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田村隆一論(下)

2.詩の信用性

 さて、意味論的フィクション、語用論的フィクション(言語行為論的、ごっこ遊び理論的)を検討すると見えてくるのは、ある語りがフィクションであるかどうかは、(1)語られた内容の真偽性、(2)語り方が真偽を問題とするか、(3)受け手が語りを二重化するか、という三つの要素を考慮しないと分からないということである。そして、語られた内容、語り方、受け止められ方、がそれぞれ異なることで、詩が信用できるかどうかも変わってくる。

2.1.フィクション/ノンフィクション

 (1)語られた内容が現実と対応しない、すなわち偽であるとき、それを意味論的フィクションと呼ぼう。逆に、語られた内容が現実に対応するとき、それを意味論的ノンフィクションと呼ぼう。(2)語り手の語り方が、語りの真偽を問題としない場合、それを言語行為的フィクションと呼ぼう。逆に、語り手の語りが、語りを真だと主張するとき、それを言語行為的ノンフィクションと呼ぼう。(3)語りの受け手が虚構的な語りを想像するとき、それをごっこ遊び的フィクションと呼ぼう。逆に、語りの受け手が語りをありのままに受け入れるとき、それをごっこ遊び的ノンフィクションと呼ぼう。そうすると、詩の語りにおいて、以下の八つのケースが想定される。

(1)意味論的ノンフィクション―言語行為的ノンフィクション―ごっこ遊び的ノンフィクション
 この場合、詩人は実感を実感として語り、それが実感として受け取られる。そこに何らフィクション的要素はなく、詩人が実感を率直に伝えたいという欲求は満たされ、読者も詩人を信用して騙されることがない。
(2)意味論的ノンフィクション―言語行為的ノンフィクション―ごっこ遊び的フィクション
 この場合、詩人は実感を実感として語るが、読者はそれを虚構として受け取る。いくら詩人が真実を率直に語ろうとしても、読者はもはや詩人を信用していない。詩において、詩人と虚構の語り手との分離が起きていないにもかかわらず、読者は分離していると信じているから、詩人は自分の実感が読者に届かないもどかしさを感じ、読者はせっかくの詩人の真実を読み取れない。
(3)意味論的ノンフィクション―言語行為的フィクション―ごっこ遊び的ノンフィクション
 この場合、詩人は実感を基にして語るが、その詩が真実を語っていることは別に信じられなくてもいいと諦めている。だが、読者はそれを真実として読むので、結局、詩人は自分の実感が実感として受け止められ、読者も詩人の真実を知ることができる。
(4)意味論的ノンフィクション―言語行為的フィクション―ごっこ遊び的フィクション
 この場合、詩人は実感を基にして語るが、その詩が真実を語っていることは別に信じられなくてもいいとあきらめていて、実際に読者は詩人の言葉を信用しない。詩人は自分の言葉が信じられなくてもいいと思っているから実際に信じられなくてもかまわないだろうが、読者はせっかくの真実を見逃すことになる。しかも、読者が語りをフィクションだとみなすきっかけとして詩人の語り方というのも重要なファクターだから、詩人はフィクション的な語り方をすることで読者にその語りをフィクションだと思わせ、結局せっかくの実感を伝えられないことになる。
(5)意味論的フィクション―言語行為的ノンフィクション―ごっこ遊び的ノンフィクション
 この場合、詩人は特に真実でもないことをあたかも真実であるかのように語り、それを読者も真実だと信じてしまう。この場合、まさに詩人は読者を騙そうとして騙しおおせているのである。読者は、自分が騙されたと気づいたとき、詩人を信用しなくなってしまうだろう。このケースが一番危険なのである。
(6)意味論的フィクション―言語行為的ノンフィクション―ごっこ遊び的フィクション
 この場合、詩人は虚偽を真実らしく語るが、読者はそれをあくまで虚構として受け止めている。読者はいくら語りが真実を偽装していようと虚偽を虚構として受け止めているので、読者の態度に間違いはない。
(7)意味論的フィクション―言語行為的フィクション―ごっこ遊び的ノンフィクション
 この場合、詩人は虚偽を特に真実でもないように語るが、読者は不注意にもそれを真実だと信じてしまう。この場合、虚構に気付かなかった読者に非があるわけで、特に詩人が読者を騙しているわけではない。
(8)意味論的フィクション―言語行為的フィクション―ごっこ遊び的フィクション
 この場合、詩人は虚偽を特に真実でもないように語り、読者もそれを虚構として受け止める。これが最も典型的で純粋なフィクションであろう。詩人と読者に詩がフィクションであるという共通了解が生じていて、それを前提に読者は詩を鑑賞していく。

