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「詩人」という肩書について

 世の中には「詩人」という肩書がある。だが、詩を書いていても自ら「詩人」を名乗ることに抵抗を持っている人はたくさんいる。では「詩人」を自称することの何が問題なのか。

 肩書というものは社会的な役割を示すものであり、その人のアイデンティティを形成する。人は肩書に応じた社会的貢献をなし、肩書に誇りを持つのである。だが、詩人はそもそも社会的貢献をしているのだろうか。また、誇りを持つのに値するものなのだろうか。というのも、詩人の社会的影響力は小さく、詩人は経済的に自立できないからである。そのようなものを堂々と自らの肩書として選んでしまうことに対する抵抗がある人は多いだろう。社会的な存在意義に乏しく、経済的なリターンもないような営みについて、そもそも肩書をつけること自体が困難であると言える。つまり、「詩人」は肩書の要件を満たしていないように思えるのだ。そのような呼称を堂々と自称することの滑稽さを感じている人は少なくないはずである。

 次に、「詩人」と自ら恃んでしまう人間にありがちな、「詩人という固有の主体の幻想」という問題がある。つまり、自分は詩人だから、自分にしかない感受性や才能などを持ち合わせていて、ほかの人とは違った存在なのである、という選民意識である。

 これに対しては、構造主義や間テクスト性や作者の死などの立場からごうごうたる非難を浴びるだろう。人間など所詮関係の束に過ぎない、人間の創造性など所詮引用の束に過ぎない、文学作品において作者など問題にならない、そのようにして作者の実存性や主体性は否定されてきた。

 だが、そのようにしてそぎ落とされてもなお残る、「その人らしさ」のようなものはこれも疑いようもなく存在していて、それを固有のものとするか寄せ集めと考えるかはもはや形而上の問題に過ぎないようにも思われる。重要なのは、詩人が安易に選民意識を持たず、自らの置かれている歴史的状況とそこからの影響を自覚し、謙虚に詩作することだろう。なお、神秘主義は信仰の問題なのでここでは立ち入らない。

 結局、「詩人」という肩書は、肩書でありながら肩書の要件を満たさないが、それでも一定の役割を持つはずである。この人は継続的に詩を書いていて恐らく詩集などを出版したりもしているのだろう、そのように、その人の属性をなんとなく示すものとして機能しうるだろう。また、詩人の選民意識にしても、自らについて反省的であればあるほど消えていくはずであり、すぐれた詩人ほどそこから解放されていくはずである。重要なのは、「詩人」を自称するかどうかではなく、詩人であるということはどういうことかという問題意識を持って謙虚に進んでいくことではないだろうか。


by sibunko | 2018-08-13 11:08 | エッセイ