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傍観から批評へ

 現代、私たちを取り巻く情報は過剰であり、かつ高速に過ぎ去っていく。そんな中で、私たちは一つ一つの物事に多くの時間やエネルギーを注げなくなっている。すると必然的に、一つ一つの物事の価値は薄くなり、その反射として、私たち一人一人の価値も薄くなってしまっている。自分が他人一人一人に大きな価値を付与できないということは、他人から見ても同じことであり、全体的に個人の価値が希釈化される。過ぎていく物事をただ過ぎていくに任せ、それに対して何らかの関与をしたり価値を付与したりしない態度を「傍観」と呼ぶことにしよう。
 傍観している人間はみずから傷つくことがない。なぜなら彼は行為しないからであり、行為に対する評価も生じないからである。傍観している人間は、傍観の対象についてただ気分や感情を漏らすだけでよい。そのことによって彼は自らの視点を再確認し、対象について簡単に結論をつけることができる。傍観によって傍観者は変化することがない。傍観は傍観者の自己確認手段に過ぎない。だがそれゆえ、傍観者は自らの価値を相対的に高めることはできないのである。なぜなら、傍観には他者からの評価が入り込まないからである。
 「批評」とは、傍観に対立するものとして、物事の一つ一つにこだわり、物事の一つ一つに参与し、価値づけ、その価値づけを他者に伝え、物事の一つ一つに触発されて自ら何かしらの行為をすること、を意味するものとしよう。あらゆる物事はそれ自身として完成されていない。あらゆる物事は、それについての他者の行為に対して開かれている。傍観とは、物事の開かれに参与しない態度であるが、批評とは物事の開かれに積極的に参与し、その物事をより豊かにし、その物事に様々な価値を付与する行為である。批評は物事を価値づけることによって、その反射として批評者自身の価値も高め、また批評行為に対する他者の反応・価値づけに自らを開いていく行為である。傍観において傍観者は他者に対して閉ざされている。だが、批評において批評者はその行為性において他者に対して開かれていくのである。そして、批評という行為、対象という他者との接触を通じて、批評者自身が変化する契機を作るものである。
 だから、物事を批評することは、まず、物事の価値がどんどん薄められていくことに対する抵抗として、一つ一つの物事をより豊かにより完全なものとしていくことである。次に、物事に対する評価の言説を発することにより、その物事への他者の関心を喚起し、その物事に対するさらなる批評を誘発することである。つまり、物事を社会に対して開いていく行為である。さらに、批評とは、批評者自身が行為することによって、批評者自身をも評価の対象として社会に開いていくことで、批評者に対して様々な価値づけを引き起こし、その価値づけを通じて批評者自身もより豊かに完全なものになっていく。そして、批評することによって、批評者は対象との深い接触を通じて自ら変化していくことも多いのである。
 私たちの持てる資源は限られている。それに対して私たちを取り巻く物事は過剰である。多くの物事に薄く資源配分するのが傍観の態度であり、少ない物事に強く資源配分するのが批評の態度である。傍観は自己確認でありコストも少ないのでやりやすいが、それでは物事も自己も社会に対して開かれていかないし、自己が変化する機会も少ない。批評は物事と自己とを同時に社会に開き、物事と自己をより完成に近いものに近づけ、物事と自己が変化する契機を作る。普段は傍観の態度を決め込んでいても、何かひどく興味をそそられたり、ひどく自己と矛盾するものを見出した場合、そこに批評のエネルギーを投下してもよいのではないだろうか。その結果として豊かなものがもたらされるかもしれない。
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by sibunko | 2014-12-14 06:03 | エッセイ

