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時里二郎『ジパング』(思潮社)

時里二郎詩集『ジパング』について


 詩は詩人の内心の独白であることが多い。そのとき、詩は現実と結びついている。詩に書かれている内容は詩人の内心を指示するし、読者はその言葉に共感したり反感を覚えたりする。だが、そのように現実と対応関係を持つことを拒絶するような詩もある。時里の詩編は現実と対応することを拒絶する。時里は、「この詩編を作り物として読め」というメッセージを明確に発するし、読者もそのメッセージを容易に受け取れる。時里の詩の行っている行為は、「この詩を現実と対応させるのではなくあくまで作り物として読め」というメッセージを発する行為である。そして読者もまた時里の指示通り、彼の詩編を虚構として読むのである。だから読者は時里の詩編に対し共感も反感も示さない。

 大殿のつましい朝食には、乾燥した木の実のようなものが一個、皿に載せられているばかりである。それは極めて堅く、なかなか割れない。大殿は特殊な道具でそれを割る。迷宮のような皺、等高線のような褶曲のある果肉がその中にある。
 苦い。悔恨のように苦い。
 大殿はそれを一時間ほどかけてゆっくりと彼の舌で読む。
       (「食事」)


 さて、この部分が明確に虚構を志向していることは明らかであろう。朝食に木の実一個というのは現実にありえないし、それを舌で「読む」ということも現実にはありえないからだ。このような叙述で時里は自らの詩編を虚構として読むように読者に働きかけているのである。
 ところで、時里の虚構の作り方は、世界の文法をゆがめていくことで成立している。彼の散文詩は明確に一つの世界を作ろうとしているが、にもかかわらずその世界はたくさんの裏切りに満ちているのだ。この点、断片的に書かれる不条理詩とは異なっている。断片的な不条理詩はそもそも世界を作ろうとしない。だが時里は世界を作ろうとしながら、その世界を次々とゆがめていき、最終的に奇妙で整合性の取れていない擬世界が出来上がるのである。引用部を見てみよう。朝食の説明があるが、それが木の実一個に過ぎないというところでまず裏切りがある。朝食についての整合的な説明による整合的な世界形成というものが裏切られるのである。しかもそれは苦いのである。ここでも、食事は美味しいものを食べるものだという普通の期待が裏切られる。さらに大殿はそれを「読む」のである。このようにして時里は、世界形成の身振りを見せながらも次々と整合性への期待を裏切り、奇妙でグロテスクな擬世界を生み出すのである。
 ところで、この奇妙でグロテスクな擬世界はなぜか美しい。読者は時里の詩編を読んで戦慄を感じる。すごいと思う。これはなぜなのだろう。実際にこの引用部にあるような事態を目撃したら、我々は驚愕してものが言えなくなるだろう。それは著しく不快なものに違いない。だが、実際に存在したら不快であるような出来事も、それを虚構のものとして受け取るという約束のもとでは快に転じるのである。それは、グロテスクなものが恐怖を呼ぶだけでなく滑稽味を帯びたものでもあるということとも関係しているし、グロテスクなものの放出が一種の祝祭的な楽しみを生み出すこととも関係している。グロテスクなものの不快は、「それが現実であったならば」という条件のもので発生するのであって、その条件さえ削除すれば残るのは滑稽さや祝祭的な楽しみ、更には弱められた恐怖の快い戦慄である。時里の詩編は、虚構であることを明確に示すことで、グロテスクなものの不快さを非常に低くし、逆に快さを高めているのである。


 帝をはじめ居並ぶ者どもは、初学の者ですら外すのも難しい動かぬ的の鹿が、呼吸を乱すこともなく庭の草を食んでいるのを唖然として見ていた。彼らが声を上げる機を制せられていたわずかの時をうずめるために、李童は静かに弓弦を断ち、その同じ短剣でもって、おのが腕の筋を切ったという。
       (「マカール、或いは旅する山羊」)


