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人生は退屈ではない

 詩を書いている多くの人は、詩のイメージの中に現実以上の刺激や面白味を込めようと工夫しているように見受けられる。それは結構なことだし、そういう現実では味わえないようなものを、たとえ言語世界内であるとはいえ、体験できるのは楽しいことだと思う。
 だが私はそういう人を見ると思うのだ。この人は人生が退屈なのではないか、と。ただ生きていても特に面白いことがないから、奇抜な表現や奇抜な世界設定をすることで、彼方へと飛翔しようとしているのではないか。
 かつて西脇順三郎は現実は退屈だと喝破したし、萩原朔太郎に至っては、詩は存在しないものへの憧れだとロマンを語った。二人に共通して欠けているものは、現実に存在するものへの丁寧なまなざしではなかったか。現実に存在するものは決して退屈ではない。むしろ、現実ほど刺激に満ちたものはないと言ってもいいくらいだと私は思っている。この、現実の人生に対する感受性において幾分劣っている人間たちが詩を書くようになるのだろうか。
 ほかにも、アンドレ・ブルトンは小説の描写をこの上なく退屈だと言っていたが、果たしてそうなのだろうか。繰り返すが、現実との整合性が取れていない飛躍的な詩句は人間を楽しませるし、フィクションとして、娯楽として一定の価値を持つ。だが、そこにのみ詩があるのではない。
 人生は退屈ではない。まずそこから始めよう。今日あなたが感じたこと、例えば朝日がとてもきれいだったとか、あの人の笑顔がとてもきれいだったとか、そういうものは決して退屈ではなかったはずである。ただ、それは誰もが感じることであり、そんなことを表現しても今さら誰も褒めてはくれない。だが、だからといっていきなり虚構の領域へと飛躍する必要はないのである。
 私が提案するのは、詩はもっと小説を見習った方がいいということである。小説がもたらす娯楽、楽しさ、それは詩のもたらすものとは異質であり、物語の快楽であるとか、マクロな視点から眺められたドラマの快楽であったりする。それだけではなく、当たり前のことをただ当たり前に映し出すところにも意外に大きな発見があることに気付くはずである。例えばドキュメンタリー映画が、そのリアルさゆえに思わぬ夾雑物をたくさん映してしまうように。
 人生に起こる感動的な出来事はたいていありきたりであるが、そのありきたりさをどこまでも感じ尽くし、丁寧に細部を拾っていき、自らの視点を設定し、書き終わった後、人生をよりよくとらえることができた、私は人生を決して無駄にすることがなかった、そう思えるようになったとき、人生は全く退屈ではなく、むしろ限りない刺激に満ちたものとなるだろう。虚構の美を描き続けても、いつかはその不毛さに気付く。人生にとってプラスになることは少ないし、そもそも自分の人生をないがしろにしてしまっている。自分の人生という唯一の現実について思考し、そこから多くのものを抽出すること。詩人はそういう小説的な地味な努力を怠って安易に刺激の多い世界へ旅立ってしまう。そのような態度で書かれた詩から実人生に還元されるものなどほとんどないと言っていい。実人生は捉えきれないほど複雑な混沌である。それを言語化し作品化しそこからなにがしかを学んでいくこと。それは決して小説だけの仕事ではないし、詩もまた積極的にそのような機能を営んでいくことを私は期待する。
by sibunko | 2018-08-13 06:57 | エッセイ