詩人像の転換

 私はかつて、「詩人はかくあるべき」という詩人像を強く抱いていた。詩人とは何よりもその否定性において優れていなければならなかった。それは現実を否定して彼方へと飛翔する者でもあり、伝統を否定して新しい形式を探求する者でもあり、俗世の係累を否定して孤立して戦う者でもあった。そして何よりも枢要なことは、言葉自体を否定する者でなければならなかった。言葉を憎みながらも愛せざるを得ない運命にあるものが詩人であった。
 ところが、私はそのような否定性を徐々に失っていった。現実と対峙し和解すること、伝統を受け継ぎ他者と応答すること、社会を内面化し社会に対して開かれていくこと、そして言葉の可能性を素直に認めること。否定というよりは、対象と相互に浸透していくということ。この相互浸透において、矛盾しあいながらも複雑な混成体を対象と織りなしていくことにより、私は「詩人」でなくなってしまった。
 これは私にとって一大事件であった。なぜなら、詩人というものは私の同一性をなしており、自ら詩人を名乗ることはなくても、理想的な詩人像と合致していることが私のひそかな矜持であったからだ。その矜持が瓦解する中、私はその瓦解を人生の一大事件として、「詩」の形式で書きたいと強く思うようになった。
 さて、ここで私は自らの詩を書く動機が全く変わってしまったことに気付いた。かつて、私は、身体的な叫びのようなもの、痛みの表出のようなものとして詩を書いていた。詩を書く動機は憎しみや外傷であった。だがいまや、私が詩を書く動機は、自分の人生にとって重要なことを詩の形式で繊細にとらえなおしたい、そのことによって人生との相互侵入をより深めていきたい、そういうものにとって代わっていた。現実や他者や社会はもはや否定すべきものでもなく、互いに既に混じり合ってしまったものとして、その混じり合いをより高めるために、私は詩を書いていこうとしているのであった。
 そうすると、今や私は詩人像の転換に直面していることに気付いた。詩人とは否定性の権化ではない。それは、詩という形式を用いて世界のあらゆるものとの相互浸透をより深め、より高め、自己と世界の在り方を限りなく追及していく人間である。そうすると、今の私は立派に詩人であった。かくして、私は詩人像を転換することにより、詩人の死を回避し、新しい意味での詩人として自己を把握できるようになった。
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by sibunko | 2014-12-14 04:00 | エッセイ

