現代詩文庫を読む

sibunko.exblog.jp
ブログトップ

若さという幻影

 若さは一つの美徳である。これに対して疑義を挟む人は少ないだろう。人は若いからこそ美しく活気にあふれ、情熱にかられ、理想を追い求め、甘い苦悩に囚われる。そして、若いころにしか書けない詩作品というものがある。それは衝動的であったり装飾的であったり理想的であったりする。
 だがもちろん美徳というものは若さだけではない。若さにも様々な欠点がある。まず教養の不足と経験の不足。若い詩作品には表面的な美しさや実験性はあっても、懐の深さや実体験に根差した叙情が不足することが多い。次に現実意識や社会意識の不足。若い詩作品は現実から遊離し、社会的な意識に乏しいことが多い。自らの生きている凡庸な現実を嫌うことが多い。
 若さは美徳である一方で様々な欠点を持つ。だが多くの人たちは、大人として生きていくに従い、多量の教養と経験を獲得し、現実を直視することに慣れ、社会的な意識を獲得していく。そこには成熟した詩作品が成立する土壌が出来上がるのである。
 ところが、詩の世界では「若さという幻影」が根強く生きているように思われる。年老いてもなお前衛を気取り続ける詩人は多い。実験や修辞に囚われ続ける詩人も少なくない。「詩は若くなければならない」という強迫観念でもあるかのようである。それは失われた若さへの執着であるかもしれないし、気持ちを若く保っていないと美しい詩は書けないという思い込みゆえかもしれない。
 だが、繰り返すが美徳というものは若さだけではない。教養や経験、現実意識や社会意識に基づいたより射程が広く普遍的な作品は歳をとってからでなくては書けないのである。歳をとるということも美徳だということを詩人たちは忘れていないか。ここで明言しておこう。詩人にとって歳を取ることは美徳である。そして、年相応にそれまで豊かに獲得してきた諸々を存分に発揮していけばいいのだ。何も若さを気取る必要はない。「若さという幻影」に囚われ続ける詩人も多いだろうしそれには理由がある。だが、「若さという幻影」に対し、その魅力に抗しながら少しずつ距離を取っていくこと、そこに成熟した詩作品の成立する大地が開けるのではないだろうか。
[PR]
by sibunko | 2018-08-13 12:01 | エッセイ