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朝の詩学

 朝はどんな時刻にでも既に始まっている。早朝でも真昼でも真夜中でも、すべての時刻に内包される原時刻として朝は既に始まっている。朝は一日が運動するにあたって、その駆動の弾性を持つ時刻としていつでも参照される。すべての時刻は一度朝に引き返して、朝に強く跳ね返されて次の時刻へと推移していくのである。

 私は早朝の暗い時刻に目を覚ますことが多い。朝の闇は夜の闇より長く感じられる。朝の闇は光を待機する闇であり、その待つという特性のため、来たるべき夜明けへの想念が先走っては挫けてを繰り返し、虚構的に持続時間が長引くのである。朝は夥しい虚構を生み出す時刻であり、その虚構の一部は「未来」や「可能性」と呼ばれる。

 やがて朝陽が少しずつ顔を出し、風景は暗いながらも形象を取り戻し、そして空や雲は朝焼けでピンク色に染まる。さらに太陽が威力を増すと、オレンジ色の強力な光が差してきて、それはいつの間にか透明で明るい光に変わる。鳥たちは鳴き始め、風景は明確な輪郭を語り出し、朝は厳正に執行される。このような自然の、特に光のドラマチックな移ろいは、多くの人には目撃されず、ただ風や木や川や道路や建物などが、黙して自らの表面で感じ取るだけのものである。

 朝とはこのように、人間の感知しないところで圧倒的な美を放出している自然の移ろいなのである。これは自然美全体のメタファーとは言えないだろうか。例えば人の足がめったに入らない山奥の秘境で、圧倒的な巨木が非常に美しい情景を作り出しているかもしれない。だがその自然美は誰にも鑑賞されることなく、ただ膨大に受け取り手のいない美を放出しているのである。そのような自然美は世界中に夥しくあり、朝のこの美しい光の移ろいは、受け取り手のいない過剰な自然美を象徴していないだろうか。

 朝、通勤のため駅のホームに立つ。電車はしばらく来ない。すると、覚醒した精神には様々な閃きが去来する。朝、この創造的な時刻に創造的な空白が入り込む。朝とはパブリックな生産の時刻ではない。パブリックには、生産というものは昼行われる。だがプライベートな生産は朝にもっともよく行われる。私的で独立した主体の文学的創造の時刻として、朝はプライベートな輝かしい時刻として私にとっては貴重である。朝はプライバシーが厳密に保たれた時刻だ。夜以上に朝のプライバシーはデリケートで他人の干渉を拒む。朝、世界は一人一人の人間に厳密に分有され、世界は一人一人の人間に孤独に所有され、人々は連帯の義務からひととき解放されるのである。

 朝、世界は未熟である。夜の闇はカオスのようでありながら、至る所に厳密な秩序の一端が垣間見えるが、朝はその夜の秩序を壊してしまい新たに何かを始めるので、世界は半分カオティックになる。何もかもが渾然と溶解してしまうかのような、何もかもが半壊してしまい、再構築にいそしんでいるかのような、そのような時刻で、朝も昼も夜も一堂に会して交互に支配権を譲り合う。

 この未熟な時刻こそ、人間が世界に介入することが許された時刻なのだ。世界の厳密な構成が完璧に人間を排斥する昼間、人間は世界の厚い皮の奥に入り込むことができない。世界の表皮がいまだに薄く、湿度を帯び、次々とほかの時刻に浸食されている朝という時刻こそ、世界の深奥に踏み込むことができる。世界とはただの浅瀬かもしれぬ。だが浅瀬を掘り起こすと更なる岩盤があり、掘削すると何から何まで出てくる。この朝という創造的な時刻、人は世界をひたすら掘削する。


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by sibunko | 2018-08-13 11:55 | エッセイ