twitter詩

 私はこの一年ほどtwitterで詩を書くということをやってきた。twitter詩の特徴として、(1)非同一的であること、(2)公開性があること、(3)反応がリアルタイムであること、を挙げようと思う。
 まず、twitterは140文字という定型を作り出している。これは俳句や短歌よりも自由であるが自由詩ほど自由ではない定型である。俳句や短歌ほど刹那にこだわるわけでもなく、自由詩ほど大きな構成を考えるわけでもない。いわば、twitter詩は、定型詩というよりは、自由な詩を細分化したものだというのが正しいとらえ方だと思う。
 人間であれ何であれ、ものごとは、同一でない。同一であるということは、一つのまとまりを形成するということだ。ところが、人間は、同じ人間であっても、さまざまな異なるフェーズ・パーツによって出来上がっており、その様々な異なるフェーズ・パーツが非同一的に一人の人間を形作っていることをよく示すのがtwitterだ。通常の長い文章だったら、一つの人間のまとまりを生み出す。だが、twitterは、その人間を細分化する。あるときはあいさつをしたり、ある時は悩んだり、あるときは相談したり、あるときは喜んだり、それぞれの人間の多様な相をリアルタイムに細かく区切り取ったものがtwitterである。ところが、人間というものは、そもそも長文のようなまとまったあり方をするのではない。その時々に細分化された非同一的なものの星座的な集まりとしてあるのだ。そのような、人間の非同一的な要素による星座的集合をよくあらわすのがtwitterであり、twitter詩は、人間の生活を長い自由詩よりもより鋭くより直接的に表しているといえる。そして、twitter詩は俳句や短歌ほどの束縛がないから、その意味でも人間の非同一的な在り方を生々しく直接的に表している。
 さて、さらに、twitter詩は、公開の場で書かれる。それは、他人の無数のつぶやきの坩堝の中に、宛先も書かずに、読まれることも意図せずに、それでも偶然そこに居合わせた人間には読まれるであろうという意識のもとで書かれる。twitterのタイムラインは、儀礼的無関心の支配する場所であり、多くの人が、他人の発言に過剰に反応しないようにしながら、それでもひそかに楽しみながら他人の発言を読んでいるのである。その、他者の臨在の意識と、それでありながら、その他者の臨在が不確定であるという意識、そのただなかで、いわば即興的に詩を書くのである。これは、路上のパフォーマーと似ている。読んでくれる人は読んでくれるだろうが、それ以外の人は一顧だにしないだろう、それでも幸運に読んでくれる人を求めつつ、そういう人がいなくても私秘的な肥やしになるだろうと思いつつ、その引き裂かれた思いの中で詩を書くのである。twitter詩はその意味で賭けであり、賭けに負けてもログには残るという保険が適用されるのである。だから、twitter詩は、誰に宛てたものでもなくても、きわめて話し言葉的であり、書き言葉が通常必要とする密室では突き詰められすぎるものも、割と自然体で砕けた感じで表現される。
 また、twitter詩は、誰かによって、お気に入りに登録されたり、リツイーとされたりする。そのような、作者と読者との一体感が著しいのである。しかも、それは創作の現場ですぐさまおこるものであり、作り手の感興と読み手の感興がほぼ同時に重なり合わされる。そこには一つの言葉を通じた真の意味での共同関係が成立するわけで、コミュニティとか集団とかコストのかかるものよりも非常に容易に、作者の熱狂と読者の熱狂の絡み合いという好ましい芸術体験が出現する。さらに、リツイートについては、自分の言葉が他人の生活の一部になるわけで、また、自分の一部が他人の同一性の中に組み込まれるわけで、これもまたより強い意味での作者と読者との共同関係の成立だと思われる。
 以上、twitter詩は、短詩よりも自由かつ直接的に、また自由詩よりもより非同一的で人間の在り方に即応した形で、人間を表現することができる。そしてそれは、タイムラインに投げられた一つの賭けであり、公開性と秘匿性を併せ持った話し言葉的表現である。さらに、それは作者と読者の同時的な熱狂を引き起こす可能性のある望ましい芸術体験を生み出しうる。
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by sibunko | 2014-12-14 03:57 | エッセイ

孤独と文学

 孤独というと若者に顕著な病のように思われ、また文学というと主に若者のうちに多くの人がかぶれるものだというイメージがある。だが、孤独は若者が特権的に所有するものではないし、また文学もまた然りである。むしろ、人間は社会化されていくうちにより一層孤独になるのであるし、それゆえ文学への需要も増すのである。
 若者のうちは、家族に話せないことでも友達には話せる、そういうたくさんの悩み事があるものである。だが、人間関係も広まり、それぞれの人間関係を壊さないように注意深く接するようにしていくうちに、いつの間にか友人には本質的なことや重要なことが話せなくなってしまう。友人関係を円滑に進めるためには適度な軽さが必要であり、相手にとって重い存在になってもいけないし、相手が自分にとって重い存在になってもいけない。また、友人と自分の間には決して越えられない溝というものがあり、その辺で争うようになってしまったら友人関係は破たんする。そのために、人は社会化していく中で、だんだんプライベートな問題を社会的関係から隔離するようになる。そして同時に、そのような孤独に耐えるだけの自律性が自然と身についていくのである。
 だが、社会化された個人にでもプライベートな悩みはある。それは、軽い悩みであれば職場の上司や同僚に気軽に相談できるかもしれない。だが、本質的な悩みや重要な悩みは、もちろんそのような社会的関係の中には投入できない。旧来だったら家族や近しい共同体が担っていたようなカウンセリング機能を、今は専門的なカウンセラーが担うようになっていて、深刻に悩んでいる人たちはそのようなカウンセラーのもとに足を向けるだろう。
 だが、カウンセリングの場所を近しい場所に求められなくなった現代人でも、セルフカウンセリングは行うことができる。それが文学である。悩み事を文章化する。それは作品としての完成度はどうでもいい。とにかくわだかまっていることを文章として書いてみる。作品として成立させてしまう。そうすると、それまでの悩みが嘘だったかのように気持ちがすっきりすることはよくある。つまり、近しい場所がカウンセリング機能を喪失した、現代の社会化された個人のセルフカウンセリングの場として、文学の地位は再浮上する。無数のブログ記事や日記の断片、ツイート、そして作品、そういう文学は、若者というよりむしろ、社会化された個人にとってこそ必要なものである。
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by sibunko | 2014-12-14 03:18 | エッセイ