2.2.田村の詩のフィクション性

 さて、では田村の詩はフィクションであるのかノンフィクションであるのか。両者の中間だとしたらそれはどのようなフィクション構造・ノンフィクション構造を備えているのか。
 まず、一つの詩を全体としてフィクション/ノンフィクションと決定することはできないということに注意しなければならない。一つの詩は部分的にフィクションでありえたり部分的にノンフィクションでありえたりする。

「怪物の言ふこと」は
ナチス・ドイツの総統ヒットラーでもいいし
(中略)
ところで作者の中桐さんはその頃同人誌に
「Fへの手紙」というエッセイも書いている。
いま ぼくの手許にないのでそれを引用できないのがとても残念だが
美しいエッセイ、というよりもラブレターだったことを憶えている。
       (「Fへの手紙」)

この引用部の前半は、田村独特の軽快な語りで、真偽などどうでもいいといった思想なのである。つまり語用論的にはフィクションとノンフィクションの中間のようなものだ。一方で、後半はこれまた田村独特の思い出語りであり、この思い出語りは「俺は垂直的人間」と豪語した田村が実は水平的だったことを実証しているようなものである。その論点には深入りしないが、結局この部分は年寄りが自分の惰性に従って気楽にありのままを語っている、そういう語りであり、ことさら気張って想像力たくましく思い出を偽装しようとする語りではない。つまり後半は全くのノンフィクションなのである。つまり、一篇の詩の中でもフィクションとノンフィクションが混合していて、その詩全体についてフィクション/ノンフィクションを単純に決定することはできない。
 さらに、2.1.で見たとおり、フィクションの構造というものは三層構造をなしており、ある一つの詩行についても、それを単純にフィクション/ノンフィクションという一次元の二項対立では語れない。ある一つの詩行について語れるのは、それが、意味論的にはフィクションであり、語用論的にはノンフィクションであり、ごっこ遊び的にはフィクションである、などという三次元的なフィクション認識であり、一次元の二項対立で把握することはできない。

詩を書く人は
いつも宙に浮いている
どこにいったいそんな浮力があるのか
だれにも分らない
       (「詩を書く人は」)

