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雨の詩学

 雨は思索の器のようなものであり、人は雨という器に包まれて思索へといざなわれる。それまで複雑だった外界が雨という器一色になることにより、人は外界から内界へと関心を移し、自らの来し方、これからの展望、様々な事象の本質などに思いをはせる。

 雨粒が一つ一つはじけるとき、そこでは何かが失われている。それは全く価値のないものから非常に価値のあるものまで様々だ。単なる思い付きが失われることもあれば、自らが生み出した命が失われることもある。これだけ贅沢に雨粒が散華していくとき、人にとって大切なもろもろも贅沢に破壊されているのかもしれない。

 雨は高速度の経験のようなものだ。雨の中を歩いていると、人は自分が非常に多くの透明な経験を過ぎていくのを感じる。雨粒は一つ一つの出来事であり、それが高速度かつ大量に人を過ぎ去っていく。それだからこそ雨が明けたとき人は安堵するのである。人生のたくさんの起伏が過ぎ去った平安の地点、それが雨上がりだ。

 雨は人を生活に回帰させる。ただ生きてあること、その自明性に回帰させる。人はみずからの呼吸の音を聞きなおすし、部屋を片付けたり新しい料理を試したり、生活の更新を企てる。雨は人が生きなおすきっかけとなる。

 雨は人の欲を消し去る。外に出ることが困難になるので、人はやることをキャンセルするなど様々な予定変更を余儀なくされる。雨は人をあきらめさせる。雨音は諦念の音に等しく、人は第二第三の選択肢に気づき始める。雨は一つの分岐点となるのだ。

 雨音は死が迫ってくる音である。雨の日を一つ一つ経過するごとに、人は年老い衰えていく。人生の移ろいを告げ知らせるように雨は降ってきて、人に余命を黙示し、残酷に命を削っていく。雨が削っているのは大地ではなく人の生命なのだ。


by sibunko | 2019-09-16 14:00 | エッセイ