言葉の力

 震災以降、「言葉の力」を唱える人たちが現れ、私はそれを頼もしいと思った。なぜなら、「言葉の力」というものは、何よりも言葉の向け先と、その向け先への働きかけを前提にしているからだ。言葉が単なる独り言や日記で終わらず、それが他人や社会、世界を動かしていくことの認識が鮮明に打ち出されたと思った。つまり、言葉の遂行的側面がクローズアップされたことを、私は好ましく思ったのだった。あの人のこんな言葉に励まされた、こんな言葉に元気をもらった、こんな言葉に救われた、などなど、言葉が人とのコミュニケーションで適切に機能していくことへの信頼が確認されたように思う。
 もちろん、古代の呪術的な言語観のように、言葉には何か魔術的な力が宿っていると信じている人は現代にはいないだろう。言葉が発されることで、その言葉の内容がそのまま世界で実現する、そんなことは誰も考えてはいない。だが、「言葉の力」について語られるとき、そこでは、言葉が他人や社会を動かしうること、そして、言葉がそれ以前に自らの思想や感情、世界の在り方を的確に反映しうることへの信頼があったように思う。
 つまり、「言葉の力」や「言葉を信じる」ということが言われるとき、そこでは、個人の浮薄な独白の領域にとどまらない、言葉の射程の広さが開示されたのである。それは、言葉がまずは世界や自己を写し取るものであること、そして言葉が次には他人や社会や世界を動かすものであることの確認であり、そこでは言葉に対する考察が、言葉と自己・世界との関係、言葉と他人・社会との関係の領域にまで広がったのである。
 そうすると、逆説的ではあるが、言葉を信じることが言葉を疑うことに転じることになってくる。言葉を信じることで、言葉とそれを巡る広大なネットワークが視界に入る。すると、言葉がその広大なネットワークでうまく機能しない面も見えてくるのである。例えば、言葉が本当に自分の言いたいことを適切に言えているかどうか。あるいは、善意で他人に向けた言葉が却ってその他人を傷つけていないかどうか。さらには、積極的に社会に流通させた言葉がその広まりゆえに却って重みを失っていないかどうか。
 だがもちろん、言葉を疑うことはさらに言葉を信じることにもつながる。つまり、具体的な言葉を発する作業において、それぞれのケースで、言葉がうまく機能したりしなかったりするのである。言葉がうまく他人を動かしたり、うまく自分を表現したりするときには言葉を信じる方向に向かうかもしれないが、言葉が思うように他人に届かなかったり、うまく自分を表現できなかったりするときには言葉を疑う方向に向かう。
 私たちは、言葉を信じる自由と言葉を疑う自由、その両方を同時に手に入れたのである。そして、具体的に言葉を発する実践において、時には言葉を信じたり、時には言葉を疑ったりしてみて、少しずつ適切な発話を生み出す実践的な知恵を獲得する方向性へと足を踏み出したといえよう。そして、詩もまた、そのような営為から切り離すことはできなくなってくる。詩もまた、単なる独白や日記で無批判に閉ざされるのではなく、それがうまく自己を表現できているか、それが実践において社会でうまく機能しているか、そのような批判にさらされるものとして変質しつつあるのではないか。もちろん、単なる独白や日記で終わる詩が悪だと言っているわけではない。だが、「言葉の力」の思想が切り開いた、言語の象徴的・遂行的側面への意識を生かしていくことにより、詩もまた新たな展開をしていくのではないだろうか。
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by sibunko | 2014-12-14 03:17 | エッセイ

