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詩人の死

 詩人が死ぬということはどういうことであろうか。2011年に、同人誌「kader0d」を一緒に立ち上げた友人である伊達風人が亡くなった。33歳だった。彼の詩は『風の詩音』という詩集にまとめられて、2012年に出版された。私はその詩集に栞文を寄せた。

 伊達の死後、私は彼に語りかけるようにして数編の詩を書いた。そのときどきの人生のステージにおいて、伊達が私に問いかけてくるものは違っていた。伊達はいつでも私に語りかけ問いかける言葉を所有していた。私は折々にそれに応える「欲望」を感じた。

 伊達の詩業は何らかの完成を示したわけではない。それは夥しい遺稿という形をとっていて、彼の詩作のキャリアの途上にあるものだった。彼は自らの詩に決着をつけないまま亡くなった。その未決であるという事実、これがまず重要だと思う。

 だが、彼が未決であるのはあくまでも彼の人生の次元の話のことである。彼について語る私たちの語りの次元からすれば、彼はもはやその死によって確定してしまっているのだ。例えば生きて実作を続けている詩人について、私たちは語りづらさを感じる。それはその詩人の詩業が確定していないからである。だが、伊達について語るとき、私たちは伊達の詩業を確定したものとして扱うことができる。この未決であるが確定しているということがまず重要な点であろう。

 だが未決であるが確定しているというのは、どんな夭折した人間についてもいえることである。夭折した詩人について言えることは、彼が明確に言葉を残しているということだ。彼が作品を創る者として、実際に作品を残しているということである。そこには彼の思想や感情が独自の様式のもと表現されていて、私たちは自分たちの創作と彼の創作とを共鳴させることができる。同じ詩人として、伊達と私は多くのものを共有していたのである。それは例えば繊細な感受性であったり、的確な言葉を選択する能力であったり、作品を構成する能力であったりする。

 伊達は未決であるがゆえに、多くの空白や可能性を有する。だが伊達は確定しているがゆえに、私たちは彼について語ったり、彼の可能性を推測することが容易に「許可」される。それゆえ、私は伊達がいったい何をしようとしていたのか、何を考えていたのかについて語りたがったし、それについて自分はどう応答するかについて語りたがった。私と伊達は同じ詩を書くものとして互いに共鳴し合うことができる。その共鳴する次元において、私は伊達の可能性を規定したり、伊達の可能性に応答したりしたわけである。

 さらに、詩人というものは大きな物語から零れ落ちた小さな断片を記述する者である。そして、詩人はその表現において自らの個性や特殊性をいかんなく発揮することが許された存在である。詩人というものはそもそもマイナーな内容を表現する存在であるといえる。そのうえ、詩人は自身もまた社会的にマイナーな存在であり、社会の中で取り立てて大きな発言力や権力を有しない。マイナーな存在がマイナーな内容を語る。これが詩人が詩を書くときの構造である。

 だが、詩人のようなマイナーな存在が掬い上げてくるマイナーな真実はときとして大きな衝撃力を持つ。マイナーな存在が掬い上げるマイナーな事実だからこその秘された衝撃力である。それは社会の主要な流れとはならないにしても、詩を読む人間の人生に大きな影響力をもたらすことがしばしばある。誰もが好きな詩の一節を口ずさんだりするものであるし、座右の銘として詩的な認識を覚えている人は多いだろう。

 伊達は未決のまま死んだが、その詩業は確定している。彼は詩人であるがゆえ、その言葉は権力を持たないかもしれないが、いつ不意に強烈な感銘力を特定の幸運な人にもたらすとも限らない。伊達の詩業は確定している以上、私たちはその詩の中から、そのような僥倖の一節を発掘することができる。その発掘行為が許されている。詩人が死ぬということは、詩人の言葉について私たちが批評することが寛大に許されるということであり、詩人の言葉から奇跡的な一節を発掘することが容易になるということである。そのことにより、幸運な読者の人生に影響を与える詩行は見つかりやすい。

 詩人はその死によって、未決のまま確定する。詩人は死によってたくさんの可能性を投げかけ、私たちはその可能性に応答することが寛大に許される。また、詩人は死によって批評が容易になり、私たちがその詩業のうちから幸運にも誰かに感銘を与える作品を見つけ出すことが容易になる。詩人の死とはそのような意味を持つのではないだろうか。


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by sibunko | 2018-08-13 11:54 | エッセイ