4.山本太郎詩集
蛇蝎の唄
鏡にむかって唱える
おのれ 醜(シュウ)
どろあしで ふみにじる
鏡に 流るる どろえきのしたに
ちぬらるる
おのれ 蛇蝎の族(ウカラ)
韜晦を重ね
はや とおかいに心しびれ
おのれに 内射の眼を 蒸し殺し
誇りもしたのか
じだらくの智恵を
鏡面に醜たる
醜たる おのれ わらい わらいの
なお きたならしき
じだらくの智恵を
おのれ 醜
醜を恃む 蛇蝎の
この「いま」をなげうっては
逃げようとする
その みにくい
弱いゆえに狡猾な
死さえ装っては 隣人を狙う
ああ 遠くでは銃声がなってゐて
爛壊(ランエ)の匂いは土にしみ
暗い未来をはいめぐる
永劫蠕動
イツノ日カコノ俺ハ失セテモシマイ
テナヅケラレテ 失セテモシマイ
遠く愛より放たれて
暗い血をうけて匍う
じつに弱者の歴史なるに
なお 消(ケ)ぬか
さかしらの
文明人達
山本太郎の詩から感じられるのは、人間の悲惨さや滑稽さを真っ向から受け止める強さと、それを生々しく陰惨な言葉で虚空へと放っていく弱さです。わざと卑俗な言葉を使ったり、呼びかけを多く使ったり、とにかく現世の人間のきれいごとでは覆いきれない部分を、切迫した語調で唄っていきます。
人間を苦しむ神、いや、俺を苦しむ神がどこかにいなければならない。
俺はその神に、存在の悲しみを「問わ」なければならない。
「問い」の仕事をはじめるべきだ。こんどはあわてず、ゆっくりと、神に届く言葉で。
(「詩論序説」より)
山本は、このようにして、存在の悲しみを神に問うために詩を書き始めたと言っています。ところで、「存在の悲しみを神に問う」といっても、問いの在り方は多様にあるでしょう。なぜ俺は悲しまなければならないのか。そのような悲しい俺はなぜ存在しているのか。神が俺を苦しんでいるのだとすれば、なぜ神は俺を助けないのか。そして、苦しむ神に助けてもらうには俺はどうしたらよいのか。ですが、山本がその詩で行っているのは、いわば問いの前提作業だといってよいでしょう。例えば上記の作品では、人間の醜さに対する山本の憎しみが綴られていますが、それは、人間がこれだけ醜いのだ、ということの表白であり、それ自身が問いではないです。むしろ本当の問いは、この詩を前提に、「こんな醜い人間存在を神よお前はどう考えるのか?」という形で発されるはずです。
ところで、山本は問い自身ではなく問いの前提を書きつづった、まさにそのことによって、読者に対して非常に開かれた作品を生み出したと言えるでしょう。例えば、「わが市にはこんな問題がある。それについてあなたはどう考えるか?」という問題提起を考えてみましょう。「あなたはどう考えるか?」の部分は、発話者と「あなた」の間の閉ざされたコミュニケーションです。ですが、「わが市にはこんな問題がある」の部分は、問いかけの前提として、そこから問いかけが誰にでも向けられていくのです。山本は、このように、人間の問題を詩として提起した。その人間の問題を前提として、「ではあなたはどう考えるか?」という問いは、すべての読者にも同時に投げかけられているといえるでしょう。山本には問いかけの身ぶりはありますが、問いかけの内容や問いかけのあて先は白紙のまま読者の前に投げ出されています。読者は山本の提起した問題をもとに、問いを自ら想定し、それに対して答えを返していきます。
さて、この「蛇蝎の唄」は、「このような醜い人間を神はなぜ生み出したのか?」という問いの前提であると仮定しましょう。ところが、この詩には、「永劫蠕動」「コノ俺ハ失セテシマイ」という語句が見受けられます。これは、もはや問うことすらあきらめている、仮に答えを聞いたところで何にもならない、そういう山本の態度の表れではないでしょうか。問う主体である俺も消えてしまっているし、理由が何であれ人間は永久に苦しまなければならない。問いには、常にその問いに対する答えへの反応もあらかじめ含まれています。人は何かを問うとき、その答えを予想し、その予想された答えに対してあらかじめ反応してしまうものです。