私の批評

 批評というものが、何か新しいものを創造する表現であるとするならば、私の書くものは批評ではない。私の書くものは、作品と理論とがかみ合ったところで互いがどのように相互融解するかであって、そこに登場するものは既存の作品と既存の理論が主である。確かに、その作品にその理論を適用することの新しさ、既存の理論の応用の新しさはあるかもしれないが、それを超えた真なる創造はないといってよい。いわば出来合いのものの組み合わせの新しさがせいぜいあるにすぎず、それを超えた、私の独自性に根差した全き新しさなどというものは微塵もない。
 というのも、私が書くのは批評というよりはむしろ論理なのである。論理とは誰もが理解できるものであるし、ことさらに新しいものでもないし、読む努力さえあれば誰もが共有できるものである。作品は様々な感興を引き起こすものである。だが、私はそのような感覚的な感興にはあまり興味がない。美的体験やその神秘性そのものには興味がない。なぜなら、そのような体験や感覚は明確に語りえないからだ。明確に語りえないことよりも明確に語りうることを語った方がより多く語れるわけであり、その方が作品に対してより生産的な協力になりうると考えるのである。作品は美的感興を引き起こすと同時に、それを可能にしている論理構造を持つ。そして、作品について多く語りうるのはその論理構造の方なのである。だから私は、作品の論理を語ることを批評の眼目としている。
 さらに、私は作品の特殊性をことさらに主張しようとはしない。それは私が作品の論理に着目していることからも分かるように、作品が明らかにしているより普遍的な問題を示すことで、そのジャンル自体の問題に対する意識を喚起したいからである。作品の特殊性は最終的には語りえない。それは印象的にしか語りえないのである。特殊性が理論によって語られ始めたとき、特殊性は真に特殊であることをやめる。だが私はそのような擬特殊的な作品の在り方を、作品の特殊性として扱いたいと思っている。つまり、作品の特殊性とは、特定の理論によってよりよく解明されうるという、その点にあると考える。作品により、どの種類の理論によって解明されるのが適切かはおのずと異なってくる。逆に言えば、どの種類の理論によって解明されるかに作品の特殊性が現れるのである。私はそのようにして作品の特殊性を語るのだ。
 そして、批評の主体は明確に私自身とは異なる。批評とは先に述べたように、作品と理論との相互融解であり、そこではパズルが解かれるかのように作品と理論はそれぞれの在り方が暴かれるのである。それは一つのゲームに過ぎない。作品が与えられ、それに適切な理論を選び出し、それらを組み合わせるという知的遊戯に過ぎない。知的遊戯の主体は私自身ではない。それは、作品に適合する理論を語る主体であり、私自身の主張を語る主体ではない。作品が理論を引き出す、そして批評の主体がその理論を語る、だがその批評の主体はゲームの主体にすぎず、決して私自身ではないのである。
 私は偶然性や無意識性を愛する。だから、批評に私の無意識の思潮が表れることもよくあるだろうし、私の批評が拡散されることで思いがけない読者に出会うこともあるだろう。私はことさらに自らの思潮を表に出そうとしないし、ことさらに自らの批評を誰かに読ませようとはしない。そこには、私の意図を超えた無意識性や偶然性が働いており、私はそのような不確定性を愛したいのだ。


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by sibunko | 2014-12-14 03:12 | エッセイ

