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なぜ生活を詩にするのか

 詩は自由に書かれて一向に差し支えないと思う。想像力の赴くままに飛躍している詩行もまたよいだろうし、現実の人生をなぞった詩行もまたよいだろう。だが、私はかつてひたすらフィクションの完成度を追求していたのに対して、今では人生の細部の感興を詩にしようとしている。では、なぜ私はこのように生活を詩にしようとしているのか。

 詩はいつでも自由を志向している。言語が許す限りどこまでも自由に言葉を操れるのが詩というジャンルである。だが、私はそんな自由では物足りないのだと思う。詩は自由であっても、その自由を制約するものとの厳しい緊張があるからこそ、その自由を獲得するための努力を費やす面白味が増すのである。留保なしの自由には緊張がない。だが、制約付の自由においては、制約と自由との両方に配慮しながらそれらの厳しい間隙を縫っていくスリルがあるのだ。

 だがここで反論が上がるかもしれない。何も人生や生活を題材に取らなくとも、自らの思想やテーマやレトリックによって自由を制約すれば、同じように制約と自由との緊張が生み出され、詩作の深みが増すのではないか、と。確かにそれは正しい。まったくの自由な詩作などあり得ないし、常に何らかの制約項が自由と対立しているはずなのである。だが、ここで挙げられている制約項は、全て詩人の内部にあるものである。つまり、制約は外部からやってくるというよりは既に詩人の内部に宿っているのである。だから、自由と製薬との対立といっても、詩人の内部で完結してしまっていて、そこに外部への冒険に満ちたアプローチが見いだせないのだ。

 それに対して、人生や生活を題材にする場合、自由を制約するのはあくまで尽きせぬ無限としての外部である。詩人は常に自らにとって他者である外部との検証を経なければ詩を書くことができない。詩を書く際の自由と制約との緊張は、常に神経質に外部へと気を配ることによっていっそう先鋭化され、しかも外部とは尽きせぬ無限なのであるから、外部による制約はどこまでも厳しく、それゆえそれを乗り越えていく自由もまた工夫に満ちたものとなるのである。

 詩は自由であるが、それは留保付の自由である。詩人は常に何らかの制約との緊張のもとで繊細に感性を震わせて詩を書くのであり、それは奔放に想像力を働かせる場合も地道に人生をなぞっていく場合も変わらない。だが、地道に人生をなぞりつつも自由を志向する場合、そこでは常に外部との詩行の厳しい対照が行われ、それが自由をより得難く、かつ工夫に満ちたものになるのである。その意味で、私は人生や生活を題材に詩を書く方向に転向したのだと思う。より困難で繊細でスリルに満ちた詩作をするために。


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by sibunko | 2018-08-13 11:07 | エッセイ