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白鳥央堂『晴れる空よりもうつくしいもの』(思潮社)

白鳥央堂詩集『晴れる空よりもうつくしいもの』について


 詩もまたコミュニケーションの一種である。確かに作者の意図が読者に正確に伝わらないこともあるだろうし、そもそも作者は伝達を意図していないかもしれない。だが、詩を書く者がいて、読む者がいる。そこでは広い意味でのコミュニケーションが必ず成立するのである。
 コミュニケーションとは、複数の者が話し合いをし、合意を得ることである。この際、コミュニケーションの当事者はわかりあう必要はない。その場合は「わかりあえない」という合意がコミュニケーションの結果となる。当事者は様々に話し合い、了解の内容を調整する。
 そして、この社会におけるコミュニケーションによって、初めて言葉の意味や物事の価値は生成されるのである。言葉の意味が、社会における人々の使い方によって常に揺らいでいることは周知の事実であろう。そして、言葉の意味は、共同体における緩やかな合意により調整される。例えば過去において、ある人が「前衛」という言葉を軍事用語ではなく芸術用語として使ったとしよう。すると、社会における力関係により、それに合意した様々な人が「前衛」という言葉を芸術に関する意味で用いるようになり、今における「前衛」の意味が形成されたわけである。
 同じように、真理や正義や美といった価値もまた社会でのコミュニケーションを通じた合意によって生成される。真理や正義や美は、あたかもアプリオリで普遍的であるかのように思われがちだが、歴史における真理が勝者により簡単に調整されてしまうこと、実践における正義が臨機応変な議論により調整されること、美のとらえ方が各個人様々であり共同体での調整なくしては権威づけが難しいこと、などを考えると、これらの価値もまた社会におけるコミュニケーションを通じた合意があって初めて生成されることが分かるだろう。
 さて、では詩はどのようなコミュニケーションを行っているのか。白鳥央堂の『晴れる空よりうつくしいもの』(思潮社)を俎上に上げることで検討したいと思う。

破氷の陸を 形成する
一面の吐瀉 まっとうな
妹の うつくしき遅延
大河が押し寄せるなら
真っ先に逃げ出すだろう
両眼が 一面を踏んでも
私はここに 残る
だろう うつくしき
妹の、
漂着を 待って
       (「破氷の陸」)

 多くの詩は、作者によって、孤独に、いまだ意味も価値もほとんど確定していない言葉によって書かれる。作者は多くの読者に対してコミュニケーションを投げかける。自分としてはこの言葉にこのような意味を持たせたいんだ、このような価値を持たせたいんだ、そういう主張を、議論の現場に投げかけるのである。
 引用部において、「破氷の陸を形成する」「妹の遅延」などがあるが、こういった新規性の強い言葉に関して、社会における意味や価値の合意は予めなされていない。だから、作者も読者も社会における予めの合意というものを手掛かりに意味や価値を確定することはできない。あくまでも、作者の孤独な提案に対して、読者もまた孤独に、どのように意味づけ・価値づけしていくか、という実験が詩におけるコミュニケーションの内実なのである。
 詩におけるコミュニケーションでは、それゆえ読者の方が優位に立ちやすい。そもそも作者は、意味や価値が不確定なものを、意味や価値に満ちたものとして提案してくるわけであるが、それが本当に意味や価値に満ちたものであるかどうかを決定するのは基本的に読者である。詩集というコミュニケーションの場において作者に釈明の余地はない。あるのは詩集の、意味や価値が未確定な言葉だけだ。それに対して読者はあらゆる解釈体系を動員して、自由な解釈を行うことができる。詩におけるコミュニケーションにおいて、基本的には読者が優位に立つのである。

春走るバスは
天国を抜けて
フィンランド語教室へ
夜走るバスは
暗い雨雲の天井して
フィンランドの言葉の教室へ
急襲するか
そうしよう
「こちら未来から過去、応答願いますどうぞ」
答え方はどうせわからない
急襲しよう
そうしよう
       (「春はふたりぼろバスの最前に飛び乗って盛大に燃やすゴミの詩」)