社会科学と文学

 文学と社会科学は無縁であるかのように思われがちだし、実際、文学をやっている人間が社会科学に明るいかというと必ずしもそうではない。むしろ、社会のことなんてそれほど興味がない人がたくさん文学をやっているのである。だが、それではおのずとその文学自体にも限界が生じてこないだろうか。
 文学は私的なことのみを描くのではない。そもそも純粋に私的なことなど存在しない。私的な領域にも公的なものは入り込んでしまっていて、逆に公的な空間にも私的なものは入り込んでいる。この、パブリックとプライベートの二分法が成り立たないという認識、これがまず社会科学への関心を持つために必要なことである。人間は社会によって規定されていると同時に社会を作っていく存在であるということ。まずはその自覚から始める。
 我々は政治というものに関心がある。そして、政治における力関係などは、我々が日常生きているときにも遭遇するものである。友人関係や職場の関係、そこにおけるパワーの構造は、政治学が問題とするパワーの構造とパラレルである。だから、我々が文学において人間関係を描くとき、そこに政治学的な認識があるとよりよく描きやすい。
 それに、ミクロ社会学は社会の微小な相互行為に着目する。そこでは、個人の役割であるとか、個人間の相互作用で何が行われているかが解明される。それはまさに、文学が扱う人間関係そのものであり、ミクロ社会学の認識が文学へもたらす内容は豊富である。
 そして、経済学もまた文学にとって有益である。経済学は、その理論を構築するにあたって様々な人間観を打ち出す。典型的には、エコノミックマンと呼ばれる、利己的で合理的で知識のある人間を想定したりするが、それは、人間とは何かという人間観の問題につながっている。さらに、経済学は、社会の物質的な法則を見出していくことにより、個人を超えた社会というもの、個人の意図を超えて集合的に成立する法則というものを明らかにすることで、個人には回収されない社会というものの存在を明らかにしてくれる。ところで個人には回収されない社会こそ、文学の外枠をなしているものであって、その外枠の認識は、文学自体に対する認識も増すであろう。
 さて、人間は様々な規範に従って生きている。人間の倫理というものは人間の実践そのものであり、倫理を規定しているものとして代表的な法は、倫理のひな形として、人間の実践を明らかにするのに役立つ。法学は法の構造を解明することによって人間の実践の構造をいささか誇張した形で説明してくれる。さらに、法は制度や社会を規定することによって、そこに向き合う人間、そこに所属する人間の在り方も明らかにする。法に従い法に対峙する人間、という見方は、文学の行いにおいても役に立つに違いない。
 つまり、社会科学は、人間の私的な在り方を明らかにすると同時に、公的な空間の構造を明らかにすることによって、公的な空間と対峙し公的な空間を内面化している人間の在り方を明らかにし、さらには個人を超えた社会の存在に目を開かせてくれる。人間は社会的な動物であるのだから、人間を描く文学もまた社会性を備えていると望ましい。文学が社会性を備えるにあたって重要なのが、文学者が社会的な自覚を持って社会科学をそれなりに修得することであろう。
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by sibunko | 2014-12-13 16:52 | エッセイ

