直に真実を述べたとしても、読者はそれを真実ではなく実感も伴っていないレトリックとして読む。こうなると詩の言葉はもはや信用性を失ってしまうし、詩人の方でも自分が正しく理解されないという欲求不満を抱くであろう。
 本稿では、詩の言葉が修辞的になることによって詩の言葉の信用性が失墜してしまったなどという問題は本当に生じているのかについて、詩が修辞的に思想を語り出した時代の代表的詩人である田村隆一を取り上げることで論じようと思う。田村はまさに、実感を語ろうとする動因と修辞的に語ろうとする動因との葛藤で揺れ動いた詩人だからである。なお、本稿を書くにあたって、フィクション論については清塚邦彦『フィクションの哲学』(勁草書房、2009年)を参考にした。

1.フィクションとは何か

一篇の詩が生れるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを、射殺し、暗殺し、毒殺するのだ
      (「四千の日と夜」)

この詩行に対する鮎川信夫の反応を見てみよう。

 この言葉の理解は非常に困難であり、かつ私自身の独断的推定を多分に加えての説明なので、あまり自信がないのですが、強いて言えば、これはもっとも破壊的、否定的な行為を通じてしか、個人にとっていとしいものを救う道はないということだろうと思うのです。
      (「恐怖への旅」)

田村の詩はほとんどが基本はノンフィクションだったと思われる。つまり、田村は詩を書くときに、虚構的な主体に虚構的真実を語らせるというよりは、まさに田村自身が田村自身の思考や感情や認識を語っていたのだと思われる。これは田村に限らず、ほかの多くの詩人にも共通することである。
 ところが、鮎川の言葉にもあるように、それにしても引用部は難解である。果たして田村が本当に実感だけでこの部分を書いたのか、それが怪しいのである。一篇の詩を書くために詩人が何かを殺すということは滅多にないのではないか。いとしいものなど殺さなくても多くの詩人は詩を書いているではないか。だから、引用部は端的に偽である、つまり、現実と対応していないことを語っているように思える。あるいは、田村は、詩をかっこよく書くために、図らずも田村自身とは別の「詩を書く主体」を作り上げてしまっていて、その詩を書く主体が書いた詩行だから実感とは離れた虚構的な詩行が生れているのではないか。修辞的に、誇大にものごとを歪曲して虚構的に思想を語っているのではないか。また、田村はどこかで自分の詩が真実として受け入れられることをあきらめていないか。つまり、語る行為がそもそも実感を語ることをあきらめていないか。そして、鮎川が引用部をことさらに解釈しなければならなかったように、引用部は、受け手によってその内容が真であるように想像されなければその語りが完結しないような虚構的な語りなのではないか。
 つまり、田村の語りの態度は、一方でノンフィクションであり、他方でフィクションであるような二層構造をなしていて、しかもそれが田村の中で矛盾していない。詩の語りの危険性は、まさにこのフィクションでありノンフィクションであるという二重性から生じている。一方で、読者は詩人の直接的な声を聞いているようにも感じるが、他方でそれが修辞によって歪曲されているようにも感じる。だから、読者は、一方で詩人の言葉をそのまま信じるように促されているかのように感じながら、他方で無批判に詩人の言葉を信じては騙されるように感じる。この点について、もう少し理論的に見ていこう。

1.1 意味論的フィクション

 意味とは、言語と現実の対象との間の関係において成立するものである。言語と対象の関係という観点からフィクションの問題をとらえようとする立場がある。つまり、フィクションはどんな対象を指示しているのか。またフィクションの語る事実は現実と一致していて真なのか、現実と反していて偽なのか。
 これについて、まず、(1)フィクションにおいて用いられている名前や記述は何も指示していない、とする説がある。次に、(2)作品中の文が偽であることがフィクションの特徴である、とする説がある。ここでは、(1)も(2)もフィクションの必要十分条件を主張している、ととらえるのではなく、何も指示しない名前や記述が多いほど、あるいは作品中の文が偽であることが多いほど、よりフィクション的である、ととらえておこう。というのも、通常我々がフィクションだと考える作品の中にも、実在する対象についての真なる記述が含まれていることは多くあるからだ。

針一本
床に落ちてもひびくような
夕暮がある
卓上のウィスキーグラスが割れ
おびただしい過去の
引出しから
見知らぬカード
不可解な記号
行方不明になってしまった心の
ノートがあらわれてくる
       (「恐怖の研究」)