 ところで、白鳥は上のような詩行も書いている。非常に意味が通りやすいため、一読して、「これは詩というよりは歌詞ではないか」と思った人は多いのではないだろうか。ここで、歌詞についてはどのようなコミュニケーションがなされるのか考えてみよう。
 歌詞に使われる言葉というものは、あらかじめ意味や価値が定まっているものが多い。だから、作者が歌詞を読者に投げかけるとき、作者の言葉の意味や価値には社会の合意があらかじめ付与されてしまっているのだ。だから、読者の解釈も当然社会の合意に大きく束縛されることになる。歌詞のコミュニケーションにおいては、作者も読者も孤独ではない。作者は社会的合意を背景に言葉を繰り出してくるし、読者も社会的合意を参照したうえで解釈する。それゆえ、歌詞のコミュニケーションにおいて、作者は読者の読みをかなり思い通りに誘導することができる。
 詩のコミュニケーションにおいては、孤独な作者が孤独な読者に、意味や価値が未確定な言葉を投げかけ、そこでは、新たな言葉の意味や価値が生じることを期する実験が行われていた。だから、そこでは読者の自由な解釈が重要性を持つのだった。それに対して歌詞のコミュニケーションにおいては、作者は読者に、意味や価値についての社会的合意を取り付けた言葉を投げかけ、読者もまたその解釈において社会的合意に束縛されるのである。だから、そこでは作者の伝えたいことが伝えたいままに読者に伝わり、そこに新たな意味や価値が生まれることは少ない。

「あがる幕
ありがとう
記憶しようと想う
忘れてもいいんだから」
そういう歌がありさえすれば
あなたもすぐに歌い終えるさ

そして
幼い
美学者たちの街を
当夜 出ていく

無限の打ち水を追う 唇をぬぐう手の果てに
当夜出ていく
       (「つぐみに訊いた、いくつかの讃歌」)

 さて、白鳥の詩に興味深いのは、詩的な部分と歌詞的な部分、さらには詩的とも歌詞的とも言えない中間的な部分を織り交ぜてくる点だ。引用部の初めの連は歌詞的であるが、第二連は詩と歌詞の中間であり、第三連になると詩的になっている。ところで、詩のコミュニケーション構造と歌詞のコミュニケーション構造はだいぶ違っていた。詩は新たな言葉を生み出す実験であるのに対し、歌詞は伝達による分かり易い感動を重視している。そのような異なるコミュニケーション構造をダイナミックかつ自由奔放に切り替えていくということ。そこに、私は詩作者が再び力を取り戻す契機を見出さずにはいられない。
 つまり、私は白鳥の作者としての地位に、詩のコミュニケーションにおける主導権を感じるのである。それは、詩と歌詞を自由に織り交ぜることにより、コミュニケーションの構造を詩作者の側でコントロールし、読者をそのダイナミズムに巻き込むことによって可能になっている。もちろん、白鳥が権力志向であるとか、支配欲に満ちているとか、そういうことを言いたいわけではない。だが、白鳥の詩の書き方は、詩のコミュニケーションにおいていつも劣位に立たされていた作者というものの主導権を期せずして回復し、異種のコミュニケーションによる異種の感銘を与えるという美的効果を持つものである。
 歌詞は現代詩から排斥され続けてきた。だが、歌詞は現代詩とは違ったコミュニケーション構造を持ち、現代詩とは違った読者への働きかけを行うものであり、それを現代詩へとうまく導入することで、今まで劣位に立たされていた現代詩の作者というものの地位を回復する可能性を持つものである。繰り返すが、白鳥がそのような戦略家だと言いたいわけではない。だが、白鳥の詩集にはそのような戦略性が期せずして宿っていると私は考える。



by sibunko | 2015-07-19 09:59 | 現在の詩人たち