通路としての文学

 文学作品は完結していない。それは読者の推定によって補われることで完結する。そして、その推定に際しては読者のバックグラウンドが反映されるから、推定によって完結する作品の中には当然読者の在り方が反映される。
 これはおおむね「受容理論」と呼ばれるものである。この理論については、結局、文学作品が読者のスケールの中に閉ざされてしまうことを明らかにしたものであるなどといわれる。だが、私は、文学がまさに読者のスケールの中に閉ざされることに、積極的な意味を見出したい。
 一言でいうと、文学作品は、読者が自らの人生を反省的に生きなおす通路としての機能を果たしている。もっと正確に言うと、単に反省的なだけではなく、読者は文学作品と向き合う時に自らを発掘する。記憶の深部に隠されたもの、意識の深部に隠されたもの、不意のひらめき、読者はそういうものを自分の中から発掘しながら文学作品の補完作業を行うのである。
 人間は、自分の人生に顕在的・潜在的に存在する多くの問題を解決しないまま日々を過ごしている。それらの問題は、精神分析的な立場からは、人間のさまざまな行為や心理に現れていると主張されるかもしれないが、特段解決されないままでも人間の日常生活に大きな支障をきたさない。人間が社会的な役割を果たしていくうえで、人生の文学的な問題など大して意味を持たないことが多い。だが、人間の成熟や人間性の深みなどは、それら人生の諸問題に答えを出し、さらにその答えを改訂し、さらに改訂し、という行為の積み重ねで醸成されるのである。そして、人生の大きな問題については、それに対して何らかの回答が与えられることで、人間の社会的な振る舞いも変わってくることがある。
 ところで、人生の諸問題は、それが問題として提示されなければ気づかれないことが多い。漠然と日々を過ごしていると、人間は自らの抱えている問題に気づかない。だが、文学作品は、それに向き合う読者に、さまざまな人生の問題を顕在化させる。そして、その顕在化の仕方が、まさに読者に即応した形でなされるのである。なぜなら、文学作品を完結させるのは読者の推定であり、その読者の推定において、読者の抱えている潜在的な問題が投影されるからである。それは、文学作品を読むという行為が、読者の自己発掘作業である、というまさにそのことに由来する。
 文学作品は、読者が、自らの抱えている問題の中を通過するための通路として機能しているのである。読者は、自らの抱えている問題を、文学作品を通過することによって、まず目撃する。目撃せず、文学作品を素通りすることもあるかもしれないが、幸運な読者は自分の問題を目撃することに成功する。目撃しても、それを「自らの」問題だとは思わないかもしれない。だがあるとき、幸運な読者はそれが自らの問題であると気づくだろう。そして、その段階を経て、さらに、真摯な読者であれば、その自らの問題に何らかのけじめをつける。あるいは、何度も同じ問題を目撃することで、徐々に自然に自らの律し方を変えていく。
 このようにして、文学作品は、読者が自らの問題を通過するための通路として機能する。例えば、作者の道徳的な諸問題を赤裸々に綴った作品があるとする。読者はその諸問題を読むにあたって、自らに照らし合わせた読み方をする。確かに自分にはこういうところもあったな、これはさすがに作者がひどすぎるだろう、などなど。読者は作品を読むことによって、例えば嘘をつくということがどういうことであるかについて考えを深めるかもしれない。作品との共同作業によって、嘘をつくということは自分を守るということである、などと閃くかもしれない。そのようにして、読者は作品を読むことで、作品に投影された自己をも読み、さらに、幸運であればそこに何らかの問題と解決の糸口を見出していく。
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by sibunko | 2014-12-13 16:50 | エッセイ

抒情性の彼方へ

 自由詩というジャンルは、長い間、一人称の最後の砦として機能してきたと思われる。それは、小説よりも私的で、小説ほどの鍛錬も要らず、自由に思ったことを「私」の意識の赴くままに書いていく、そういうものとして機能してきた。言語というものがすでに一つの制度であったとしても、その組み合わせには個性が宿る。詩における思いがけない比喩の使用は、言語的な美を生み出す機能を果たすと同時に、詩人に固有の言語を生み出す機能も果たしてきた。だが、それゆえに、詩が、仮に「あなた」や「君」や「彼ら」や「それら」について語るとしても、それらの二人称や三人称が、一人称の中にたやすく包摂されてしまった。他者の問題や歴史や権力の問題は一人称と相いれない独自性を持っているにもかかわらず、それらをすべて一人称の中に回収して語ってしまうこと、それを仮に詩の「抒情性」と名付けてみよう。
 抒情性を重視している詩は、詩人の固有性や神秘性、特権性と結びつきやすい。詩は、詩人のかけがえのない声をうたっている。詩は、言語によって世界の神秘へと到達する。詩は人間の最も根源的な叫びを伝える。だが、それは言うまでもなく、詩の独善性と表裏である。詩の少年性といってもいい。一人称を中心に回っている詩にはおのずと限界があり、その限界とは、他者や社会と対等に渡り合う力がないことである。一人の人間の周りには無数の他者がいて社会がある。その他者や社会を前にして、詩はそれらの重みを十分に量ることができるか。一人の人間が生きていくためには、他者や社会と対等に渡り合えなければならない。その倫理において詩が有効に機能しているだろうか。
 もちろん、詩は抒情性のみを追求すればよい、他者や社会などは現実的過ぎる、他者や社会との闘いで疲弊した魂を詩は癒すのだ、そういう主張にも十分正当性がある。だが、そこまで他者や社会が人間にとって大きな問題となってくる青年期に、なぜ最も人間的であるはずの詩がその他者や社会との闘いを書かないのだろうか。二人称や三人称を、一人称の中には回収できないものとして、そこから常にあふれるものとして、それでもなお詩の中で何とか規定していく、呼びかけていく、そのことによって、詩は他者や社会と渡り合えるだけの重みを獲得するのではないだろうか。
 すべてを一人称の中に回収し、一人称を特権化する抒情詩は、人間が長じるに従い直面する他者や社会の問題をうまく処理しきれない。二人称や三人称の尽きせない重みを十分くみ取ったうえで、それと渡り合う倫理を提示すること、そこに、青年期の詩の課題はあるのではないだろうか。
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by sibunko | 2014-12-13 16:48 | エッセイ