確かに「針一本床に落ちても響くような夕暮」はあるかもしれない。これは全くのノンフィクションかもしれない。だが、「過去の引出し」とは、「心のノート」とは、いったい実在のどんな対象を指示しているのだろうか。そもそも実在の何も指示していないのではないだろうか。また、何の原因もなく卓上のウィスキーグラスが割れるなんてことは考えられず、その記述は現実と対応しない偽の記述なのではないか。そのようなイメージや記述が存在する以上、この詩はフィクションなのである、と。そもそもこの詩行全体が田村の想像にすぎず、現実に何らの対応物をもたない偽の詩行なのではないかとすら思える。
 だが、意味論的フィクションは、それ自体では読者の詩への不信を駆り立てるには不十分である。なぜなら、読者の方でも、詩に意味論的フィクションがあることを承知しているからである。実在しないこと、嘘のことでも、それがはじめから、実在しないものとして、嘘のものとして提示されていれば、読者はむしろ詩人の想像力を称賛するであろう。問題は、意味論的フィクションと、次に述べる語用論的フィクションが一致しないときに起きる。

1.2.語用論的フィクション(1)――言語行為論

 意味論とは言葉の内容についての議論である。それに対して語用論とは言葉の用いられ方についての議論である。例えば、「そこをどけろ」という命令文は、意味論的には「相手がそこをどける」という内容しかもっていないかもしれない。だが、「そこをどけろ」には、その内容に、相手に対する命令という話者の態度が付与され、かつ相手がそれに対して反応する、というコミュニケーションの次元での動き方があり、その動き方を解明するのが語用論である。
 まず、ジョン・サールの見解を挙げよう。サールは、言葉を発する行為を、発話行為(utterance acts)、発語内行為(illocutionary acts)、発語媒介行為(perlocutionary acts)に分ける。発話行為とは、単に言葉を発することである。発語内行為とは、何かを指示しかつ社会的慣習やその場のコンテクストに応じて命令や約束などを遂行することである。発語媒介行為とは、発語内行為を行うことで相手を喜ばせたりなどの副次的な効果を発生させることである。サールの見解によれば、フィクションは発語内行為のレベルの問題である。
 サールによると、虚構的な発言を行う人は、表現された命題が真だという立場に加担していないし、その命題を真だとみなすべき証拠を持っていないし、その命題を信じていない。だから虚構的な発言は「主張」ではなく、主張の変異体である。虚構的な発言は、その発言の内容が真か偽かを問題としないような慣習に従ってなされる言語行為である。つまり、発語内行為は、命令や約束や主張というそれぞれの慣習的属性を帯びているが、主張行為の変異体として、フィクションは、発言内容の真偽を問題にしないという属性を帯びた種類の言語行為なのである。
 一方、マーシャ・イートンは、虚構的な発言を、通常の言語行為を架空の語り手へと転嫁する行為ととらえている。発語行為・発語内行為・発語媒介行為をそれぞれ転嫁する行為としてとらえるのである。
 また、マーガレット・マクドナルドは、フィクションを「フィクションを語る」という独立した発語内行為だと考える。虚構的な発言は創造のために用いられるという点で事実的な言明から区別される、その意味で独立した発語内行為なのである。

眼に見えないものは
存在しないのだ
       (「ある種類の瞳孔」)

ぼくらは眼を閉じて見なければならぬ
       (「虹色の渚から」)

この二つの詩行は、同じ『新年の手紙』という詩集に所収されている。ところがこの二つの思想は矛盾しないだろうか。眼に見えないものが存在しないならば、眼を閉じて見ても何も見えないではないか。それを見ろというのはおかしくないか。確かに、眼を閉じたときにも何かが見え、それは眼に見えないものではないのだから存在する、そういう解釈も可能だが、どうも田村は、矛盾した思想を持ちつつ、その矛盾を自覚していないという節がある。そして、思想が矛盾していても詩なら許されるのではないか、そういう甘えがあったように思われる。田村はその詩において、軽々しく断定し、否定し、命令するが、その軽薄さは結局詩の言葉に責任を持っていなかったことに由来するのではないか。詩が絶対的な真実を語らなければならないと田村が信じていたとするならば、修辞によって思想をゆがめることもしなかっただろうし、思いつきで軽々しく思想を語ることもしなかったであろう。田村は詩に対して一種の甘えがあったと思われる。詩においては自分の無責任さがある程度(完全にではないが)許される、といったような甘えである。
 そうだとすると、田村の詩に矛盾があっても何ら不思議ではない。サール流に言えば、田村は詩行において主張行為をしているのではなく、真偽があいまいになってもかまわない、そういう語りをしているのである。イートン流に言えば、田村は詩を書くときに、自らその真実性についての責任を負わずに、ある程度架空の語り手に責任を転嫁しているのである。マクドナルド流に言えば、田村は詩を語る際に、事実を語るということよりもむしろ思想を創造することを重視し、その創造の結果が多少非現実になってもかまわないと思っているのだ。
 ここで注意しなければならないのは、田村が完全に虚構的な発言をしているわけではないということである。田村の詩の行っている発語内行為は、命令や約束といったように、社会的慣習によって相手に求められる反応が決定されている、そういう行為ではない。つまり、強圧的に命じた行為を行わせる(命令)、信頼関係に基づいて誓った行為を行わせる(約束)、そのように相手の反応を固定的に要求していないのだ。田村の詩の行っている発語内行為は、いわば過失的に虚構になってしまった語りである。あるいは、虚構になってしまってもかまわないという態度でなされる語りである。真実を主張する行為と虚構を語る行為との中間で揺れ動く言語行為、あるいは真実を主張する意図を中途半端に持ちつつも、修辞や自分の無責任さのためには多少虚構が混じってもかまわないという態度を併せ持ちながらなされる言語行為だというのが正しい。だから、読者はどう反応してよいのか分からない。読者の反応の仕方は慣習によって指定されていないし、田村によっても明確に指定されていない。