だから、山本の詩は、問いの前提として、あらゆる存在に対して問いを開いていくと同時に、あらゆる存在に問いかけの身振りで接し、さらには問いへの答えを予想し、それに対してあらかじめ反応する、そういうことをしています。詩は決して、個人の私秘的で一方的な内面の吐露ではない。特に山本の詩には常に相手がいて、その相手との問いというコミュニケーションを図っているのです。
*
讃美歌
神 イエスを
靴べらにして
われを履き給いしかば
われ驚き怪しみて
いばらの道を駈け
ボロボロの駝鳥
のごとくなれり
ああ神
わが あらがいの舌を
ほろぼし
われを用い
ぬぎすて給わず
われら歩き歩きて
いくその時を経んとするか
いま街道はくれなずみ
悲しみの門は彼方に
夕焼雲は
腸のごとくながれる
とうふやのトレモロばかりが
黄昏を
恐怖の空間にしていて
精神のかかる荒廃した
地圏では
街も樹も人の群れも
みんなみんな
そこつな心で描かれた
落書に似たり
ああ 神
狂気の筆を挙げ
何ぞはるかに舞い給うや
そのとき 重たきもの
ついに来り
われ 地に在りて
深き坑(アナ)ぼこのごとくなれり
(後略)
アリストテレスによれば、詩は歴史より偉大だそうです。なぜなら、歴史は個別的なことしか書けないのに対し、詩は普遍的なことを書けてより哲学に近いからです。歴史は、唯一のこの現実しか書けないのに対して、詩は言語の可能性を利用して、単語の組み合わせによって唯一のこの現実以外の事柄も書けるわけです。そして、神という存在が、この世界だけでなく、他のあらゆる世界をも治めているとすれば、言語によって自由に生み出される世界は、この世界を超えることで、より神の認識に近づいていけるとも言えます。
何故、小説を選ばなかったか。俺にとって人間主題のドラマは不必要だったからだ。神との間になされる対話だけがドラマのように思えたのだ。その対話はそして意味に偏っているはずはないのだ。(「詩論序説」より)
ここで言われている「意味」とは、現実の対象との対応関係によって成立するものだと思われます。「今日」という言葉が、まさにこの日を指している。そのように、言葉が対象とちゃんとした対応関係を結んでいることによって意味が発生します。言葉が対象と対応していないとき、その言葉は無意味、あるいは偽となります。ところが、そのような対象との対応関係以外の「意義」とでもいうべきものを考えることができます。例えば、「日本の大統領」は存在しません。その意味で、「日本の大統領」は現実の存在との対応に失敗し無意味となります。ところが、我々は「日本の大統領」と聞いて、なんとなく「わかる」のではないでしょうか。それは、我々が「日本の大統領」の意義をわかっているからです。「意義」とは、言葉の指し示す対象ではなく、その指し示し方を言います。指し示し方があったからと言って、指し示す対象があるとは限らない。だから、「日本の大統領」には「意義」はあるが「意味」はないのです。
さて、引用した「讃美歌」を見てみましょうか。「神 イエスを/靴べらにして/われを履き給いしかば」これは現実のこの世界とは対応していません。あくまで想像や虚構・比喩でしかありません。ところが、山本の態度は、現実との対応を無視して、想像や虚構・比喩に現実と同じだけの存在と強度と文脈をまとわせようとするものです。イエスは靴べらになり、われは神に履かれる。このイメージは、詩においては、現実の描写のもたらすイメージと全く等価におかれます。山本が大事にする「言葉の音楽」とは、この意義のもたらす自由奔放なイメージの連結によってうみだされるのでしょう。それは、唯一のこの現実世界の束縛から逃れた、より自由な表現であるわけです。アリストテレスにおいては、詩が歴史に優位するのは、詩がこの世界の固有性から離れることが可能だという意味においてだったと思われます。そして、現代、言葉は言葉自体の文法から外れることにより、より世界の固有性から自由になりました。意味ではなく意義で読ませる詩の登場によります。