永遠のともしびは消えた

 詩と成熟は両立するのか、という問題に私は長く惑わされ続けた。私は31歳である。まだ成熟云々を語るには早すぎる気がするが、私の中ではもはや成熟が完了してしまったかのような心理の変わり具合なのだ。
 そもそも、私が詩を書き始めたのは、社会に対する強烈な憎しみと、心に深く穿たれた傷、その二つから否応なく放たれてくる焦慮というか危機意識というか、とにかくきな臭い叫びのようなものを発する場を求めてのことだった。それを増幅したのが、自己中心的な被害者意識や他者との関係意識の欠如であり、私の詩がいかに幾何学的な幻想を描こうと、その根源には重大な危機がなければならなかった。
 ところが、私が年をとるにつれて、その二つの危機が消えてしまったのである。私はもはや社会を憎まないし、傷心も癒えた。私を詩作へと駆動する、かつては永遠とも思えたともしびが消えてしまったのである。もはや私は詩作する原動力をもたない。
 成熟は、一方では憎しみや傷心を消す方向に働いたが、もう一方では現実に極めて綿密に密着して分け入っていく生活意識を形成していった。それは、自己の相対化であり、相対化された自己が組み込まれている他者や制度のネットワークの内面化であり、それと同時に自己とその周囲すべてを極めて冷徹に反省する自意識の形成である。
 それゆえ、私の批評意識はがらりと姿を変えていった。当初、私の批評は反抗であり非難であり批判であった。それは何かしらのアンチテーゼとして、否定として機能した。ところが、私の自意識・反省は、諸事象と決して対立しなくなっていった。敵ではなく、かといって味方でもなく、私の自意識は、私と対象との間を調整する裁定役としての役目を果たすようになっていった。それは、対象が自己と対立するというよりもむしろ既に自己に内面化されているという意識に基づくものであった。私は敵味方という構図をもはや簡単には設定できなくなってしまったのである。
 私にはもはや真の意味で敵が存在しない。となると、実験や前衛というものも真の意味ではなしえなくなってくる。実験や前衛の基本的契機は否定であるからだ。私はもはや真に否定しえない、それゆえ前衛からは後退せねばならぬ。それゆえ前衛を基本とするような詩作はもはやなしえない。
 私に新たに生まれて来たのは先に述べたような、裁定役としての批評意識である。しかも、人間にかかわるものはすべて対象とするような、幅の広い批評意識である。そのような批評意識で何をしたらよいかと考えると、ジャンルにこだわらない幅の広い批評であろう。特に、人間の生に深く分け入っていくような批評だ。私はもはや詩のみを批評するのではない。
 こういうわけで、とりあえず私はしばらくの間詩から離れて広く批評の勉強をしようと思う。永遠のともしびは消えた、とでも言っておこうか、谷川雁に敬意を表して。
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by sibunko | 2014-12-13 16:44 | エッセイ