1.3.語用論的フィクション(2)――ごっこ遊び理論

 ケンダル・L・ウォルトンは、フィクションを受け手の側からとらえた。彼によれば、フィクションとは、その受け手に、作者が記した言葉を読むという現実の経験と、ある非現実の語りを読むという経験を、想像の中で重ね合わせることを要求するものである。田村の詩を、田村の書いた言葉として経験すると同時に、非現実の語り手による語りだとして経験する、これが田村の詩のフィクション的な読み方である。
 ところでウォルトンの言う想像とは、以下のようなものである。第一に、想像とは、何かの像を思い描くということではなく、一定の命題的な内容が真であると考える、ということを意味する。第二に、想像は、作品によって促された非現実なものだけではなく、当の作品に関する想像でもある。田村の詩に鳥のモチーフがあって、そこから鳥をめぐる様々な想像をめぐらしたからと言って、それが直ちにフィクション的な想像であるわけではない。その想像は、同時に田村の詩に関して、田村の詩がそういうものであるとして、なされなければならない。第三に、想像とは勝手気ままな想像ではなく、作品やそのコンテクストによって方向性を指定されたものである。
 子供が積み木を車だと見立ててごっこ遊びをする、そのとき、子供は、現実の積み木をそのものとして経験すると同時に、それを非現実の車だと信じて、しかも自らそれを車だと指定して、積み木について非現実の経験をし、その二つの経験を想像の中で重ね合わせる。そのごっこ遊びと同じことを、フィクションの受け手は行っているのである。

性器と
乳房を
つなぐものが
脚だとしたら
その脚によって
はじめて
彼女の顔は
創造されるのだ
       (「女性に顔があるとは……」)

性器と乳房をつないでいるのは腹であり脚ではない。物理的に脚は両者をつないでいない。ここでは田村は、脚の何らかの観念的な媒介作用を思いつき、それによって読者にとって意外な思想を提示しているのだ。さらに、脚によって顔が創造されるとはまた奇怪な思想である。田村はここで読者に対して意外な思想を提示することで、女性に対する新奇な認識を提案しようとしている。おそらく、田村は、女性においては乳房も脚も顔もすべて性器であるという思想を土台にして、同じ性器である以上自在に結び付けていいのだ、と考えているのだろう。
 このようにして、読者は、田村の書いた現実の言葉を、まずは誰によっても語りえないような奇妙な女性認識としてとらえる。現実の言葉を、非現実の語りとしてとらえ、その両者を想像の中で重ね合わせるのである。そして、そこで行われる非現実の語りは、解釈の余地を多分に残しており、読み方が田村によって十分指定されていない。私の提示した読みは、同じ詩の中の「顔は女性の性器そのものだから」という詩行に触発され、だったら顔以外の魅力的な部分も女性の性器として田村はとらえているのだろう、との推測に基づく。だが、これはあくまで推測で、引用部の解釈の余地の広さは否定できない。
 このように、解釈の余地を広く残すような修辞的な思想を田村は好むが、そのような語りを前にして、読者はごっこ遊びを厳密に行うことができない。だが、ごっこ遊びが厳密にできないような不明確な思想だからこそ、作者と非現実の語り手が分離し、そもそもごっこ遊びが成立していたのだ。だから、上述したような解釈によって、田村の思想の意味が明確に定まれば、田村の詩はまさに田村の言葉でしかないと考えることも可能であり、そこに非現実の語り手など生じず、ごっこ遊び的なフィクションは成立しない余地がある。つまり、田村の詩はまず田村自身の言葉であるが、その思想が修辞的であるがゆえに意味が不明確となり、田村から遊離するが、適切な解釈でその意味を決定することで再び田村自身の言葉となりうる。
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by sibunko | 2012-12-04 01:53 | 現代詩人論