フィクション性は部分においてしかはかれないので、田村の詩の中で特徴的であり、かつもっともフィクションとノンフィクションのせめぎ合いが激しいであろう、彼が詩人についての思想を語っている詩行を採り上げる。
 詩人が詩人について語るのだから、それは内容的に正しく、かつ正しいものとして語られ、受け手も正しいものとして受け取らなければならないようにも思える。詩人は詩人のことを最も良く知る者であるから。そして、詩人は詩人についてその真実を最も語りたがる者であるから。
 さて、詩を書く人が宙に浮いているというのは隠喩であるが、ここで隠喩をめぐる議論には深入りしない。本稿では、隠喩というものは、類似性を介して、真偽を持つ通常の文に書き換えることが可能であるが、その書き換えの可能性は複数ある、という立場をとることにする。どれが正しい書き換えであるか、日常的な隠喩の場合は決定されることがあるが、詩における隠喩ではむしろ正しい書き換えなど存在せず、複数の書き変え方がそれぞれに可能なものとしての地位を付与されると解する。「宙に浮いている」という詩行は、「現実から遊離している」「軽快さを保っている」「通常人には達せない境地にいる」など複数の詩行に書き換え可能であるが、どれが正しい書き換え方であるかは決定されない。
 とすると、引用部は意味論的にはどのようなフィクション性を備えるだろうか。まず、「宙に浮いている」ことが真か偽かを考えたとき、それの書き換えの真偽を考えなければならない。ところで、書き換え方は多数あるのだから、そのすべての書き換えにおいてその書き換えが真であるとは考えられない。詩人が現実から遊離しているのは真かもしれないが、詩人が軽快さを保っているというのは偽かもしれない。とすると、引用部の真偽は決定不能ということになる。つまり、引用部の真偽は意味論的にフィクションでもノンフィクションでもない。
 次に、引用部は言語行為的にはどのようなフィクション性を備えるか。1.2.で見たとおり、田村は飄々と無責任に断定を繰り返す男だから、田村の発語内行為は、真実を主張する意図を中途半端に持ちつつも、修辞や自分の無責任さのためには多少虚構が混じってもかまわないという態度を併せ持ちながらなされる言語行為だと見るのが正しいであろう。特に、引用部は隠喩で意味が不明確にされている。詩人が詩人について語るのだから、あくまで正しいものとして語りそうだが、そこに修辞が入り込むことによって、田村自身もそれが相手に正確に伝わることをあきらめているのだと思える。田村はおそらくここで、序論に述べたような葛藤をしている。自分の実感をありのまま伝えたいという気持ちがある一方で、ありのままに伝えるためには逆に修辞が必要になり、そういう理由で修辞を使ってしまったら意味の不明確な詩行になってしまった、だが意味が不明確でも詩としてかっこ良ければそれでいいだろう、そういう葛藤である。つまり、引用部は言語行為的にもフィクションでもノンフィクションでもないのである。
 最後に、引用部はごっこ遊び的にはどのようなフィクション性を備えるか。1.3.で見たのと同様、引用部は修辞によって意味が不明確にされており、現実には誰によっても語りえない語りがなされているように思える。だが、適切に書き換える、つまり適切に解釈することにより、再び田村自身の言葉としてのノンフィクション性を備えることも可能だ。読者は、一方で、引用部は意味が不明確だからそれは非現実的な語り手による虚構の語りに過ぎないと思わされるが、他方でそれを自分なりに解釈して、例えば田村はここで詩人は現実から遊離しているとノンフィクション的に主張しているのだ、と落ち着くことも可能である。つまり、引用部はごっこ遊び的にもフィクションでもノンフィクションでもないのである。
 以上から言えることは、田村の詩は、2.1.で挙げた八つの類型のうち、どの類型にも典型的には該当しないということだ。田村の詩は、意味論的次元でも、言語行為的次元でも、ごっこ遊び的次元でも、フィクション性とノンフィクション性を併せ持ち、むしろフィクションともノンフィクションとも決定されないところにその特色がある。

3.結論

 さて、では、田村の詩は、詩の信用性を失墜させているだろうか。答えはイエスでもノーでもない。田村の詩は2.1.で挙げたどの類型にも典型的に属さないが、逆に言えば、どの類型にでもなりうるのである。だから、真実でもないことを真実であるかのように語りそれを読者が真実だと信じてしまう、という詩の信用性を失墜させるような事態も生じうるし、真実であることを真実であるかのように語りそれを読者も真実だと信じるという、まさに語りたいことが読者にそのまま伝わるという理想的なコミュニケーションも生じうる。だから、田村の詩は詩の信用性を失墜させているとも失墜させていないとも言えない。
 そもそも、詩の信用性を重視する態度に問題はなかったか。つまり、その態度というものは、ノンフィクション/フィクションという二項対立を設定し、ノンフィクションがフィクションに優先するという階層を導入した、階層的二項対立の現れであるが、そもそもそんな階層的二項対立は維持不可能なのではないか。この階層的二項対立は、詩というものを、詩人の真実の表白と見て、それこそに価値があるという価値観に基づくものだ。だが、詩にはもう一つの側面がある。それは、語り手がフィクションをフィクションとして語り、それを受け手もフィクションとして受け止めることにより、語り手と受け手の間で詩がフィクションであることの了解が成立したことを前提にする。そして、そのフィクションを、想像の産物、修辞の産物として、虚構的だが豊かで価値のある作品として創造し享受する、という側面である。こちらの立場からすれば、むしろフィクションの方がノンフィクションよりも優先する。
 詩の信用性は失墜したとも失墜していないとも言えない。そして、そもそも詩の信用性を盲信することには問題がある。詩にはノンフィクションとしての価値もある一方でフィクションとしての価値もあり、フィクション/ノンフィクションという二項対立が決定不可能であるところにその本質がある。田村の詩は、まさにそのことを例証してくれた。
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by sibunko | 2012-12-04 01:53 | 現代詩人論