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孤独の変質

 若いころの孤独というものはナルシシズムと不可分である。若いころ、人はよく孤独に陶酔する。自分が孤独であることに酔って、孤独である自分がかっこいいと思う。そのような孤独な陶酔する主体が書いた詩というのは数多くあり、若い孤独を失った人でも詩を書くときはいっときその幼い孤独を取り戻すかのようだ。だが、このような狭隘なナルシシズムから生まれる文学が人間の全的な表現になるとはとても思えない。自己の殻にしっかり閉じこまってしまった状態で、人間や世間の総合的な表現など不可能であろう。

 人間の成熟に伴って、孤独はその構造を変えていく。もはや人は社会的に無責任ではないし、現実を直視するようになってくるし、様々な連帯を経験してしまっている。社会的な責任を果たしていく中で、必然的に他者と共に生きている存在として自分をとらえるようになっていくし、現実の苦さは自己の聖域を作ることをもはや許さないし、他者との実存的な連帯の経験は孤独な実存を複雑化する。

 そうすると、もはや孤独は純粋なものではなくなるし、孤独が自己愛的なものでもなくなってくる。孤独はもはやそこで陶酔する幼い聖域ではなくなってしまうのである。孤独な実存は常に他者に浸食されている、つまり、人はもはやその成立においても持続においても他者との複雑な関係性を抜きにしては語れなくなる。そうであるからこそ、人間はもはや孤独と自己愛を分離してしまう。なぜなら孤独な実存の中にはすでに他者が包含されてしまっているので、それを率直に愛することができなくなるからだ。人はもはや孤独に単純に酔うことができない。孤独は酔えるほど甘美なものではなく、何やら複雑な味わいのする他者との相克の現場となるのである。

 自己はもはや高山の頂に聖別された神殿などではない。多数の人間が往来する交差点に過ぎない。そのような自己を愛するということは、純粋に自己の内部で自足することではなく、他者や社会へとあまねくまなざしの範囲を拡散することに他ならない。もはや自己を探求することはすなわち他者や社会を探求することである。自己を愛するとき、そこにもはや純粋な自己は存在せず、ただ関係のネットワークを忙しなく追いかけていくことになるのである。

 だが、そのように変質した孤独にこそ、私は文学の成熟した形があると考える。自己の純粋培養ではなく、雑多な菌の混じる原野における他者との相互嵌入。現実の複雑さにおびえることなく、むしろその複雑さを楽しむための文学。実存的な開かれがない以上、文学の開放もないだろう。


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by sibunko | 2018-08-13 11:59 | エッセイ