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言葉の個人史

 それぞれの詩人にはそれぞれの言葉の個人史がある。詩の中で用いる言葉は、かつてどこかで自分が書いた別の詩の中でも固有の位置を占めていたものである。例えば「水」という言葉をかつて別の作品で用いたとする。すると、その作品の文脈の中で「水」という言葉に詩人は固有の意味付けをする。「水」という言葉を新たに書く詩で用いる場合、その以前の意味付けをまとった「水」を用いるのである。詩人はそのようにして様々な作品で「水」という言葉を使うかもしれない。そうすると、それぞれの作品によって意味づけられた「水」という言葉が一つの歴史、系譜を作り上げるのである

 もちろん、この言葉の個人史の問題は作詩の領域の中に閉じるものではない。言葉は日常生活でも盛んに用いられ、詩人の日常での言語使用の文脈もまた言葉の個人史に影響を与える。日常生活を規定しているのはその人の生きる共同体や時代であるから、言葉の個人史には社会や時代の影響が刻まれる。例えば電車で通勤する詩人の作品の中では「駅」という言葉がその詩人独自の意味合いを生活から受け取るであろう。

 また、この個人史の問題は単語レベルで終わるものではなく、思想やテーマの問題にもかかわる。詩人がかつて一定のテーマのもとで思考し感受した内容は、当然後続の詩群へと引き継がれていく。思想やテーマについても詩人は個人史を持つのである。

 ところでこの言葉の個人史はきわめてプライベートなものであり、その実体は詩人自身にしか、しかも不完全にしか把握できない。言葉の位置づけは詩人の言語使用により絶えず流動するものであり、しかも複雑に錯綜している。言葉の個人史を詩人自体が語ることすら困難である。そこに批評家はどう介入するかであるが、もちろん批評家も一定の系譜を作り上げることはできる。特定の詩人が一定の言葉やテーマをどのようなダイナミズムで系譜的に使用していったか、批評家は一定のストーリーを作り上げることができる。だが、言葉の個人史はその詩人にしか本来知り得ないものであり、批評家の作り上げるストーリーとは次元の異なるものである。

 詩の読み手としての我々は、詩人一人一人の個人史の表面をなぞることしかできないが、それでもそこには様々な発見があるだろう。そして、詩の書き手としての我々はたまには自らの言葉の個人史を自覚的に語ってもよいかもしれない。


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by sibunko | 2018-08-13 12:00 | エッセイ