 さて、ここでは李童が自らの腕の筋を切るという残酷な描写がある。これもまた現実に目の前で目撃したらとても目を当てられない悲惨な状況である。ところが虚構の中で描かれると、不思議とその残酷さも快いものに変わってしまうのである。それは他人の不幸を喜ぶといったたぐいのものではない。むしろ、時里の叙述の美しさであるとか、その叙述の美しさを読む楽しみであるとか、そういうものによって残酷さが中和されているとは言えないだろうか。さらには、李童の潔さに対する道徳的な賞賛の念。もちろん虚構であるから残酷さが弱められているというのもある。
 残酷さは単純に残酷なのではない。残酷さが虚構の中で与えられるとき、その虚構が精密に織りなされていればいるほど、その精密さに対する読者の感嘆の念は強まる。読者の中には残酷さによる不快と精密さに対する感嘆が同居する。さらには、筋を工夫することで残酷さを和らげることができる。時里はここで、弓の名人である李童が失敗の償いをするために自らの弓人としての生命を絶った、という道徳的な潔さをプロットによって生み出すことで、残酷さによる不快と道徳的な賞賛の念を同居させている。
 時里の生み出す緻密な世界には、不条理だったり残酷だったりする出来事がたくさん生じる。だが、その世界の虚構性を明確に指定し、その世界を緻密に描き、さらにプロットを工夫することで、本来だったら不快であるようなことも、その不快性が薄められ、また他の快楽要因と共在させられることで、美しく快いものとなるのである。


 その<原器>の存在によって、ジパングの存在の根拠が保証されていたのであるが、大殿は、ジパングをわがものにしようという邪心を起こし、その<原器>を私物化しようとしたばかりか、彼の故意によるものか、もしくは過失によるものかはわからぬが、迂闊にも<原器>を床に落として割ってしまったのである。
 その結果、大殿は散りじりになった<原器>の破片を寄せ集め、新たな<原器>の再生を試みるために、ジパングの地誌の執筆に明け暮れているのだというのである。
       (「原器」)


 さて、このようにして時里は明確に虚構であるところの詩編を変幻自在に織りなしていくのであるが、読者としては素直にそれを虚構としてのみ受け取る必要もない。時里の虚構的詩編が、実は現実の何ものかを指示していないだろうか、と深読みするのも悪くない。
 この引用部では、ある国の存在の根拠を<原器>が担っていたとされている。これは様々なことのメタファーになりえないだろうか。しかもその<原器>を元首自身が割ってしまい、その収集に明け暮れるというさまは、きわめて寓意的だと読むこともできる。例えばこれは現実の国の元首の政治的失敗を表すものである、など。あるいは、この<原器>は物質化されてはいるが本当は世界の根本法則を表すものであり、かつて科学的に知られていたその法則が文書の散逸などでわからなくなり再びその法則を見出す過程がここで描かれているのだ、など。
 大体において、虚構の世界でいかに非現実的なことが起ころうと、それは現実の何ものかと寓意的に結び付けることができる。その意味で時里は、現実も虚構をも貫通する出来事の寓意的ネットワークを十二分に利用していると言えないだろうか。実際、彼が非現実的な挿話を思いつく際にも、現実のなにがしかのエピソードが参照されているはずである。とすると、時里は単純に虚構の世界を現実から峻別したというよりも、それを超えて再び現実へと回帰する寓意的ネットワークをも示しているといわなければならない。
 時里の詩は、読者に対し、「これを虚構として読め」と指示してくる。そして読者もその指示を容易に理解する。そして、虚構であるからこそ、グロテスクさや残酷さが、他の快楽要因と相まって快に転じていく。さらには、時里の詩は単純に虚構であるにとどまらない。それは寓意的ネットワークによって現実の様々なエピソードと対応可能であって、虚構と現実を両方とも相対化したところに様々な読みの可能性を開くものである。


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by sibunko | 2014-03-02 11:36 | 現在の詩人たち